表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

五、破滅をもたらす者

          1

 その日は朝から雨が降っていた。

 しかし、そのホテルには雨にもかかわらず、人がひっきりなしに入っている。

 高崎市内でも高級の部類に入るそのホテルの前には、地元選出の総理大臣の名を記した立て看板が堂々と立っていた。

 その日は、久しぶりにお国入りした、総理大臣のパーティが開かれていた。

 ホテルの中でも一番大きなホールには、すでに大勢の男女がひしめきあっており、あちこちに置かれたテーブルには、様々な料理、各種の酒が所狭しと並んでいた。

 一段高い壇上では、後援会長や県知事、県内の主だった首長などが次から次へと、総理への賛辞を熱く弁じていた。

 「それでは、八木総理にお言葉をいただきます。」

 司会者がそう言うと、一層大きな拍手が起こり、それに迎えられるように一人の初老の男が壇上に上がってきた。

 「みなさん、本日は足元のお悪い中、このように大勢来ていただき、感謝に耐えません。」

 にこやかに語り出す総理の姿を見ようと、皆が壇上に顔を向けた。

 その中を、人々を縫うようにして、壇上に近づく男がいた。

 腹が異様に膨れた中年男だ。

 「あれ、代議士の川村さんじゃあない?」

 「不倫スキャンダルで辞任したあの…?」

 人々の間に中年男の川村に対するひそひそ話が伝播していった。

 皆が好奇の目でその男を見る。

 演壇の前まで進んだ川村は、壇上で挨拶する総理を見上げて、ニッコリ笑った。

 川村に気がついた八木は、怪訝そうな顔をした。

 周りにいたSPも様子の違う川村に気付き、警戒態勢をとった。

 川村が一歩近づく。

 秘書や後援会の若い者が川村の周りに集まり、川村をじっと見つめ、警戒した。その様子に、川村は怖気づくどころか、かえって高笑いを始めた。

 八木をはじめ、周りにいる者、会場に詰めかけた招待客たちも、一様に目を見張った。

 高笑いが終わったころ、川村の口から一言、漏れた。

 「夜の女王の祝福を」

 それを言い終わった瞬間、川村の腹が白く光った。

 それが、八木の見た最後の光だった。

 会場は川村を中心に大爆発を起こした。


 八木総理のパーティが開かれたホテルが、爆破されたの報は、すぐに官房長官の長門の元にもたらされた。

 「それで、総理は無事なのか?」

 長門は、秘書に襲いかからんばかりに身を乗り出し、叫んだ。

 「いえ、会場にいたほとんどの者が即死だったそうです。」

 「なんということだ。」

 長門は自分の椅子に落ちるように座ると、顔を両手で覆った。

 その体は小刻みに震えている。

 秘書の加賀は、突然の訃報に悲しみに打ちひしがれていると思った。

 「官房長官、今後のことを検討しませんと。」

 そう言われて、長門はやっと顔を上げた。

 「そうだな。まずは閣僚たちを招集してくれ。あと、幹事長と総務部長、国対委員長もだ。」

 そう指示されて、加賀はすぐに部屋から出ていった。

 一人残った長門は、雨にぬれる窓から外を眺めた。

 長門の口元に徐々に笑みが浮かんでくる。それはやがて声となって彼の口から漏れ出てきた。

 「そうか、じじいは死んだか。」

 顔一面が邪悪な色に染まっていた。

          2

 総理爆死は、新聞、テレビで大々的に報じられた。

 いまも、ワイドショーのリポーターが、事故現場の前に立って、興奮した面持ちでまくし立てていた。それを見ていた剣持は、リモコンのスイッチを切った。

 暗い画面に剣持と小田切の姿が映った。

 「大変なことになったな。」

 背もたれに自身を委ねると、剣持は机の上のタバコケースから、タバコを一本取り上げた。

 「永田町も慌ただしくなっているようです。」

 机の前に立ったまま、小田切は身体を剣持に向けた。

 「ふん、民友党の老人のうちのだれかが、後釜に座るだろう。」

 剣持の関心は政界のほうではなく、爆破事件そのものにあった。

 総理出席のパーティだ。それなりの警戒は敷かれていただろう。身体検査や持ち物検査も厳重になされたはずだ。

 それなのに、爆破事件が起きた。

 「どうやって、爆発物を持ち込んだんだ。」

 大きな疑問点であった。

 「公安の様子はどうだ?」

 剣持は、指の先でタバコを玩びながら、小田切に尋ねた。

 「やっきになって調査しているようです。実際、こうも立て続けに爆破事件が起きると、公安や警察の面目は丸つぶれですからね。」

 「われわれのもな。」

 渋面を作って剣持は、タバコに火を点けた。

 小田切も恐縮そうに身をすくめた。

 「瀬上君や彼女たちはどうしている?」

 「例の別荘で休んでいます。」

 「そうか。」

 瀬上を救出したあと、霧子たちは霧子が用意した別荘に避難した。しかし、奈美はいまだに姿を現していない。

 「壬生君からの連絡はまだないのか?」

 剣持はいまだに奈美を壬生真奈として扱っている。

 「はい。いまだに消息不明です。やられたのでしょうか?」

 小田切の心配そうな顔に、剣持は苦笑した。

 (奈美のことだ。そうむざむざやられはしまいが…)

 そう思っても多少の不安は胸に残った。それを落ち着かせるように、剣持はタバコを一服吸った。

 そんなとき、剣持の携帯が鳴った。取り出して見ると、メールが一通届いている。

 その宛先を見て、剣持の目が見開かれた。

 その様子を小田切は、何事かという目で見つめている。それを見て、剣持は何事もなかったように、携帯を仕舞った。

 「局長、なにかありましたか?」

 好奇心をにじませた口調で尋ねる小田切に、剣持はひとつ咳払いをした。

 「いや、なんでもない。それより事件の様子を詳しく調べてくれ。爆発前の人の出入り。荷物の持ち込み。あと、監視カメラも調べてみてくれ。」

 「わかりました。」

 小田切は軽く一礼すると、部屋を出ていった。

 一人になった剣持は、また携帯を取り出した。画面に映し出された宛名、「ANGEL」の文字。奈美からの連絡であった。

 『例の喫茶店で二十一時に』

 目を通した後、剣持はそのメールを削除した。


 それから二時間後、剣持は上野にある喫茶店の前に立っていた。

 奈美と三年ぶりに出会った、例の喫茶店だ。

 朝からの雨はすでに止んでいたが、空一面の雲が闇を濃くしていた。

 剣持は喫茶店のドアを開けた。

 中は相変わらず、客がいない。奈美の姿も見当たらない。

 (早かったか?)

 そう思って腕時計を見た。二十一時を指している。

 剣持は奥の席に座ると、さっそくマスターが水を持ってきた。

 「ブレンドをひとつ。」

 「かしこまりました。」

 そう言い残して、マスターはカウンターに去っていった。

 そこへ、客がひとり入ってきた。

 つばの大きな帽子に、白のジャケットと赤いスカート。帽子からは金髪が覗いている水商売風の女性だ。

 「おひとり?」

 その女性は剣持の席に近づくと、サングラスの奥から覗き込むようにして尋ねた。

 「いや、私は人を待っているので。」

 女性は真っ赤なルージュを塗った唇を軽く釣り上げながら、剣持の向かい側に座った。そして、帽子とサングラスを取った。

 「奈美…」

 剣持の知っている奈美とは、およそ違う格好に、剣持は唖然とした。

 「奈美、その恰好は…」

 「似合いますか?」

 いたずらっぽく笑う奈美の姿に、しばし見とれてしまった。

 「あまり、見つめないでください。恥ずかしいですから。」

 赤くなる奈美を見て、いつもの奈美を見て取った剣持は微笑んだ。

 「良く似合っているよ。奈美。」

 「そうですか。」

 「それで、私をここに呼び出した用件は?」

 すでに剣持は、いつもの調子に戻っている。それを見て、奈美の目も真剣になった。そこへ、マスターがやってくると、剣持の前にはコーヒーを、奈美の前には水を置いた。

 「何になさいますか?」

 笑顔もない顔で、注文(オーダー)を聞く。

 「じゃあ、私もブレンドを。」

 注文を聞くと、マスターはさっさとカウンターに戻った。

 マスターが去っていくと、奈美はすぐに剣持に顔を向けた。

 「まず、瀬上さんや霧子さんたちは無事ですか?」

 「ああ、いま霧子君が用意した別荘に、麻里江君たちといっしょに過ごしている。」

 「そう、よかった。」

 奈美は安心したように、ひとつ息を吐いた。

 「美樹君が奈美のことをとても心配していたよ。」

 「そうですか。」

 奈美の脳裏に美樹の心配顔が思い浮かんで、思わず微笑んだ。

 「それだけで、私を呼び出したわけではあるまい。」

 コーヒーカップを取り上げながら、剣持は奈美に尋ねた。

 「剣持さんは、瀬上さんのメモリースティックをご覧になりましたか?」

 「ああ、見た。」

 瀬上からのプレゼントである秘密箱の中に入っていたのは、メモリースティックが一本きりだった。剣持はそれを預かり、取引にはコピーしたものを使った。しかし、あの戦いでメモリースティックは溶けてしまったのだ。

