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四、妖女たちの宴

          1

 「やはり、追っ手の襲撃か?」

 剣持は、小田切を前にして難しい顔になった。

 「火事も放火でした。われわれをおびき出すためでしょう。そのために何の関係もない家が一軒、丸焼けになりました。」

 小田切も昨日の出来事を思いかえして、唇をかみしめた。

 しばらく、二人の間に思案の沈黙が流れた。

 「瀬上君はどうしている?」

 不意に剣持が小田切に目を向けて、つぶやくように言った。

 「壬生がついて、新しい隠れ家で大人しくしています。」

 「壬生君が…」

 剣持の顔に笑みがこぼれた。

 それを見て、小田切の中の疑問が口に出た。

 「局長、あの壬生という新人、どういう素性ですか?」

 「素性?」

 不意の質問に剣持は少し戸惑った。

 「新人とは思えない場馴れというか、行動力というか、ベテラン局員にも引けを取りません。今度のことも、彼女の機転で瀬上さんが助かったようなものです。」

 「そうか」

 剣持の顔がまたほころんだ。

 「局長は彼女をどこからスカウトしてきたんですか?」

 迫るように小田切が問いかけた。しかし、それに対して剣持は首を横にふった。

 「すまんがそれは言えんのだ。ただ、決して怪しいものではないことは、私が保証する。」

 まっすぐ自分を見つめる剣持の目を見て、小田切はそれ以上追及できなかった。

 「ともかく、できるとはいえ、彼女はまだ若い。いろいろと気にかけてくれないか?」

 「わかりました。」

 「それから、小田切。」

 立ち上がりかけた小田切に向かって、剣持が声をかけた。

 「今の場所も安全とは言えんな。」

 「はい。」

 二人の意見が合致した。同様の懸念を持っている証拠だ。

 「いずれ、瀬上君を別の場所に移動させる。そのつもりでいてくれ。」

 「わかりました。」

 再度、答えて小田切は部屋を出ていった。


 「失敗しただと!」

 ほぼ同じころ、陸奥は受話器を持ったまま怒鳴っていた。

 「特殊行動班の者が三人いて、失敗しただと。なにをやっているんだ。」

 受話器の向こうにいるであろう阿賀野に向って、陸奥は掴みかからんと宙に手を伸ばした。その行動を察知したのか、阿賀野が受話器の向こうで何かをしゃべった。

 「いいわけはいらん!よく特殊行動班などと言えたな。ともかく、めぼしい成果をあげるまで連絡はするな。」

 そう言って、陸奥は乱暴に電話を切った。

 怒りが収まらず、ソファに座ると、目の前のテーブルを思いっ切り蹴った。テーブルは陸奥の力に抗しきれず、大きな音を立ててひっくり返った。

 その音にキッチンから水を持ってきた(いつき)は、驚いて立ち止まった。

 「どうしたんですか?一体。」

 樹は水を傍らのサイドテーブルに置くと、ひっくり返ったテーブルを起こし始めた。

 「すまん。興奮しすぎた。」

 そう言って、陸奥も樹の手伝いをした。

 「珍しいですね。卓美さんがそんなに怒るなんて。」

 切れ長の目に笑みを湛えて陸奥を見ると、陸奥の顔から怒りの表情がみるみる薄れていった。

 「ここのところ、思うとおりに事が進まなくってね。」

 愚痴っぽくつぶやく陸奥に、樹はニッコリと笑った。

 「例のルポライターですか?」

 「知っているのか?」

 話してもいないことをズバリ言われ、陸奥は目を見開いた。

 「あんなに大きな声でしゃべれば、いやでもわかりますよ。」

 「そうか、気をつけんといかんな。」

 陸奥の手が樹の手を握った。そのまま、自分の懐に引き寄せる。樹は陸奥の広い胸に身を預けた。

 「私が手を貸しましょうか?」

 自分の懐の中で悦に入っていた樹が、唐突に口を開いた。

 「どういうことだ?樹。」

 「卓美さんのお手伝いをしたいということです。」

 樹の目が下から陸奥の顔を見上げた。

 「おまえがか?」

 「バカにしたもんじゃあないですよ。」

 おどけたような笑顔を見せる樹を見て、陸奥は戯れに言っているもんだと思った。

 「じゃあ、樹にお願いするか?」

 「ええ、まかせて。」

 樹の戯れに乗るように頼んだ陸奥に、樹は笑顔で返答した。


 そして、その日の深夜。

 阿賀野は名もない小さな公園に呼び出されていた。

 陸奥の名で呼び出された阿賀野は、公園に一本だけ立っている街灯の下で、腕時計を見た。

 約束の時間だ。

 しかし、辺りに人の気配はない。

 阿賀野の中で警戒心が大きく膨らんだ。陸奥がこのようなところに呼び出すのは初めてのことでもあり、来る前から疑心は持っていたが、約束の時間になっても陸奥の姿がない。これは自分をおびき出すためではないか。

 阿賀野はその意図を考えた。

 そのとき、人の気配が初めて阿賀野の五感に触れた。

 「陸奥さんですか?」

 いつでも身を守れるよう態勢をとりながら、阿賀野は闇の向こうに声をかけた。

 「約束の時間通りね。」

 後ろから突然声が駆けられ、阿賀野の全身に緊張が走った。すぐに振り向こうとしたとき、また声がかかった。

 「振り向かないで。」

 静かだが威圧的な声に、阿賀野の体がピタッと止まった。

 相手は女性のようだ。

 「だれだ。あんたは。少なくとも陸奥さんではないな。」

 「ええ、彼の代わりに来たわ。」

 「それでおれに何の用だ。」

 前を向いたまま、阿賀野は後ろにいるはずの女性と会話を始めた。

 「あなたの失敗で陸奥さんがこまっているようなので、手助けしようと思って呼び出したのよ。」

 意外な申し出に阿賀野は戸惑った。

 「手助け?おまえがか?」

 「私じゃあないわ。彼女らよ。」

 そう言ったとき、阿賀野の目の前に三人の女性が不意に現れた。

 三人とも同じ黒いコートを着た女性で、違うのは髪の色だけである。

 「彼女らは…?」

 「エリーニュスよ。」

 「エリーニュス?彼女らが?」

 その名前は阿賀野の中で、畏怖の対象として記憶されていた。

 「そ、彼女たちがあなたの手助けをしてくれるわ。あとは彼女らと話してね。」

 そう言った後、不意に気配が消えた。

 「おい、待ってくれ。」

 振り返ったが、そこには誰もいなかった。

 「よろしくね。阿賀野さん。」

 そう呼びかけられて、阿賀野は再び振り返った。

 赤い髪の女性が微笑んでこちらを見ている。

 「あ、よろしくたのむ。」

 阿賀野が右手を差し出したが、応じる気配はない。

 「それで、わたしたちは何をすればいいの?」

 緑の髪の女性が尋ねた。

 「あ、そうか。人ひとり、拉致してもらいたい。」

 「拉致?」

 緑の髪の女性が眼を吊り上げた。

 「そうだ。この男だ。」

 そう言って、阿賀野はポケットから写真を取り出し、緑の髪の女性に差し出した。女性はそれを受け取り、かぼそい街灯の下で写真の男、瀬上をじっと見つめた。他の二人の女性も肩越しに覗き込む。

