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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征
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 数日ぶりの、「まとも」な食事を下士官室の同僚たちと味わった寿は、食後、夜間演習の準備で忙しく立ち廻っている同僚に断って、営倉下番後に許された浴場へ行った。夕食後の時間外でもあるせいか、浴場には、入浴者は誰もいなかった。

 営倉で汚れきった垢を擦り落として、生々しい青痣が残って疼いている体を深々と湯船に浸けて、駅へ向かう道中に耕介と交わした会話を、しみじみと想い起こしていた。

「この戦、先が見えたの」

 と、耕介は、そう言いきった。

「そげな情報があっとね?」

「いや、オイの勝手な推測たい」

「そン推測でよかけん、聞かせてくれんね」

 耕介は、遠くを見つめるように、眼を細めて言った。

「二年前のミッドウェーの海戦ばごつ、どげな戦果に終わったか、おまんも知っとろうが」

 ミッドウエーの海戦が、どのような結末となったか、気の利いた敏感な者なら、誰でも承知していることである。寿は、うなずいた。

「その海戦以来、海軍の戦力は激減したゆう話やけん、日本の主張する太平洋の絶対国防圏も、いまじゃ怪しかごつ事態になっとるゆうことたい」

 寿は、またうなずいた。

「新聞は、連日のごとく、海軍は強かごつ書いて国民の気運ば昂揚させとるが、実際はどげかの」

「国民だけやなか、兵隊とて同じたい。肝腎なことは伏せられて、日本は富国強兵の大国じゃと、頭から信じこまされとるからの」

「そうたいの。もし新聞のそれが事実で、海軍の無敵連合艦隊が健在なら、大東亜共栄圏の要とされとる太平洋諸島の陸軍部隊の苦戦も、サイパンが玉砕する必要もなかったはずたい。海軍が健在ごつあるとなら、各方面に対する(へい)(たん)補給も充実しとうはずやけんの」

 今度は、耕介が大きくうなずいた。

「この戦は、海軍の輸送力あっての戦たい。陸軍は、自分たちの力だけで戦をしとるごつ大けな顔ばしとるが、とんでもなか大きな間違いたい。太平洋は、海軍の援助があっての(とう)(しょ)戦ぞ。海軍の戦力が低下すると、必然的に兵站線は延びるし、延びた分だけ物資の補給は遅延する。遅延すれば、いくら精強な陸軍でもじり貧状態に陥る道理たい」

「そうたいの。陸軍にも輸送船舶はあっとやろけんが、海軍のそいに較べりゃ物ン数やなかけんの。こいは聞いた話やけんが、陸軍の船舶にはぞ、海軍ごつ立派ン電探装備はなかゆう話ぞ。そげん状態で、あン拡か海域をじゃ、海軍の護衛艦艇なしで、物資や兵隊を運ぶのは不可能に近かけんの。それこそ、目的地ば達する前に、敵ン潜水艦に探知されて、魚雷一発で海の藻屑たい」

「そン制海空権ば海軍が喪失しとる証拠に、南方の油を積んだ輸送船団が、洋上で悉く撃沈されとるゆう話ぞ」

「したら、南方からの資源を絶たれた日本内地は、もう油は枯渇しちょるゆうこつなるの……」

「そげに考えてよかやろばい。戦闘教令にはどこにも記されとらん撤退ば文言をぞ、大本営はそいを転進とすり替えてごまかすくらいやけん、そいから判断すると、敵さんの戦力と物量は、日本とは雲泥の差があるようたい。多大の出血を代償にして攻略した南方をあっさり敵の手に渡して、その上サイパンまで()とされたとなると、残る硫黄島も、どうやら時間の問題やろの」

 となると、その次は沖縄を奪われると同時に、日本本土か満洲である。そのときには、おそらく、耕介も寿の命運も(きわ)まっていることになる。

「本土も、無事には済まんの……」

 と、寿がぽつりと呟くと、耕介は観念的な笑みのなかで答えた。

「硫黄島が万一陥ちた時点で考えると、日本本土全体が米軍の完全な射程圏内に入る勘定になる。そげなると、日本は無事にゃ済まんたい」

「ここは? 満洲はどげな?」

「関東軍と対峙しとるソ連がどげ動くかは、いまソ連と交戦ばしとるドイツ次第やろの。もし、ドイツが負けるような事態ばごつなったら、ソ連は満洲の国境三方、つまり、東は綏芬河、西は満洲里、北はこン先の黒河方面から雪崩を打って攻めて来るやろたいの……」

