第10話 平穏な日和
翔太が俺の元に戻ってきて八月九日の朝。
俺は未だに眠っていた。翔太は俺より早く目覚め寝起きの目を擦りながら部屋の引き戸をスライドする。寝起きの感覚で廊下を進み、脱衣所の所にある洗面台まで行く。この家の洗面台の蛇口からはお湯が出ない。冷たい水で顔を洗った。夏場といっても寝起きに冷たい水は堪えたようで、だがそのおかげで翔太は完全に目が覚めたようだ。翔太は部屋着のままリビングに向かい、いつ起きるかわからない俺の為に朝食を作ってくれていた。冷蔵庫を開け朝食の献立を考えながら材料を選出する。
「朝食どうしようかな、僕に出来る簡単なものはぁ……。ベーコンエッグにしよう」
この間買った新しい卵を開けて卵二つと、空いてあるパックからベーコンを四枚取り出した。翔太は棚からフライパンを出し、IHコンロに乗せて加熱する。フライパンにサラダ油をひいてベーコンを二枚焼く。香ばしい匂いが流れ、ある程度焼けたら上に卵を一つ乗せて少し水を流す。最後に蓋をして二分位蒸し焼きにしたら完成。それをもう一回同じのを作り計二つ作った。
翔太は虐待を受けていた頃に家に両親が帰って来ない日が何日か続くことがあり、その度に簡単な料理を作っていたらしい。母親に材料が減っていることが気づかれた日にはその度に暴力を受けていたらしい。食べ物も与えずに自分で作ったら暴力とか理不尽だ。
翔太は作った料理にサランラップを掛け俺が起きて来るのを辛抱強く待っていた。だがお腹が空いていたのだろう。お腹が鳴り出した。翔太は俺を待つのに限界を感じ起こしに行った。俺の部屋の引き戸を勢いよく開けた。その大きな音は寝ている俺には微塵にも聴こえなかった。
「兄ちゃん、朝だよ。起きてよ」
翔太の声に俺は唸るだけで一向に起きようとしなかった。いくら声を掛けられても俺の反応は変わらない。痺れを切らした翔太は寝ている俺に馬乗りになり、俺の頬をつねった。だが寝たら自分で起きるまで起きない俺には効かなかった。それでも翔太は俺の頬つね続ける。しばらく、つね続けられると俺の携帯のアラームが鳴った。アラームの音に俺は起きた。鳴り響いている携帯のアラームを止める。寝ぼけていて俺の上に乗る翔太の存在に気づいていなかった。
起きようとするが身体が動かない。もしかしたら金縛りと思っていた。
「金縛りか!」
「兄ちゃん、何言ってんるの?もう朝だよ。起きて」
「あれ?翔太そこで何やってんの?」
「兄ちゃんが起きてこないから、起こしに来たんだよ」
「あぁすまんすまん。あれ?何か凄く頬が痛い」
俺はあくびをしながら身体を伸ばした。俺は顔を洗う為に洗面台ではなくキッチンに向かった。キッチンのシンクならお湯が出るからだ。お湯で顔を洗い、お湯だけあって少しだけ目覚めた。少し目覚めたことによってキッチンとリビングに香る香ばしい匂いに気が付く。鼻を犬のようにひくつかせながら、匂いに連れて歩いて行く。美味そうなベーコンエッグが二つ置いてあった。翔太は少し誇らしげに近寄ってきた。
「これ翔太が作ったのか?」
「うん、凄いでしょ」
「凄いなぁ翔太」
俺は翔太の頭を撫でて褒めた。翔太が作ってくれたベーコンエッグを温める為に綺麗な黄身の部分に穴をあけレンジで入れる。翔太の作った出来たての物を食べられなかったことに少し後悔し、温め終わった翔太手作りのベーコンエッグを食べた。
「お、美味いじゃん翔太」
「よかった」
「こんなに美味いならまた明日も作ってくれよ。いや明日とは言わずに毎日作って欲しいなぁ。俺朝は弱いから朝飯作るのしんどいし、翔太の朝飯また食べたいから」
「兄ちゃんが喜んでくれるなら」
俺の気持ちが通じ、翔太が今後の朝食を作ることが決まった。翔太に俺より早く起きてもらって朝食を作ってもらうのは流石に悪く思い早く起きることを決意した。朝食を食べ終わり、買い置きしてあったインスタントのコーヒーを淹れる。翔太にも朝食を作ってくれたお礼として砂糖を多く入れたコーヒーをあげた。それでも苦いのか翔太は舌をだして苦そうにしていた。俺は追加で少し砂糖を入れてあげた。それでようやく翔太はコーヒーを飲めた。
