溺愛のカタチ
「ティエド、私たちの結婚の約束、なかったことにしてほしいの」
イハナは、緊張に上擦る声を胸に手を当てて宥めながら、別れを告げた。
彼、ティエドが、自分に対して並々ならぬ執着を持っていたことは、イハナもよく心得ているばかりでなく、貴族社会でも有名なことだった。
きっと、怒り出すのじゃないかしら。
ある友人はそう言って、警戒するようにと忠告してくれたけれど、ティエドは怒ったとしても、無闇に声を荒げたり暴力を振るったりなどしないことは知っている。
だからといって、腹を立てないというわけではない。傷つかないというわけでも。
イハナは、じっと高い位置にあるティエドの緑灰の瞳を見つめ続けた。幼い時から見慣れた、けれどいつ見ても綺麗な顔立ちが、少しでも歪んでしまわないか、見逃さないように。
ティエドが納得するまで、言葉を尽くすつもりだった。
けれどティエドは、静かに口元を緩めて、そう、と言った。
「君がそれを望むなら、僕は応じよう」
彼は、貴女のこと本当に好きなのかしら。
別の友人が言っていたことが、頭をよぎる。
本当に好きなら、簡単には手放さないと思うけど、と。
イハナには、ティエドの心の中はわからない。四つの年の差は大きい。ティエドはいつもイハナを包み込み慈しんでくれたけれど、心の中を曝け出してくれたことは、今まで一度もなかったかも知れない。
今、青春を含めて十年もの貴重な時間を、互いに真摯に捧げ合ってきたはずの婚約者に、一方的に別れを切り出されても、ただどこか安堵したような穏やかな顔をするティエドの心は、やはりわからなかった。
それでも、ずっと、大事にしてもらったことは本当だ。
イハナも、ティエドを大事に思うことに変わりはない。
だから、彼が幸せになりますように、と心から祈っている。
ティエドに背を向けて、別の男性に手と腰を取られて、歩き去る時も、ずっと祈っていた。
*******
イハナは伯爵家の令嬢である。体が弱く、よく寝込んでいたため、あまり家の外に出ることはなかった。年頃になって、令嬢同士の交流を広めていくようになって、自分がどのように噂されているか、ようやく耳にする機会ができた。
イハナ伯爵令嬢は、幼馴染のティエド侯爵令息に、溺愛されている。
イハナとティエドの両親が仲が良く、また王都の屋敷が隣同士であったために、イハナは唯一、幼い時からティエドとだけは交流があった。頼り甲斐があり優しいティエドは、確かにイハナに甘い。つい先日、その優しい兄がわりのティエドと、口約束とは言え、婚約も結ばれた。
だから、噂は真実である。
だがその噂がイハナが公に姿を見せる前から囁かれ続けていたのは、ティエドがすこぶる整った外見を持ち、また、侯爵家の嫡子でありながら、世の流れを先取りして商売に乗り出し、若い身空で大きな成功を収めるなど、世間の注目を一身に集める貴公子だからだ。
その彼がまた、噂を持ち出されるたびに、全力で肯定をしているらしい。
「毎日花を添えた手紙をくださるって、本当?」
「デートの度に、新しい帽子か日傘を贈ってくださるとか」
「クカ広場の花祭りは、イハナ様を喜ばせるために企画されたものが、毎年開かれるようになったとか」
「最近一番人気のティーカップコレクション、イハナ様の幼名から取られたと聞きましたけれど、素晴らしいですわね」
改めて言葉にされると大袈裟に聞こえるが、確かに、どれも身に覚えのあることばかりだったので、イハナはやんわりと微笑んでいた。
周りは勝手に盛り上がる。
イハナは適当なころを見計らって別の話題を提供して、うまく浮かずにやり過ごすことができた。これもまた、ティエドのアドバイスだったけれど。
時がたち、初対面同士だった令嬢たちも、気心がしれ、気の合うグループができ、親友と言える相手もできて。
その親友の一人に、不思議そうに問いかけられたことを、イハナは忘れることはできない。
「イハナ様は、ティエド様にしていただいていること、あまり嬉しそうには見えませんのね」
嫌なことを言い当てられた、と思った。酷い女性だと詰られる、とも。
けれど友人は心からイハナを案じていたようだった。
「幼い頃からずっとそうして真綿で包まれて愛されていたら、嬉しくてもそうと気がついていないのかもしれませんわ。イハナ様、女性は愛されて幸せになる、と言われる時代ですけれど。でも、わたくしたち、これから長く生きて行くのです。自分のことを自分で知ることは、とても大事だと思いましてよ。まず自分で立ち。そしてそれから、人を愛するのです。ええ、きっと、今よりティエド様を愛するようになられるわ」