 「私にも、見せていただけませんか?」

 「なにか気になることでも?」

 奈美の悩ましげな顔に、剣持の直感が働いた。

 「見せてもらってからお話しします。」

 「わかった。これから私の屋敷に行こう。」

 そこへ、マスターがコーヒーを持ってきた。

 「まずは、これを飲んでから。」

 ニッコリ笑うと、奈美はコーヒーに口をつけた。


 一時間後、剣持と奈美は特捜局のある屋敷に入った。

 剣持が水商売風の女性を連れ帰ったことに、屋敷にいる局員の間にどよめきが起きた。中でも驚いたのは、小田切であった。

 「局長、彼女は一体…?」

 「小田切、話はあとだ。局長室には誰も近づけないようにしろ。」

 そう命令して、剣持と奈美は局長室に入っていった。

 それを見送る小田切は、しばらく呆然と立っていた。

 部屋に入った剣持は、奈美をソファに座らせ、自分の机の前に立った。机の鍵を開け、中からメモリースティックを取り出すと、傍らにあるパソコンにそれを装着した。

 いくつかのスイッチを入れると、壁にかかった絵が白くなり、料亭らしき画像が映し出された。

 「都内でも老舗の料亭だ。」

 しばらくすると、黒塗りのベンツが到着した。中から降りてきたのは、精悍な顔つきの男であった。

 「陸上防衛隊の陸奥中佐だ。」

 「陸奥…」

 奈美は食い入るように画面を見つめた。

 陸奥が料亭の中に入ったあと、数分後に同じ黒塗りのクラウンが到着した。今度は銀髪の初老の男だ。

 「民友党の熊野だ。タカ派で知られている。」

 解説する剣持に、奈美はひとつひとつ頷いていった。

 そのあと、同じ画像が流れたために、剣持は早送りをした。

 「止めてください。」

 奈美が突然、叫んだ。

 「この人は?」

 料亭から中年の見知らぬ男が出てきた。そのあとに、民友党の熊野が出てきて、それに対してさかんに頭を下げている。

 「抜け目なさそうな男ね。」

 奈美が、見たまま感想を述べた。

 「この男については、いま調べている最中だ。」

 「そうですか。続けてください。」

 奈美に促されて、再生のスイッチが押された。

 熊野を見送った後、陸奥も出てきて、それに対しても、男は同じように頭を下げ続けていた。やがて、陸奥も見送ると、男は嘲笑を浮かべながら、料亭から去っていく。カメラはそれを追っていく。

 少し歩いた先に、一台のシーマが停まっていた。

 男は迷わず、シーマに近寄ると、後部座席の窓が開いた。

 中の人間となにやら話している。しかし、男が邪魔で中の人間は確認できなかった。

 「誰と話しているのかしら。」

 「わからん。顔は確認できなかった。」

 剣持は残念そうな顔をした。

 男は話が終わったのか、シーマから離れた。それと同時にシーマも走り始めた。

 そのとき、一瞬、後部座席に座る男の顔が見えた。

 それを見て、奈美は目を見張った。

 (史郎…)

