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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征
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「小出か……」

 中隊長の長門は、晩酌の手を置いて、

「遅鈍な頭に効く薬があれば、我が中隊の兵隊全員に飲ませたいものだな」

 と、苦笑を洩らした。

「どういたしますか? いまのところは、少尉の中隊の週番士官、その石井の口を抑えていますが、万一、これが上に上がりますと……」

 教官の()()少尉が、不安の色を示すと、長門は、硬い表情を崩さずに言った。

「既に上がっていると考えたほうがいいだろうな。中隊長の門脇に報告が上がれば、奴は査問会議に提訴するするだろう。理由はどうあれ、自分の中隊の部下将校が俺の中隊の下士官に暴行を受けたとあっては、奴の面子が立たんだろうからな、黙ってはおれんだろう」

 自分がその立場なら、将校の体面上、やはり問題にするだろう。門脇中尉と長門中尉は、陸士の同期である。それも、互いに昇進を競っているライバルでもある。長門中尉は、若妻の手前平然と構えていたが、胸中に蟠る(わだかま)複雑な思いは(かく)すことができないようであった。

 夫の顔色を窺った若妻が、二人の部下に酌をしながら、

「どうなりますの? その人」

 と、誰にとはなく呟いた。

「陣中での将校に対する暴行または傷害は、陸軍刑法では十年以下の懲役となっております」

 と、斯波が、遠慮がちに盃を啜って答えた。

「それじゃ、あの……」

 若妻は、眼の前の二人の軍人にチラと眼をやった。多くを言わないのは、その意味の重さを知っているのである。

 夫が呟くように言った。

「上官も然りだ。部下の不始末は、指揮官の監督不行き届きとして()()される」

「どうにかなりませんの、あなたの力で。なんとか穏便に済ますことは……」

 若妻は、徳利を夫に差し向けた。

 長門は、沈鬱な面持ちで、若妻の酌を受けた。

「……部隊内のことでならどうにでもなるが、他隊との問題となると、そうはゆかんのだ、これが」

「でも、あなたと門脇さんは学校の同期生でしょ? 話をすれば、わかって貰えるのではありませんの?」

「確かに俺と門脇とは同期だが、そうはいかん。事件が表面化した以上、奴は自分の体面上問題にして、俺の点数を下げたがるだろう」

 と、呟くと、深谷が膝を擦って、身を乗り出した。

「こうなった以上は、中隊長殿、一連の事実関係を大隊長殿に具申して、これを連隊長殿に上申する以外、中隊の名誉を挽回する手立てはありません。これなら門脇中尉殿の体面も保たれます。川尻の査問会議は、おそらく一両日中には非公式に開かれるはずです。そうなれば、軍法会議送致は免れません。一通りの資料は既に揃っています。手遅れになる前に、それを……」

 中隊長はうなずいた。

「難しいが、そうするより手段はないな。貴公の調査報告を上げれば、大隊長殿も連隊長殿も無視はできんだろうからな。あれの身上を秘匿して転属させた先にも、重大な過失責任がある。それに、連隊長殿は、この件に関しては既に事故として承認しておられるから、これをどの程度まで自分の不名誉と考えるか、あとはそれに賭けるしかないな。よしわかった、明日にでも大隊長に具申してみよう。ご苦労だった。お前たちも帰って休んでくれ」


 一夜が明けた――

 寿は、耕介の呼び出しを待っていたが、なぜか声はかからなかった。居室へ出向いてみたが、耕介はいなかった。当番に訊くと、火急の用事で外出したとのことである。

 寿は仕方なく居室へ帰り、通常どおりの日朝点呼を終えて、同僚と雑談を交わしながら朝食を摂っていた。

 それが終わろうとしたころ、連隊本部から、若い参謀部附の少尉が衛兵二名を引き連れて、寿の下士官居室に来た。「川尻寿というのは、どれだ」

 と、少尉は、居並ぶ下士官に眼を巡らせた。

「自分であります。少尉殿」

 寿は、立ち上がって、規律ある室内礼をした。

「よし、川尻伍長、お前を連隊本部へ連行する。用件は、わかっているな」

 寿は、衛兵に両脇を挟まれて、何事かと眼を丸くしている同僚を残して、聯隊本部へ連行された。


 連隊本部の二階に設けられた査問会議室の隣の、元は物置部屋だったのだろう、狭い部屋の隅に机が一つ置かれたその一室に拘束された寿は、その日は、そこで簡単な調書を取られただけで、あとは捨て置かれた。

 次の日、睡眠不足の一夜を明かしたものの、取調べはなく、二日後の朝食後に査問会議に呼ばれて、そこで一方的な裁決が下された。

「川尻伍長を重営倉七日に処す」

 これが寿への判決であった。

 寿は、てっきり軍法会議へ送致されるものとばかり思っていたから、なんの弁明も許されないままの予想外の刑の軽さに戸惑いを隠せなかったが、とにもかくにも、懲役刑だけは免れたのは、不幸中の幸いだと胸を撫で下ろした。もし軍事法廷に立たされていたならば、寿は、次に記す陸軍刑法(抜粋)を確実に適用されているはずだからである。


  第五章 暴行脅迫及殺傷ノ罪


  第六十条 上官ヲ傷害シ又ハ之ニ対シ暴行若ハ脅迫ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス

 一、敵前ナルトキハ一年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処   ス

 二、其ノ他ノ場合ナルトキハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ   処ス

 第六十四条 哨兵ニ対シ暴行又ハ脅迫ヲ為シタル者ハ左 ノ区分ニ従テ処断ス

 一、敵前ナルトキハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 二、其ノ他ノ場合ナルトキハ四年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ   処ス