 「この男を拉致してほしいわけね。」

 緑の髪の女性が受け取った写真を阿賀野に返した。

 「こんなことを私たちにたのむの?」

 「あくびの出そうな仕事ジャン。」

 赤と紫の髪の女性が不満そうな顔をして、阿賀野を見返した。

 「その男を守っている連中があなどれない。」

 「しょせん、人間でショ。」

 紫の髪の女性が嘲笑を浮かべた。

 「その人間にうちの班の人間、三人が倒された。」

 それを聞いても紫の髪の女性の嘲笑は消えない。

 「あなたたちと私たちは違うわ。」

 赤い髪の女性が合わせるように笑った。

 「わかったわ。彼女のたのみだから引き受けてあげるわ。どこに連れて来ればいいの?」

 緑の髪の女性だけは無表情のまま尋ねた。

 「ここに連れてきてくれ。」

 そう言って、阿賀野は一枚のメモを渡した。

 「数日うちに連れてくるわ。」

 緑の髪の女性はメモをポケットにしまうと闇の中に溶け込んでいった。それに続いて二人も闇に消えていった。

 「吉報を待つジャン。」

 その言葉が闇の中に残った。

 「エリーニュス(復讐の三女神)か…」

 阿賀野は闇に語りかけるようにポツリと言った。

          2

 襲撃の二日後、剣持はある雑居ビルの前に立っていた。

 以前、霧子との連絡に使っていた占い師のいたビルだ。

 剣持はエレベーターの傍らにある階段で、地下へと降りていった。降りた地下の廊下の突き当たりに、占い師の部屋があるはずであった。

 しかし、いまはただの空き部屋になっている。

 以前に来たスナックは、そのままあった。

 剣持はそのドアを開け、カウベルの音を頭で聞きながら、中に入っていった。

 夕方にはまだ間がある午後の時間、やはり、店の中は誰もいない。さらにカウンターの前に進むと、奥からスナックのママが出てきた。

 「あら、おひさしぶり。」

 笑顔と少し鼻にかかった声で、剣持を迎えた。

 「ひさしぶりです。」

 剣持も笑顔を見せると、カウンターに座った。

 「何か飲みますか?」

 コースターを目の前に出しながら、ママの魅惑的な笑顔が尋ねた。しかし、剣持の返答は全く違うものだった。

 「占い師さんはどこかへ引っ越したんですか?」

 その問いに、ママの唇に苦笑が浮かんだ。

 「ええ、占い師さんはどこかへいっちゃったわ。」

 「どこへ?」

 「ずいぶん、ご執心のようね。」

 「かなり、当たるものでね。」

 そのやり取りのあと、二人の間で短い沈黙が流れた。

 「なにか、占ってほしいことがあるようね。」

 「そうなのだが…」

 また、沈黙が流れた。

 「特別に占ってあげてもいいですよ。」

 別の声が沈黙をやぶった。

 カウンターの奥から出てきたのは、金髪の女性であった。

 「きみは…」

 見覚えのある女性であった。

 「私は引っ込んでた方がいいようね。」

 ママは相変わらずの笑顔を残して、奥へと下がった。二人はカウンターを挟んで相対した。

 「それで、何を占ってほしいの?」

 カウンターに腕をのせたまま、金髪女性が尋ねた。

 「スペードのクイーンの居場所。」

 「クイーンの?」


 剣持が帰った後、金髪の女性、マリアは自分の携帯を取り出し、ある番号を押した。

 『ハロー』

 数回の呼び出し音のあと、霧子の声が携帯から流れた。

 「ハロー、キリコ。」

 『マリア、どうしたの?』

 「元気だった?」

 『そうでもないわ。で、ご機嫌伺いで電話してきたわけじゃあないでしょ?』

 「ミスター剣持がいまさっき、来たわ。」

 『剣持が?』

 「あなたに会いたいそうよ。」

 『わたしに?何の用で?』

 「さあ、はっきり言わなかったわ。どうする?会ってみる?」

 『そうね。とても興味深いわ。会ってもいいかもね。』

 「じゃあ、その旨、伝えるわ。場所と日時はどうする?」

 『私から連絡すると言っておいて。』

 「わかったわ。」

 マリアの言葉を最後に、電話は無遠慮に切れた。

 「何か飲む?」

 奥からママが顔を出しながら尋ねた。

 「じゃあ、ビールちょうだい。」

 「あら、めずらしいわね。」

 そう言って、冷蔵庫を開けたママは、中から缶ビールを二本取り出した。それをコップに注ぐと、マリアの前に置いた。

 「なにか見えた?」

 「別に見えたわけじゃあないけど…」

 「ないけど?」

 もう一本の缶ビールを開けたママは、コップに注がず、そのまま口をつけた。マリアも目の前のコップを取り上げ、泡立つ液体に口をつけた。

 「なにか予感がする。」

 「予感?」

 缶ビールを口から離したママは、興味深そうな目でマリアを見た。

 「ええ、いい予感と悪い予感が。」

 そう言って、マリアは一気にビールを飲み干した。


 「奈美、霧子君には連絡をつけた。おっつけ向こうから接触してくるだろう。」

 「ありがとうございます。剣持さん。」

 例のスナックのあるビルから出てきた剣持が、駐車場に停めてあったクラウンに乗り込むと、中では奈美が待っていた。

 「ほんとうにこれでいいのか?奈美。」

 心配そうな顔で自分を見つめる剣持に、奈美は笑顔を返した。

 「ええ、決心したことですから。」

 「しかし、アメリカに行くというのは…」

 剣持の顔からは心配の影はまだ消えていない。

 奈美から、自身と瀬上を海外に脱出させるため、霧子に連絡をつけてくれるよう頼まれた時は、正直驚いた。

 確かに渡米すれば、瀬上の身の安全は守られるだろう。しかし、それによって奈美が苦しい思いをするのでは、という危惧が剣持にはあった。

 「奈美、相手はCIAだ。奈美の事をどんなふうに扱うかわからない。もしかしたら最悪のことも考えなければならない。」

 剣持の脳裏に想像したくない光景が浮かんだ。

 「すみません。剣持さん。そこまで心配してもらって。でも、これは決心したことです。それに…」

 「それに…?」

 奈美はそれ以上、口にしなかった。ただ、悩ましげな表情を剣持に見せるだけであった。

 「よほどのことなんだな。」

 「ええ…」

 そこで二人から言葉が途絶えた。

 沈黙を乗せたまま、クラウンは新しい隠れ家に向かった。

          3

 奈美たちが新しい隠れ家に移ってからほどなく、剣持は霧子の呼び出しを受け、朝早くからクラウンを走らせた。

 剣持を乗せたクラウンは、小一時間ほど走ったのち、とある立体駐車場に入っていった。

 霧子から指定された屋上の駐車場所に停車し、待つこと一〇分ほど。剣持の携帯が前触れもなく鳴った。

 急いで携帯を取り出した剣持の耳に霧子の声が届いた。

 『こんにちは。ミスター剣持。』

 「一別以来だね。ミス・エッシェンバッハ。」

 そう言いながら剣持は辺りを見渡した。

 『探しても無駄ですよ。そこにはいませんから。』

 「用心深いんだね。」

 『すみません。習慣なものですから。それよりさっさと用件を済ませましょう。』

 そう言われて、剣持は霧子を探すのを止め、気持ちを落ち着かせるように深呼吸をした。

 「それで、私に何の用が?」

 霧子はじれったそうな口調で剣持に尋ねた。

 「君にとっては非常に興味のある用件だと思う。」

 『どんなことかしら?』

 「君にアメリカに連れていってもらいたい人間がいる。」

 『ほう?』

 霧子の声がすこし上ずる。

 『それでだれですか?』

 「君もよく知る人物だ。」

 『もったいつけないで、早く言ってください。』

 霧子の口調が興奮ぎみになった。

 「奈美だ。」

 『本当ですか?』

 あきらかに霧子のテンションがあがった。

 「本当だ。奈美自身が申し出たことだ。」

 『奈美が…』

 「ただし、条件がある。」

 『条件?』

 「瀬上という男も一緒に連れて行って保護してもらいたい。」

 『瀬上?』

 霧子が戸惑っていることが、電話を通してもわかった。そして、思案の時間が沈黙として流れてきた。

 しかし、それも長くは続かない。

 『いいでしょう。その瀬上という男も含めて本国へ連れて行きましょう。』

 「瀬上君の安全も保障してくれよ。」

 剣持は念を押した。

 『All(わか) right(ったわ)

