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翌日、舎前で、准尉の深谷に下番報告を済ませた寿は、昨夜の出来事は逃げられない事実と腹をくくって、営舎へ入りかけた耕介を呼び止め、少尉から受けた脇腹の激痛を堪えて舎後へ誘った。
仔細を知った耕介は、
「拙かごつばしてくれたの」
と、眉間に深い皺を寄せた。
少尉の素行についての噂は、すでに中隊長から聞き及んではいたが、そのことを寿に一言も話さなかったことに、耕介は、罪悪感に似た後悔の念を覚えた。それというのも、噂の対象が他中隊のことであり、よもや自分たちの中隊にまで累が及ぶとは考えもしなかったから、気にもかけず、それほど深刻に考えてはいなかったのである。
それが、あろうことか、よりによって、寿に厄災が降りかかってくるとは!
「あの少尉の噂は、わしも中隊長から聞いとったが、それは、わしらとは関係のなか中隊のことやけん、おまんには敢えて話さなんだとじゃ。……しかしの、相手がどげな奴やろと、かりそめにも将校やけんの。潰された将校の面子をかけて、このまま無事には済まさんぞ」
「あっちが仕掛けた喧嘩ぞ。そいを少尉が告訴ばするゆうんか?」
「自分が仕掛けた喧嘩に、逆に下士官にやられましたと、まさか糞真面目に訴えもでけんやろ。それこそ将校の面子も体面もあろうからの」
「あン少尉が言うた、服務規程違反ば適用するんかの」
「いや、それもまずかろうたい。あすこの喫煙に関しては、各中隊の隊附将校全員が絡んどるし、いままでに、それが因での懲罰もなか。いまさら服務規程違反もあるまい。もし、あれがそげなごつしたら、先任の将校連中とて黙っちゃおるまいし、それこそ連隊長にまで責任が飛火して、あれ一人の問題として解決でけん方向へ発展することになる。将校なら、そンくらいの分別は持っとるはずたい。それに、オイが言うた将校の面子は、そげなもんやなか。あれの面子は別たい。つまり、個人的な感情を公にすり替えて、知的に仕掛けて来るゆうことたい」
「知的っちゃ、どげな方法ね?」
「そりゃわからん。この件は泣き寝入りばするとしても、あいつは自隊の中隊でも、根性の歪んだ陰険な男らしかけん、なんらかの形で報復ばしてくる可能性は否定できん。その時々の状況如何で、将校の権限で罪名はどげにもでっち上げられるけんの。それより、夕べンごつ、哨兵以外の誰かは知っとるか?」
寿は顔を横に振った。
「巡察はあン少尉一人やったばってん、オイの分隊以外は誰も知らんたい。あれらにゃ堅う口止めばしとうばってん、よもや洩れることァなかやろ思うが……」
耕介は、少しを考えるようにして、うなずいた。
「昨日ンごつァ今日にも連隊じゅうに知れるやろばってん、お前たちは、なにを訊かれても、あれは事故じゃと言い通せ。それ以外の余計なことは喋るんやなかぞ。この件は、あとで隊長に上げるが、通堂班長どんにも相談ばして、その上で、こいからンごつば考えよう」
「なら、オイが班長どんのとこへ行くばい」
「いや、昨日のことを事故として繕うには、お前はへたに動き廻らんほうがよか」
「……おまんに迷惑ば掛くるの、すまん」
耕介は、にがく笑った。
「そげんこつより、寿、お前には中隊じゅうの下士官たちも一目置いとるし、中隊長も眼ば掛けておらるばってん、よくよく自嘲することぞ」
「肝に命ずるたい」
「ま、いまさら結果を論じてもはじまらん。なるようになるだけたい。幸い、今日の日課は夜間演習に切り替わったけん、お前は、そいまでゆっくり休むとよか」
寿はうなずいた。
密談を終えて、二人が兵舎の入口に入ろうとすると、背後から声がかかった。
声をかけたのは、将校官舎から出勤して来た長門中隊長であった。
不動で挙手をした二人に、中隊長のほうから足早に歩み寄って来た。
「いいところで出会ったな。いや、昨夜の件でお前たちを呼ぼうと思っていたところだ」
開口いちばんにこうである。寿は内心で驚いた。もう中隊長の耳ば達しとるとや?
寿は、かかとをカチンと鳴らした。
「その件につきましては、中隊長殿、たったいま准尉殿に報告ば済ませたところであります」
うなずいた中隊長は、
「俺の部屋で聞こう」
と、二人を中隊長室へ呼んだ。
中隊長室で昨夜の仔細を報告した寿は、少尉は、今朝、北安の陸軍病院へ移送されたはずのことを付け加えた。
「北安へ担送ということは、やっこさん、転落時にかなりの重傷を負ったということだな?」
と、訊かれると、耕介も寿も答えることはできなかった。
「ま、直接軍医に確認したわけではないから詳細はわからんが、軍医からの報告では、かなりの打撲傷を負っているとのことだが、命には別状ないとのことだ。まあ事故の現場が現場だから、軍医は、念を入れたに過ぎんそうだ」
そう言って寿をまじまじと見た。
「その様子では、川尻、お前も負傷しているようだな。ひどいようなら、医務室でよく診て貰え。いや、よくやった。お前が気づかなかったら、あれの命は今頃どうなっていたかわからんところだ」
寿に白い歯を見せた中隊長は、事件に対する関心よりも、部下の適切な処置を喜んだ。
事実をなにも知らずにいる中隊長に、寿は、胸の内で深い自責の念に囚われた。そしてその裏面では、これで、少尉は泣き寝入りするだろうと信じた。その証拠として、寿たちの偽証をそのまま受け容れた連隊本部は、事故現場の検証は行わず、個人の過失として処理したからである。もっとも、現場の検証をしたところで、切り立った断崖のような危険な岩場である。連隊本部は、無駄な時間を費やすことと、二次災害を怖れたのである。