 これでわかるように、上官に暴行を働けば、如何なる理由があろうとも懲役刑である。しかしながら、右の第六十四条の項にある、「上官」が下級者に暴行を加えて処罰された例は、寿は一度も聞いたことがなかった。

 それはともかくとして、襟章と軍衣の釦を毟り取られた寿は、衛兵指令所のいちばん奥に設けられてある重営倉へ拘禁された。

 襟章、つまり階級章を外されたのは、この時点で無階級の犯罪者扱いとなり、釦を捥ぎ取るのは、それを吞みこんで自殺を図るのを防ぐためである。

 前に軽いと述べたが、重営倉七日は、兵隊にとっては、決して軽いものではない。部隊内の刑罰としては、最も重い処分である。

 四方が分厚いベトンで囲われたそこは、まさに闇地獄であった。壁の高いところに、イタチが通れる程度の小さな開口部が設けられていて、そこからは、一筋の明かりが洩れていた。あとでわかったことだが、それは、昼夜の識別を表すものではなく、その目的は、密閉された房内での酸欠を防ぐための通気口で、奇しくも、それが昼と夜を識別する目安ともなっていた。

 闇のなかで、眼が慣れるにしたがい、通気口の明かりが、房内の様子を朧に浮び上がらせた。眼を凝らしてみると、白いはずの壁の四方が、随所で黒ずんでいる。眼を近づけて確かめて見ると、それは黒く染まった血痕であった。人間の生き血を吸った蚊や、南京虫を潰した跡でである。

 だが、害虫ごときはまだ序の口であった。凄惨を極めたのは日中の房内であった。夏の季節ということもあって、太陽が灼熱と化しはじめると、房内は蒸風呂のように温度が上昇して、着ている被服は忽ちにして水を浴びたように汗で濡れそぼった。

 重営倉の厳しさはこれだけではない。厳しさにさらに拍車をかけるのは、それは、生きる上に不可欠な給養が、ここではまったく考慮されていないことであった。闇に閉ざされた重営倉での食事のひどさは、寿も話では聞いて知っているつもりであったが、実際にそれを経験してみて、はじめて重営倉という地獄を思い知らされるのである。

 運ばれる食事(ここでは朝食と夕食の二食であったが、部隊によっては昼食の一食)は、一般の兵食用ではなく、飯碗に五分程度盛られた麦飯の上に、角砂糖ほどの塩が一つ乗せられてあり、汁碗のなかは一掬いの水、これが重営倉の一日の糧であった。これでは、どれほど頑強な人間でも衰弱する一方で、とても体力など保てるはずのないものであった。このことから、重営倉収監に関しては三日間を限度とされていたが、それが七日間ともなれば、これは懲罰の限度を超えた、拷問とも思える処罰であった。

 腹が減る上に、塩だけの麦飯だから、蒸風呂と化した房内では無性に喉が渇く。だが喉が渇いたからと水を所望しても、重営倉では一匙の水も貰えない。軍規を犯した懲罰兵を更生させるには、じつに完璧な待遇であった。

 その過酷な闇の営倉も、五日目を迎え、蒸れきった闇の独房に微睡んでいると、房の鉄扉を開く音が耳に響いた。

 巡察だったらコトである。寿は、崩している姿勢を正して正坐した。

 房の外で、聞き覚えのある声が響いた。

「班長殿自ら飯上げでありますか」

 声の主は矢部伍長であった。

 鉄扉が軋み音を立てて開かれると、眼球を焼かれるような強烈な光線が襲って来た。

 寿は、瞬間的に、眼を庇った。何日も闇の独房で過ごして、それに眼が馴染んでいるから、ほんの僅かな明りでも、痛いほど眼が(くら)むのである。

「矢部よ、このままにしとってくれんね」

 と、衛兵司令の矢部伍長に、鉄扉を開けさせたままにさせておき、飯上げ用の食鑵と飯盒を提げた通堂軍曹が顔を覗かせて、房の入口に坐した。

「炊事場での、旨いもんを料らせたけん。食わんね」

「大丈夫ですかの、そげんごつして?」

 寿は、予期せぬ軍曹の訪問に、眼を庇いながら声を弾ませた。

「心配せんでんよか」

 と、軍曹は、汗と垢で饐えた臭いを発散させている寿の顔を、しげしげと見つめた。

「ひどかツラたい、だいぶ辛かごつあるの」

 寿は、卑屈に笑って、うなずいた。

「仕方なかですたい。いまンわしゃ罪人ですけん」

 軍曹も淡い笑いで受けた。

「みんなもの、なんぞしてやりたかゆう気持ちはあっとやが、ばってん、規則ば破るこたァでけんけの。ま、いまはこれを食うてくさ、せいぜい(りき)ばつけることたい」

 軍曹は、こがね色に包まれてこんもりと皿に盛られたオムライスを食罐から取り出して、二つのアルマイトのコップに、飯盒に納めてある珈琲を注いだ。珈琲と言えば上品な響きだが、軍隊で本物の珈琲が飲めるはずがない。色はそれらしく見えるが、大豆を焙煎した代用珈琲である。

「冷めんうちにやりんさい。わしゃこれをやるけん」

 と、アルマイトのコップを手にした。

 会釈をした寿は、豪勢なオムライスよりも先に、コップに手が伸びた。干涸らびた喉が、先程から悲鳴を上げているのである。

 オムライスなど、いまでは珍しくもない料理だが、当時の軍隊では、兵隊はおろか、将校でさえも滅多に口にできない料理である。この連隊の陣地で、これが食えるのは、連隊長と炊事班長にこの通堂軍曹くらいである。

