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三、夜の女王は破滅の悪夢を見る

          1

 霊園での戦いのあと、四人は霧子のマンションにいた。

 戦いで負った傷の手当てもさることながら、麻里江と美樹は霧子に聞きたいことが山ほどあったし、霧子は奈美をなんとか懐柔したいと思っていた。

 奈美だけはこの三人と早く関わりを断ちたいと思っている。

 四人それぞれの思いが交錯するなか、霧子が提案した。

 「とりあえず傷の手当てをしない?私のマンションがこの近くにあるから、そこでならある程度の手当てはできるわ。」

 霧子の提案に麻里江と美樹は喜んで同意し、奈美はしぶしぶ同意した。

 そうして、四人は今、霧子のワンルームマンションにいる。

 四人が中に入ると、さすがに部屋は手狭だ。

 美樹と奈美はベットの上に座り、麻里江はフローリングの床に座った。

 霧子はクローゼットから救急箱を取りだし、それを使って四人は思い思いに手当てを始めた。

 「いてて、おねえさん、もうちょっとやさしくしてよ。」

 美樹は痛みにしかめっ面をし、脇でユキが心配そうな目をして美樹を見上げていた。

 「がまんして。それに私はおねえさんじゃあないわ。」

 奈美は不機嫌な表情を崩さず、美樹の手当てをした。

 「だって、わたしより年上でしょう。」

 美樹は屈託のない表情で奈美を見つめた。

 ユキも同様に見つめている。

 その無垢とも思える表情は、苦笑とともに奈美の心に少し安心感を与えた。

 「はい、済んだわ。」

 「おねえさんも手当てしないと。」

 「私は大丈夫よ。」

 「だめだめ。」

 そう言って美樹は奈美の傷口を見ながら消毒液を手にした。

 普段なら体に触られるのをいやがる奈美であったが、美樹の不思議な安心感に、素直に傷の手当てを受けた。

 ユキもそのやわらかい体を奈美に擦りつけてきた。

 奈美は思わず、ユキの頭を撫でた。

 それを見ていた霧子はうらやましそうに笑みを浮かべた。

 そのとき、傷口にしみる痛みが腕を駆けた。

 「Ouch(いた)!」

 「痛かったですか?」

 傷口を手当てしていた麻里江の手が止まった。

 「大丈夫…」

 霧子はひきつった笑いを浮かべながら麻里江を見た。

 「霧子さん、あらためてお聞きしますが…」

 「翔のこと?」

 その返答に麻里江は軽くうなずいた。

 「知っていたら教えてください。」

 一通り手当てを終えた麻里江は、治療薬を救急箱に入れながら霧子に尋ねた。それには美樹も注目した。

 「残念だけど翔の行方は私も知らないの。」

 「本当ですか?」

 麻里江は疑いの目で霧子を見つめた。

 それに対して苦笑する霧子は、救急箱を持つとクローゼットを開けた。

 「本当よ。翔とは一時(いっとき)、いっしょに行動していたけど、あの日を境に行方が分からなくなったわ。」

 そう言いながら救急箱をクローゼットにしまうと、冷蔵庫のドアを開け、中から缶ジュースを取り出した。

 「飲むでしょう?」

 麻里江に向って1個放り投げた。

 「あなたたちも飲むでしょ?」

 そう言って霧子は美樹と奈美にも缶ジュースを放り投げた。

 美樹は受け取った缶ジュースを、さっそく開けて飲み始め、それを見た霧子は、微笑みながら缶コーヒーを取りだし、蓋をあけた。

 「翔との連絡はぜんぜん取れないのですか?」

 「ええ、私もあれから探ったんだけど、まるで消えてしまったように行方が掴めなくなったの。」

 霧子のその言葉に麻里江の表情は暗く沈んだ。

 美樹も口にしていたジュースを口から離し、心配そうな目を麻里江に向けた。そんな二人を見て、奈美はいたたまれなくなった。

 「翔はえにしの会とオフィス・ワンの関係を探っていたようだけど、そもそもえにしの会は何をしようとしているの?」

 今度は霧子が麻里江に率直な疑問をぶつけた。