 シーマはすぐに画面から消えた。

 「動画はここまでだ。音声データもあるが聞くかね。」

 剣持の問いに奈美の返答がないのに、剣持は不振に思った。

 見ると、奈美はモニターを見つめたまま、心ここにあらずという様子を見せていた。

 「奈美」

 剣持の何度かの呼びかけに、奈美はようやく剣持の方を振り返った。

 「あ、すみません。何でしたでしょうか?」

 あきらかに剣持の言葉が耳に入っていない。

 「音声データも聞いてみるかね、と言ったんだが。」

 剣持は苦笑とともに、奈美のただならぬ様子が気にかかった。

 「いえ、結構です。」

 そう答える奈美に、あきらかに何かの迷いがあるのが、剣持には見て取れた。

 「奈美、画像に映っていた人物に心当たりがあるんじゃあないのか?」

 その言葉は奈美の心を突いたらしく、奈美は剣持の顔をまっすぐ見つめた。

 「剣持さん、アルフィスエンタープライズのその後のことは掴んでいるのですか?」

 「アルフィスエンタープライズ?あれは三年前の手入れの後、倒産しているが。」

 剣持は奈美の質問の意図を察した。

 「もしかして、あの車に乗っていた人物とは?」

 「元アルフィスエンタープライズの事業推進室長、面史郎です。」

 その名前には聞き覚えがあった。

 三年前、アルフィスエンタープライズを使って、日本乗っ取りを画策した主要人物の名だ。

 「確かなのか?」

 「確かです。あの顔は忘れません。」

 奈美の胸の中で微かな痛みが生じた。

 「では、陸上防衛隊のクーデター計画の裏に、面史郎が関わっているというのか!?」

 奈美は黙ってうなずいた。

 それを見て、剣持は考え込んだ。

 「まさか、一連の爆破事件も関連が…」

 「剣持さん、アルフィスエンタープライズに係わった人たちのその後を調査してください。」

 「わかった。」

 そう答えると、剣持は机の上のインターフォンを押し、小田切を呼んだ。

          3

 「ああ、退屈!」

 美樹が突然、叫んだ。

 倉庫から脱出して三日、四人は山の中の別荘でどこへも出られず、悶々とした毎日を過ごしていた。

 「少しは大人しくしたら?」

 霧子が新聞を読みながら美樹を叱責した。

 「一言もなく、こんなところに連れてきた人の言い草?」

 美樹は頬を膨らませながら霧子を睨みつけた。そんな二人のやり取りを麻里江は呆れた面持ちで聞いていた。

 だが、一番落ち着かないのは瀬上であった。

 拉致され、拷問され、その上、命の危険にもあった。自分の巻いた種とは言え、かなり精神的にまいっていた。

 「ねえ、いつまでここにいればいいの?」

 「落ち着くまでよ。」

 同じ質問に同じ答え。みんなが飽き飽きしていた。

 「ほんとのところ、いつまでこうしているんだい。」

 瀬上が切羽詰まったような表情で尋ねた。

 「あなたをアメリカに連れて行くのは、奈美と一緒にという条件なのよ。奈美がいない以上、今の段階でアメリカに連れて行くのは無理ね。」

 奈美という名前が出ても、瀬上はピンとこなかった。それを見て、霧子は瀬上が奈美のことを、いまだにホステスのリエと思っていることに気付いた。

 「その奈美という女性と一緒じゃないと、なぜいけないんだ?」

 「それは私も思ってた。」

 美樹が横から瀬上の疑問に合わせた。

 「それは…、大人の事情よ。」

 苦しい言い訳に二人は当然、納得しない。

 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

 これ幸いと霧子が玄関に向かった。

 玄関を開けると、そこにいたのは奈美であった。

 「な・奈美!」

 幽霊でも見たような顔で霧子が思わず叫んだ。その反応に奈美の方もびっくりした。

 「どうしたの?」

 「え、奈美さん!」

 「おねえさん!」

 霧子の声を聞いて、麻里江と美樹が玄関に押し寄せた。

 三人の顔を見比べて、奈美はニッコリと笑った。

 「ご無沙汰。」

 「ご無沙汰じゃあないよ。心配したんだからね。」

 美樹は奈美の手を取ると、引っ張るように中に入れた。

 リビングに連れてこられると、そこにいた瀬上も奈美の顔を見て、びっくりした表情を見せた。

 「リ・リエ!」

 ホステス時代の源氏名を呼ばれて、奈美は苦笑した。

 「なに、言ってるの。瀬上さん。このおねえさんは奈美さんというんだよ。」

 「え、奈美?」

 先ほど話題になっていた奈美というのが、リエだったことに瀬上は更に驚いた。

 「とにかく、座って。奈美。」

 霧子が勧めるのを、奈美は首を横に振って断った。

 「霧子さん、二人っきりでお話があるの。」

 まっすぐ見つめる奈美の目に、霧子はあまりいい話ではないなと感じた。

 「そう、じゃあ、二階にいきましょ。みんなはここで待ってて。」

 有無を言わせぬ迫力に、三人は黙って従った。

 二階に上がった奈美と霧子は、だれも使っていない部屋に入った。

 窓からは緑に染まった山々が望める。

 「きれいね。」

 感動している奈美の後ろに立った霧子は、腕組みをしてすぐに切り出した。

 「で、話って。」

 「アメリカ行きをもう少し伸ばしてもらえる?」

 振り向きながら笑顔で言う奈美に、霧子は渋い顔を作った。

 「今度はなに?」

 多少、イラついた言葉使いで尋ねる。

 「やることができたの。」

 「やること?」

 「決着と言ってもいいわ。」

 その言葉に霧子の脳裏に史郎の映像が浮かんだ。

 「決着って、面史郎のこと?」

 霧子の勘の良さに多少驚きながらも、奈美は軽くうなずいた。

 「最初は史郎から離れるために、私の申し出を受けたんじゃあないの?」

 その言葉に奈美はもっと驚いた。

 「どうしてそれを?」

 「あなたと史郎の関係を多少知っていれば、推理できることよ。」

 霧子は奈美の隣に移動すると、同じように外の景色を眺めた。

 「怖い人ね。霧子さん。」

 奈美も同じ方向を向いた。

 「それで決着をつけるって、戦うってこと?」

 「そうかもしれない。」

 「は、成り行きまかせ?」

 皮肉っぽく言う霧子の言葉に、奈美は思わず苦笑した。

 「とにかく、もうしばらく待って。必ずあなたとアメリカに行く。」

 硬い決心が見える奈美の目に、嘘はないと霧子は思った。

 「いいわ。私も付き合ってあげる。」

 「付き合うって?」

 「このまま逃げられたんじゃあ、私のメンツがつぶれるからね。」

 霧子の言葉に奈美は笑顔で返した。

 「もうひとつ。瀬上さんだけ、先にアメリカに逃がして。」

 「それって、虫がよすぎない?」

 「私の信用を得るためにも、そうしたほうがいいじゃあない。」

 したたかな奈美の言い草に、霧子は呆れたように手を上げた。

 「いいわ。あなたの信用を得ることは大事なことだから。」

 「ありがとう。」


 二人が二階から降りてくると、さっそく美樹が近寄ってきた。

 「ねえ、二人で何の話をしていたの?」

 好奇心むき出しで尋ねてくる。

 「大人の話よ。」

 霧子がとぼけた。

 それを横目に奈美はソファに座る瀬上のそばに寄り、その隣に座った。

 「いろいろと苦労したようね。」

 労わるように語りかける奈美に、瀬上は頬を赤らめた。