 「それでいつ頃になるね。」

 話はどんどんと進んでいく。

 『こちらにも準備があるから、二・三日待ってください。出来次第、こちらから日時と場所を指定します。』

 「よろしくたのむ。」

 その言葉ののち、剣持は携帯を切った。

 霧子の快諾にホッとするのと同時に、これでよかったのかという迷いが剣持を捕らえて離さなかった。

 いずれにせよ、事は動き出した。

 剣持は運転手に言って、クラウンを発進させた。

 その様子を霧子は三〇〇メートルほど離れたビルの屋上から、双眼鏡を通して見ていた。

 クラウンが立体駐車場から消えると、霧子は双眼鏡を目から離し、剣持と交わした約束を思い返していた。

 「奈美が自ら…」

 腑に落ちない点もあったが、当初の目的は達成されようとしている。自然、霧子の頬に笑みが浮かんだ。


 霧子とのコンタクトは、その日のうちに奈美の元に知らされた。

 『日時と場所はのちに知らせるとして、霧子君とはうまい具合に交渉がなったよ。』

 「ありがとうございます。剣持さん。」

 携帯を耳にしたまま、奈美は頭を下げた。その拍子に三つ編みの髪が前に垂れ下がる。

 『だが、本当にこれでよかったのか?』

 「ええ、剣持さんにはご心配ばかりかけます。」

 『そんなことはいいのだが、私は…』

 そのとき、玄関の方からインターフォンが鳴るのが聞こえた。

 「誰か来たようです。」

 『ん?』

 剣持と奈美に疑念が同時に起こり、二人の会話を中断させた。

 何度か鳴ったインターフォンに、共に警備している局員が出た。

 「はい、どちらさまですか?」

 インターフォンの受話器を取ったとき、そのモニターに映っていたのは、警察官の姿をした女性であった。

 『すみません。警察のものですが、ちょっとお伺いしたいことがあるのですが…』

 そう言ってインターフォン越しに婦警は頭を下げた。

 インターフォンに出た局員は、玄関に向かい、鍵を開けた。

 開けたドアの向こうに、婦警が一人立っており、笑顔を満面に湛えていた。

 「東野署から参りました。近くで事件がありまして、聞き取りで回っております。」

 笑顔のまま、婦警は警察手帳を取り出して、局員に見せた。

 「事件?初めて聞きますね。どこですか?」

 「ここですよ。」

 「え?」

 警察手帳を疑惑の目で見ていた局員の顔が、急に凍りついた。

 そのまま婦警に倒れ込む。

 それを受け止めた婦警は、局員を抱えたまま玄関の中に入り、後ろ手でドアを閉めると、鍵をかけた。そして、局員を脇に捨て置くと、土足のまま中に入っていった。

 玄関の変事を奈美はまだ知らない。しかし、嫌な予感が奈美の頭を通り過ぎ、奈美に臨戦態勢を取らせた。

 「また、かけ直します。」

 『奈美、どうした?何があっ…』

 奈美との電話は唐突に切れた。

 剣持も隠れ家に非常事態が起こったことを察知した。

 「小田切、小田切!」

 小田切の名を呼びながら、剣持は局長室を飛び出した。


 その頃、奈美は玄関に向かっていた。

 そこで目にしたのは、横たわったまま動かない局員の姿であった。

 「大丈夫ですか?」

 局員の元に駆け寄ったが、すでにこと切れているのを確認するだけだった。

 「侵入者」

 奈美の脳裏に、瀬上の姿が浮かぶ。

 奈美の足が二階に向かった。

 例の婦警はすでに瀬上の部屋の前に来ていた。もちろん、局員が見張っている。

 「だれだ!お前は。」

 局員の手が腰の拳銃にかかった。

 しかし、それより数秒早く、婦警の背中から細長いものが素早く伸びて、局員の額に触れた。

 途端に局員の体は硬直し、そのまま後ろに倒れた。

 婦警は、瀬上がいるであろう部屋の前に立ったが、すぐには入ろうとはしなかった。

 中では瀬上と一緒にいた局員が、外の様子の異常を察知し、瀬上を部屋から脱出させようと窓を開けようとした。

 そのとき、外から窓を突き破って侵入してきた者がいた。

 髪が紫色の女だ。

 「!」

 局員が腰の拳銃を抜いた。

 銃口を向け、引き金に指を駆けた時、女の腕が横に動いた。

 局員の銃が握った手ごと床に落ちた。と同時に局員の喉が真一文字に切り裂かれ、鮮血が噴出した。

 それを見て、瀬上は驚愕のあまり腰から床にへたり込んだ。

 「あなたが瀬上さんネ。」

 紫髪の女は、恐怖で震えている瀬上に向かって微笑みかけた。外にいた婦警も部屋に入ってきた。

 「さあ、いくわよ。」

 婦警が命じると、紫髪の女は瀬上を抱きかかえ、窓から外へ出ようとした。そこへ奈美が現れた。

 「待て!」

 「壬生さん!」

 壬生の姿の奈美に向って、瀬上は助けを求めるように手を伸ばした。

 「邪魔をするな!」

 婦警の背中からまた、細長いものが飛び出した。それは鞭のごとく奈美に襲い掛かった。

 先端に鋭い針が見える。

 とっさに奈美は扉の陰に隠れた。

 鞭のようなものは、奈美を威嚇するように空気を震わせると、そのまま婦警の背中に収まった。

 その隙に、紫髪の女は窓から外に飛び出し、婦警も後に続いた。

 「く!」

 扉の陰から飛び出した奈美は、窓から顔を出すと、逃亡する二人を目で追った。すでに屋根伝いに二人は遠く離れている。

 その後を追って、奈美も窓から外に飛び出し、屋根伝いに後を追った。

 同様に屋根裏に潜んでいた管狐のユキも、奈美のあとを追って屋根裏から飛び出した。


 異変はオデッセイに乗っていた麻里江にも伝わった。

 隠れ家に奈美の存在を察知した麻里江は、次の日から景明の車両(オデッセイ)を借りて見張っていたのだ。

 「すみません。車を出してください。」

 麻里江は運転席に座る景明の弟子に頼んだ。

 「ん、どうしたの?」

 後部座席で寝ていた美樹が、麻里江の異変に目を覚まし、座席から乗り出すように尋ねた。

 「動きがあったようよ。」

 麻里江はフロントガラス超しに前方をじっと見つめていた。

 「あの女性を追ってください。」

 麻里江が指差した先には真奈の姿があった。

 「あれ、後ろにユキがいる。」

 「そう、だからあの女性は奈美さんよ。」

 「ええ?」

 以前会った奈美と異なる姿を見て、美樹は目を丸くした。

 驚異的な身体能力で屋根を駆けていく奈美を追って、オデッセイはタイヤを鳴らしながら走り出した。

 「おねえさん、すごい。」

 子供のようにはしゃぐ美樹を横目に、麻里江は奈美を見失うまいと目をこらした。

 その奈美は、屋根から屋根へ飛び越えていく二人の女性を、懸命に追った。

 「あの二人、もしや…」

 後を追いながら奈美の頭の中には、いやな想像が湧き上がっていた。

 「しつこいわよ。」

 婦警が急に立ち止まり、振り返ると同時に背中から鞭のように触手が伸び、追ってくる奈美の足元を叩いた。

 いきなりの攻撃に奈美は急ブレーキをかけ、後ろに飛び退いた。

 その攻撃で、婦警の帽子が飛び、下から緑の髪が現れた。

 「よくかわしたわね。あなた、何者なの?」

 「瀬上さんを返しなさい。」

 両者の鋭い視線が空中でぶつかった。

 再び、婦警の背中から触手が伸び、先端の針が槍の穂先のように奈美に襲い掛かった。

 その鋭い攻撃に、奈美は躱すのが精いっぱいで、前に進むことができない。瀬上を抱えた紫髪の女は遠くへ逃げ去ろうとしていた。

 焦る奈美の目の端に、自分たちを追ってきたオデッセイの車体が映った。

 再度、婦警の触手攻撃が奈美に向ってくる。

 奈美は屋根を思いっ切り蹴り、オデッセイの屋根に飛び降りた。

 いきなり、車体に衝撃を感じた麻里江と美樹は、驚いて天井を見上げた。もちろん、奈美が飛び乗ったなどとは思いもしない。

 「なに?」

 美樹が窓を開けて顔を出し、上を見た。

 「こんにちは」

 目の前に見知らぬ女性の笑顔がある。

 「あんただれ?」

 「誰でもいいから前の女を追って!」

 戸惑い顔の美樹をよそに、壬生の姿の奈美は、車に乗っている者たちに指示を出した。

 「一体どうしたの?」

 「わかんないけど、あの屋根にいる女の人を追って!」

 訳もわからぬまま美樹は運転手に奈美の要望を伝えた。それに答えるように運転手は思いっ切りアクセルを踏んだ。

 猛スピードで追い始めたオデッセイに、紫髪の女と緑髪の婦警はいら立ちを見せた。

 「いいかげん、あきらめればいいのに。」

 「しつこいジャン」

 二人も逃げるスピードをあげた。しかし、人一人抱えての逃亡には限界があった。オデッセイが追いつきそうになる。

 「もう少しよ。」

 屋根の上の奈美もいつでも飛び移れるように身構えた。

 「ナル、さぼってないで車を止めて!」

 『OK』

 首に取り付けた無線機を通して、緑髪の婦警がどこかへ連絡を取ると、耳に装着したイヤホンに返事が返ってきた。

 それを聞いて婦警の頬に笑みが浮かぶ。

 そんなやりとりなど気付かない麻里江たちを乗せたオデッセイは、女たちに追いつこうとしていた。そのとき、前方から紅蓮の炎が走った。

 「え!」

 オデッセイに乗っていた全員が不意をつかれ、目を見張った。

 炎は前輪を包み、タイヤが火を噴いて吹き飛んだ。

 前輪片方を失ったオデッセイは、バランスを崩し、スピンすると塀に激突した。

 奈美は激突寸前に屋根から飛び降り、着地と同時に地面を転がって衝撃を柔らげた。

 顔を上げた視線の先に、赤い髪の女が立っている。

 その右手にかすかに炎が絡みついていた。

 「仲間?」

 そう思う奈美に向って、赤い髪の女の右手が伸びた。

 (あぶない!)

 その瞬間、右手から炎が赤い線を引いて走った。

 横っ飛びしながら躱したそのそばを炎が通り過ぎる。無断駐車していた車がその炎の餌食となって爆発炎上した。

 その音に近隣の住民たちが、湧き上がるように家から出てきた。

 「まずいわね。」

 赤い髪の女の顔にあきらかに後悔の色が表れた。

 態勢を立て直した奈美は、赤髪の女に向って駆けた。その行動に合わせるように赤髪の女は、ポケットから何かを取り出した。

 ピンを外し、地面に投げつける。

 途端に、閃光と爆発音が同時に広がり、白い煙が辺りに蔓延した。

 この突然の出来事に奈美は目がくらみ、体の動きが一瞬、止まった。

 「しまった。」

 すぐに駆けだしたが、煙が晴れると女の姿はなく、逃げていた二人も遠くへ消え去っていた。

 「くそ」

 「大丈夫ですか?奈美さん。」

 自分を呼ぶ声に振り返ると、オデッセイから抜け出し、こちらに駆け寄って来る麻里江の姿があった。

          4

 「そうか、逃げられたか。」

 剣持は奈美の報告を受けて難しい顔になった。

 「すみません。私がついていて。」

 恐縮する奈美の肩に剣持は手を置いた。

 「奈美のせいではない。我々に油断があった。まさか白昼に襲撃してくるとは思わなかった。おかげで近隣近在が大騒ぎだ。収めるのに一苦労しそうだ。」

 剣持は苦笑いを浮かべ、奈美はますます恐縮そうに肩をすぼめた。

 「さて、これからどうするかだ。」

 剣持は顎に手を当てたまま局長室の中を歩き始めた。

 「瀬上さんは大丈夫でしょうか?」

 「すぐに命を取るとは思えないが、相手次第だな。」

 予想通りの返答に、奈美は腹の中に重石を入れられた気分だった。

 (瀬上さん。)

 心の中で瀬上の身を案じ、出会った時からの記憶を振り返ったとき、奈美の中の記憶にひっかかるものがあった。

 以前もらった寄木細工の箱。

 剣持が言っていたクーデター計画の証拠。

 拉致の実行者がクーデター計画に係わる者なら、その証拠はぜひとも手に入れなければならないものだ。

 「もしかしたら…」

 「どうした、奈美?」

 剣持は奈美の表情の変化に敏感に反応した。

 「剣持さん。私が持っている瀬上さんからのプレゼント。あれ、使えませんか?」

 その言葉に剣持にもピンとくるものがあった。

 「証拠品か。それと瀬上君と引き換えに。」

 「乗ってくるかもしれません。」

 二人の中にわずかな希望が光となって差した。

 「よし、局員を動員して…」

 「待ってください。特捜局は動かない方がいいと思います。」

 「どうしてだ?」

 「特捜局が動くと大事になりますし、それに…」

 そこで奈美は言葉を切った。

 剣持はその先が予想できた。

 「犠牲者がまた出るか?」

 奈美は無言でうなずいた。

 「奈美の話や現場の状況を見ると、並みの人間の仕業とは思えんな。」

 剣持は歩き廻るのをやめ、腕を組んで考え込んだ。

 「で、どうする?まさか、奈美ひとりで行動する気じゃあないだろうな。」

 「そうしたいところですが、相手が相手ですので。助っ人を頼みます。」

 「助っ人?」

 奈美が笑顔を見せたので、剣持は困惑した。


 奈美と剣持が話している頃、麻里江と美樹は再度、剣持の屋敷を訪ねていた。

 意外な形で事件にかかわった二人は、幸いかすり傷程度ですんだが、オデッセイを運転していた景明の従者は重症を負い、病院に入院するはめになった。

 麻里江は、剣持が奈美を変装させてまで隠したことに不信感を抱き、ますます奈美に対する疑念を深めた。それでいま、剣持の元を訪ねた二人であった。

 屋敷の応接間に通された二人だが、三十分たっても剣持が現れる気配はなかった。

 美樹は待ち疲れて、何度目かのあくびをし、麻里江はソファに座ったまま微動だにしなかった。

 今度こそ奈美に会う決心で固まっている。

 壁にかけてある時計が時を告げる音を奏でた時、応接間のドアが開いた。

 二人の視線がドアに飛ぶ。

 そこにいたのは、オデッセイの屋根に飛び乗った、お下げ髪に眼鏡の女性であった。

 「あの時の女の人。」

 美樹は思いがけない人物の登場に目を丸くした。

 「こんにちは。」

 壬生真奈はお下げ髪を揺らして頭を下げた。

 「こんにちは。奈美さん。」

 笑顔を向けて真奈を奈美と呼びかける麻里江に、美樹は二度びっくりした。

 「え、おねえさん?」

 「やっぱりわかっていたのね。」

 そう言いながら真奈は眼鏡を取り、麻里江の対面に座った。

 「完璧な変装だと思ったんだけど、どうしてわかったの?」

 「ユキにあなたを見張るように頼んだんです。」

 「ユキって、あの細長い動物の?」

 麻里江は微笑みながらうなずいた。

 「あのとき、屋根を駆けるあなたのあとを、ユキが追いかけていました。だから、奈美さんだと思ったんです。」

 「へえ、すごいのね。」

 「半分、勘ですけど。」

 麻里江がいたずらっぽく笑うと、それにつられて奈美も微笑んだ。そんな二人を交互に見ながら、美樹はぽかんとしていた。

 「ところで、奈美さん。聞きたいことがあるんです。」

 急に麻里江の顔が真剣な面差しに変わった。

 「史郎のこと?」

 「はい」

 史郎の名前が出て、奈美の表情も厳しいものに変わった。

 「知らないと言っても、納得しないでしょうね。」

 「ええ、あのとき、あなたとあの男の人の間に、なにか因縁のようなものを感じました。あの史郎という男の人は、私たちを襲った者を知っていた。私たちが以前、戦った魔霊院のことも知っていた。つまり、あの者たちの仲間ということになります。ちがいますか?」