 「霧子さんはえにしの会が、オフィス・ワンを使って麻薬人間を作り出し、政財界のお偉方を虜にしていることはご存知ですか?」

 「それは知っているわ。私が追っていた博士がそれに関わっていたんだから。」

 そう答えながら霧子は缶コーヒーに口をつけた。

 「えにしの会が政財界のお偉方を虜にして、様々な会館やモニュメントを建てたり、学校運営に手を付けているようなのです。」

 学校運営という言葉が奈美の記憶の琴線に触れた。

 「なんのために?」

 「どうやらそこに魔法陣を設置するために?」

 「マホウジン?」

 初めて聞く言葉に霧子は首を傾げた。それは奈美も同様であった。

 「麻里江、いいのかい。そんなことしゃべって。」

 「いいのよ。ここで情報を出し合えば何かわかるかもしれない。」

 麻里江は心配そうな顔の美樹を尻目に続けた。

 「その魔法陣を使ってなにかをやろうとしていると思うんです。」

 「そのマホウジンってなに?」

 理解不能の言葉に霧子はついていけなかった。

 「魔法陣は様々な現象を発動させるための紋様で、一種の発生装置なの。」

 「現象?」

 まだ霧子にはピンとこない。

 「わかりやすいのは風水ね。家に良い運気が入ってくるようにしたり、水利をよくして水の便をよくしたり。」

 「悪魔とか呼び出したり…?。」

 霧子がいたずらっぽく笑いながら尋ねた。

 「それは漫画の話。ただ、悪い気を防いだりすることはできるわ。その逆もね。」

 「ふーん」

 霧子は相槌を打っているが、ほとんど理解していないだろうと麻里江は思った。

 「でも、魔法陣を使って何をしようというんだろう?わざわざ、麻薬人間を作り出し、お偉いさんを虜にして会館とか建てて。」

 「それはまだわかりません。魔法陣自体、なにを発動させるものなのかもわかっていないんです。」

 麻里江と霧子はおなじような難しい顔をして考え込んだ。それをはたで見ている美樹と奈美はなんとなくおかしくなって、お互いに顔を見合わせると笑顔を交わした。

 そばではユキがあくびをしている。

 「そう言えば、あなたたち、なぜ、私がここにいるってわかったの?」

 思い出したように顔を上げた霧子は、麻里江と美樹を交互に見ながら疑問の目を向けた。

 「それは剣持さんのおかげです。」

 「ミスター剣持の…?」

 意外な名前が飛び出して、霧子は少し面喰った顔をした。

 それは奈美も同様であった。

 「剣持さんが、霧子さんは今日、あの霊園に来るだろうと予想してくれたのです。それを信じてここへ来ました。」

 「すごいよね。剣持さん。ピッタリ当ったもの。」

 美樹は感心した様子で、ユキを抱きかかえて体を揺らした。

 「ミスター剣持がね。」

 霧子は奈美に視線を移すと、皮肉な笑いを浮かべた。

 奈美はその視線を避けるようにそっぽを向いた。

 「オフィス・ワンの方からは、なにも出なかったのですか?」

 麻里江は話題を戻そうと、霧子に更に尋ねた。

 「なにも。オフィス・ワンのアイドルたちが、えにしの会の信者ということくらいね。」

 「信者?」

 麻里江が興味深げに聞き返す。

 「そう、オフィス・ワンが信者をアイドルにするか、アイドルを信者にする。そうしておいて、ムツ・メディカルセンターを使って、彼女らを麻薬人間に仕立て上げる。それを政財界のお偉方にあてがい、自分たちの意のままになる人形にする。」

 「人形になったお偉方を使って、自分たちのほしい場所に会館やモニュメントなどを建てる。そして、人知れず魔法陣を設置する。」

 霧子の説明を引き取って、麻里江が続けた。その説明に美樹は大きくうなずき、奈美はなにかを気に掛けるそぶりを見せた。

 「魔法陣はどこに設置してもいいわけ?」

 霧子は麻里江の目を見ながら尋ねた。

 「いいえ、魔法陣はその目的にかなう場所に設置しないと、効力があらわれないの。」

 そう説明しながら麻里江の脳裏にあけぼの高校での現象が過った。

 (そうか、魔法陣はあの場所に設置しないといけないんだ。)