 「ま、ちょっと大変だったけどね。」

 頭を掻く瀬上の顔には、まだ尋問の跡が残っていた。それを奈美はそっとなでる。

 「痛む?」

 「大丈夫。」

 気丈に答える瀬上を見て、奈美は微笑んだ。

 「瀬上さん、霧子さんがアメリカに連れて行ってくれるわ。」

 「え?」

 思わず瀬上は霧子の顔を見た。

 「本当よ。当局が本国での生活の一切を面倒みるわ。」

 自信に溢れた顔つきに、瀬上は奈美の方を向いた。

 「じゃあ、リエもいっしょに…?」

 「私は一緒にいけない。でも、必ず行くから向こうで待ってて。」

 静かに語りかける奈美に、瀬上はその両肩に手をかけた。

 「本当に来るんだね。」

 「ええ」

 微笑んで答える奈美の顔を見て、瀬上は意を決したように口を開いた。

 「向こうに行ったら一緒になってくれるか?」

 その言葉に霧子、麻里江、美樹の三人は同時に驚いた。しかし、奈美は冷静に受け止めていた。

 「ええ、いいわ。向こうで一緒に暮らしましょう。」

 奈美の返答に瀬上は、満面に喜びを表した。

 「霧子さん、それでいつ、アメリカに行くんですか?」

 明らかに幸せそうな顔つきで、瀬上は霧子に尋ねた。

 「いろいろ準備もあるから二・三日待って。」

 少し呆れたような顔で答えていると、奈美が立ち上がった。

 「じゃ、アメリカで。」

 そう言い残して、奈美はリビングから出ていこうとし、霧子もその後について行こうとした。

 「ちょっと待ってよ。二人だけで話を盛り上げないでくれる。あたしたちはどうなるのよ。」

 美樹が興奮気味に叫んだ。

 「あなたたちは、自分の帰る場所に帰ったらいいでしょ。」

 霧子が冷たく返した。

 「なんだよ、それ。」

 「奈美さん、私に約束しましたよね。なにもかも話してくれるって。」

 麻里江も美樹の横に並んで、奈美に向って叫んだ。

 何も答えず、奈美は玄関に向かった。

 奈美と霧子は共に別荘から外に出た。外には奈美が乗ってきたフェアレディがある。

 「待ってください。奈美さん。」

 麻里江も外に走り出てきた。

 「奈美さん、約束通り瀬上さんを救出しました。奈美さんも約束を守って、話してください。」

 その訴えに、奈美の歩みが止まり、麻里江の方に体を向けた。

 「麻里江さん、約束を守れなくてごめんなさい。」

 そう言うと、フェアレディに急いで乗り込んだ。霧子も助手席に乗り込んできた。奈美は少し驚いた顔をしたが、かまわずエンジンをかけた。

 フェアレディは、麻里江を残して走り去っていった。

 「いいの、あんなこと言って。」

 前を見ながら、霧子がポツンと言った。

 「いいのよ。」

 「また、約束を破ることになるかもしれないわよ。」

 「その時はそのとき。ところでなぜ、あなたが同乗するの?」

 奈美が迷惑そうな顔をして、横目で霧子を睨んだ。

 「付き合うって言ったでしょ。」

 霧子が笑いながら言った。それに奈美も釣られて笑った。

 フェアレディは一路、剣持の屋敷に向かう。

         4

 そこは、オフィス・ワンが入っているビルの最上階。社長室と呼ばれる場所。

 普段は社長が座る椅子に、左京が座っていた。目の前のソファには同じアリエス4のエマとコウがいる。

 「ナルが倒された!?」

 緑の髪を振り乱して立ち上がったエマは、左京を睨みつけながら叫んだ。

 「なにかの冗談?」

 紫の髪をいじりながらコウは、ナルの訃報を信じようとしなかった。

 「残念だけど、冗談でも、誤報でもないわ。」

 左京は冷静な口調で、二人を交互に見た。

 「だれにやられたの!?」

 エマは左京に襲い掛からんとするほどの勢いで、左京の前にある机に歩みよった。

 「少し落ち着くジャン。エマ。」

 「これが落ち着いていられる。コウ。」

 普段、冷静なエマがこれほど興奮するとは、ナルが倒されたことがよほどショックのようだと、左京は思った。

 「倒した相手は、どうやら捜査局の人間のようです。そうですね。樹魔。」

 左京はどこかへ向かって語りかけた。

 二人は左京の行動を不思議そうに見ながら、左京の視線の先に目を移した。そこにあるのは、テーブルの上に置いてある花瓶に挿された、一本のテッポウユリである。

 「そのようです。」

 テッポウユリが突然、しゃべりだした。

 二人はこの出来事に目を見張った。

 「阿賀野が人質と交換に、クーデター計画の証拠を手にいれようとしたとき、捜査局の女との戦いに、無断で参加して倒されました。」

 「無断で?」

 左京の眉間に皺が寄った。

 「私は見てるだけと、釘を刺したのですが…」

 「樹魔の言うことを聞かなかったのですか?ナルらしいと言えばナルらしいですね。」

 左京の口に苦い笑いが浮かんだ。

 「しかし、ただの人間にナルほどの者が倒されるとは、信じられない。」

 エマの疑念に、テッポウユリは答えなかった。

 「ナルのことです。油断したのでしょう。」

 左京が代わりに答えた。

 「サキ、私が行ってナルの仇をとる。許可をください。」

 エマはまた、左京の方に顔を向けると、怒りに燃える目で訴えた。

 「エマ、アリエス4にはまだまだしなければならない仕事があります。故人の仇を取る時間はありません。」

 ぴしゃりと言う左京の冷淡さに、エマは不満げな顔を見せた。コウは相変わらず紫の髪をいじっている。

 「二人は次のコンサートの準備にかかりなさい。ナルのことは病気とでも公表しましょう。」

 「ハ~イ」

 コウが気の無い返事をして立ち上がった。エマもしぶしぶ机から離れた。

 エマは何度も左京を見返しながら、コウとともに部屋から出ていった。

 「ふ~」

 「お疲れのようですね。左京様。」

 テッポウユリが心配そうに、左京に語りかけた。

 「樹魔」

 「はい?」

 「捜査局の女は、本当にただの人間ですか?」

 左京の問いに、テッポウユリはしばし沈黙した。

 「たぶん、違うと思います。」

 その答えに左京の中で不安が膨らんだ。

 「陰陽師ですか?」

 左京は、自分たちを探っている陰陽師の女を想像した。

 「それとは違うでしょうが、仲間であることは確かです。」

 正体不明の女の出現は、左京の不安を更に増長させた。

 「その女の正体を探ってくれませんか?樹魔。」

 「わかりました。」

 そう答えると、テッポウユリの花がテーブルに落ちた。

 しばしの静寂が広がる。

 「夜叉丸はいる?」

 左京がつぶやくように呼ぶと、左京の背後に片膝を着いて夜叉丸が現れた。

 「御用ですか?左京様。」

 「お前も女の正体を探ってくれますか?」

 その命令に夜叉丸の顔があがった。

 「樹魔とともにですか?」

 「お前はお前で、独自に探っておくれ。そして、私にだけ報告しておくれ。」

 夜叉丸はしばし、左京の背中を見つめた。

 「わかりました。」

 そう言い残すと、夜叉丸は音もなく消えた。

 一人残った左京は、頭をかかえたままいつまでも動かなかった。

          5

 北陸にある蓮堂の屋敷。その奥まった座敷にここ一か月、蓮堂は籠っていた。文机(ふみつくえ)の上に紋様の書いた紙を広げ、自身の周りには様々な書物、古文書などが散らばっている。