 一気に言い放った麻里江は、まっすぐ奈美の目を見つめた。そして、今度は奈美もその視線を避けようとしなかった。

 「史郎があいつらとどんな関わりを持っているかは、正直、私も知らない。ただ、あなたが言った通り、史郎と私には深い因縁がある。」

 「それはどんな?」

 麻里江とともに美樹も固唾を飲んで、奈美の言葉を待った。

 「それは、今は言えない。」

 「奈美さん。」

 前のように引き下がるつもりがないことは、麻里江の目の色でわかった。

 「麻里江さん。あなたも目撃したように、私たちが匿っていた重要人物が敵に拉致されたの。」

 麻里江の記憶に、男を抱えて逃げる女性の姿が浮かんだ。

 「その人を助けなければならない。それも急いで。」

 「それまでは、話せないと。」

 「話せるまで待ってくれない?」

 奈美は、懇願するように麻里江の目を見つめ返した。

 「わかりました。それでは私たちも協力します。」

 「え?」

 奈美と美樹は、麻里江の言葉の意味がすぐに理解できなかった。

 「なに言っているの?これはあなたたちには関わりのないことよ。」

 「いえ、あの場にいたということがもう関わりを持ったことです。それに早く拉致された人を奪い返せば、早く奈美さんに話が聞けるようになりますし。」

 言葉の最後に笑顔を見せる麻里江を、奈美は呆れたような表情で見た。

 

 夜になって、奈美は剣持に教えられた雑居ビルを訪ねた。

 地下に降りる階段の先に、目的のスナックがある。

 カウベルの鳴らしながら開けたドアの向こうには、よくあるスナックの風景があった。しかし、客の姿はカウンターの霧子以外に見当たらない。

 その霧子は、琥珀色の液体の入ったグラスを傾けていた。

 「いらっしゃい。」

 ママの鼻にかかった挨拶を聞きながら、奈美は霧子の隣に座った。

 「初めてね。何にしますか?」

 「じゃあ、ビールを。」

 笑顔で注文を取るママに、奈美も笑顔でオーダーした。

 「お酒、飲むのね。」

 いままで酒棚を眺めていた霧子が、奈美の方に体を向けた。

 「ええ、以前ここと同じようなスナックで働いてたことがあったから。そのときに覚えたわ。」

 奈美は霧子に顔を向けず、同じように酒棚を眺めながら答えた。

 「へえ」

 好奇心を面に出して、霧子は奈美の横顔を覗き込んだ。

 そのとき、ママがグラスに入れたビールを、カウンターの上に置いた。

 「はい、どうぞ。」

 泡が縁から溢れんばかりのグラスを手にとり、奈美は口をつけた。

 「で、突然会いたいと言ってきたわけは?」

 霧子の問いに、口をつけたグラスをカウンターの上に置くと、奈美はやっと霧子の方へ体を向けた。

 「ちょっと事情が変わったの。」

 「事情が変わった?」

 霧子の中でいやな予感がした。

 「まさか、アメリカに行くのが嫌になったなんて言わないわよね。」

 心配そうな霧子に、奈美は微笑んで返した。

 「アメリカには行くわ。ただ…」

 奈美の返答に、霧子は安堵の色を見せたが、「ただ」という言葉に霧子は不安を覚えた。

 「ただ、なに?」

 「手助けしてもらいたいの。」

 「手助け?」

 「一緒に連れてもらうはずの瀬上さんが、誘拐されたの。」

 「誘拐?」

 不安は的中したようだ。

 「その救出の手助けをしてほしいの。」

 「救出って、どうして私が。」

 予想外の要求に、霧子は面喰った。

 「当然でしょ。」

 目をパチクリさせて自分を見ている霧子を、おもしろそうに眺めていた奈美は、またグラスに口をつけた。

 「当然って、どういう意味?」

 「だってそうでしょ。私がアメリカに行く条件は、瀬上さんを一緒に連れて行くこと。その瀬上さんが誘拐されたんだから条件を満たすためにも、救出を手助けしなきゃならないでしょう。」

 屁理屈とわかっているが、霧子は反論できなかった。ここで奈美にそっぽを向けられたら、困るのは霧子だ。

 「で、どうすればいいの?」

 霧子はしぶしぶ、奈美の要求を承諾した。

 

 瀬上が目覚めたとき、自分が見知らぬ場所にいるということに、はじめ気がつかなかった。やがて、意識が回復し、自分の身に起こった出来事を思いだすと、やっと自分が誘拐され、見知らぬ場所に連れてこられたのだと、自覚した。