 それにしても、軍隊には、匠とか達人とかと評される者が必ずいるが、この炊事場にも、料理の達人がいるのは確かである。これは旨かった。

 ガツガツと、無心に貪り食っている寿を見つめながら、軍曹が言った。

「おまんが将校を傷めつけたゆうて耕介から報されたときゃの、正直わしゃ仰天ばしたばってんが、あれが問題の少尉とわかって、一応納得したとじゃ」

 寿は、食いながら、眼で聞いていた。噛んで味わうというより、むしろ、呑みこんでいるようであった。

 それを見守りながら、軍曹がつづけた。

「これがの、陸士や天保銭組ン将校やったら二の足ば踏むところやが、幹候上がりは、所詮俄作りの張子たい。あれの身上調査なんぞ屁でもなか」

 天保銭というのは、陸軍大学を卒業した将校が襟章の横に附ける徽章のことで、それが天保銭に似ていることから軍隊ではこう俗称した。

「身上調査とは、どげこつですかの?」

 寿は、匙の手を止めて、軍曹を見つめた。

「耕介たい。長門中隊長の命令で、少尉の素行調査ばしたとじゃ」

「中隊長の命令で?」

 軍曹はうなずいた。

「任官したての幹候上がりは、本来おとなしかごつしとるもんやが、それがまァ陸士よりも程度が悪か。こりァおかしかゆうての。長門中隊長の大学ば同期が、よか案配に司令部の兵務課におるゆうことでの、そいで耕介を調査に行かせたとじゃ」

「ほう、そいで、なんぞわかったですか?」

 平らげたオムライスの皿を入口に置いて、寿は、軍曹の顔に眼をしょぼつかせた。

「まァ待ちんさい」

 と、軍曹は、額から噴き出る汗を手拭で拭って、

「ここァ聞きしに勝るところたい。もちっと入口のこっちへ寄らんね」

 と、風通しのいい場所へ寿を引き寄せて、耕介から報らされた少尉の過去を話しはじめた。

 それによると、中隊長の長門中尉が耕介に少尉の素行調査を命じたのは、事件当日の午後であった。

 長門中尉が耕介に調査を命じた動機は、言うまでもなく中隊の名誉を護るのが本音だが、それよりも前に、少尉の噂を耳にした直後から、将校としての資質の悪さに長門自身が不審を抱いていたからである。兵隊を指導する立場の将校が、なぜ兵隊以下の無知蒙昧な暴力を繰り返し働くようになったのか、その裏には、なにか特別の意図が匿されているに相違ないと直感したのである。そして、その直感は見事に的中していた。

 調査の指示を受けた耕介は、これも中隊長の期待を裏切らなかった。少尉の匿された過去を、数日のうちに見事に暴露したのである。

 中隊長の長門は、耕介の報告書を読んで、思わず唸ったほどである。

 それには、こう記されてあった。

 姓名埴()()(まさ)(よし)。二十三歳。元長州藩士族出身。昭和十七年山口帝国大学四年在学中学徒応召、山口歩兵第四十二連隊入隊。同年十月幹部候補志願。十九年十月少尉任官。

 さらに埴生の幹候志願についてこうあった。

 埴生は、入営して間もなく、幹部候補有資格者として、中隊人事から幹候志願を薦められたが、幹候志願は命令ではなく個人の任意であったため、満期除隊を強く希望していた埴生は、これをためらいなく(こば)んだ。にもかかわらず、一期検閲間近になったある日、埴生の考えが俄かに急転し、人事室の扉を叩いて、あっさりと幹候を志願した。

その動機は、極めて単純であると同時に、本人の陰湿な策略が含まれていた。他の誰よりも、除隊を指折り算えていた埴生の気持ちに変化が起こったのは、上級者が下級者に対する暴力の不条理から逃れるためだけではなく、それよりも気持ちが大きく変化したのは、埴生には別の狙いと思いが絡んでのことであった。

 それは、戦局が逼迫して満期除隊の可能性が極めて低くなり、それも、いつ最前線へ動員されるかわからない情勢を敏感に読み取った埴生は、このまま卒伍に身を置いて苦労するよりも、同じ苦労をするのであれば、いっそのこと幹候を志願して、兵隊よりも格段に優遇される将校になるほうが遙かに得策であると打算したのである。

 これだけなら、幹候有資格者であれば、誰もが一度は考えることである。謂うならば耕介もこの類の一人である。

 だが、埴生は、それだけにとどまらず、私怨という附録を着けたから(たち)が悪かった。

 古兵たちの、内務班での私的制裁に対する怨み辛みを挙げればきりがない。新兵は、それに耐えて育ち、古兵になれば、それを新兵に申し送って水に流すのが慣習となっている。

 だが、異常なほどの私怨を、彼ら下士官や古参兵に抱いている埴生は、それを甘んじて待つような男ではなかった。大学出身の幹候有資格者というだけで、必要以上に自分を「可愛がって」くれた無学歴の古参兵を、埴生は、憎みに憎んで、その上、炊事場でくすねた酒を廻し呑みしながら、それら古参兵の醜悪な私的制裁を、まるで余興でも愉しむように傍観した下士官は断じて許せなかった。

 その遺恨を晴らすにも、兵隊の身分では報復の実現は絶対に不可能である。末端の兵隊である限り、無意味な私的制裁を受けつづけるだけである。だから、どうしても幹候を志願して将校になる必要があった。幸いにして、埴生には他の同僚兵にはない学歴という武器がある。同じ軍隊に止め置かれるならば、是が非でも、将校という絶対的階級権力を手にしなければ、この目的は何一つ達成されない。歪んだインテリであるが故の、陰湿で姑息な発想と動機であった。