 蓮堂は机に広げた紙を見つめてほくそ笑んでいた。

 「紋様の意味はこういうことか。」

 その目に邪悪な光が宿っていた。

 「あいかわらずじゃの。蓮堂。」

 突然、後から声が響いてきた。

 驚いた蓮堂はその声の方向に顔を向けた。

 「だれじゃ!」

 片膝を立て、身構えた蓮堂の目の先に、鶴が描かれた襖があり、その前にいつの間にか老人が座っていた。

 「おぬしは…」

 蓮堂の目が殺気立つ。

 灰色の髪を肩まで垂らし、鼠色の作務衣を着たその老人は、顔を上げ、蓮堂を見てニヤリと笑った。

 「一別以来じゃな。蓮堂。」

 「果心居士!?」

 「いまは無明と名乗っておる。」

 「無明?」

 蓮堂の殺気はまだ消えていない。

 「何用じゃ。果心居士、いや無明。」

 「取引に来たのじゃ。蓮堂」

 「取引?」

 蓮堂には、無明の言葉の意図が(はか)れなかった。

 「わしに協力すれば、おぬしの望みをかなえようぞ。」

 「協力?」

 「いまだにおぬしは、野望を捨てきれていないのじゃろ。」

 無明の見えぬ目が笑った。それに対して蓮堂の表情は硬い。しかし、自分と争いにきたのではないと判断したのか、蓮堂は正座し直し、殺気も収めた。警戒心は残したまま。

 「野望?なんのことじゃ。無明。」

 老人同士の奇妙な会話が始まった。

 「日の本を霊的に支配するというあれじゃよ。」

 「それは、陰陽界全体の悲願じゃ。」

 それを聞いて、無明が「くくく」と小さく笑った。

 「何がおかしい。」

 蓮堂の額に怒りの皺が寄った。

 「陰陽界全体じゃあなかろう。おのれ一人が支配するためじゃろ。」

 「なにをバカな。」

 蓮堂は、無明の言葉を否定するようにそっぽを向いた。

 「土御門や幸徳井なんぞの下に、いつまでもおるようなおぬしじゃあなかろう。蓮堂?」

 無明の言葉に、蓮堂の中で動揺が走った。

 「二人を廃し、陰陽界、ゆくゆくは日の本の霊的支配をする。そのために今回の件に首を突っ込んできたんじゃろ。」

 蓮堂が無明の方に顔を向け、ニヤリと笑った。

 「そして、わしが紋様の謎に気付いたと見て、接触してきたのか?無明。」

 「そのとおりじゃ。」

 無明はあっさりと肯定した。

 それを聞いて、蓮堂は机の上の紙を取り上げ、無明の前に投げ出した。

 「それを黙っているかわりに、わしになにをくれるというのじゃ?」

 蓮堂の言葉に、無明の口の端が吊り上った。

 「新しき日の本ができた時に、その霊的支配一切をそなたに進ぜよう。」

 「それを信用しろと?」

 疑心の目で蓮堂は無明を睨んだ。

 「証拠に、邪魔者二人、片付けて進ぜよう。」

 その言葉の意味に、蓮堂は目を見張った。

 「そのようなこと、できるはずもない。」

 「まあ、見てるがよい。また、来る。」

 そう言い残して、無明の姿は不意に掻き消えた。

 あとに残された蓮堂は、投げ出された紙を拾い上げ、それを見ながらまた、邪悪な笑いを浮かべた。


 蓮堂と無明が北陸で会見してから二日後。

 京都の一角にある料亭を、羽織姿の土御門保春が尋ねた。

 「いらっしゃまし。」

 女将とおぼしき中年女性が、玄関に出迎えた。

 「達者か?女将。」

 「はい、この通り。」

 静かな笑顔で答える女将は、保春の前に立って座敷に案内した。

 いつもの座敷に通され、保春は落ち着いた気持ちで座った。

 「ただいま、料理をお持ちします。」

 女将が頭を下げて、引き下がると、遠くで獅子脅しの音が聞こえた。

 ほどなく料理と酒が運ばれ、女将が保春に酌をした。

 「もうすぐ、雪千代もまいりますんで。」

 そう言って、女将はまた引き下がっていった。

 一人となった保春は、酒を飲みながら京料理を楽しむ。

 保春にとって数少ない至福の時間であった。

 そのとき、突然明かりが消えた。

 「む、停電か?」

 辺りを見回していると、怪しげな気が襖の間から流れてきた。

 「なにものだ。」

 襖の向こうを睨みつけると、それに呼応して襖が独りでに開いた。

 その奥に、二匹の鬼がいる。

 「む!」

 保春は驚きもせず、静かに盃を卓に置いた。

 鬼は目を爛々と輝かせて、保春に近づいてくる。

 「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」

 保春は静かに九字を唱えると、懐に右手を入れた。

 一匹がいきなり襲い掛かった。

 保春は眼前で九字を切る。

 鬼は見えない壁に当ったように、保春の前で跳ね返された。

 もう一匹が回り込んで、保春の右側から襲い掛かった。

 保春の懐から右手が跳ねる。

 その手から一枚の札が放たれた。

 札は鬼の額に張り付くと、急に大きくなり、鬼を包み込んだ。そのまま床に落ちると、あっという間に小さな紙の玉になった。

 跳ね返された鬼は、立ち上がるともう一度、保春に飛びかかった。

 冷静な保春は、卓の上の箸をとり上がると、それを鬼に向って投げつけた。

 箸は鬼の額に当り、そのままひっくり返って、畳のうえに転がっていった。

 二匹をあっという間に片付けた保春は、次の攻撃に備えて、周りに気を配った。

 ほどなく、座敷の明かりが点いた。

 座敷は何事もなかったように静かであり、鬼の遺骸も消え失せていた。残っていたのは、箸が刺さった一枚の札であった。

 それを取り上げると、保春は軽く笑って、その札を破り捨てた。

 「どうなさいました。」

 物音を聞きつけたのか、女将が心配顔でやってきた。

 「いや、なんでもない。それより雪千代は?」

 「はい、このとおり。」

 女将の後ろから美しい芸者が姿を現した。

 「雪千代です。」

 そう言って、深々と頭を下げた。

 「待っていた。」

 雪千代が座敷に上がるのを見届けて、女将は引き下がっていった。

 「どうぞ、一献。」

 さっそく雪千代は保春に酒をすすめた。保春も素直に盃を手にした。

 「なにか、あったんですか?」

 「なに、座興だ。」

 笑いながら保春は、盃を一気に干した。

 「さ、返杯だ。」

 そう言って、徳利を取り上げた。

 雪千代は、保春のそばに進みよると、盃を差し出した。

 「今日はいつになく、積極的だな。」

 肌が触れ合うほどの近くに寄り、盃を口にする雪千代を見て、保春の目が無警戒になった。

 「どうぞ。もうひとつ。」

 雪千代が更に酒を勧めた。

 勧められるまま盃を傾ける保春に向って、雪千代がひとこと言った。

 「夜の女王に祝福を。」

 「ん?」

 その意味を知る前に、雪千代の体が白く光り、保春を巻き込んで爆発した。


 同じ頃、目黒の幸徳井の屋敷の前に一人の女性が立った。

 青いパーカーに、ジーンズ姿のその女性は、黒のキャップを目の下まで下げて、顔をあまり見せないようにしていた。

 玄関のベルを押すと、中から声がかかった。

 「どちら様でしょうか?」

 「翔です。」

 その名前を聞いて、引き戸が急いで開けられた。

 景明の弟子が目の前に立っており、女性を品定めするように見つめた。

 「ただいま戻りました。」

 そう言うと、女性は深く被っていた帽子を上げ、自分の顔を見せた。

 「翔様!」

 翔であることを確認すると、弟子は急いで奥に駆けていった。

 まもなく、景明が姿を現した。

 「翔!」

 「ご心配かけました。」

 翔は軽く頭を下げた。

 「とにかく、あがりなさい。」

 景明に促されるまま、翔は屋敷に中に入っていった。

 奥の座敷に案内された翔は、障子の前に立ったまま、すぐに中へ入ろうとしなかった。

 「どうした?入りなさい。遠慮することはなかろう。」

 「では、失礼します。」

 翔は、座敷の中に入ると、下座のそれも角側に座った。それを見て、景明は口元に笑みを浮かべた。

 「あいかわらずだな。翔。」

 「恐れ入ります。」

 翔は被っていたキャップを脱ぎ、今一度深く頭を下げた。

 「堅苦しい挨拶はよい。それよりいままでどうしていたんだ。」

 「敵に捕らわれ、監禁されていました。なんとか隙を見て、逃げ出しましたが、追っ手をまくのに手間取りました。」

 そう言いながら頭を上げ、景明に見せた翔の顔は、青白く、目の下にはクマがくっきりと浮かんでいた。

 「やつれたな。翔。」

 「たいしたことはありません。それより景明様。急ぎお知らせしたきことがあります。」

 「急ぎの…?」

 翔の真剣な眼差しに、景明の中に緊張が走った。

 「一体なんだ?」

 「……」

 翔の口が動いたが、あまりに小さく良く聞き取れない。

 「何と言ったのだ?翔。」

 「おそばに寄ってもよろしいですか?あまり、大きな声では言えませんので。」

 「おお、そばに寄れ。」

 景明が手招きすると、翔は正座したまま両の拳を使って、景明の横ににじり寄った。

 「景明様…」

 翔が景明に顔を向けた時、景明の鼻腔に香水の匂いが届いた。

 「翔、おまえ、香水をつけているのか?」

 景明は訝しがった。

 「はい、景明様に喜んでもらおうと思いまして。」

 そう言うと、翔はいきなり景明に抱きついた。

 「翔!いきなりなんだ?」

 「景明様、お慕い申し上げていました。」

 およそ翔の口から出るとは思えない言葉が出たことにより、景明の中で混乱が生じた。

 そこに隙ができた。

 景明が抱きつく翔を体から離そうとしたとき、翔の右手が背中にまわり、腰に差してあった短刀を引き抜いた。

 間髪を入れず、翔の短刀が景明の腹部に深々と突き刺さった。

 「ぐっ!」

 すぐさま景明から翔の体が離れた。同時に腹部に刺さった短刀も引き抜かれた。

 鮮血が畳の上に飛び散る。

 目の前で翔が笑っていた。

 「翔、なぜだ?」

 座敷の物音に、何事かを感じた弟子達が駆けつけてきた。

 「どうしました?」

 障子を開けた刹那、翔の体が風になった。

 二人の弟子の間を通り抜けると、弟子達の首から鮮血が迸った。

 二人は、何が起こったかわからぬまま、折り重なるように倒れた。

 それを見て、翔は腰の鞘に短刀を収めた。そして、倒れている景明のほうに顔を向けた。

 そこには邪悪な笑みを浮かべる、景明が見たこともない翔がいた。

 「翔…」

 震える手を差し伸べる景明を無視して、翔はその場から去っていった。

 意識が朦朧(もうろう)とする中、景明は自分の血で何かを書きはじめた。しかし、途中で力尽き、そのまま動かなくなった。


 「なに!保春殿が!?」

 蓮堂は電話を握ったまま、その場に立ちつくした。

 京都の土御門に使える者からの連絡であった。

 土御門保春が爆死した。

 その報告は、蓮堂には信じられなかった。土御門ともあろう者がやすやすとやられるとは思えない。

 蓮堂は、電話の向こうで何かしゃべっているのを無視し、受話器を置いた。

 何かのまちがい。それとも罠か。

 蓮堂は今、混乱していた。

 「約束通り、片付けてやったぞ。」

 突然、廊下の奥から不気味な声が、蓮堂に届いた。

 その方向に視線を走らせると、廊下の奥に無明が座っていた。

 「果心居士!」

 「無明ぞ。」

 昔の名前で呼ばれたことに、無明はいやな顔をした。

 「いつのまに。」

 蓮堂は思わず身構えた。

 「この間の約束を果たしたと、伝えに来たのじゃ。」

 また、抑えた笑いを上げて、見えぬ目を蓮堂に向けた。

 「約束とは、まさか、景明殿も?」

 「一両日中には連絡がくるじゃろ。」

 その言葉に蓮堂は恐怖を感じた。

 「蓮堂、約束は守った。そちも約束を守れよ。」

 静かだが、威圧感のある言葉だった。蓮堂は一言も言い返せなかった。

 「あの女子(おなご)も引き上げさせろ。死なせたくはなかろ。」

 蓮堂の脳裏に麻里江の顔が浮かんだ。

 「無明、おまえは何をしようというのだ。」

 「新しき日の本を作る。」

 「新しき日の本。」

 無明の言っている意味が、蓮堂には理解できない。

 「蓮堂、新しき日の本において、お主が唯一の陰陽師じゃ。」

 「まことか!?」

 蓮堂の目が輝きだした。

 「これから起こることを黙って見ておれ。」

 そう言い残すと、無明の体が徐々に透き通り、やがて消えてなくなった。

 「新しき日の本のか…」

 蓮堂の唇に邪悪な笑みが浮かんだ。そのとき、電話が鳴った。

           6

 瀬上は少ない荷物をボストンバックに入れると、あらためて部屋を見回した。たった数日間の住まいだったが、出るとなるとなんとなく名残惜しい。しかし、アメリカに行けばリエとの新しい生活が待っている。

 期待に胸が膨らむ。

 瀬上はバックを持って部屋を出ると、顎髭のラテン系男が待っていた。

 「フェルナンドといいます。アメリカまでの道案内をしますので、どうぞ、よろしく。」

 流暢な日本語で挨拶をするフェルナンドを見て、瀬上は多少驚いた。

 「日本語が上手なんですね。」

 「日本が長いですからね。あ、バック持ちましょう。」

 そう言って、バックを受け取るとさっさと玄関に向かった。

 外に出ると、2台の車が停まっていた。

 その前には麻里江と美樹が立っていた。

 「いよいよ、お別れだね。」

 「気をつけて行って来てください。」

 麻里江が手を差し出すと、瀬上は素直に握った。

 「いろいろお世話になりました。お元気で。」

 二人に礼を言うと、瀬上はBMWのほうに乗った。フェルナンドが二人にウィンクすると運転席に乗り込み、BMWはほどなく走り出した。

 「いっちゃったね。」

 見送る美樹は、少しさびしそうに言った。

 「さ、私たちも行きましょう。」

 振り切るように、麻里江はもう一台のエスティマのほうに乗った。

 「どこへ行きますか?」

 乗り込むと運転席の男が尋ねてきた。

 「幸徳井景明様の屋敷にお願いします。」

 「幸徳井?場所はどこですか?」

 麻里江は思わず苦笑した。

 「目黒です。」

 麻里江は詳しく幸徳井の屋敷の住所を教えた。

 「わかりました。」

 運転手はエンジンをかけると、ギアを入れ、別荘を後にした。

 