 耕介のこの推測は、不幸なことに適中していた。

 昭和十六年十二月八日のハワイ真珠湾奇襲作戦の成功で破竹の進撃をつづけていた日本軍は、翌年のミッドウェー海戦で大敗を帰して以来、太平洋海域の陸・海軍部隊は徐々にじり貧状態に追いこまれ、これがために太平洋上の制海空権を喪失して補給路を分断され、このため、これまで占領していた南方の島嶼を悉く失い、遂には艦隊を立直すことすら不可能となり、勇壮だった連合艦隊もいまはその俤はなく、まさに「()(じよう)(うお)(こう)(かい)に移る」のたとえを実践していたのである。

 満洲全域に配備されている関東軍の将兵の殆どは、戦局については新聞の報道範囲に報されはしたが、帝国陸海軍がこのような逼迫した状況に陥っていることは何一つ報されていなかった。このことから、日本軍は負けていると考える者は極めて少なく、多くの将兵は、ガタルカナルの転進に関しても、日本軍の撤退の理由を、新たな作戦任務の要請のために転じたものと解釈し、満洲が静謐確保を余儀なくされている理由がそこにあることも、それが自分たちに直結する運命であることも、いまの彼らには他人事であって、誰も神州不滅を信じて疑わなかったのである。

 寿は、誰もいない浴槽に浸りながら、来るべくして訪れるであろう満州の顛末を憂い、沖縄へ動員されたであろう耕介を案じた。太平洋の要所を悉く失陥しているいま、日本はおろか、この満洲も沖縄も、至短期間のうちに戦闘へ突入するのは、おそらく時間の問題であろう。そうなれば、自分も耕介も、生きて内地の土を踏むことは、まずないであろう、と。

 ――耕介、おまんだけでん生きて内地ば帰るとぞ!

 寿は、耕介の無事を心から祈った。

 愚かな自分を庇ってくれた耕介との友情を、これを限りに終らせたくはなかった。互いに生き残って再会が許されるものならば、この大恩は、どんなことをしてでも返さねばならないと思った。


 浴場を出た寿は、中隊へは帰らずに、その足を酒保へ向けた。いま帰ったところで、夜間演習に出る同僚たちを気拙く見送るだけである。

 酒保は、夕食後の自由時間が許された兵隊でごった返していた。

 いつもなら、酒保の二階に設けられている下士官集会所へ上がるのだが、営倉下番の身の上を考えるとそれも気拙く、敢えて避けた。

 兵隊の敬礼を受けながら酒保で日本酒を買い求め、通堂軍曹の属する六中隊へ足を向けた。隊内への酒の持ちこみは厳禁だが、いまのやりきれない気持ちから逃れるには、どうにも酒の力が必要であった。

 その六中隊は、ひっそりとしていた。この時間に人影がないということは、中隊は外出日に当たっているのかもしれない。だとすると、通堂軍曹も不在である可能性が高い。そう思いながらも、下士官室の扉を叩いて入室すると、部屋には、上半身襦袢姿の見知らぬ若い下士官が独り黙々と装具を解いていた。

 寿は、寝台に脱ぎ捨てられた軍衣の襟に、縫いつけたばかりの真新しい軍曹の襟章を眼にして、この若い下士官は、二年兵の乙幹であることを見抜いていた。

 この軍曹は、来た日が悪かったようである。この日は、中隊の外出日で、中隊の幹部は、事務室の庶務掛軍曹以外はすべて不在であった。

 乙幹軍曹は、中隊事務室で、留守役の古参軍曹に着任の申告を済ませたまではよかったが、庶務掛軍曹から居室で待機するように言いつけられた挙句に、隣の内務班には幾人かの兵隊がいるにもかかわらず、当番兵さえも与えて貰えなかった。軍曹は、それに腹を立てているらしく、寿が入室しても、背を向けたままろくに見もしなかった。

「第三中隊川尻伍長、通堂軍曹殿に用があってまいりました」

 相手が一応上官であることから、この場は礼儀を弁えて、節度ある室内礼をして言った。

「他隊の伍長がなんの用だ!」

 と、軍曹は、相手をろくに見もせずに威丈高に言った。さしたる力倆もないインテリが、学歴を楯に自分を大きく見せようとする、あのどうにも鼻持ちならぬ、傲慢で厭味な態度である。

 寿の脳裡に、階級を楯に、暴力の限りを尽くしたあの埴生少尉が俄に蘇り、胸に怒りが渦巻きはじめていた。それでなくとも、半ば自暴自棄に陥っているのだ。乙幹上がりの小生意気なこの青二才の態度を、この場でしこたま叩きのめしてやりたい衝動に駆られたが、それはほんの一刹那の感情のことで、営倉下番直後であることを意識している寿は、この場は、肚の底から衝き上がる怒りを圧し殺した。