イハナは、そんな意見を初めて聞いたので、驚き、当惑し、けれど最終的には頷いた。
自分の足で立つということ、一人の人間としてできることを自分でやるということ、そして、今よりティエドを愛せるかもしれないという希望に、言葉にし難い衝動を感じたからだった。
少しの間、距離を置きましょう。そう決然とティエドに告げる。
ティエドは戸惑った顔をしていたけれど、最終的には、わかったよ、と微笑んでくれた。
いいよ、わかったよ。好きにしてごらん。ティエドのいつもの、魔法の言葉。その言葉があれば、全てうまく行くのだ。
けれど。離れてみて、打ちのめされた。
令嬢の心得としての、慈善活動が、ことごとく失敗した。孤児院に差し入れる日用品は数が揃わず、バザーに出すものは質が悪くてまるで売れず、庶民の学校のボランティアでは打ち合わせ不足で他家の令嬢とかち合い学校を対応に焦らせ、そして図書館の修繕事業の記念の催しでは、家の代表として出席したのに下座に置かれ貢献がまるでなかったことのように扱われ、あげく文句を言うことすらできずに泣き帰った。
社交に出るようになって一年の間、一度もしたことのないような失敗続き。
できるはずのことがなぜうまくいかないのか。
自分を責め、反省し、気を取り直し、挑戦して、また失敗し。
やがて、気がついた。ティエドの助けがないためだと。
発注だけでなく納品される品の数の確認、手配した品の実物を検分して手直しを指示、学校との日程確認と他家との調整、事業への貢献を周囲に認めさせ、尊重させるだけの、手回し。
イハナに見えないところで、ティエドは助けてくれていたのだ。
毎日、会う度、何年も、溢れるほどに、ティエドが贈ってくれていたのは、物や名誉だけではなかった。どれだけの時間と手間とをかけてくれていたのか。
いやそれより、どれだけいつも、イハナのことを考えていてくれたのか。
ほんのちょっと子供の社交から背伸びしただけの活動でも、自ら動いた経験は、これまで息をするようにティエドから与えられていたものが、まったく当たり前のものではないことを、イハナに実感させた。
ティエドに距離を置こうと告げてからも、毎日の花と手紙は続いている。
今朝の花は、優しい橙色の百合に似た花。花言葉は、成長。露が花弁に煌めいている状態で届けられたので、朝摘んだばかりだろう。
この花も、昨日の花も、ティエドの屋敷の庭に咲いていることを知っている。
同年代の誰よりも忙しいのではと隣家から伝え聞く中、時間を割いて摘んでくれたのだろうか。そう思うと、胸が締め付けられるようになって、イハナはその花に口づけを落とした。
ティエドの思いに応えるために、もう一度だけ、頑張ってみよう。
図書館の催しでの扱いについては、伯爵家から正式に抗議をした。参加した自分が至らない子供であることを露呈するかもと嫌だったが、家の事業として支援をしたのだ。こだわるべきではないだろう。
そしてこの機に、図書館には、孤児院、学校、そして地域の交流の場として門戸を開くことを提案したのだ。
王立の図書館は、歴史こそあるが、今は印刷技術が進み貴族はそれぞれに図書室をもつため、利用者は少ない。孤児院の子は、字は習うが書に触れる機会がない。学校の生徒は学習の目的を定めにくく伸び悩む子供が多い。地域では人手不足が深刻なのに、孤児院の子は避けられがちで、学校の子は敬遠されがちである。
その全ての問題を、一堂に集めてぶつけ合ってみて、風通しを良くできないかという提案だった。
図書館には鼻で笑われ、腹が立った。
孤児院からは、もったいなすぎる話だと、卑屈に断られかけ、気持ちが沈んだ。
学校では、偽善者ぶって余計なことを、と、敵意を持って睨まれ、睨み返した。
あげく、図書館の催しで知り合った子爵家の子息が、世間知らずの計画は穴だらけだ、と喧嘩を売ってきた。
一生懸命に腹を立てるのも、誰かのために心を痛めるのも、怒って人を睨みつけるのも、批判され考えの甘さを叱られるのも、すべて初めてのこと。
そして、ひとつひとつ、一歩一歩、ダメと言われたことを受け入れられて、睨まれていたのが笑いかけられて、俺たちのためにありがとう、と感謝をされて。
よく頑張ったな、と喧嘩友達に肩をひとつ、叩かれて。