 それは同時に恐怖を引き起こした。

 「ここは…?」

 薄暗い場所だ。

 見渡すとコンクリートがむき出しの、どこかの倉庫のようであった。

 照度の高くない蛍光灯が、天井に張り付いている。

 瀬上は立とうとしたが、身動きができない。

 見ると粗末な椅子にロープでがんじがらめにされていた。

 「気がついたか?」

 突然、聞き覚えのない声が前方から聞こえてきた。

 見ると、部屋の片隅に男が一人、同じような粗末な椅子に座っている。

 茶色の革ジャンを着たその男は、立ち上がるとゆっくりと近づいてきた。

 「良く眠れたかね?」

 「きみはだれだ?」

 その途端、平手が瀬上の頬に飛び、乾いた音が部屋に響いた。

 「質問はゆるさない。私の聞いたことだけに答えればいい。」

 男は顔を近づけてきた。

 「君はどこまで知っている?」

 「なんのことだ。」

 また、平手打ちが飛んだ。

 瀬上の頬が赤く染まる。

 「君が防衛隊の幹部の会話を、盗み聞きしたのは知っている。その内容をどこまで知っているのか、と聞いている。」

 「なんのことかわからないな。」

 「白を切るつもりか?苦しむだけで無駄なことだぞ。」

 そう言うと男は瀬上から離れ、部屋の片隅に行くと、何かを取り上げ、また戻ってきた。

 手には金属製の箱を持っている。

 「何をするつもりだ。」

 いやな予感が瀬上の頭の中を駆け抜けた。

 「力づくで吐かせてもいいんだが、時間が勿体ないのでね。薬を使うことにするよ。」

 「薬?」

 「聞いたことがあるだろ。自白剤というやつさ。」

 男の頬にサディスティックな笑いが浮かんだ。

 金属製の箱の中には注射器と薬のアンプルが入っていた。それを取り出すと、アンプルに針を刺し、中の液体を注射器の中に吸い上げた。

 「これを打てば、五分もしないうちに聞かれたことに、何でも答えるようになる。ただ、副作用がきつくてね、廃人になることもある。」

 注射針を瀬上の目の先に掲げ、男は目を細めた。

 瀬上の恐怖は頂点に達した。

 「わかった。知っていることはなんでも話す。」

 「ほう、話すのか。」

 男は少しがっかりした様子を見せながら、注射器を箱にしまった。

 それから三十分あまり、瀬上は男に問われることに素直に答えた。一通り答えると、男は部屋から出ていった。

 部屋の外には別の男が待っていた。

 「全部、しゃべったのか?」

 「ああ、ちょっと脅したらペラペラとしゃべったよ。」

 「でたらめではないだろうな。」

 「単なるルポライターだ。でたらめをしゃべるほど、ネタに命をかけてないさ。」

 「それもそうだな。」

 尋問した男の自信ありげな言葉に、もう一人の男は納得したようにうなずいた。

 「で、どうする?あの男。」

 「そうだな。」

 「始末するか?」

 「そうあわてるな。阿賀野さんの指示を仰いでからだ。」

 そう言って、もう一人の男はポケットから携帯を取り出し、ある番号をかけた。電話はすぐにつながった。

 「はい、はい。そうです。すべてしゃべりました。え、証拠品ですか?わかりました。確認して折り返し連絡します。」

 男は難しい顔をして、携帯を切った。

 「どうだった?」

 電話のあとの男の表情に、もう一人の男は不安げに顔をのぞきこんだ。

 「あいつが、証拠品を隠してないか、確かめろとさ。」

 「証拠品?」

 「面倒だが、もう一度問い詰めてみるか。」

 そう言って、男は瀬上のいる部屋に入っていった。

          5

 「で、証拠品は隠していたのか?長良。」

 「最初は中々、しゃべりませんでしたが、ちょっときつく詰問したら、あっさりしゃべりました。」

 ちょっときつくの言葉に、阿賀野は軽く嘲笑を浮かべた。

 「それで、どこに隠しているのだ。」

 「女に預けてあると。」

 「おんな…?」

 阿賀野は、目の前の長良をじろりと睨んだ。その視線に長良は肩をすくめた。

 「どこの女だ?」

 そう言いながら阿賀野にはその女がだれか、察しがついていた。

 「スナックのホステスです。ほら、我々をまいて瀬上を逃がし、自分も北海道に向って、そのまま消えた女です。たしか、リエとかいいましたね。」

 長良の説明を聞きながら、自分の予想が的中したのと同時に、あの方の命令も蘇えってきた。

 「まいったな。」

 「え?」

 「いや、なんでもない。女の行方は今もつかめないのか?」

 「ええ、阿賀野さんが女の追跡を中止させましたしね。」

 長良の非難めいた目に、阿賀野は威嚇するように睨み返した。その目に長良は思わずたじろいだ。

 「とにかく、女の行方を探さないといかんな。」

 そのとき、別の男が二人のいる部屋に入ってきた。

 「阿賀野さん、この新聞を見てください。」

 入ってきた男は、手にした新聞を阿賀野の前に差し出した。

 「この忙しいときになんだ。」

 ひったくるように新聞を手にすると、一面を見た。

 爆破事件のことが大々的に載っている。

 「そこじゃありません。中の広告欄です。」

 言われて阿賀野は、中の広告欄を見た。様々な募集や尋ね人が掲載されている。その中で、阿賀野の目にとまった広告があった。

 〈瀬上明ちゃんへ。おねえちゃんが探しています。この広告を目にしたら連絡をください。大切な秘密箱を持って待っています。〉

 「これは…」

 阿賀野はその広告を二度、三度と読み返した。その前で長良が不思議そうな顔で阿賀野の様子を見ていた。

 「これを見てみろ。」

 自分を眺めている長良に、手にした新聞を渡した。長良も新聞の広告欄を読み、すぐに同じような顔になった。

 「阿賀野さん、この広告はもしかして。」

 「我々へのメッセージだ。」

 「つまり、取引を持ちかけてきたと…?」

 「多分な。」

 阿賀野は腕を組んだまま、部屋を往復し始めた。

 「どうします、阿賀野さん。」

 新聞を持ってきた男が、阿賀野の動きを目で追いながら尋ねた。しかし、それには答えず、阿賀野は考え続けた。

 その様子に、長良ともう一人の男は黙って見ているしかなかった。

 「よし、乗ってみるか。」

 そう言うと、阿賀野は携帯を取り出した。


 阿賀野の携帯が奈美の携帯を鳴らすと、奈美は待っていたとばかりに電話に出た。

 そこは奈美が尋ねた例のスナック。

 隣には、事の成り行きに好奇心むき出しの霧子がいる。

 『もしもし、新聞の尋ね人欄を見たんだが。』

 見知らぬ声の主が、前置きもなく本題から入ってきて、奈美は多少興奮した。

 「さっそくの連絡、ありがとう。」

 興奮を面に出さぬよう、奈美は極力抑えた声で返答した。

 『おねえさんが広告を出した本人か?』

 「ええ、あなたが瀬上さんを誘拐した張本人?」

 核心をつく発言に、そばにいる霧子はハラハラした。

 『ああ、そうだ。』

 相手も簡単に返答した。

 「瀬上さんは無事なの?」

 『無事だ。あんな広告を出したのは、取引をしようということか?』

 「ええ、そのとおりよ。あなたがほしがっている物を私が持っているわ。」

 『本物か?』

 「人の命がかかっているのよ。偽物を用意するわけはないわ。」

 『それもそうだな。』

 「場所と日時を指定して。」

 『こっちに任せるというのか?』

 「ええ、その方がいいでしょ。」

 奈美がニッコリ笑うと、電話の向こうの阿賀野もニヤリと笑った。

 『わかった。後で連絡する。』

 そう言い残して、電話は唐突に切れた。

 「まずは、取引成立というところね。」

 奈美はゆっくり携帯をポケットにしまった。

 「大胆な人ね。こっちが冷や汗をかいたわ。」

 そばにいる霧子は苦笑いを向けた。

 「それで、これからどうするの?」

 カウンターに片肘をつきながら霧子は、すぐそばに立つ奈美の顔を覗き込むように尋ねた。

 「そうね。向こうがどこの場所を指定するかによるわね。」

 奈美は、カウンターに背中を預けるように座りながら、天井を見上げた。

 「指定した場所に私が先回りするわけ?」

 「いいえ、霧子さんには、私のあとをつけてもらいたいの。」

 「先回りしなくていいの?」

 「それは別の人にたのむわ。」

 「別な人?」

 奈美のその言葉に、霧子の脳裏に剣持の姿が浮かんだ。

 「それって、ミスター剣持?」

 「ちがうわ。」

 「ちがう?」

 「霧子さんもよく知っている人たちよ。」

 「人たち?」

 奈美はいたずらっぽく笑いながら、椅子から立ち上がった。

 「さ、いそがしくなるわよ。」

 そう言って、奈美はスナックから出ていった。

 「ちょっと待って。」

 霧子も急いでその後を追った。


 携帯を切って懐にしまった阿賀野を見て、長良はすぐに口を開いた。

 「どうだったんですか?」

 心配そうな長良を横目で見て、阿賀野は瀬上のいる部屋のドアに近づいた。

 「日時と場所はこちらで指定していいそうだ。」

 そう言いながら、阿賀野はドアの取っ手に手をかけた。

 重い音とともに、薄暗い部屋の中が見えてくる。中央には体を前折りにして椅子に座った瀬上がいた。

 部屋に入った阿賀野に続いて、長良も部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。

 「大胆な女どもだな。」

 その言葉に、長良は驚いた。

 「相手は女ですか?」

 「声ではな。」

 そう答えながら、阿賀野は瀬上に近づき、髪の毛に手をかけると、引っ張り上げるようにして顔を自分に向けた。

 意識のない瀬上の顔には、詰問の跡が痛々しく残っていた。

 「起きろ!」

 阿賀野の平手が瀬上の頬に飛び、乾いた音とともに瀬上は意識を取り戻した。

 「ううう…、もう…かんべん…してく…れ…」

 擦れた声で哀願する瀬上を、蔑んだ目で見下ろす阿賀野は、瀬上の髪の毛をさらに引っ張った。

 「喜べ、お前を引き取ってくれるやつが現れたぞ。」

 「?」

 瀬上には、阿賀野の言っている意味が理解できなかった。ただ、恐怖に震えるだけであった。

 「明日、お前を自由にしてやるよ。」

 そう言われても、今の瀬上にはピンとこない。

 その様子を見て、阿賀野は掴んだ瀬上の髪を離すと、傍らにいる長良に顔をむけた。

 「見張っていろ。」

 「阿賀野さんはどちらへ?」

 その問いに阿賀野はニヤリと笑った。

 「もちろん、取引の準備さ。」

        6

 翌日、奈美は西に向かってBMWを走らせていた。阿賀野からの指定を受けてのことである。

 霧子からBMWを借りて、奈美自ら運転して指定された場所に向かった。

 その後ろからは、霧子のソアラがついてくる。

 「以外ね。あなたが車を運転するなんて。」

 奈美の耳に着けたイヤホンから霧子の声が流れてくる。

 「スナック務めしていたとき覚えたのよ。必要だからね。」

 胸に装着したマイクを通して、奈美は答えた。

 「へえー、お酒だけじゃあなかったのね。」

 霧子は皮肉っぽく返した。

 「ただ、私、無免許なのよ。」

 「え!」

 その答えに、思わず霧子は声を張った。

 「うそでしょ。」

 聞き返してきた霧子の言葉に、奈美は軽く笑みを浮かべて、返答はしなかった。

 それを境に二人の会話は途切れた。

 目的地に近づいたからだ。

 いまは使われなくなった倉庫が目の前にある。

 BMWを倉庫の前に停めると、奈美はすぐに車から降りた。

 ソアラはそこから見えないところに停車した。ダッシュボードから双眼鏡を取り出すと、それを使って、霧子は車内から奈美の様子を監視し始めた。

 その双眼鏡に映る姿は、眼鏡にお下げ髪のやぼったい女性であった。

 倉庫はひっそりとしている。

 「来たわよ!」

 奈美は倉庫に向って叫んだ。

 しばらくは、何の反応もない。

 「約束通り、持ってきたわよ。」

 もう一度、叫んだ。

 それに呼応するように、倉庫のシャッターが上がり始めた。同時に、その後ろにいる人間の姿が徐々に現れた。

 奈美の警戒心が高まる。

 シャッターが上がりきると、その後ろにいたのは阿賀野であった。

 「時間通りだな。」

 阿賀野がニヤリと笑うと、奈美も不敵な笑みを見せた。

 「瀬上さんはどこ?」

 その問いに、阿賀野は親指で後ろを差した。

 阿賀野の肩越しに視線を移すと、薄暗い倉庫内の中央に二人の男が立っていた。一人は瀬上であり、もう一人は見知らぬ男だ。

 「壬生さん。」

 壬生真奈の姿の奈美を見て、瀬上は思わず叫んだ。

 「瀬上さん、すぐに自由にしてあげるわ。」

 そう答えたあと、瀬上に送っていた視線を、奈美はすぐに目の前の阿賀野に移した。

 「さて、取引といきましょうか?」

 「例の物は持ってきたのか?」

 その問いに、奈美はBMWのダッシュボードから秘密箱を取り出した。

 「これよ。」

 「もらおうか。」

 阿賀野が手を出すと、奈美はそれを拒否するようなしぐさを取った。

 「まずは瀬上さんを解放して。」

 「それが本物か、確認してからだ。」

 「信用がないのね。」

 そう言うと、奈美は秘密箱をいじり始めた。からくりを動かしたあと、蓋をあけると、中から小さな青っぽい物を取り出した。

 「どう?」

 中から取り出し、目の前に掲げたのはメモリースティックだった。

 「なるほど。」

 阿賀野が指を鳴らした。それを合図に倉庫の中の男が、瀬上を後ろ手に抑えたまま倉庫から出てきた。

 日の光にまぶしそうな顔をする瀬上の顔を見て、その傷跡に奈美は阿賀野を睨みつけた。

 その様子を霧子とは別に、隣の倉庫の屋根の上から伺っている二人がいた。

 麻里江と美樹である。

 奈美に頼まれ、先行して目的地に到着した二人は、倉庫を中心に辺りを調べまわり、罠が無いか確認したうえで、取引が無事終了するために辺りを見張っていた。

 「一応、倉庫の周りに結界を張ったけど、大丈夫かな。」

 美樹が心配そうに麻里江の顔を見た。

 「とりあえず待ち伏せはなさそうだけど、相手がどんな手に出るか、注意してないとね。」

 そう言うと麻里江は、双眼鏡でもう一度、周りを見渡した。美樹も一緒に双眼鏡を目に当てた。

 