「個人的な用であります」

 と、敢えて逆らわずに穏やかに言った。

 軍曹は、相手が自分よりも下級と侮ったか、傲慢な態度は緩めず、振り向きもしなかった。

「お前、眼ン玉ついとらんのか?」

 と、鼻でせせら笑ってこう返して来た。

「俺が独りだっていうことは、この状況を見ればわかるだろうが、馬鹿ったれが」

 最後の「馬鹿ったれ」は余計であった。

「そいは、わかりますがの……」

 若僧の生意気な態度に、思わず感情の抑制がはじけそうになったが、それを抑えながら、

「通堂軍曹殿はどこにおられるか、知らんですか?」

 と、訊くと、返って来た言葉は、寿の感情を逆撫でするものでしかなかった。

「どこにいるかだと? 誰がどこにいようと俺の知ったことか。三中隊とか言ったな。三中隊は、確か今夜は夜間演習のはずだぞ。察するに貴様、下士官のくせに演習をサボったな」

「なんもサボったわけじゃありませんがの、ちょっと通堂軍曹どんに個人的用がありましての」

「個人的用だと? 用があるなら、本人がいるときに出直して来い。俺は忙しいんだ。餓鬼の使いじゃあるまいし、他人の私事を受けている暇はない。邪魔だ、帰れ!」

 この終わりの言葉がなければ、寿はおとなしく退き下がるつもりであったが、昨日や今日成り上がった乙幹の青二才にこうまで侮られては、もう素直に退き下がることができなくなった。

 ――乙幹上がりの若僧めが、どこまでなめた態度ばしくさるとや!

 感情がぶち切れた寿は、軍曹へ歩み寄るなり、

「おい、軍曹!」

 と、怒声を浴びせて、いきなり襟首を掴んで引き起こした。

 軍曹は、下級者の突然の豹変に、激昂のあまり、眼尻を吊り上げてひどく吃った。

「ごご、伍長の分際で、貴様ァ、そそ、それが上官に対する、たた、態度か!」

「やかましか!」

 と、呶鳴り上げて、軍曹を壁際へ突き飛ばした。

「おい軍曹。きさんいつこン連隊ば来たかしらんが、オイはの、きさんが(あお)(ばな)ば垂らして、おふくろさんのケツにしがみついとる餓鬼ンころから軍隊の飯ば喰ろうとる、こン連隊最古参の八年兵ぞ! きさん、眼ン玉ばどこへつけとっとや! オイときさんを見較べりゃ、そンちがいが一目でわかろうがくさ、こンぼけなすめが!」

 軍曹を睨めつけて、最後に強烈なとどめを刺した。

「オイはの軍曹、よう聞くとぞ。大きな声で言えんばってんがの、将校ば半殺しにした罪での、たったいま懲役ば終えて監獄から帰って来たとこたい。きさんごつ二年兵の青瓢箪ごつ、オイにゃ指一本触れることァでけんとぞ。文句があるか!」

 怒声を軍曹の顔面へ叩きつけた。

 軍曹は、古参の八年兵よりも、監獄帰りの言葉の響きに慄え上がった。引きつけを起こしたように頬を痙攣させて、反射的に壁に張りついた。他隊の私怨を抱いた下士官が、通堂軍曹に報復に来たものと勘違いをして粟を食ったのだ。

 その「監獄帰り」の醜悪に満ちた眼が、下からギロリと掬い上がった。

「もいっぺん訊くがの、軍曹、こン部屋ン連中はどこにおっとや。他隊の情報を掴んどるきさんが、我が中隊の動きを知らんはずはなかばい」

 凄みを帯びた寿の気迫に萎縮した軍曹は、仔猫のようにおとなしくなった。

「は、はい。自分は、本日着任したばかりでありますが、聞くところによると、今日は外出日ということでありまして、そのことから、たぶん、下士官以下は外出中だと思われます。班長殿」

「やっぱしの……」

 そう呟いて、寿は、古参の下士官がよくやる、底意地の悪い嘲笑を浮かべた。

「そいを素直に答えとりゃ、の、軍曹どんよ、世間は丸う治まるごつなっとうとぞ」

 と、軍曹の鼻頭を、指先でツンとはじいた。

「どうせどこぞのP屋(娼家)にでもしけこんどるとやろ、ま、仕方なか。これをきさんに預けてとくけん、軍曹が帰って来たら渡しちゃれ。呑んじゃならんぞ。大事に、の」

 と、慄然としている軍曹の手に日本酒を握らせた。

「よかね、通堂軍曹どんが帰営ばしたらの、そいを渡してこげ伝えろ。監獄帰りン伍長が、いずれ日ば改めて鄭重な挨拶ばしに来ると、そげん言うとったと、しっかと伝えるとぞ、わかったの」

 意地悪く凄むと、寿は、静かに扉の前まで歩いて行くと、振り向きざまにいきなり大声を張り上げた。

「川尻伍長、帰ります!」

 軍曹が跳ねるように不動の姿勢を執った。

「はい! ご苦労様でありました!」

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