その肩から、全身に、火が回るように熱くなったのも。
そんな自分を見つめる目が同じくらい熱いことに気づいたのも。
何もかも、初めてのことで。
だから、気付いたのだ。
ティエドのことは、一番大事な人だけれど。
けれど、私が一緒に歩いて行く人は、ティエドではないのだと。
これからずっと一緒にいたいのは、隣に並んで、二人で悩んで、失敗しても見守ってくれて、慰めてくれて、そしてまた、挑戦するときは励ましてくれる人。
もちろんイハナだって、二人で悩んで、失敗しても見守って、慰めて、そしてまた、挑戦するときは励まして見送りたい。
だから、ティエド。いままでありがとう。さようなら。
それきり、朝の花と手紙は、届かなくなった。
*******
ティエドは、その人生のある一点から、常に水の底にいた。
隣家に生まれた女の子、イハナ。
初対面、よちよち歩きで現れて、手に持っていた草臥れて首を垂れた野花を、はいどうぞ、と手渡された。生暖かいその花を受け取ると、自分を見上げる緊張気味の顔が、控えめに笑った、その時から、ずっとだ。
魅了という、呪いだろうかと思ったこともある。
イハナの姿を見れば、ふらふらと近寄ってしまう。菫色の目を見ると、ぼうっと熱に浮かされたようになる。抱き上げると、ミルクのような匂いがして、その時だけ、少し息ができるのだ。
イハナの匂いが、ミルクから花のように甘いものに代わっても、深く触れたいとか汚したいとは思わなかったのは、僥倖だった。耐えられる気がしない。
両家はひたすらにイハナに優しいティエドを受け入れ、二人は常に、一緒にいた。
一緒にいると、息ができる。
けれど、ひとたびイハナが泣いているのを見ると、胸が痛んで心臓が止まりそうになる。常に笑顔でいてもらわなければ、きっと自分は死んでしまう。大袈裟ではなく、そうなのだ。
だから、イハナの全てを肯定した。
望みはすべて叶えるべく奮闘し、どんなことでも、ありとあらゆる問題を排除して、やりたいことをやらせてやる。
それは、幼い子供を過保護に甘やかすだけにとどまらず、イハナが社交を始めて、大人の仲間入りをしてからも、一層神経を尖らせて徹底したものだ。
数を揃えるのが難しい品を孤児院に差し入れたいと言った時も、斬新なデザインを作るが質の維持が苦手な商会からバザー品を入手したいと言った時も、卒業生を安く雇い入れたいがために他家の干渉を妨害するという噂のある家と同じ学校を支援したいと言った時も、強欲な館長が見栄のために図書館を修繕するというのを支援したいと言った時も。
イハナの前に、わずかな困難もあってはならない。
そして毎日、空気のように当たり前の贈り物に、そっと穏やかに微笑んでいてほしい。
そんなイハナから、距離を置くことを告げられた。
それがイハナの望みであれば、完璧に応じることは、やぶさかではない。それで、いつものように微笑んで過ごしてくれるなら。
狙ったようなタイミングで、ティエドは猛烈に忙しくなった。
仕事は嫌いではない。複数のことを同時に考える方が効率がいい。常に思考を働かせることが、苦ではない。そんなティエドですら、一晩だけでもぐっすり眠りたいと思うほどの、忙殺の日々だった。
これほど長く、イハナの顔を見ず、声を聞かず、匂いも体温も感じないことは、初めてだった。
ふと。
毎朝、それだけは続けていた、イハナへの手紙に、庭から摘んできたばかりの花を添えて。
何気なく、自分の背中が乾いていることに気がついた。
イハナのことを思う時、自分が常に背中に冷や汗をかいていたことを、思い出した。
人生のあの一点から常に、溺れすぎて死んでしまうという恐れに、いつも背中には冷や汗をかいていた。その異常に、ようやく、気がついた。
はたして、ティエドのイハナへの思いは、愛ではなかったのだろうか。
ティエドは、自己の根本に関するあまりに重大な疑問を抱いてしまったために、イハナとの約束を破り、様子を見に行った。
久しぶりに見るイハナは、成長期らしく、しなやかにやわらかに美しく、大人に近づいていた。
なによりも、多くの人と関わって、怒ったり拗ねたりと忙しく、そしていつの間にかしっくりと隣にいる男に向けて、見たことのない弾けるような表情で笑っていた。
誰もが、眩しいと、魅力的だと言うだろう笑顔。
だがティエドは、その笑顔には、溺れない。
すべてを、時には望みを自覚するよりも先に叶えられてきたイハナは、いつも穏やかに、儚く薄い微笑みを浮かべていた。
