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消耗品たちの八月十五日
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十八世紀から十九世紀半ばにかけて起こった産業革命、その重要な役割を担った黒い石の欠片、所謂「石炭」が地底深くから掘り出され、それが長蛇のトロッコに詰めこまれて地上へと運び出されている。現在では知る人は少なくなったが、当時の人々は、この石炭を黒いダイヤと絶賛して、これまでの小規模産業から大規模産業へと飛躍的な発展を遂げて、近代資本主義経済への礎を築いた。
その黒いダイヤモンドこと石炭の搬出の合間を縫って、薄暗い坑内で全身を炭塵で真黒に染めた男たちが、石炭同様にトロッコに運ばれて上がって来た。
坑口では、朝の入坑点呼を終えて待機している一番方の抗夫たちが、深夜の作業を終えた彼らと交代するために、顔を複雑に強ばらせて待ち受けている。退抗する側と、これから入坑する側との相互間には短い挨拶こそ交わされるものの、そこには軽やかな笑みはない。安堵と緊張が坑口に輻輳しているだけである。
無理もない。退抗する者には無事に作業を終えた某かの安堵の笑みがこぼれるが、これから入坑する者たちが向かうその先の地中深く堀抜かれた採炭現場は、地上から送られて来る空気は薄く汚れきっていて、その上、地下熱で蒸された熱気が充満して蒸風呂のように暑い。それくらいの熱気や環境は慣れているから作業においては大した苦ではないが、彼らが怖れて止まないのは、薄暗い坑内に潜む無色無臭の悪魔、数億年もの地底に閉じこめられて炭化した動植物の化石が発生させるメタンガスであった。
坑内には、それらの有害物を排除する環境設備はととのえられているが、それも何キロもの地中深くともなれば完全とはゆかない。炭層の其処此処からは絶えず地下水が浸み出しているし、ガスも充分に抜けきれずに沈殿している。したがって削岩機や鶴嘴のちょっとした摩擦の火花で粉塵に引火でもすれば、坑内は大爆発を起こし、一つしかない命を瞬時に失う大惨事となる。大惨事はそれだけではない。それに加えて、いつ起こるかわからない坑道の落盤という危険が常につきまとっている。
そのなかで、坑夫たちは、砕け散る粉塵で真黒に体を染めながら、小さな圧搾式削岩機と鶴嘴一本に全神経を張りつめて、これから作業終了時限までの長い時間を過ごさなければならない。生と死を腹背に、まさに命を懸けての過酷な作業がはじまろうとしているのだ。気の利いた職に就く器量など持ち合わさない彼らである。食うために自ら択んだ道と割り切ってはいるものの、不安と闘いながらの作業は気持ちのいいものではないのである。
その抗夫たちの労務管理を務める第一抗長の川尻寿は、過去の自分のそうした経験を想い起こしながら、一番方の組が坑内へ消えて行くのを見届けて、管理事務所へきびすを返した。
この日、真夏の朝の天空には、反射的に眼を庇うほどのギラギラした太陽が地上の万物を焼き焦がす勢いで燃えはじめていて、構内には強烈な熱気が充満し始めていた。
寿は、思わず天空を仰いで眼を細めた。夏の陽光は強烈な熱気で厳しいのは当然のことだが、この日は格別であった。朝から猛暑となっているのである。
熱を吸収する石炭の山だから、平地よりも暑さが厳しいのは慣れている。だが、それにしても、いつもなら、暑いながらも事務所の窓を開け放しておけば、麓の田園地帯から吹きつける風で暑さはどうにかごまかせたが、生憎とこの日は最悪の附録がつけられていた。その風さえも途絶えて、まったくの無風状態なのである。
その上に、掘り出された石炭は、すべてが良炭とは限らない。選炭されると、廃炭となる石のほうが圧倒的に多いのである。廃炭となって捨てられた瓦石の山(ボタ山)を灼熱の陽光が余すところなく灼き尽くすから、日陰に身を隠しても身の置き場がなく、心身とも焦げつきそうな熱気は、バラック同然の事務所の八方から容赦なく侵入して来るから防ぎようがなかった。