 その倉庫から300メートルほど離れたところに、高圧電線を支える鉄塔があり、その中ごろに黒い法衣を着た人間が座っていた。

 丸坊主頭のミイラのようなその男は、倉庫の出来事を眺めながらニヤニヤと笑っていた。

 「なにを笑っているの?幽斎。」

 どこからともなく声が響いてきた。しかし、幽斎は驚きもせず、ただ笑みを浮かべながら倉庫の方を見ていた。

 「樹魔か。おぬしこそ、ここに何の用だ?」

 「ちょっと興味があってね。見物に来たの。」

 幽斎の頭の上から答えが返ってきた。

 その声のする方に目を向けると、そこには一輪のヒルガオが鉄柱に絡みついていた。幽斎はそのヒルガオの花に向って語りかけた。

 「見物か。酔狂なことじゃの。」

 「幽斎こそ、いいの?アメリカの女を消すんじゃあなかったの。」

 ヒルガオが言葉を発した。

 「アメリカの女はほれ、あそこにおるよ。」

 幽斎が指差した方向には、霧子の乗るソアラがあった。

 「ふーん、ちゃんと見張ってはいたのね。」

 からかうような口調の声がヒルガオから返ってきた。しかし、それには意に介さず、幽斎は別な方向を指差した。

 「ほれ、あすこにも野次馬がおるようじゃ。」

 幽斎が指差した方向は、麻里江と美樹のいる倉庫の屋根であった。

 「あれは…」

 「陰陽師の女子どもじゃ。」

 幽斎はあきらかにおもしろがっている。

 「高みの見物で自分は何もしないつもり?」

 「仕事はする。しかし、いましばらく見物していても(バチ)はあたらんじゃろ。」

 膝の上に片肘をつくと、幽斎はそれに顎を乗せた。

 「のんびりしすぎて、機会を逸しないようにね。」

 「それより、お前さんの存じよりの者も、ここに来ているようじゃぞ。」

 「え?」

 

 奈美と阿賀野がやり取りしている先にある倉庫の中、天井を支えている鉄骨の上に、女が一人寝そべっていた。

 赤い髪のライダースーツ姿の女は、倉庫の入り口で交渉している奈美と阿賀野を見ながら、先ほどから面白そうに笑っていた。

 「あなたがなぜ、ここにいるの?」

 不意の声に、赤い髪の女は驚いた。

 「だれ!?」

 辺りを見渡した女は、鉄骨に絡まる一輪のヒルガオの花を見つけた。

 「樹魔なの?」

 女は恐る恐る花に話しかけた。

 「あなたは左京様のそばにいるんじゃあなかったの?」

 ヒルガオの花がたしなめるように声を発した。

 「興味があってね。ついて来たのよ。」

 相手がわかってホッとしたのか、女はまた入り口の方に目を向けた。

 「左京様は知っているの?ナル。」

 ナルと呼ばれた女は、答えなかった。

 「黙って来たようね。」

 「もともと、あなたが持ち込んだ仕事でしょ。最後まで見るのが責任ってもんじゃあない?」

 ナルが反論すると、花はしばらく沈黙した。

 「わかったわ。ただし、見ているだけよ。手出しは無用。」

 念を入れるように命令したあと、ヒルガオの花は下に落ちた。それを見て、ナルは不愉快そうな顔をして、倉庫の入り口に目を向けた。


 周りでそんなやり取りがあるとは露知らず、奈美と阿賀野は睨み合いを続けていた。

 「それを渡してもらおう。」

 阿賀野が手を差し出すと、奈美はその手を見たあと、阿賀野の肩越しに倉庫の中を見渡した。中は薄暗く、様子は掴めなかった。しかし、奈美にははっきりと、中に人が隠れているのが感じ取れた。

 (やっぱりね。)

 きっと、麻里江や美樹が来る前から、倉庫の中に隠れていたのだろう。自分たちを捕らえる気だと推測した。

 「まずは瀬上さんを自由にして。渡すのはそれからよ。」

 それを聞いて、阿賀野は仕方なさそうな顔をして後ろの男に顎で合図した。それを受けて、後ろの男が瀬上を阿賀野の横まで連れてくると、後ろ手に拘束している手錠を外した。

 「これでいいか?」

 阿賀野が奈美の顔を見て、ニヤリと笑うと、奈美も「ええ」と答えながら阿賀野に一歩近づいた。そして、阿賀野の差し出す手にメモリースティックを置こうとした時、いきなりその手を掴んだ。

 「瀬上さん、走って!」

 叫ぶと同時に、阿賀野の腕をひねりながら後ろに廻り、その首に針を当てた。

 瀬上は奈美の叫びに突き動かされるように、前に駆け出した。

 それを見ていた霧子は、ソアラのアクセルを踏み、瀬上の元にソアラを走らせた。

 奈美は阿賀野の後ろから倉庫の中を睨み付け、麻里江と美樹はいつでも飛び出せるように臨戦態勢に入り、霧子のソアラは走る瀬上の前に車をつけると、助手席のドアを開けた。

 「早く乗って。」

 見知らぬ女の指示に、訳も分からぬまま瀬上はソアラに飛び乗った。

 「逃げるわよ!」

 そう言ってアクセルを踏んだ時だった。

 倉庫の中から紅蓮の炎が線を引いて走った。

 炎はソアラの前輪に命中し、一瞬のうちにタイヤを焼き尽くした。

 バランスを崩したソアラは、スピンしてそのまま横転した。

 その状況に、今度は奈美の全身を驚愕と警戒が走った。

 いきなり殺気が奈美の頭を貫く。

 次の瞬間、阿賀野を押し倒し、自分は横っ飛びに飛んだ。

 そのコンマ数秒後、赤い炎の線がその場を走り抜けた。

 「!」

 「逃がすな!」

 倒された阿賀野が叫んだ。

 その声に倉庫の中から男たちが、一団となって駆け出してきた。

 「ちっ!」

 奈美も囲まれまいと、走り出した。

 向かう先にはBMWがある。

 ソアラからは、霧子と瀬上がなんとか抜け出そうとしていた。

 「だいじょうぶ?」

 ショックを受けているようだが、瀬上はかすり傷程度ですんでいた。それを見て、霧子は瀬上を助け起こすと、その手を引いて駆け出した。

 「死にたくなかったら全力で走って。」

 霧子たちが向かう先もBMWであった。

 一団も逃がすまいと、必死に駆けた。

 一人が奈美を捕まえようとする。

 その手を振り払って、奈美の横蹴りが相手の脇腹に喰い込んだ。

 「ぐえ!」

 うずくまる仲間を乗り越えて、別の男が躍りかかった。

 手にしたナイフが銀の線を引いて、奈美に迫る。

 すぐ目の前でナイフを握る手を摑まえると、奈美の右足が相手の向う脛を蹴り上げた。

 バランスを崩す男の顎に、奈美の掌底がさく裂した。

 顎が折れる音とともに、男はもんどりうってひっくり返った。

 霧子と瀬上の方にも、別の一団が追いつこうとした。

 「ひ、助けてくれ。」

 「車に行って!」

 霧子が振り向きざまにコインを弾いた。

 風切音とともに男たちの額や胸に命中し、射的の的のように次々と倒れた。

 「かまわん。銃を使え!」

 阿賀野が唾を飛ばしながら命令した。

 残った男たちが懐から銃を抜く。

 奈美と霧子の動きが同時に止まった。

 「飛び道具とはね。」

 「予想しなかったの?」

 危機的状況にもかかわらず、二人は落ち着いていた。

 「手を上げて、こっちにこい。」

 阿賀野がひきつった笑いを浮かべながら手招きした。

 二人がゆっくりと手をあげる。

 BMWにたどり着いた瀬上は、この状況を車の陰から見守っていた。

 「どうした。早くこっちへこい。」

 手を上げてはいるが、一向に動こうとしない二人に、阿賀野はヒステリックに叫んだ。

 「いやよ。」

 猫なで声の返答に、阿賀野の怒りが爆発した。

 「きさまら!」

 阿賀野が懐からベレッタを抜いた。

 銃口が奈美の額を狙う。

 そのとき、後方から風切音とともに銀の光が飛んできた。

 「ぐわ!」

 ベレッタを握る阿賀野の手に、鏢が深々と突き刺さった。その激痛に阿賀野の手からベレッタが落ちた。

 「阿賀野さん!」

 そう叫んだ男たちに向って、カードが次々と飛んできた。

 「ぐわ!」

 カードは銃を持つ手を次々と切り裂いていく。

 「だれだ!」

 振り向いた阿賀野の目に二人の少女が映った。

 その隙に奈美は阿賀野のベレッタを拾うと、銃口を阿賀野に向けた。

 「形勢逆転ね。」

 駆けつけた麻里江と美樹は、カードと縄鏢を構えながら他の男たちをけん制した。

 「霧子さん、急いで車へ。」

 奈美の言葉に無言で頷くと、霧子は瀬上が待つBMWに向かった。

 「逃がすか!」

 追いかけようとした阿賀野の足元に向って、ベレッタが火を噴いた。

 途端に阿賀野の体が固まった。

 再び、銃口を阿賀野の額に向けた奈美は、麻里江と美樹にBMWに乗るように目配せした。

 それを察した二人は、男たちを睨みながらゆっくりとBMWに歩み寄った。

 阿賀野の額に血管が浮き出す。

 しかし、一歩も動けない。

 奈美の迫力に阿賀野を含めたその場にいる全員が委縮していた。

 その間に、霧子はBMWに乗り込み、エンジンキーを廻した。瀬上に続いて、麻里江と美樹も乗り込み、あとは奈美だけであった。

 「おねえさん、早く、早く。」

 阿賀野に銃口を向けながら、後ろ足でBMWに駆け寄ろうとしたときだった。

 紅蓮の炎がまた、奈美に向かって走った。

 横に転がりながらそれを避ける。

 男の一人が奈美を捕らえようと襲い掛かった。

 伸ばす手を取った奈美は、それを捻りながら後ろに廻った。

 男を盾にしようとしたが、炎は構わず襲い掛かる。

 男を突き放して、素早く逃れた奈美の目に、炎に包まれる男の姿が映った。

 「ギャ~ !!」

 断末魔の叫びを残して、男はのたうち回りながら倒れた。

 その光景を見て、奈美だけでなく、その場にいた一同が息を飲んだ。

 「奈美、早く乗って!」

 霧子が運転席から叫んだ。

 「そのまま行って!」

 奈美の返答に霧子たちが驚いた。

 「何言っているの!?」

 「いいから。早く行って!」

 奈美は倉庫の方を睨みながら、背中を向けたまま叫んだ。

 「おねえさんを助けなきゃ。」

 美樹がBMWを降りようとした。しかし、降りる前に霧子がBMWのアクセルを踏んだ。

 いきなりの急発進に美樹は背もたれに鼻をぶつけた。

 「痛~い。なにするんだ。」

 美樹が鼻を押さえながら不平を言う。

 「霧子さん、止めて。」

 麻里江が後部座席から身を乗り出して霧子に願うが、霧子はそれを無視してBMWを走らせ続けた。瀬上も霧子の行動に目を丸くしながら黙って見ていた。

 「霧子さん!」

 麻里江が制止させようと、霧子の肩を掴んだ。しかし、霧子はなおもアクセルを踏み続けた。

 「奈美さんを見捨てる気。」

 「奈美なら大丈夫。」

 確信めいた霧子の語気に圧倒され、麻里江は言葉が続けられなかった。美樹はリアウィンドウごしに、奈美の姿を心配そうに見つめていた。

 