 一時間あまり走ると、エスティマは幸徳井の屋敷の前に着いた。

 「おや?なんだろう。」

 運転手が屋敷の手前で車を停めた。

 「どうかしましたか?」

 麻里江が運転手に尋ねた。

 「警察がいます。」

 「警察?」

 麻里江と美樹は、運転手が見ている先に目を移した。たしかに、警察官が門の前に立っており、門には規制線が貼ってあった。

 麻里江と美樹は車から降りると、屋敷の前に駆け寄った。そして、門の中に入ろうとすると、警官が制止した。

 「こらこら、はいっちゃいかん。」

 「なにがあったんですか?」

 麻里江が警官に聞いた。

 「君たちは?」

 「この家の知り合いです。」

 「知り合い?」

 警官は二人をじろじろと見た。

 「この屋敷で昨日、事件が起きたんだ。現場維持のために入ってはいかん。」

 「事件!?」

 二人は顔を見合わせた。

 「事件って、幸徳井様がどうかしたんですか?」

 「殺されたんだ。」

 警官の衝撃的な言葉に、二人は声を失った。

 

 エスティマに戻った二人に運転手が尋ねてきた。

 「これからどうしますか?」

 押し黙ったままの二人に、運転手は困った顔をした。

 「麻里江、ほんとにどうする?」

 「一体、なにが起こったのかがまるでわからない。とにかく、情報を得ないことには…。」

 麻里江は額に指を当てて、考え込んだ。

 「情報を得るって、当てはあるのかい?」

 「とにかく、お義父(とう)さまに連絡してみる。」

 麻里江はポシェットから携帯電話を取り出すと、ある番号を押した。しばらく呼び出し音が鳴ったあと、蓮堂の声が携帯から流れてきた。

 「お義父さま、麻里江です。」

 『麻里江か?いま、どこにいる?』

 「東京です。ところで幸徳井さまが殺されたというのは本当ですか?」

 いきなりの問いに、蓮堂の言葉が詰まった。

 『ほんとうだ。昨日、何者かに刃物で刺されて、殺されたらしい。』

 やっとの思いで語る蓮堂の言葉に、麻里江はショックを受けた。

 「それで、犯人は?」

 『まだ、わからん。わしも知らせを受けたばかりじゃ。』

 麻里江の中で悔しさと悲しさが同じように膨れ上がった。

 「土御門様はこのことを…」

 土御門の名前が出て、蓮堂の言葉がまた詰まった。

 「どうなさいました?お義父さま。」

 麻里江の中でいやな予感が駆け巡った。それはそばにいる美樹にも伝わった。

 『麻里江、そばに美樹もいるのか?』

 「はい」

 『そうか。落ち着いて聞きなさい。土御門さまは一昨日、亡くなられた。』

 「え!!」

 麻里江の顔から血の気が失せた。

 「麻里江、叔父様になにがあったの!?」

 麻里江の異変に、美樹は思わず叫んだ。

 麻里江の手が震えている。

 美樹は、呆然としている麻里江から携帯をもぎ取るように取ると、それを耳にあてた。

 「蘆屋さま、土御門の叔父様がどうしたんですか!?」

 いきなり、美樹の声がして、蓮堂は慌てた。

 『美樹…』

 「蓮堂様!」

 半ば涙目で叫ぶ美樹の声に、蓮堂は絞り出すように答えた。

 『土御門保春殿は、亡くなられた。』

 その返答に、美樹の手から携帯が落ちた。

 崩れ落ちるようにシートに倒れ込む美樹を横目に、携帯を拾い上げた麻里江は蓮堂を呼んだ。

 「一体、なにがあったんですか?」

 『京都の料亭で爆発事件が起きて、それに巻き込まれたらしい。』

 「爆発…?」

 麻里江の頭の中が真っ白になった。美樹はシートに顔を押し付けて、泣きじゃくっている。

 『麻里江、一度こちらに戻って来なさい。美樹も連れて。』

 蓮堂の言葉も耳に入らない。

 『麻里江、聞いているのか?』

 麻里江は無意識のうちに携帯を切った。

 「なにやら大変なことになったようで。」

 運転手はどう対処してよいかわからず、おろおろしていた。

 麻里江はなんとかこの状況から、立ち直ろうとした。そのとき、窓を叩く者がいた。

 音のする方に二人が顔を向けると、そこには先ほどとは別の警官が立っていた。警官は二人に車を降りるように促している。

 麻里江と美樹は、素直にエスティマから降りた。運転手はその成り行きを見守っている。

 「君たちかね。被害者の知り合いというのは?」

 「はい」

 麻里江が答えると、警官はあきらかに疑いの目で二人を交互に見た。

 「話を聞きたいので、ちょっと署まで来てくれるかな?」

 高圧的な言い草に、美樹が怒りの表情を見せたが、それを麻里江が目で制した。

 「わかりました。私たちも聞きたいことがありますから、同行いたします。」

 麻里江と美樹は、警官が乗ってきたパトカーに乗り込んだ。

 

