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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征
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 二週間が過ぎた。

 中隊長の長門中尉も、下士官たちも、と言うより、陣地そのものが「事故」に関しての意識が薄れて、何事もなかったように動いていた。

 その日は、早朝から、霧のような雨が降っていた。

 間の悪いことに、この日は、二日間の日程で行われる大隊演習(白兵模擬戦闘訓練)に当たっていて、寿の属する中隊は、三十キロ先の仮想敵攻撃地点へ向かって、小雨のなかを行軍していた。

 中隊が攻撃発起点へ到着したころには、雨も上がり、天空は晴れ渡って、顔を覗かせた太陽は、西の稜線へ傾きかけていた。

 中隊は、翌日の模擬戦闘訓練に備えて、早々と幕舎を設営した。そのとき、皮肉なことに、病院に担送された少尉の属していた中隊と、寿の中隊とが、たまたま向かい合わせになったことで、消えかけているはずの事故の火種に油が注がれる結果となった。

 その火種に油を注いだのは、あの晩、曳田と動哨に就いた小出二等兵であった。あの事件に関しては、現場に居合わせた哨兵たちは、懲罰を怖れて、と言うよりも寿の呵責のない凶暴性を怖れて口を堅く結んでいて、仮に、そのことが話題になっても、当夜の哨兵たちは、あれは事故だと頑なに主張して真相を語ることはしなかった。

 だが、頭のネジが少々緩んでいる小出だけは、他の男たちとは性格が異なっていて、口の締まりが悪かった。

 夕食後、小出は、就寝までの自由時間を利用して、気分転換にと、幕舎のすぐ裏側の丘に上がった。

 丘には、先客が一人いた。姿からして、兵隊にはちがいないが、夕陽の逆光線で、相手がどんな年次の持主かわからない。古参兵であったら面倒である。そう思って、こっそり踵を返そうとすると、気配を感じた相手が急に立ち上がって小出に挙手をした。その挙措動作で、小出は、安堵した。どうやら、相手は、自分と同じ立場のようである。二人は、最下級兵の習慣の情けなさを笑い合って、その場で意気投合した。ここまではよかったのだが、そのあとが拙い展開となった。

 小出は、その兵隊が問題の少尉の中隊の兵隊であることを知らずに、あれこれ世間話をしているうちに、あの深夜の話題となり、相手から、その夜の状況をしつこく問い詰められて、あれやこれやと説明しているうちに辻褄が合わなくなってしまい、追求されるうちに、とうとう面倒臭くなって、自分が見届けたありのままを、それも余計な()(ひれ)までつけて喋ってしまった。

 相手の兵隊は、下士官の武勇談を、さも感心したようにうなずいていたが、その耳は、小出の一言一句を、余すところなく捉えて、脳裡へ焼きつけて聞いていた。

 一方の小出は、自分の口が、あとでどのような結果を招くかなど、不幸なことに、それを思考する回路が緩んでいるために、相手の巧妙な誘導尋問に、ズルズルと(はま)ってしまっていることすら気づかずにいた。

 得々と喋った小出は、演習から帰ったのちも、自分が重大なことを喋ったなど考えもしていなかったから、何食わぬ顔で、内務の雑用をこなしていた。

 だが、相手は、それで済ますような男ではなかった。帰隊後の夕刻、下士官室の当番に就いた兵隊は、演習での苦労談を下士官たちがぼやき合っているのを、直属班長の世話をしながら聞き耳を立てていた。

 そのうちに、兵隊は、下士官たちの話に巧みに割りこんで、自分の点数稼ぎに、小出から聞き出した事件の真相を自慢げに喋った。

 下士官たちは、他隊とはいえ、同じ下士官が起こした事件に驚きと戸惑いを見せたが、少尉の暴力的行為の脅威から解放されたのは事実であったのと、それが他隊の下士官でもあることからして、その件は事故として既に処理されてあるから、これに関しては誰にも口外してはならん、と、直属班長は、その兵隊に固く言い渡して内務班へ帰らせた。

 その効力は、兵隊には充分過ぎるほどの効き目があったが、しかし、同室の同僚たちには、効力はなかった。その夜の週番下士に就いた別の伍長が、これも点数稼ぎに、週番士官の耳に入れた。これが、連隊じゅうの将兵を驚愕させる事件へと発展させることになった。

 次の日の午後、班内での兵器検査も終わろうとしたころ、寿は教官室に呼び出された。

 教官室の扉を開くと、そこには耕介が教官の傍に立っていた。

 規律ある室内礼をすると、教官は、寿に休めをかけて、

「いま准尉に事情を聞いたが、あの夜の事件のことをもう一度詳しく話してくれ」

 と、いきなり切り出してきたから、寿の顔が俄に硬くなった。あの夜のことは、既に事故として処理されたはずである。それをいまになって教官が問い質すのは、いったいどういうことか!