 BMWが走り去るのを確認すると、奈美は改めて倉庫の方を睨みつけた。

 その周りには阿賀野をはじめ男たちが6人、奈美を取り囲んだ。

 「仲間に置いてけぼりを食ったようだな。」

 阿賀野が口の端に嘲笑を浮かべた。

 「足手まといになるから、先に行かせたのよ。」

 「け、強がりを。」

 横目で阿賀野を見ながら、奈美はゆっくりと倉庫の方へ歩き始めた。

 「おい、どこへ行くつもりだ。」

 「仲間の犠牲も厭わない、強いお方の顔を見たくてね。」

 奈美と阿賀野の視線が黒焦げになった死体に向いた。

 「そんなことができると思っているのか。」

 阿賀野が指を鳴らすと、残りが全員、銃を構えた。しかし、その状況でも奈美は歩みを止めなかった。

 「おい、止まれ。」

 阿賀野の命令を無視して歩き続ける奈美。その目はまっすぐ倉庫を見つめていた。

 「貴様!」

 横にいた男のH&KP7を奪うように取ると、阿賀野は銃口を奈美に向け、引き金を引いた。

 P7特有の銃声とともに足元の土が舞い上がった。

 奈美の歩みが止まる。

 「銃をすてろ。」

 阿賀野の命令に、今度は素直にベレッタを地面に捨てた。それを見た別の男がP7を構えたまま、ベレッタを拾おうとした。

 その瞬間、奈美の足がベレッタを蹴った。

 蹴られたベレッタは、拾うとした男の顔面に当り、その激痛で顔を手で押さえた。その手を掴むと、奈美は男の背後に回った。

 他の男たちの銃が、仲間を盾にした奈美に向く。しかし、仲間が邪魔で攻撃ができない。

 「かまわん!撃て!」

 阿賀野のP7が火を噴いた。

 それに触発され、他の男たちも引き金を引いた。

 数十発の弾が盾にした男の体にめり込んだ。

 しかし、奈美は驚異的なスピードで盾の男から離れ、別の男の背後に廻ると、その首をへし折った。

 奈美は、ぐったりとなった男の背中と腰を持つと、まさしく盾のようにして、銃を持つ男たちに向って駆け出した。

 女と思えない力に、男たちは驚愕し、その脅威に圧倒されて、次の行動に移るのが遅れた。

 盾となった男が一方の男に向って投げだされた。

 「うわ!」

 思わず受け止めようとした男は、その重さに無様に下敷きとなった。

 その後ろからすばやく移動した奈美の足が、下敷きになった男の頭を蹴り上げると、続けざまに横の男の股間に蹴りを食らわせた。

 白目を剥いて倒れる男の後ろに、阿賀野ともう一人の男がいた。

 二つの銃口が奈美に向って狙いを定める。

 そのとき、銀の光が二人の手を貫いた。

 「ぐわ!」

 二人がほぼ同時に銃を落とした。

 「なんだ。一体?」

 二人の手の平を銀の針が貫いている。

 奈美は平然と二人に近づくと、落ちている銃を遠くへ蹴り飛ばした。

 「また、形勢逆転ね。」

 奈美はいつの間にか手にした銀の針を阿賀野の喉に突き付けた。

 「いろいろしゃべってもらうわよ。」

 威圧的な目で、奈美は阿賀野の目を覗き込んだときだった。

 殺気がまた、奈美のこめかみを貫いた。

 本能的に奈美は横っ飛びで、その場を逃げた。

 コンマ数秒遅れて、炎が阿賀野を包む。

 「ぎゃ~!」

 阿賀野の体が紅蓮に染まると、その場に転げまわった。やがて、その動きも止み、阿賀野は物言わぬ燃える物体と化した。

 その様子をじっと見ていた奈美は、怒りの視線を倉庫に向けた。

 そこには赤い髪の女、ナルが立っていた。

          7

 「ようやく現れたわね。」

 皮肉交じりに話しかける奈美に、ナルは嘲笑を浮かべた。

 「なかなかやるようね。」

 腕を組み、見下すように奈美を見るナルの姿に、奈美は怒りを覚えながらも、侮れない実力を感じ取っていた。

 「仲間を平気で犠牲にできるようなやつが、どんなすごい奴なのかと思ったけど、案外、かわいいお嬢さんじゃあない。」

 奈美の皮肉が続く。しかし、ナルは気にするそぶりも見せない。

 「所詮、能力の劣る人間。犠牲は当然よ。」

 情けのかけらもない言い草に、奈美の奥歯がギリッと鳴った。

 「自分はその人間以上だとでもいうわけ。」

 「その通り。だから、あなたも無駄な抵抗はやめて、大人しく殺されなさい。」

 残酷なことをさらりと言い放つナルに、奈美は黙って聞いてられなくなった。

 「世の中、そうそう自分の思い通りにはいかないわよ。」

 身構える奈美を見て、ナルの口元にまた嘲笑が浮かんだ。

 「無駄なことを。」

 ナルは、なんの構えも見せず、奈美が動くのをじっと待っていた。しかし、奈美は身構えたまま、中々動こうとしない。

 「威勢のいいことを言ったわりに、かかってこないじゃない。」

 今度はナルの口から皮肉が発せられた。

 それでも奈美は行動を移さない。

 ただ、すこしずつ、ナルとの間合いは詰めていた。

 「そっちがこないなら、こっちから行くわよ。」

 そう言い放った瞬間、土煙を残して、ナルが消えた。

 瞬時に奈美の目の前に現れたナルの右ストレートが、奈美の顔面に迫る。

 しかし、奈美に慌てる様子は見えない。

 軽く首を傾けて、それを躱した。

 続けざまに左右のストレートが放たれる。

 それも同様に躱していく。

 奈美の能力の高さに、軽く驚いたナルの攻撃に間が開いた。

 その間隙をついて、奈美が跳躍して間合いをとると同時に、手にした針を投げる。

 銀の線がナルの額に向って飛んだ。

 それを余裕で躱した隙をついて、奈美の体がナルの前に移動した。

 貫手がナルのみぞおちを狙う。

 その貫手を上から掴み、奈美の動きを止めた。

 「いい動きね。でも、私には通用しない。」

 奈美の手を振り払うと同時に、前蹴りが奈美の顎を狙った。

 後ろにのけぞる奈美の目の前を、一陣の風となってつま先が通り過ぎる。そして、宙で一旦停止した足は、そのまま奈美の頭部めがけて振り下ろされた。

 奈美の足が瞬時に蹴り上がる。

 ナルの踵と奈美の足底が宙で激突した。

 その衝撃で、ふたりは同時に弾け飛んだ。

 「ふふ、楽しませるわね。」

 ナルの右手が赤く染まる。

 奈美の中で戦闘意識(モード)が高まる。

 いきなり、腕を伸ばしたナルの右手から紅蓮の炎が放射された。

 奈美の体が横に飛び退く。

 最初の一撃を躱しても、炎が奈美を追いかけてきた。

 必死で躱す奈美だが、その熱が奈美のお下げ髪に火を点けた。

 「!」

 思わず頭に手をやると、奈美のお下げ髪がすっぽりと抜けた。

 「え、カツラ?」

 意外な展開に驚くナルの前に、銀色に輝く髪の奈美が瞬時に迫った。

 奈美の右拳が自分に向ってくるのに気付いたナルは、身をそらせたが、コンマ数秒遅れて、右頬をかすった。

 すぐに間合いをとったナルの頬から血が滲んだ。

 それを指で確かめたナルの目が怒りに燃えた。

 「てめえ!」

 ナルの両手が燃え上がった。

 両手から火炎放射が奈美に向って、次々と放射される。

 奈美はそれをジグザグに動きながら躱した。

 その後を追って、ナルも猛スピードで移動した。

 灼熱の手が奈美を燃やし尽くそうと、連続で繰り出される。

 かろうじて躱す奈美だが、その熱で体のあちこちに熱傷を負っていった。

 打開策を考える奈美の目に倉庫が映った。

 こちらに向かうナルに対して、奈美の髪から銀の針が放たれた。

 ナルにとって、思いがけない攻撃であった。咄嗟に火炎放射で銀の針を焼き払ったが、その隙に奈美が倉庫の中に駆け込んだ。

 「ふふ、バカメ。」

 倉庫は袋小路。ナルは相手が墓穴を掘ったと思った。

 