 中隊を去る日、埴生は、羨みと妬みの混じった同僚兵たちの眼や、古兵たちの刺すような白い視線を、肚でほくそ笑みながら、陸軍予科士官学校へ出て行った。

 類は友を呼ぶというが、悪の途を望む者には、悪神の庇護があるのかもしれない。このとき、日本の戦勢は既に敗色が濃厚となっていて、不足している将校や下士官を早急に補う必要を生じていたために、幹部教育期間は僅か一年という短期に大幅に短縮されていた。

 その俄幹部教育を終えた埴生は、見習士官となって、原隊へ復帰した。埴生は、この瞬間から、下士官や古参兵たちに対して脅威的存在となる、鋭い牙を剥いたのである。

 中隊の先任将校たちは、埴生の肚の内に、陰湿な私怨が含まれていることなど、誰一人読み取る者はいなかった。むしろ、現役陸士以上に気合いのかかった予備士官として、埴生を誇大評価した。これが、埴生の復讐に、拍車をかけることになった。

 数ヶ月後、埴生は、少尉に任官した。将校という、絶対的権力を名実ともに掌中したのである。

 埴生は、自分がいちばん嫌っている軍隊の不条理の範を、自ら示すかのように、将校の権限を悪用した。年次の古い兵隊を、下層級の無知無能な人種と蔑み、将校の恣意で、過酷な勤務に連続上番させては絞り上げて苛め抜き、少しでも不満の声を耳にすると、その班の兵隊全員を、鉄拳による暴力で(しよう)(ふく)させた。

 埴生は、兵隊や下士官たちの、一挙一動の監視を怠らなかった。自分の所業は下士官に転嫁して、兵隊の怠慢が少しでも認められると、兵の怠惰は、軍隊の骨幹たる下士官の精神の練度が足りないからだと、下士官に対しても、呵責のない鉄拳を浴びせ、過激な暴力の炎は、日を重ねるごとに苛烈した。

 この埴生の、眼にあまる陰湿で執拗な私的制裁にたまりかねた下士官たちは、遂には我慢の限度に達して、内務掛准尉へ上訴した。この告訴は、直ちに准尉から中隊長へ具申され、これまで黙認していた中隊長もさすがに黙ってはいられなくなり、幾度となく埴生に自粛を勧告し、麾下の先任将校に指導を命じた。だが、埴生は、そのたびに理屈をつけてそれを無視しつづけた。

 中隊長以下の幹部は、情けない(てい)を晒した。埴生に業を煮やしながらも、彼らは、自己の保身を優先するあまりに、幹候少尉一人に対して、(いまし)める力も、指導する能力もなかったのである。

 中隊長は、自分の力倆のなさを恥じることなく、始末を大隊長に委ねた。大隊麾下の中隊の名誉を保つためにも、事を穏便に済ませる必要がある、として、埴生を、他の部隊へ転属させる処置を要求したのである。一部将校には、転属先においても同じ結果を招く惧れがあるからと、埴生の罷免を露骨に口走る者までいた。

 大隊長も大隊長である。これも肚の小さい男であった。部下から、これが聞き入れられざる場合は、連隊長に意見具申すると詰め寄られ、大隊長は困惑の色を隠すことはできなかった。そのようなことをされては、少佐の面目丸潰れである。大隊麾下部隊の指導もできない無能の大隊長として、他の大隊長連中の(ぼう)()を買うだけではなく、つまらぬことで自分の出世に歯止めをかける結果になりかねないのだ。連隊長以上に自己の体面を重んじる大隊長は、この不名誉な悪評を早急に(せん)(じょ)しなければならないと考えた。

 部下の具申を渋々受け容れた大隊長は、さすがに埴生少尉の罷免だけは避けたが、躊躇なくこれを連隊長に上申して埴生少尉の転属を具申した。それも、埴生少尉のこれまでの所業を一切秘匿する条件まで添えて、という念の入れようであった。

 これを受理した連隊長も、肚の内は姑息であった。北の涯ての最前線へ送れば、将校による兵隊への不祥事は隠蔽することができるであろうという単純な発想の下に、埴生少尉の満洲転属を決定するのである。出したあとは知らぬことである。

 だが、しかし、この転属は、埴生には、なんら反省を促す効力はなかった。送り出す側が、転属先に対して埴生の身上を秘匿したお蔭で、結果的には、陰湿な炎に油を注ぐ勢いを与えたに過ぎなかったのである。

(とう)(どう)軍曹の話を聞きながら、寿は、両膝を抱えて、複雑な面持ちを薄暗い房内に据えていた。あのとき、矢部伍長の忠告を素直に受けていれば、自分はこんなことにはならなかったはずであったし、だからと言って、寿の暴力行為がなかったならば、埴生の暴威は解明されずに、もっと多くの犠牲者が出ていたであろう、と。

「この事件がの……」

 と、軍曹はつづけた。

「おまんと将校の個人的な私闘やったら、査問委員たちも気を揉まんで済んだやろばってんが、へたばこくと、連隊の将校全部を捲きこむごつ羽目になるけんの……」

 だからこそ、査問会議の構成員たちは、噛まなくてもいい臍を噛むことになったのである。

 彼らが、苦い顔をした背景には、弾薬庫の喫煙には、陣地将校の殆どが絡んでいる事実があり、これを取り上げて表面化させれば、連隊麾下の隊附将校全員を査問にかけて処罰することになる虞が生じるのと、陣地の下士兵卒間には、少尉の過剰な暴力に対する怒りが奔騰しているのと同時に、寿に対する同情が、連隊じゅうに沸き起こっているせいで、下士官である寿をへたに扱えなくなったのである。