思い出すだけでも息が詰まりそうになるその笑顔は、彼女に欠けているものがあるという象徴だった。
彼女の世界は、籠の中のようなもの。
何の苦痛もなく守られているはずなのに、どこか寂しさを抱えたような顔をするのは、無知ながら、気がついていたからかもしれない。
醜さを知らなければ、美しさを感じることはできない。渇望することがなければ、心からの喜びも知らず、欠けていることに気がつかなければ、満ち足りることもない。
そのままでいる限り、不幸になることはなくとも、幸せを知ることもなく。それはすなわち、常に何かに欠けているままだと。
けれどそうとはっきり知らぬまま、いつも儚く、淡く、ぼんやりと、イハナは微笑んでいた。
ティエドは、そんなイハナに溺れていた。
そこに、イハナの幸せは、数えられていなかった。
それは、本当に愛情だったのだろうか。
呼び出された夕暮れの公園で、イハナに別れを告げられて、ほっとした。
もちろん、胸を掻きむしりたいほどに、寂しい。魂が見えたら、胸には穴が開いているだろうと思う。
本当の愛情かどうかなど放っておいて、いつものように抱きしめて、花のような匂いをかいだら、ティエドは十分満たされるはずだ。
伸ばしそうな手を押さえ込んだのは、自分のもう片方の手だ。断じて、イハナの向こうでこちらを厳しく見据えていた、男の存在ではない。
二人を見送りながら、息が、苦しい。
イハナは、ティエドにとって、やはり、掌中の珠だった。
失う悲しみが、これほどだとは、ティエド自身だって、予想もしていなかった。
けれど。
足が、陸についた感覚があった。
これでもう、溺れてもがき苦しむことはない。
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「おめでとう、イハナ嬢。画期的な事業だよ。苦労も多かっただろう」
「ありがとう、ティエド様。たくさんの人に助けてもらいました。感無量です」
図書館を広く公共に利する場とする画期的な事業が、いくつもの高位貴族の後押しを得て発足し、その記念の催しで、ティエドは幸せそうに並び立つ二人に、祝いの言葉を送った。
子爵家子息はイハナと共に事業発足に欠かせない働きをしたとして、二人の婚約が認められた、その祝いも同時に。
「ティエド様にも、手厚い支援をいただいて。ありがとうございます」
「なに、こちらも仕事だ。共に、社会を良くしていこう。それが、私の商売へと返って来るのでね」
「ふふ、お返しできるように、頑張ります」
二年が経ち、ティエドはもう、イハナを見て息苦しさを感じることはない。
主役の二人を離れ、会場を回れば、気の置けない友人に、パートナーを放って大丈夫か、と揶揄された。強引に視線を誘導され、見れば、ティエドとお揃いを意識したドレスの姿勢の良い女性が、男女の混じったグループで、楽しげに酒盃を重ねている。
好きな味だったんだな、と、今度取り寄せる酒として記憶していると、友人に雑に肩を抱かれた。
「彼女とはそろそろ半年か? そろそろ本気かと思ったのに、冷えてきたのか?」
鬱陶しい部類の質問だが、悪気がないこともわかっている。
肩の腕を掴んで外し、ティエドは爽快な気分で返した。
「彼女は一人で楽しむのが好きなんだ。帰りは待ち合わせてるよ」
そんなの建前だろう、実は悲しんでいるんじゃないのか、とか、昔のゲロ甘ティエドはどこへいった、とか非難が浴びせられたが、躱しておく。
新しい恋人、イルマは、女剣士だ。
貴族家の出ながら、身体を鍛え、人の役に立つことを目指して、家を出て自立している。
商店の警備を依頼した関係で出会って一年。想いを告げあい、交際を始めて半年。
イルマは、自分で自分を支えられる女性だと、つくづく思う。ティエドの方が寂しくなって、焦ったこともあるほどだ。夜会の会場でだって、ティエドと別々に、友人と楽しむことも心から喜ぶ。
だが。
夜会の後、ティエドがイルマの髪に顔を埋め、立ち上る肌の香りに溺れることを。
時に甘えたくなって、ティエドからイルマに擦り寄りその黒い目に自ら溺れることを。
いつか水底に沈むなら、二人で共にと互いに覚悟を決めていることを。
二人だけが、知ればいい。
これが溺愛だと、僕だけが知ればいい。
登場人物名はフィンランド語から…
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