 倉庫に入った奈美は辺りを見回した。

 敵が乗ってきたと思われるレンジローバーがある。すぐに、ローバーのドアを開けると、中を探った。エンジンキーがついたままだ。

 ある考えが奈美の頭に浮かんだ。

 エンジンキーを回すと、猛々しいローバーのエンジン音が倉庫内に響き渡った。

 そこへ、ナルが走ってくる。

 エンジン音を聞いて、すぐに右手を掲げた。

 「逃がすか!」

 ローバーのギアを入れ、アクセルを踏むのと、ナルの右手から火炎が放射されるのが、ほぼ同時であった。

 その行動を予想していたのか、奈美はすぐにローバーから飛び降りた。

 灼熱の炎がローバーを包む。

 すぐにガソリンに引火し、ローバーは大爆発を起こした。

 倉庫の屋根が吹き飛び、爆風が辺りを薙ぎ払った。

 ナルは爆風と爆炎から身を守るため、その場から逃げ出し、地面に身を伏せた。

 目の前に瓦礫が降り注ぎ、黒煙が視界を遮った。

 爆発がおさまり、黒煙が晴れ始め、辺りに動くものはなかった。

 「死んだか?」

 満足げな笑顔を浮かべながら、ナルは立ち上がった。

 「しかし、あいつは一体…?」

 疑問を残しながらも、ナルはその場を立ち去ろうとした。

 そのとき、ナルに向って人影が立ち上がった。

 咄嗟に、あの女だと思った。

 「死ね!」

 火炎放射が人影を丸呑みした。

 炎に包まれたまま倒れた人影を確認するため、ナルはそのそばまで駆け寄った。

 あきらかに男とわかる黒焦げ死体がそこに横たわっていた。

 「ちがう!」

 驚きと警戒が全身を駆け巡ったとき、黒煙の向こうから銀の光が閃いた。

 ナルの両腕に激痛が走る。

 「ぐっ!?」

 両方の二の腕が銀の針で貫かれていた。

 飛んできた方向にナルの視線が飛ぶ。

 そこに銀色に輝く奈美が立っていた。

 「おのれ、生きていたか!」

 腕をあげようとしたが、上がらない。

 焦るナルを悲しげに見ながら、奈美の髪から銀の光が(またた)いた。

 次の瞬間、銀の針が喉を貫いた。

 「ぐわ!」

 激痛と衝撃にナルの体がひっくり返った。

 倒れたナルのそばに奈美が近づく。

 「おまえ、一体何者だ。」

 苦しい息の下、尋ねるナルに、奈美は片膝を着いてその顔を覗き込んだ。

 「あなたと同じ、化け物よ。」

 悲しげな目でそう答える奈美に、ナルの口の端が吊り上った。

 「化け物…」

 そう言ったきり、ナルは動かなくなった。

 ナルとの戦いにやっと終止符を打った奈美は、ひとつため息をつくと、すぐに、車で逃げた霧子たちのことが気になり、その方向に目をやった。

            8

 霧子たちを乗せたBMWは、倉庫から離れるべく、国道を東に走っていた。それを幽斎は鉄塔の上から面白そうに眺めている。

 「ほほう、逃げるわ。逃げるわ。」

 「追わないの?」

 再び、ヒルガオの花からたしなめるように、言葉が発せられた。

 「このまま、高見の見物といかぬか?」

 「自分の仕事をきちんとしたら。そうでないと、左京様にいいつけるわよ。」

 「しょうがないの。」

 ヒルガオに言われて、幽斎は面倒くさそうに立ち上がると、胸の前で印を結んだ。

 口の中でつぶやくように呪文を唱えると、どこからともなく霧が漂い始め、それは逃げるBMWに向って広がっていった。

 「妖法、傀儡返し。」

 幽斎の口元に邪悪な笑みが浮かんだ。


 自分たちを付け狙う者がいるとは知らず、倉庫から早く逃れようと、霧子はアクセルを目一杯、踏み込み、BMWを走らせていた。

 しばらくして、霧子は目の前に白い霧が立ち込めているのに気付いた。しかも、以前に見たことがある霧であった。

 そのことは、後ろに乗る麻里江や美樹にも感じられた。

 「これは…?」

 思わず、ブレーキを踏み、速度を落とす。

 「麻里江、この霧、もしかして…」

 「…」

 不安そうな美樹の問いに、麻里江は無言のままであった。

 「おい、一体どうしたんだい?」

 霧子の行動の意味もわからず、瀬上は霧子の肩をゆすった。

 「静かにして!」

 瀬上の手を払いのけると、霧子は注意深く前方を見つめた。

 霧はすでにBMWの周りを覆い、10メートル先も見通せなくなっていた。

 不意に黒い影が車の前に飛び出してきた。

 ブレーキが間に合わず、BMWと影は正面衝突した。

 鈍い衝撃とともに、影は1メートルほど跳ね飛ばされた。

 「人を跳ねたんじゃあないのか?」

 瀬上が不安そうに前を注視する。

 「車から出ないで。」

 霧子は瀬上たちにそう言い残すと、ドアを開け、外に出た。

 表は一面、真っ白だ。

 倒れていると思われるところへ、近づいていくと、影が人の姿をしているのに気付いた。

 不安が霧子の腹に重くのしかかる。

 「大丈夫ですか?」

 霧子の呼びかけに人影は反応し、ゆっくりと起き上りだした。

 「すぐに動かない方がいいですよ。」

 心配そうに言う霧子を無視して、人影はよろめきながら立ち上がった。そして、霧子に少しづつ近づいてきた。

 霧子の目に人影の全体像が映し出された。

 その姿に、霧子は思わず声を上げた。

 「え!その姿…!?」

 霧子が見たもの。それは骸骨であった。

 皮膚と言えるものも、髪と言えるものもなく、暗い洞穴のような眼窩を霧子に向けながら、その骸骨はゆっくりと霧子に近づいてきた。

 「なんの、ジョーク?」

 そう言いながら、思わず後ずさりをする。

 ボロボロの服を着たその骸骨の右手に、なにやら棒のようなものが握られている。それを振りかぶると、骸骨がいきなり駆け出した。

 手にした棒のようなもの、斧を霧子めがけて振り下ろした。

 「!」

 咄嗟にそれを躱した霧子は、本能的に右足を骸骨に向けて蹴りだした。

 蹴りは見事に骸骨の腹部に命中し、その衝撃で骸骨は吹き飛び、地面にあおむけに倒れた。

 その隙に霧子は、BMWに乗り込む。

 骸骨は何事もなかったように起き上がり、また斧を振りかぶった。

 「なんだ、あれは?」

 瀬上が自分の目が信じられないように、何度も目をこすった。

 「キャ!こっちにも何かいる。」

 美樹の叫び声に、麻里江がその方向を見た。

 霧の中から別の骸骨が現れた。

 BMWに近づくと、手にした木の棒で車体を殴り始めた。

 “ガン!”という鈍い音と衝撃が車内に響く。

 さきほどの骸骨が斧でボンネットを殴りつけていた。

 「車が壊される。」

 別の衝撃音が後ろから聞こえてきた。

 後ろを振り返ると、同じような骸骨が鉄パイプで車体を殴っていた。

 「つかまってて!」

 霧子がギアを入れると、思いっ切りアクセルを踏んだ。

 タイヤを鳴らして、BMWが急発進した。

 前にいた骸骨は、急発進したBMWの前部につかまったが、その力に抗えず、そのまま轢かれていった。

 BMWは霧の中を猛スピードでまっすぐに走った。

 しばらく走ったときだった。いきなり目の前に三体の骸骨が現れた。

 「くそ!」

 霧子が急ブレーキを踏む。

 そのまま急ハンドルを切って、方向を変えた。

 三体が後ろから追ってくる。

 「霧子さん、止めて。」

 麻里江が突然、叫んだ。

 「何言ってるの?早く逃げないと。」

 「この霧の中では同じところを駆け回るだけです。」

 そう言うと、麻里江がポケットから白い札を出した。

 「美樹、縄鏢を出して。」

 「あいよ。」

 美樹がポシェットから縄鏢を出して、麻里江に渡した。

 「何をするつもり?」

 BMWを停めて、霧子がふたりの行動を尋ねた。

 「あ、骸骨がくる。」

 瀬上が素っ頓狂な声を上げた。

 霧の中から例の三体がゆっくりと歩いてくる。

 白い札を結んだ縄鏢を手に、麻里江はドアをあけると、いきなり屋根に上った。

 「盟約に従いて集まりし光よ。我が求めに応じて、邪を照らし、()けたまえ。」

 右手に掲げたダイヤのカードがまぶしい光を放ち始めた。

 その光は三体の骸骨を照らすと、途端にその動きが鈍くなり、やがて固まったように止まった。

 「よし」

 その間をついて、縄鏢を輪にすると、それを宙に投げた。

 「天に生ずる四象に願い、地に生ずる五行にあわせて願い奉る。われらを囲みし、邪悪の霧を晴らし、我らが進む道を示したまえ。」

 麻里江が呪文を唱えると、輪になった縄鏢が空中でくるくると回り始めた。すると、徐々に空気が流れ始め、それは風となって霧を動かし始めた。

 霧が両側に流れていくと、一本の道筋が眼の前に現れた。

 「霧子さん、この道をまっすぐ行って!」

 「OK」

 霧子がギアを再び入れて、麻里江が作った道に向ってアクセルを踏んだ。

 動きを止めていた骸骨が再び動き始め、BMWを追いかけ始めた。

 麻里江の手からカードが放たれる。

 カードは骸骨の頭にめり込み、そのままひっくり返った。

 BMWが更にスピードを上げる。

 麻里江は宙で回る縄鏢を掴むと、手元に収めた。

 霧が後ろから追いかけてくる。

 麻里江は飛ばされぬように屋根にしがみついた。

 車内でも皆が固唾を飲んだ。

 やがて、霧が切れ、見慣れた道路が目の前に広がった。

 後ろを見ると、いつの間にか霧が消えていた。

 麻里江をはじめ、車内にいた者たちも安堵の息を吐いた。

 「脱出できたようね。」

 霧子が路肩に車を止めると、改めて後ろを振り返った。

 誰も追ってくるものはいない。

 屋根から麻里江が降りてきて、車内に入った。

 「ありがとう、美樹。」

 そう言って縄鏢を渡すと、大きく息を吐いた。

 「助かったわ。でも、あれはなんだったの?」

 「わからない。」

 霧子の問いに、麻里江は首を振りながら答えた。

 「おねえさん、大丈夫かな?」

 美樹が心配そうな顔で、倉庫があるであろう方向を見つめた。

 「奈美なら大丈夫よ。さ、行くわよ。」

 気休めとわかっていながら、霧子は美樹にそう言うと、BMWを発進させた。

 

 BMWが走り去った後、それを見送るように道路の上に立つ人間がいた。

 先ほどまで鉄塔の上にいた幽斎である。

 「フォフォ、なかなかやりおるわい。これは楽しめそうじゃ。」

 そうつぶやくと、倉庫のある方向に顔を向けた。

 「あちらも決着がついたか?」

 その方向から黒い煙が上がっていた。

 不気味な笑いを残して、幽斎はどこへともなく立ち去った。


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