 その一方で、一部の将校には、将校という分別も弁えぬ埴生少尉の数々の暴力行為を認めて批判はするものの、如何なる理由があろうとも、下級者が、最前線の陣中において、将校に暴行を加えた行為は断じて赦し難いものであると、寿に対して厳罰を要求する者もいた。

 これは、確かにそうである。一個の部隊を指揮する将校にとって、将校が下級の下士官に暴行を加えられて退いたとあっては、将校としての地位も、名誉も、指揮権も、同時に失ったも同然となり、鉄則の指揮はその瞬間に崩壊する結果となる。軍隊という階級組織を堅持するためには、これだけは軍隊内部には絶対にあってはならぬ、将校にとっては由々しき問題なのである。職業軍人である彼らの主張は、もっともと言えた。

 だが、埴生の素行調査報告書を読んだ連隊長は、埴生を送り出した連隊長に較べて、人間の器がちがって、大きかった。

 連隊長は、本来は査問会議などには口を出さないのが慣習だが、この連隊長は、査問の審判をも却下するほど、公正峻厳な人物であった。構成員全員を連隊長室へ呼びつけて、こう言ったのである。

 厳格な軍隊に断じてあってはならぬ不祥事件であるが、埴生少尉の素行は、過去の所属部隊においても、将校としての資質を著しく欠く行為として、原隊の身上書に指摘されておる。また、これを指導しきれずに、少尉を放任した先任将校の不実な態度を、余は厳しく批判するものである。さらに、あろうことか、軍紀に対する範を示すべく将校自らが服務規程を違反し、しかも服務時間中に将兵肩を並べて弾薬庫で公然と喫煙しているという既成事実を作っている。これを査問会議はどのように評価するか。この事案は、一部将校併びに下士兵卒間においても、被告の将校に対する暴力行為は正当防衛であって犯罪にあらずと余は認む。と主張して、この事案については被告に同情する将兵多数あり、したがって、これら将兵に刺戟を与えるのも得策ではない。これらの現状を鑑みて、もし被告のみを処罰する事態になれば、事の終熄は困難を極めるだけでなく、ともすれば内乱を誘発させる結果へと導く虞がある。そのような事態になれば、即時師団司令部の知るところとなり、連隊長の更迭だけでは済まされない。へたをすると、連隊長以下将校は赫々たる軍人生命を絶たねばならぬ由々しき事態に発展するところとなり、加えて、一部将校下士には軍の物資を不正に横流して利益を(ろう)(だん)している族あ(やから)りと聞き及ぶ。もし、これが事実であるならば、今回の事案に重ねて、さらなる重大事となるのは必定である。これらを合わせ含めて、査問委員は充分な調査と審議を重ねた上で、適正な審判を下すようにせよ。と、連隊長は、部下の、蔭での不正を真向から指摘し、査問構成員たちを慄え上がらせたのである。

 構成員たちは、一様に口を噤んだ。誰も、一言も反問できないのである。連隊長の言種ではないが、へたをすると、自分の立場が危うくなるばかりではなく、それこそ軍隊で息をしていられなくなる。一介の准尉によって将校の所業が短時間で曝かれたように、某かの不正を暴露されて憲兵隊に通報されでもしたら大事では済まされない。それだけは、絶対に防がねばならないのだ。叩かれれば、出なくてもいい黒い埃が、ボロボと出て来るのである。それを怖れた彼らは、事件の云々よりも、職業軍人の地位の保身が最優先と考え直して、寿の審議を、あっさりと打ち切ったのである。ただし、この重大事件を不問にするのも、今後の兵に対する示しがつかないと考えた査問構成員たちは、連隊長に、このことを意見具申し、寿の処分を重営倉七日に処すことで同意を求め、渋々了承を得た査問会議は、無責任にもこれを妥当として、寿に審判を下したのである。

 こうして、寿は、いま闇の営倉に拘禁されている。

 話し終えた軍曹に、寿は深々とこうべを垂れた。

「オイが軽率やったばっかりに、みんなには、とんでもなか迷惑ばかけましたの。……こンとおりですけ」

「もう済んだことたい。判決ば不満とする将校連中は面白うなかやろけんが、そげなことは、もうなんも気にせんでんよか」

 軍曹は淡く笑って珈琲を啜った。

「しかし、大丈夫ですかの? 今回に関しての責任はオイ個人のもんで、耕介も班長どんも、この件はなんの関係もなかお人じゃ。やけんが、オイとの古か懇意じゃけん、もしかして、連鎖的に何事かあろまいかの……」

「なんもなかろうたい。そりゃ将校連中は()(がゆ)がろうがの。多寡が知れた准尉に身上ば暴露されて、ぐうたら軍曹に連隊ば掻き廻されたとやけんの。肚黒か奴は、明日は我身と神経ば尖らさにゃならんし、眼の上ば瘤ンごつ、わしらは(わずら)わしか邪魔もんごつあろうからの。やけんが、心配なか、あの件は、もうみんな綺麗に終わったとじゃ」