 寿は、忙しく思考を巡らせてから、耕介の顔を窺った。

 ――そうか、こんなが同席ばしちょるゆうこつは、事件の真相を教官に暴露したにちがいなか。こン馬鹿が。余計ンごつしくさってからに!

 その耕介は、寿の憮然とした表情を察して、やんわりと言った。

「川尻、そう硬くならんでいい。教官殿は既に事情を承知されて理解しておられる。それであの夜あったことを、お前に訊き質す前に俺を呼んで説明を求められたのだ。だから、ありのままを報告すればいい」

これで耕介に対する疑念は晴れたが、寿の胸はまだ釈然としなかった。つまり、中隊長が真実を知らないはずなのに、なぜ教官がそれを知ったのか? 耕介でないとしたら誰が喋ったのか? ということである。つまり、あの夜のことを洩らしたのは耕介以外の誰かということになり、あの夜の勤務者の誰かが、口を滑らせたということである。

 寿は、忙しく、それは誰なのか思考を巡らせたが、すぐに思いつくのは、ホ隊からの編入者の古参兵たちであった。それらは、寿に痛めつけられた遺恨があるから、寿を窮地に陥れるために策したと考えれば、それは充分にあり得ることであった。

 初年兵の野下や新川も、例外ではない。これらは将校との個人的接触は限られているが、その気になればやれることである。ただし、最下級の初年兵が階級を越えた上官を売るような犬の真似は、絶対にできない。それをすれば、逆に手酷い結果となって自分に跳ね返ってくることを知っているからである。このことから、その心配はまずないと考えてよさそうであったが、しかし、小出の存在だけは思考の外にあって、それが自分の弱点となっていたことすらも気づかなかった。なぜならば、小出は班内でも気弱で遅鈍な男で、他人に告げ口をするほどの、度量も、才覚も、持ち合わせていないことを頭から信じているからであった。

 寿は、九名の男たちのこれまでの素行を頭の片隅で想い起こしながら、当夜のことを詳細に語った。 

 教官は、その間、表情を変えることなく、寿の話を黙って聞いていたが、感ずるところがあるらしく、こう言った。

「事情も状況もよくわかった。この件は既に処理されてある事案だが、しかし、うちの中隊の兵隊から他隊へ洩れたとあっては、我が中隊としても眼を瞑るわけにはいかんのだ。兵隊の口に戸は立てられんが、事が事だけに、どこでどう歪められて()(えん)されるかわからん。いや、既に拡散されていると思ったほうがいいだろう。とにかく、この件は中隊長殿も憂慮されておられるから、これから中隊長殿の官舎へ行って判断を仰ぐことにする。もういい、帰ってよし」

「その前に、教官殿、一つお伺いばしてよくありますか」

「なんだ? 言ってみろ」

「他隊に洩らしたとされる兵隊は誰ですか?」

 教官は、幽かな苦笑を洩らした。

「お前に隠しても仕方がないな、……小出だ」

「わかりました。川尻伍長、帰ります」

 と、寿が室内礼をして帰ろうとすると、そこへ耕介が呼び止めた。

「言っとくがな、川尻、この件で、小出をどうこうしようなどと考えちゃならんぞ。あの阿呆には構わずに捨てて置け。へたに動けば、逆にお前の心証が悪くなるだけだぞ。お前には伏せとったが、あの件の詳細は既に中隊長殿も承知しておられる。それを承知の上で、隊長殿は様子を見られとるんや。中隊長殿は、もう官舎へ着かれたころやから、俺はこれから教官殿と中隊長殿の官舎へ行く。俺の留守中に、いいか川尻、軽率な行動は絶対ならんぞ」

「わかりました」

 寿は、扉を、音を立てずに閉めた。

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