寿は、額や首筋に噴き出る汗を、これも朝から拭きつづけて汗臭くなって濡れそぼっている手拭いで拭きながら、事務所へ足を速めた。
事務所までは眼と鼻の先、ほんの七八十メートルである。急いだとて事務所には気の利いた冷房設備などあるはずがない。あるのは、使い古してくたびれた扇子と団扇だけである。それを用いて涼を求めたところで、嫌悪的な熱気を呼び寄せるだけでなんの役にも立たない。事務所のなかは、まるで炎熱地獄なのである。
それでも足を速めるのは、天と地の両面から襲いかかる灼熱から、一秒でも早く逃れたい気持ちからであった。
寿が事務所へ飛びこむと、この暑さではまったく用をなさない団扇を手にした四十絡みの嘱託職員が、涼をとるにも気休めにもならない灼けた窓辺に立って、あまりの暑さにたまりかねて思わずぼやいた。
「そげにしても、朝っぱらからこげに暑かとは、まっことたまらんばい」
と、天空を呪うように見て、上半身肌着一枚になった胸元へ団扇をバサバサとやった。
窓外では、坑内の排水や空気を循環させるポンプの機械音が一日じゅう地鳴りのように響いていて、建て付けの悪い窓ガラスはそれに呼応して四六時中耳障りな音をガタガタと立てている。普段なら耳慣れて気にもしないのだが、こう暑いと、この音までが神経を逆撫でして煽り立てるから尚のこと苛立つ。
窓辺の嘱託職員が煙草を喫いつけたが、暑さでいがらっぽさが際立ったたか、顔をしかめてすぐに指ではじき飛ばした。
「戦時ちゅうの話やばってんが、わしらが動員ばされたニューギニアちゅう戦場も熱帯でひどかとこやったが、ここもそれに負けんごつ極暑たい」
と、団扇をバサバサとやると、手拭いを首に掛けて扇子を片手に事務を執っている同世代の別の嘱託職員が、
「まったくそんとおりたい。こげん暑かごつあると、なんもする気が起こらんけん、やれんたい」
相槌を打って、出炭台帳を乱雑に閉じて、大きな欠伸をした。
たったこれだけの会話の間にも、体内から汗が滲み出て容赦なく肌着を濡らすから始末が悪い。こんな日は、とにかく、なにをやっても身が入らない。駄目である。だが、これをやらなければ、彼らの一日は終わらない。
嘱託職員たちは、汗を拭くのと、扇子や団扇で体を冷やすのと、銘々の台帳にペンを走らせるのを巧みに使いこなして、八方から圧し迫る熱気に悪戦苦闘していた。
やがて二番方の担当者が、玉のような汗を拭きながら出勤して来た。地獄の日中を過ごした彼らの勤務が終わりを告げたのである。
引き継ぎ事務を終えた嘱託職員たちは、帰宅準備を済ますと、先を競って構内の浴場へ走った。
二番方の担当者が、珍しく帰り仕度をしている寿に、
「抗長、風呂は行かんとですか?」
と、訊くと、
「わしゃ大事な男と約束ばあるけん、今日はこのまま直帰するたい」
言い残して、この半年間のうちにすっかり馴染んだ我家へ向けて自転車のペダルを踏んだ。
我家と言っても、独立した屋敷を構えているわけではない。住まいは現場事務所から徒歩でおよそ十四五分ほどの小高い丘の上に建ち並ぶ抗夫の長屋である。
長屋の間取は、六畳の和室と四畳半の板間に、台所を兼ねた一間半程度の土間が設けられてあるが、肝腎な浴室も便所もない安普請の住宅である。したがって便所は長屋の外れに設けられた共同便所を私用し、浴場は町村の経営する銭湯を利用していた。寿はこの長屋で、妻と五人の子供を養っていた。
その長屋へ帰宅した寿は、お愛想程度に設え(しつら)てある裏庭に大盥を持ち出して、嫁に言いつけて水を張らせた。汚れた汗と埃を洗い流すためである。
この日は、奇しくもあの忌まわしい太平洋戦争(一九四一~一九四五)が終結して五年目の終戦記念日でもあった。
戦災の傷痕も漸く癒えはじめている人々は、この日をどのような思いで迎えたかは寿には知らぬことであったが、凄惨な地獄の体験をしてその傷をいまだに生々しく曳きずっている寿がそれを素直に受け容れるには、まだかなりの時間を必要としていた。
手早く沐浴を終えた寿は、清潔な被服に着替えると、今度は徒歩で街へ向かった。約束を交わした男と逢うためである。