「そいならよかですがの……」

「もうなんも考えんでよか。折角無事に元の鞘ば収まったとじゃ、おんしゃ、おとなしかごつしとりんさい。そいがいちばんたい」

 と、通堂軍曹は軽く笑って、

「わしら軍人はの、ヒサやんよ、軍籍にある限り、除隊以外は、どこへ持って行かれても同じたい」

 寿の平らげた皿を食鑵に仕舞って、立ち上がった。

「もう帰るが、煙草以外に、なんぞ欲しかもんあったら誰かに届けさせちゃるが、どげかの」

 寿の、寂しげな顔が、横に振られた。

 軍曹は、衛兵司令を呼んだ。

 衛兵司令が、背を丸めて、駈けて来た。

「お済みですか、班長殿」

「谷部よ、今日の巡察将校は誰な?」

「清島見習士官殿でありますが」

 軍曹はうなずいた。

「陸士の若造ね。おんしたちも気が抜けんばい」

 軍曹は鼻で笑って、房内の入口から、顔を覗かせた。

「あと二日ン辛抱ぞ、頑張りんさいや」

 と、声をかけて去ると、今度は、矢部が顔を出した。

「こいつを閉めるが、班長さんよ、便所はいいか?」

 寿は、無精髯を弛ませて、顔を振った。



 七日目の朝、時計刻みの足音で、寿は目覚めた。足音の数からして、中隊単位の部隊が、営門を出ているのである。

 その足音が消えて、暫く経ってから、准尉の耕介が、事務室当番の野下を伴って、寿を迎えに来た。野下は、清潔な肌着と、軍衣袴一式を携えていた。

 寿は、(かわや)の手水を使って、汗で汚れきった体を拭き、清潔な被服を手早く着替えて、衛兵司令の前に立った。

 衛兵所では、指令以下の衛兵が、かかとを揃えて挙手をした。

「御苦労さまでした、班長殿」

 衛兵司令の軍曹が、重営倉の下番者に、不動の姿勢で挙手をした。知らない者が見れば、軍曹が下級者に敬礼するのは不自然に思うだろうが、飯の数が優先する兵隊間ではこれが自然なのである。このことは、前任と交代している衛兵指令は、任官したばかりの、年次の浅い乙幹の二年兵だからである。

「服部班長、それにみんなには、随分と世話ばなったの。お蔭で、辛か思いばせんで助かったい。いろいろと有難う。こンとおりたい」

 寿は、衛兵司令以下に、深々とこうべを垂れた。

 野下を、一足先に隊へ帰らせた耕介は、寿を促して、中隊へ足を向けた。

 道々、寿は、夕べの衛兵交代時限に、矢部伍長が房へ訪れて報せてくれた耕介の話を、訊き質した。

「急にきまっての」

 と、耕介は、さらりと答えた。

「どこへ持って行かれるとや?」

「噂じゃ沖縄らしかばってんが、ほんとのところはわからん。隊内の噂やけんの」

「矢部の話やと、オイは残留やそうなが、……本来なら、オイが出されにゃならんのに、なんでおまんが?……」

「お前のことと、これは関係なか。動員は、軍の方針の元に行われるとやけ、の」

「……おまんには、迷惑ばかけっぱなしで、その上に甘えてばっかしやったが、なんも恩返しがでけん。心から侘びるけん。こンとおりたい」

 歩きながら、寿は、軍帽をとって、こうべを垂れた。

 それを、耕介が、

「兵隊の前ぞ、みっともなかけん、そげな真似はせんでもよか」

 と、営庭で、銃剣術の特訓を受けている初年兵を顎で示して、小声で戒めた。

「……班長どんも、出さるっとかの?」

「他中隊のことは知らんばってんが、なんも言わんところをみると、あン人はたぶん動くまい。いつかも言うたばってんが、わしら兵隊は所詮一個の消耗品たい。命令一つで、今日は東、夕べには北じゃ。明日のことは、誰にもわからん」

 耕介は、観念的に笑った。

「やけん、お前は自分のことだけ考えとりゃよか。済んだことァもう気にするな」

「……」

 中隊の入口で、耕介は一度立ち停まり、寿の被服を点検した。

「したら、行こうかの」

 耕介は、人事掛准尉に戻って、中隊長室の扉を叩いた。

 室内から、短い声が返って、二人が入室すると、中隊長は、自慢の古刀の手入れをしていた。

 二人は、不動の姿勢をとって、形通りの、十五度の室内礼をした。

「営倉下番の川尻を連れてまいりました」

 と、准尉は、切れのある声で言った。

 長門中隊長は、古刀を眺めながらうなずいた。

 准尉が、肘で寿を促した。

 寿は、不動の姿勢をとった。

「申告いたします。本日七日間の営倉を以て……」

「やめろ」

 申告をはじめた途端に、中隊長は寿の声を断ち切った。

「申告はいい」

 と、刀身を丹念に拭きながら言った。

「お前も、この七日間の営倉で、なんらかの教訓を得たはずだ。今後このような不祥事を犯したら、今度は、直属隊長の俺がお前を処断せねばならん。事の如何にかかわらずだ。それをよく憶えておけ」

「わかりました、中隊長殿」

 中隊長は、椅子を半回転させて、壁際に古刀を立てて、寿に正対した。

「今回の事案に関しては、連隊長殿も大隊長殿も、大変憂慮されておられる。この准尉や通堂がいなければ、お前はこの程度の懲罰では済まんところだぞ」

 中隊長の長門は、寛大なところを見せつけようとして、自分の尽力は口にしなかった。

 寿は、それを承知しているから、こう答えた。

「深谷准尉殿と通堂軍曹殿が、私のために奔走してくださったことは、感謝の念でいっぱいでありますが、それよりも、中隊長殿の一身を懸けた、多大なご尽力に救われましたことを、私は、心より深く感謝いたしております」