 近くの警察署に着いた二人は、別々の部屋に通された。そして、幸徳井景明との関わりやアリバイなど、根掘り葉掘り聞かれた。

 「何度同じことを聞くんだよ。」

 美樹は、自分の苛立ちを前にいる刑事にぶつけた。しかし、刑事はそれを無視するように、また質問を始めた。

 「もう一度聞きますが…」

 同じ繰り返しに美樹はふてくされ、そっぽを向いた。そのとき、部屋に別な刑事が入ってきた。

 入るそうそう、その刑事は目の前にいる刑事に耳打ちした。耳打ちされた刑事は驚いた表情を見せ、美樹の顔を見つめ直した。

 「?」

 美樹には、なにが起こっているのかわからなかった。

 「ま、今日のところはこのくらいでいいでしょう。帰っていいですよ。」

 急に態度が変わったことに、美樹は気味悪がった。

 刑事に促されるまま、部屋を出ると、ちょうど麻里江も部屋を出て、廊下を玄関に向かうところだった。

 「麻里江」

 名前を呼ぶと、こちらを振り向き、軽く手を振ってきた。

 「終わったの?」

 「ええ、急に解放してくれたわ。」

 二人連れ立って玄関を出ると、玄関前に霧子が笑顔で立っていた。

 「HELLO」

 「霧子さん。」

 同時に叫ぶと、二人は霧子のそばに駆け寄った。

 「どうして、ここにいるの?」

 「なぜ、私たちがここにいるとわかったんですか?」

 二人同時の質問に、霧子は手を上げて制した。

 「STOP!一度に話さない。」

 ふたりは同時に口を閉じた。

 「とにかく、車に乗って。詳しくは車の中で話すから。」

 そう言うと、霧子は駐車場に停めてあるソアラに向かった。

 カギを開けて、運転席に乗ると、二人も続いて後部座席に乗った。

 二人が乗ったことを確認すると、霧子はエンジンキーを回し、警察署から表通りへ走り出した。

 走り出して、しばらくすると霧子が口を開いた。

 「大変だったみたいね。」

 ルームミラー越しに、麻里江と美樹の顔を見て、霧子は微笑んだ。

 「ほんとだよ。あの刑事、同じこと何度も聞くんだ。」

 そのことを思い出して、美樹はまた怒り出した。それを横目で見ながら、麻里江は身を乗り出した。

 「どうして、私たちが警察にいるとわかったんですか?」

 「二人が警察に連れて行かれたって連絡を受けてね。とりあえず、上に話を通して解放してもらったわけ。」

 「連絡を受けたって…」

 二人の脳裏に、エスティマの運転手の顔が浮かんだ。

 「それで、あの刑事たちの態度が急変したわけか。」

 美樹は納得したようにうなずいた。

 「それで、これからどこへ行くんですか?」

 麻里江はさらに霧子に聞いた。

 「前とは別の別荘に行くわ。そこで待っている人もいるから。」

 「待っている人?」

 二人はお互いに顔を見合わせた。

           7

  1時間半ほど走ったのち、三浦半島の南西部にある別荘に三人は着いた。山の中腹に位置した別荘は、遠くに海が見える静かな場所に建っていた。

 「うわあ、海だ。」

 美樹は悲しみを忘れるように、海を見て、はしゃいだ。

 そんな美樹を見て、麻里江は胸が痛む思いがした。

 霧子は、そんな二人を気遣うそぶりも見せず、さっさと別荘に向かった。

 「霧子さん、待ってください。」

 二人はすぐに後を追った。

 三人が玄関の前に立つと、待っていたかのように玄関のドアが開いた。

 そこに立っていたのは、奈美であった。

 「奈美さん。」

 「おねえさん。」

 美樹は、いきなり奈美に抱きついた。その行動に奈美は驚いた。

 「もう、絶対逃がさないからね。」

 真剣な眼差しで自分を見ている美樹を見て、奈美は暖かい微笑みを浮かべた。

 「疲れたでしょう。さ、入って。」

 美樹に抱きつかれたまま、奈美は別荘の中に入っていった。麻里江と霧子はそんな二人を見て、苦笑を浮かべながらついていった。

 

 別荘の中はかなり広く、少ない調度品がかえって洒落た雰囲気を見せていた。

 「好きな所に座って。」

 奈美がそう言うと、霧子と麻里江はカーベットの敷かれた床に直に座った。美樹はまだ、奈美に抱きついている。

 「美樹さん、もう逃げないから座って。」

 やさしい笑顔で語りかけると、美樹はしぶしぶ奈美から手を離し、麻里江の横に座った。その間に奈美はキッチンに入り、カップを出し始めた。

 「ここは誰の別荘なんですか?」

 周りを見渡しながら、麻里江は霧子に聞いた。

 「アメリカのお偉いさんの物を特別に借りたのよ。遠慮することはないわ。」

 霧子は自ら遠慮なく足を伸ばした。それを見て、美樹も同じように足を伸ばした。

 そこへ、奈美がコーヒーを運んできた。

 「どうぞ。」

 勧められるまま、三人はコーヒーに口をつけた。

  奈美は、床に座らずに、壁にもたれてコーヒーを飲んでいた。その姿を見上げながら麻里江が切り出した。

 「奈美さん、なぜ、また会う気になったんですか?」

 「あなたがたに関係した事件を聞いたから。」

 それを聞いて、麻里江と美樹に、再び哀しみが蘇えってきた。特に美樹の悲しみは一入(ひとしお)であった。

 「あなたがたに関わりのある目黒と京都の事件を、霧子さんに調べてもらったんです。」

 奈美はちらっと霧子を見た。それを受けるように霧子が口を開いた。

 「京都の事件はあきらかに、被害者を狙ったものと思う。」

 「なんだって!」

 美樹が叫んだ。

 「落ち着いて。美樹。」

 興奮している美樹を、落ち着かせようとする麻里江を横目に、霧子は話を続けた。

 「土御門氏は料亭で爆発事故に巻き込まれたということだけど、そのとき、現場にいたのは本人と芸者の二人きり。他に爆発物らしきものは、発見されていないの。しかも、二人の遺体の損傷が激しくて、ほとんど形を残してなかったそうなの。」

 その言葉に二人は息を飲んだ。

 「二人のどちらかが爆発したとしか考えられない。」

 「そんなバカな!」

 美樹は、霧子の話を頭から疑ってかかり、麻里江は黙って考え込んだ。

 「私の推測だから100%当たっているかは分からないけど。」

 そう言ってはいるが、霧子は自分の推測に自信を持っているようだ。

 「目黒の事件は、どうやら顔見知りの犯行だと思うの。抵抗らしい抵抗がほとんどなかったようだから。」

 「だから、私たちが疑われたのね。」

 麻里江は得心したようにうなずいた。

 「ただ、屋敷から飛び出していった人物の目撃情報があったようよ。もっとも、顔は見てないようだし、男か女かもわからないようだけど。」

 「それは私も聞きました。」

 麻里江の発言に、霧子はびっくりした。

 「え、どこからそれを?」

 「取り調べの刑事さんから。」

 麻里江がにっこり笑うと、美樹が手を叩いた。

 「そうか、他心の呪法だね。」

 「タシンノジュホウ?」

 霧子が首をひねった。

 「読心術の一種です。」

 笑顔で答える麻里江を見ても、霧子は得心が行っていない。

 「とにかく、顔見知りの、しかも相当腕が立つ者の犯行のようね。」

 そう言って、麻里江は難しい顔つきになった。

 「それから、現場に不思議な血文字が残っていたと、刑事さんが言っていた。」

 「これでしょ。」

 麻里江の発言に呼応するように、霧子はポケットから一枚の写真を出した。それをテーブルの上に置くと、三人が覗き込んだ。

 血だまりの中に倒れている景明のそばに、血で書かれた「ハンコ」の文字が見えた。

 「なんだろうね、これ。」

 美樹が写真を取り上げ、不思議そうな顔で眺めた。横から麻里江も覗き込んだ。

 「まさか、判子(はんこ)という意味じゃあないでしょうし。」

 「ハンコ?seal?笑えるジョークね。」

 霧子が声を上げて笑ったの見て、麻里江と美樹がじろりと睨み、場が白けた。

 「場を考えて。霧子さん。」

 黙って聞いていた奈美が霧子をたしなめた。

 「sorry」

 霧子は上目づかいで二人を見ながら、頭を下げた。

 「ともかく、麻里江さんと美樹さんの関わりのある人間が、立て続けに亡くなった。いえ、殺された。」

 いままで沈黙を守っていた奈美が、壁から体を離して、三人の前に立ち、厳しい視線で三人の顔を見ながら、話し始めた。

 「これは偶然とは思えない。」

 「なにかの陰謀だと?」

 麻里江が突っ込んだ。

 「ええ、私の勘だけど、ある男の野望が動き出したのだと思う。」

 「ある男?」

 麻里江と美樹が固唾を飲んで、奈美の次の言葉を待った。

 「元アルフィスエンタープライズ事業推進室長、面 史郎。」

 「面 史郎。」

 麻里江も美樹も“史郎”という名前に憶えがあった。北海道の霊園で会った美青年。奈美が呼んでいた名前だ。

 「どうして、そう思うわけ?証拠はないんでしょ。」

 霧子が冷静に尋ねた。

 「たしかに証拠はないわ。ただ、麻里江さんや美樹さんを襲った連中を史郎が知っていたこと。その二人の直接かかわりのある二人の人物が相次いで殺された。それに…」

 「それに…?」

 麻里江は次の言葉をじれったそうに待った。

 「剣持さんに調べてもらったんだけど、前にアルフィスエンタープライズの役員をしていた者が、えにしの会の理事になっている。」

 「えにしの会の!?」

 それには霧子も鋭く反応した。

 「霧子さんもご存じのように、えにしの会はオフィス・ワンと組んで、アイドルを麻薬人間に仕立て上げた。その上で自分たちの会館やモニュメントをあちこちに建てている。」

 「学校もね。」

 美樹が付け加えると、奈美が同意するように頷いた。

 「瀬上さんが手に入れた映像には、陸上防衛隊の幹部と民友党の大物政治家に会っている男の姿が映っていた。調べてもらったら、元アルフィスエンタープライズの幹部で、榛名という男であることがわかった。」

 「また、アルフィスエンタープライズ?」

 三人が三人とも考え込んだ。

 「さらにだけど…」

 「まだ、あるのかい?」

 美樹が飛び上がるような仕草で、奈美を見た。

 「その榛名が会談直後に会った人物が…」

 三人の顔にまさかという表情が、頭に答えとなる人物の名前が浮かんだ。

 「面 史郎。」

 思った通りの名前であったが、驚きは隠せなかった。

 「つながっている。」

 麻里江の口からポツリと出た言葉を、霧子が引き取った。

 「そう、つながっている。すべてが、面 史郎につながっている。」

 「その面とかいう奴が叔父さんを殺した張本人なのね。」

 美樹が興奮した口調で叫んだ。

 「直接、手を下したわけじゃあないけどね。」

 霧子が冷たく訂正した。

 「おなじことだろう!」

 美樹の興奮は収まらない。

 「それで奈美さんは、私たちと会う気になったんですね。」

 麻里江が奈美を見つめて尋ねると、奈美は軽く頷いた。

 「前に言ったように、史郎と私には深い因縁がある。いままでは、その因縁から逃げようとしていたけど、この日本で起きていることを考えると、逃げている訳にはいかないと思ったの。その因縁に対峙しないと。」