コーヒーで一息入れながらテレビの電源を入れる。入れて映ったすぐのチャンネルでは翔太行方不明のニュースが流れていた。警察は未だに情報を何も掴めていないようで少し安心した。そして相変わらず、翔太の両親の情報が一つも流れない。行方不明者が警察の子供だと世間に流れたら何か困ることでもあるのだろうか。だが、翔太のニュースが流れてからもう一週間以上は経っている。そろそろ、テレビでも取り扱いを止める頃だ。早くその時が来てくれればと願う。
コーヒーのカップを流し台に置きそのままにしておいた。俺はテレビのチャンネルを変えリビングで寝転ろび、新聞に目を通す。新聞では翔太の記事はもう出ていない。安堵し新聞を綴じると翔太が近寄ってきた。
「兄ちゃん、少し家掃除しない?」
「え、いやまだそんなに汚くないだろう」
「兄ちゃん、これは汚いって言うんだよ」
家の惨状はそこまで酷くない。さっき使ったコップをそのままにしたり、カップラーメンの空きカップはゴミ箱満帆に入っている。洗濯をし干して乾いた服、タオルなどは畳まずにそのまま置いてある。そして翔太が来てからは一回も吸ってないがそれまでに吸ったタバコの吸い殻が灰皿に溜まっている。掃除機を掛けたのだって一ヶ月前だ。そこまで汚くないはずだが。
「そんなに汚いか?」
「うん、言いにくいけど汚いよ」
「そうか……。仕方ないな、掃除するか」
重い腰を上げ廊下に出て陽太の部屋と俺の部屋のさらに奥にある物置き部屋から旧掃除機と新掃除機、後は適当に掃除に必要な物を取り出した。役割を分担し俺はリビングとそこに隣接するキッチンを担当し、翔太は俺の部屋と陽太の部屋と廊下を担当した。
まずは、散らばった洗濯し終え乾いた洗濯物を綺麗に畳み、翔太にそれぞれの部屋のタンスに容れといてもらう。床には何もなくなり掃除機を掛ける。新掃除機を翔太に渡し、俺は旧掃除機を使っている為、吸い込みが悪い。リビングからキッチンまで満遍なく掃除機をかけた。その後、キッチンにウィックルシートを掛ければ床は終わった。
翔太の方はどうだろうかと俺は翔太担当の方に向かった。翔太は今、俺の部屋を掃除しているようだ。翔太の邪魔をしないようにそっと引き戸を開き中を見る。翔太は俺のベットの横で正座をして、何かを読んでいる……。読んでいる。
「翔太ちょっと待った!」
俺は勢いよく引き戸を開け、翔太が手に持っている翔太が見てはいけない本を取り上げる。
「兄ちゃん、こういうの好きなんだ……」
「いや、そのこれは」
「別に兄ちゃんがそう言うの好きでも、僕は気にしないよ」
翔太は笑顔目に言っていたが苦笑いだった。俺はどうするべきなのかを考えた。このままこの状況で終わらせるのは流石に気まずくなる。どういえばいいのか。
「今の俺はもう他に目が行かない位、翔太のことを大切に思ってる」
「うん、嬉しい」
俺の本心をそのまま伝えた。翔太はまた笑ってくれた。今度は本当の笑顔で。俺はこの本を余すことなく捨てることを決意した。俺の生活は翔太がいれば満足だ。もう他は要らない。俺と翔太は再び掃除を開始した。
俺の腹が鳴った十二時丁度の頃、長かった掃除がようやく終わった。翔太も終わったのかリビングに入ってきた。翔太は綺麗になった床やテーブルの上やキッチンを見て絶賛してくれた。一回掃除を始めるととことんやる性格で隅から隅まで一切のホコリ、ゴミなく全てにおいて妥協なくやった。次に翔太が掃除した俺の部屋と陽太の部屋を見に行く。まずはおれの部屋から見る。
「お、滅茶苦茶綺麗になってるじゃん。本棚の漫画なんて綺麗に巻順に並べてくれてるし、あ、ごめん翔太。この部屋にもタバコの灰皿あったの忘れてた」
「もちろんそれも捨てておいたよ」
「お前は本当、よくできた弟だよ」