 苦笑いでうなずいた長門は、口許に幽かな満足感を表したようであったが、しかし、寿に返した眼つきと言葉は、(しん)(らつ)であった。

「お前のやったことは、軍の統制を攪乱する反逆行為だが、あの場合は、やむを得ん防衛だったと俺は理解している。だが誤解をするな。俺はお前のために動いたのではないぞ。むしろ俺は、お前があのような暴力行為に及んだことで、俺の中隊の名誉を著しく毀損したと憤慨しておるのだ。この場で、お前をぶった斬ってやりたい怒りで肚が煮え(たぎ)っているくらいなのだぞ。下士官の分際で、こともあろうに、将校に暴力を働くとは言語道断の振舞いだ。そのような幹部を俺の中隊から出したということは、これは中隊将校全員に対して、抗命を働いたも同然だぞ」

「反省しております。中隊長殿」

「口先だけでは反省にならんぞ。下士官にとって重要なのは、将校に対する敬愛心を表裏一体となって、兵隊の範となって示すことだ」

「そうであります、中隊長殿。今後は、充分改めます」

 そう答える以外にない。この場は、なにを言われても、中隊長に対しては弁解はできないのだ。

 中隊長がつづけた。

「下士官は中隊の骨幹だ。その幹部たるお前が自覚認識を欠いてどうするか。下士官の立場がどれほど重責であるか、それをよく考察しろ」

「わかりました。よく考えます」

 中隊長は、小さくうなずいた。

「よし、もう帰っていい」

「川尻伍長、帰ります」

 と、規律ある室内礼をして、出て行こうとすると、准尉の声がかかった。

「川尻、疲れているところをすまんが、あとで俺のところへ来てくれ」

「わかりました」

 寿が出て行くと、扉に眼を送っていた中隊長が、ぼそりと言った。

「准尉、あれの処遇は、どうなっている?」

「隊長殿のご判断がまだですので、処置はそのままにしておりますが」

 中隊長はうなずいた。

「先般、大隊本部の指示で、近々うちの中隊に於いて、一個分隊を転属させることになった。十三名の転属要員については現在選考中だが、その一個分隊を、遜河の監視部隊へ編入させよということだ。それについてだが、あれをその長として出すことにした。俺は、出すことを反対したのだが、大隊長殿が了承せんのだ。そういうことだから、別命あるまで、あれは現任のまま勤務をつづけさせろ」

 やんわりと弁解をしているが、なんのことはない、これが長門の本音であった。中隊の不名誉は、段階的に、こうして払拭されるのである。

 兵隊には、命令を拒む権利は与えられない。降等されなかっただけ、寿は幸いであったと、耕介は安堵した。

 耕介は、かかとを揃えた。

「わかりました。そのように申し送っておきます」

 中隊長は腕時計を見た。

「そろそろ時間だ。今夜は貴公と最後の晩餐をやりたかったが、それもできなくなったな。生憎と貴公は出て行くし、今夜は夜間演習ときた。俺は、これから大隊長室で演習科目を練らねばならん。まったく、ゆっくり休む暇も、寝る暇もないよ」

 ぼやいた中隊長に、深谷は、形どおりの姿勢を正して訣れの挨拶をした。

「この部屋を出ますと、中隊長殿とは、もうお会いすることはなくなりますが、中隊長殿の武運長久をお祈りいたします。いろいろと、ご面倒をおかけしましたことを、深くお詫びいたします。お世話になりました」

 踵を揃えて室内礼をすると、耕介は中隊長室を出た。


 一方の寿は、暗く沈んだ気持ちをほぐしてくれるかのように、下士官室で同僚の歓迎を受けていた。

「七日間の拘禁で、心配していましたが、お元気そうで、安心しましたよ。ご苦労さまでしたね」

 と、小月伍長が、満面の笑みを浮かべて迎えた。

「みんなのお蔭で、軽か罰で済んだたい」

 と、寿は、照れ笑いで答えた。

「お疲れでしょ、これへかけてください」

 と、白木の椅子を差し出し、 

「詳細は、深谷准尉殿から聞きましたよ。まったく、運が悪かったですね」

 と、寿の厄災を慰めた。

 寿の胸に、苦いものが衝き上がった。運が悪いのは、寿を庇って部隊を追われる耕介なのである。

「埴生少尉はね」

 と、()(がしら)伍長が、番茶を淹れながら言った。

「奴は転属になりましたよ」

「なに、転属とな?」

 番茶は、小月を経由して、寿に渡った。

 井頭が、番茶を一口啜って答えた。

「入院下番(退院)したその足でね、他の部隊へ転属したそうです。急性肺炎で入院している兵隊の見舞いとかで、北安の病院へ出向いていた、六班の沢村班長から聞いたんです。少尉が病院から出るところを、偶然鉢合わせたらしくて、それで事務室に確かめたそうです。担当が言うには、南方や沖縄方面への動員部隊がまだ各地で編成されているそうですから、入院下番者の殆どはそれに編入されているとのことでしてね、どっちの方面かわかりませんが、少尉もそうではないかとの話です。いまだに奴が帰隊していないところをみると、沢村班長の話は、どうやら本当のようですよ」

 寿は、胸の内で、幾つかうなずいた。オイと接触ば避くるために、あれも追い出されたとか?