 「つまり、戦うということですか?」

 麻里江の言葉に、奈美は大きく頷いた。

 「わかりました。私もいっしょに戦います。」

 麻里江が、立ち上がりながら、事も無げに言った。その言葉に奈美は驚いた。

 「生半可な戦いじゃあないわよ。命を賭けることになるわ。」

 「わかっています。これは奈美さんだけの戦いではありません。私たちの戦いでもあるのです。」

 麻里江の目が強い決意で彩られた。

 「あたしも一緒に戦うよ。おねえさん。」

 美樹も立ち上がった。

 「美樹さん。」

 美樹の必死な表情に、奈美の心は熱くなってきた。

 「霧子さんはどうするんだい?」

 美樹が霧子に話を向けると、霧子は仕方なさそうな仕草をして、立ち上がった。

 「しかたないわ。決着がつかないと奈美がアメリカに来てくれないから、付き合ってあげるわ。」

 その言葉に美樹は、口を押えて笑った。

 「でも、戦うと言っても敵の本拠地もわからないんじゃあ、戦いようがないよな。」

 霧子が頭に両手を持っていきながら、愚痴るようにしゃべった。

 「そうね。」

 四人の間に沈黙が流れた時、携帯の着信音が鳴った。

 「え?」

 麻里江の携帯が鳴っているとわかって、麻里江はポケットから携帯を出した。

 「もしもし」

 電話に出た麻里江の顔色がさっと変わった。

 「あなた、翔ね。そうでしょ!」

 「翔!?」

 美樹と霧子が同時に叫んだ。

 「いま、どこにいるの?」

 そう言った後、麻里江は翔と名乗った相手としばらくやりとりをした。

 電話を切った後、麻里江は三人の顔を順に見て、ポツリと言った。

 「翔から。敵の本拠地を知ってるって。」

 「え!」

 今度は三人が一斉に叫んだ。

          8

 『このたび、内閣総理大臣の任命を受け、わたくし、長門 猛は、前首相 八木氏の遺志を継ぎ、この日本をだれでも安心して、平和に暮らせる、より良い国にするため、全力を傾ける所存です。

 『いま、頻発するテロ行為、政界、財界に蔓延する汚職、不正。そして、景気低迷。山積する問題をひとつひとつ解決し、国民全員が幸福に暮らせる日本を創るためにも、さまざま政策を実施していきたいと思っています。

 『まず第一には、前首相も犠牲になった爆弾テロ事件の解決、そのためにもテロ防止対策法の改正や通信管理法、防衛隊法の改正など取り組んでいきたいと思っております。』

 テレビから流れる新首相である長門 猛の所信表明を、つまらなさそうな顔で聞いていた樹は、チャンネルを変えようとリモコンを取り上げた。そのとき、電話が鳴った。

 テレビを切ると、樹は電話の置いてあるサイドボードに歩み寄り、受話器を取った。

 受話器から流れる声は、陸奥のものであった。

 『樹か?』

 「はい、そうです。」

 『すまんが、今日は寄れそうにない。』

 「そうですか。」

 樹は、悲しそうな声を出した。

 『明日は必ず寄るよ。』

 その言葉に樹の声がはずんだ。

 「約束ですよ。おいしいお酒を用意して、待ってますから。」

 『ああ、約束する。じゃあ、お休み。』

 電話は唐突に切れた。

 さびしそうな顔をして、樹は受話器を置いた。

 「仲がよさそうだな。」

 突然の声に、樹はハッとして振り返った。

 リビングの入り口に史郎が立っている。

 「史郎様、いつのまに。」

 「すまんな。勝手に入って。」

 「いえ、そんなことは。どうぞ、お坐りください。」

 ソファを勧めると、史郎は素直にソファに座った。

 「なにか、お飲みになりますか?」

 「いや、そう長くはいられないんだ。」

 「そうですか。」

 台所へ行くの止めた樹は、史郎の横の床に直に座った。

 「樹、いや樹魔、そなたと直に顔を合わせるのは、しばらくぶりだな。」

 史郎は樹魔と呼んだ樹の顔を見て、微笑みかけた。

 その言葉に樹は恥ずかしそうに、下を向いた。

 「お戯れを。それでどのようなご用でしょうか?」

 下を向いたまま、樹魔は史郎に尋ねた。

 「樹魔は、左京から捜査局の女を探るように言われたそうだな。」

 「はい。」

 樹魔の顔が上がった。

 「捜査局の女のことは探らずともよい。」

 「は?」

 樹魔は、史郎の言っていることがすぐに理解できなかった。

 「捜査局の女の事は私が把握している。樹魔がかかわることはない。」

 「しかし、左京様が。」

 「左京には私から言っておく。それより、樹魔。頼みたいことがある。」

 史郎が自分に頼みごととは、めずらしいと樹魔は思った。

 「その捜査局の女を生きたまま拉致してもらいたい。」

 意外な頼みに、樹魔は目を見張った。

 「幽斎が陰陽師の女やCIAの女を片付けるために、いろいろ画策しているようだ。それを手伝いながら捜査局の女もおびき出し、拉致してもらいたいのだ。」

 「幽斎とともに?」

 「そうだ。」

 この頼みごとにどんな意味があるのか、樹魔はあれこれ考えたが、すぐには答えはでなかった。ただ、史郎の頼みごとを聞くのは、自分にとっていい機会(チャンス)だと思った。

 「わかりました。」

 「手に余るようなら、私が手伝ってもよいぞ。」

 「大丈夫です。」

 自信に溢れた笑顔を見せる樹魔に、史郎は冷徹な目で見つめた。

 「油断はするな。」

 凍りつくような言葉に、樹魔の体に緊張が走った。

 「はい。」

 「では、頼んだぞ。」

 そう言って、史郎は立ち上がるとベランダに向かった。

 扉を開けてベランダに出ると、上空を見上げた。

 月はないが、星が瞬いている。

 「今日は月が出てないのか?」

 そう言うと、史郎はベランダを乗り越えて、外へ飛び降りた。その行動に樹魔は驚いてベランダに急いで駆け寄った。

 ベランダから顔を出して、下を見たが、史郎は影も形もない。

 「あいかわらずね。」

 ふっと、ため息をついた樹魔は、部屋の中に戻っていった。

          9

 同じ時刻の首相官邸。

 長門 猛が首相の席でひとりほくそ笑んでいた。

 「いよいよ、おれの時代だ。」


 同じ時刻の陸上防衛隊駐屯地の宿舎の中。

 陸奥 卓美は、机の前で興奮した顔つきで座っていた。

 「いよいよ、はじまるか。」

 

 同じ時刻、北陸の地。

 奥座敷で文机の上に紙を広げて、蓮堂は薄笑い浮かべていた。

 「日の本の霊的支配者か。」


 同じ時刻、オフィス・ワンの社長室。

 社長の机の前で、左京は心乱していた。

 「捜査局の女。なぜ、こんなに気になるの?」


 同じ時刻、都内のビルの谷間。

 闇に染まった道路の上で、史郎が上空を見ていた。

 「奈美、待っていろよ。」


 同じ時刻、三浦半島のある別荘。

 そのベランダに寄りかかって上空を見る奈美が、ポツンとつぶやいた。

 「史郎…」


 同じ時刻、同じ別荘のリビング。

 麻里江と美樹がテーブルを挟んで見つめ合っている。

 「きびしい戦いが始まるわね。」

 「だいじょうぶだよ。麻里江。」


 同じ時刻、同じ別荘の二階の部屋。

 霧子が携帯をかけている。

 「大丈夫。私にまかせておいて。」


 同じ時刻、富士のすそののレストハウス。

 その地下室に、無明が暗闇の底に座っていた。

 「ふふ、動き出す。すべてが破滅に動き出す。」

 

 日本はいまだ、静かであった。







エンジェル伝説 第二部 マリオネットの章 前篇   了


マリオネットの章 後篇につづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