翔太の掃除に大絶賛した後、陽太の部屋も見に行く。陽太の部屋も全てが綺麗になっていたのだが、物の残量は変わっていなかった。
「あんまり物捨てなかったんだな」
「うん、少しでも陽太さんを感じられるように、物は捨てなかったんだ」
「ありがとう翔太」
俺は翔太の行いに涙が出そうになった。本当は翔太だって俺に陽太の思いを自分に向けて欲しいはずだ。でも俺を気遣って陽太を感じられるように物を残してくれた。俺がもう翔太の方に思いを寄せていることに翔太自身は気づいていない。でも翔太がしれくれたことは素直に嬉しかった。
陽太の綺麗になった部屋を一通り見て、再びリビングに戻る。時刻も昼過ぎという事で昼食を作ることにした。昼食と夕飯は俺が作り、翔太には少し手伝ってもらい、簡単に焼きそばを作った。時間も掛からずに食べ終わり、掃除したばっかのこともありすぐに洗って片付けた。その後しばらくの食休憩をとる。
三十分位の間、食休憩にテレビを見ていると翔太とは別に行方不明者誘拐の事件のニュースが流れてきた。だが、翔太のケースと同じで確証は出てないが虐待を受ける少年を女性が誘拐をして実質的には助けたようなニュースなのだが、その番組のコメンテーターは虐待云々を無視し只、誘拐した女性の話と酷評をしているだけで無性に腹がった。虐待をいたとされている親は涙ながらに「息子が帰ってきてなによりです」と言っていたがその少年は実際どう思っているのかは定かではなかった。
しかし、今同じ立場にいる俺だからそう思うだけであって、翔太を誘拐していなかったら俺もコメンテーターのように女性を批判するのかも知れない。実際どっちが悪いかなんて結局わからない。
「翔太は……。いや何でもないや」
「なんだよ、兄ちゃん最後まで言ってよ」
「なんでもないって」
翔太にもこのニュースについて訊こうとしたがその答えは決まってるようなものだ。翔太にとって親は憎む存在で誘拐犯は自分に救いの手を差し伸べた救世主だと思う。答えは聞かづともわかりきったことだった。逆に聞くのは翔太にとって悪い気がして言葉を止めた。
「そんなことより今日はどうするか。昨日買い物行ったばかりで材料はあるから買い物に行かなくていいし、何かしたいことあるか」
「うんそれなら、兄ちゃんと陽太さんの昔のアルバムが見たい。さっき掃除してる時に陽太さんの部屋で見つけたんだ」
「陽太の部屋にあったのか親が持っていったのかと思ってた。いいぜ、俺も見たいから見よう」
翔太は陽太の部屋から一冊のアルバムを持ってきた。アルバムは一冊しかなかったらしい。一ページを開くとそこは、俺と陽太の零才から二才までの同時期の写真が貼られていた。赤ちゃんの頃の陽太と俺は良く似ている。輪郭とかも全てが同じだ。懐かしいな、でもこう見ていくと俺と陽太が一緒に写っている写真がない。というか俺の写真が圧倒的に少なかった。
高校生位からは陽太以外の家族とはあんまり会話もしないで可愛げの少ない奴だったという自覚はあった。だがこれを見るとそれ以前の写真すらもない。小学校中学年位からの写真が一枚もなかった。今も当然のこと親からは嫌われ避けられているのだが、この頃から既に嫌われてたようだ。
翔太もアルバムを見て、それを察したのかアルバムをそっと閉じた。
「兄ちゃん、そのごめんなさい」
「ん?何かあったか?それよりも、この頃の陽太が可愛くて見てくれよ」
俺は翔太に罪の意識を感じられないように再びアルバムを開き、陽太の小学校三年生時の写真を見せた。
「この頃はずっと俺にくっ付いてきて可愛かったんだ」
「ふーん僕よりも?」
「も、もちろん翔太の方が可愛いよ」
翔太がそんなこと言うとは思っておらず、照れくさそうに言ってしまった。頬赤らめ〝翔太の方が可愛いよ”ってもはやあれだろ。口にはしたくないし、俺は断じてそいう趣味ではない。と思う……。
結局この日は翔太の為に特に何もしなかった。明日はもう少し翔太の為に何かをしようと思う。