「少尉の転属でね」

 と、口を入れたのは、他班から遊びに来ている小月と同期の松島伍長であった。

「いちばん歓んだのは、私たち下士官や兵隊もそうですが、それ以上に歓んだのは将校連中だったそうですよ。いまさらどうでもいいことですがね。でも、眼の上の性悪な(こぶ)が取れて、せいせいしましたよ、なァ」

 と、松島は、同僚の顔を覗きこむようにして笑うと、小月がすかさず口を挿んだ。

「すべてが因循姑息なんだよ、軍隊ってとこは。あの馬鹿を原隊復帰させると、今度は奴を査問にかけなきゃならん。そうなって困るのは、誰だ? そうだよ、査問構成員の将校連中だよ。汚えよな、やることが。自分たちの体面を繕うために、連中は奴を追っ払いやがったんだ」

 と、吐き捨てるように言って、寿に口を向けた。

「班長殿にはお気の毒でしたが、でも、私たちができなかったことを班長殿が体を張ってくれたんです。そのお蔭で、紊れていた内務班は正常化したし、少尉の無差別暴力も排除できたんです。深谷准尉殿もね、川尻班長殿がいなかったらできなかったことだと、そうおっしゃっておられましたよ。これを連隊じゅうの下士官が歓迎しないはずはありませんよ。私も乙幹上がりの一人ですがね、あいつは、もっとも程度の悪い幹候少尉だ!」

 小月伍長が、眼を尖らせて露骨に罵った。

「あいつはどこへ行っても変わらんだろうぜ。あの調子だと、いつかやられるさ。国境線の、闇のどこかでな」

 この部屋での年次では、唯一寿と肩を並べている現役の青海軍曹が、手刀で自分の頸を刎ねる仕種をした。

「なァに、あんたは堂々としてりゃいいんだ。誰がどう言おうと、あんたは中隊随一の下士官なんだからな」

 周りの下士官たちも、互いにうなずき合った。

 寿は、二杯目の茶を貰い受けて、怪訝な顔をした。

「そげんしても、みんな落ち着いとるばってんが、今日はどげしたとや?」

 朝から寛いでいる同僚たちに顔を向けると、小月伍長がそれに答えた。

「今日の日課がね、夜間演習に変更になったんです。でも班長殿はそれには含まれていませんから、今夜は足を伸ばして、ゆっくりと休んでいてください。柳井兵長が分隊長代理となって、指揮を執ることになっています」

「わしンために、すまんの」

 と、自分のことを気遣ってくれる仲間に感謝した。

 下士官たちは、寿を囲んで暫く雑談に興じていたが、やがて、夜間演習の準備に、銘々の班へ出向いて行った。

 残された寿は、事務室へ行くにはまだ早いと考え、我が体に馴染んでしまっている寝台に体を横たえた。

 だが、これがいけなかった。自分では差程も感じてはいないつもりであっても、闇の重営倉で、体は疲れきっているのである。横になると、忽ち睡魔が襲って来て、意識はすぐに闇の彼方へと吸いこまれてしまった。

 揺り起こされた。

 重い瞼を開くと、そこには、耕介の微笑があった。

「よか気持ちで眠っとうけん起こすまい思うたが、もう時間やけん行かにゃならん」

「……行くって? どけェ行くとか?」

 目覚めたばかりの意識は、耕介の言葉の意味をすぐには理解できなかった。

「軍の輸送列車が十三時に出るけん、それに乗れとの命令たい」

「なんとな! 出発ァ今日やったとな!」

「予定は明日のはずやったとやが、列車の編成ば都合で急に早められたとじゃ」

 寿は、腕時計を読んで、寝台を跳ね起きた。暢気に寝ている場合ではなくなっていた。針は、既に十時半を指しているのである。駅までは優に二時間はかかる。

「来てくれてよかったばい。そいでなかったら、オイはなんも知らんまま寝こんどるところたい。駅まで送るけん、話は道々しようたい」

 寿は、庶務掛から昇格した阿部曹長に、このことを願い出て、小月と柳井兵長にあとを托して、営門の外で耕介の隊伍と合流した。

 駅へ向かう道々、二人は、いつもの調子で語り合ったが、話は、どれも希望へと夢を繋ぐものではなかった。互いに話しておきたいことが山ほどあるはずなのに、個人的な話を避けているのは、話したところで、いまさらどうにもならないという諦めが優先しているせいであった。

 だから、肝腎な約束は、なにもしないまま、とうとう時間切れとなって、駅へ到着してしまった。

 駅には、客貨混合の長蛇の列車が、軍用貨物の待機線に停車していて、憲兵の監視の下に発車を待っていた。

 有蓋貨車には、孫呉各所から寄せ集められた兵隊で、埋め尽されていて、貨物列車の中程に連結された一輌の客車には、当然の権利を主張する将校たちが、我物顔で座席を占領していた。

 乗車区分に従って、転属兵を貨車に分乗させた耕介は、階級順に指定されている後部座席に坐った。

 訣れのときが来た。

「こげん形で、おまんを送るごつなろうとはの、こンとおりオイの責任たい。勘弁ばしてくれ」

 寿は、こうべを垂れた。

「ばか、いつまでもくどくど拘っとるんやなか。それより寿、次の部隊へ行っても、短気を起こさんと自重ばすっとぞ。お互い生きとったら……」

 言い終わらぬうちに、列車が、ガクリと動き出した。

「……元気での、寿、死ぬんやなかぞ」

 と、耕介が、車窓から身を乗り出して手を差し出した。

「おまんも、の……」

 寿も、耕介の手を、両手で固く握り締めた。

 互いに支え合った篤い友情は、とうとう、同一平面上で共有することはできなくなってしまった。虚空に尾を曳きながら消え行く機関車の煙のように、互いの友情は、この瞬間から永遠に消え去るかのような、去りゆく列車を、寿は、(あん)(たん)とした心で見送っていた。

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