 麻里江が思案に入ると、だれもが口を閉ざした。

 重い沈黙が四人を縛りつける。

 その呪縛を断ち切るように美樹が口を開いた。

 「そう言えば、あの男の人、何者なの?」

 霧子と奈美を交互に見ながら、無邪気そうに尋ねる美樹の言葉に、二人の顔色が変わり、緊張が走った。

 「そう言えば、二人とも知っている様子でしたが?」

 麻里江も同じような疑問を顔に表して、二人を見た。

 「私に聞くより彼女に聞いたら。」

 霧子に突然、矛先を向けられ、奈美は慌てて立ち上がった。

 「私、これで失礼するわ。」

 そう言いながら奈美は急いで玄関に向った。

 「待ってください。あなた、確かにあの男の人を知っていますよね。」

 麻里江も急いで立ち上がると、奈美の腕を掴んだ。

 その行動に奈美は振り向き、鋭い目つきで麻里江を睨みつけた。

 「私は何も知らないわ。離してくれる。」

 「あの人は鬼龍一族に関わりある人。あなたもそうなんですか?」

 逃がすまいと麻里江の手に力が入った。

 その模様を霧子は楽しむように見ており、美樹はハラハラしながら見守った。

 「鬼龍一族?なんのことかわからないわ。」

 「知らないことはないはずです。だって、あなたはあの男の人を史郎と呼んでいたでしょ。」

 急所を突かれたように、奈美の体が一瞬硬直した。しかし、すぐに気を取り直すと表情を隠すようにそっぽを向いた。

 麻里江の中で確信が広がった。

 「教えてください。あなたは何を知っているんですか?」

 「なにも知らないわ!」

 そう叫ぶと、奈美は麻里江の手を思いっ切り振り払った。その予想以上の力に、麻里江の身体はバランスを崩し、美樹の座るベットに倒れ込んだ。

 「麻里江!」

 美樹が心配そうな顔をして麻里江を抱き上げると、そのまま奈美をキッと睨み付けた。予想外の出来事に奈美の顔にも一瞬、後悔の色が浮かんだ。その表情を残したまま、奈美はドアを開け、外へ出ていった。

 「あ~あ、行っちゃった。」

 霧子はがっかりしたような顔をして、残ったコーヒーを飲み干した。

 「なんなんだよ。いったい。大丈夫かい?麻里江。」

 美樹は怒りを顕わにしながら麻里江を気遣った。そばで、ユキが心配そうに顔を押し付け、麻里江の手をなめた。

 「大丈夫よ。でも、急になぜ…?」

 「痛いところを突いたからよ。」

 麻里江の疑問に、霧子は半ばからかうように答えた。

 「痛いところ?やっぱり、鬼龍一族と関係があるんですね。」

 麻里江は掴みかからんばかりに霧子に顔を近づけた。そんな勢いに押されるように霧子は立ち上がると、飲み干した缶コーヒーをくずかごに投げ入れた。

 「鬼龍一族がなんなのかは知らないけど、あの史郎という男を知っているのは確かよ。」

 「霧子さんも知っているんですか?」

 「さあね。」

 素知らぬふりで両手を上げた霧子に、今度は美樹が掴みかからんばかりに立ち上がった。

 「知らないことはないだろう。ここに来たのもあのおねえさんに会うためだし、あの史郎とかいう男にも親しげに話しかけてたし。」

 鋭い眼差しを霧子に向けて、美樹はにじり寄った。

 その視線をまともに受けても、霧子は表情を崩さず、かえって嘲笑を浮かべた。

 「なんでも話すほど私はお人よしじゃあないの。知りたかったら自分たちで調べるのね。」

 そう言って、霧子は美樹の脇をすり抜けるように移動すると、ベットの脇にあるテレビのリモコンを取り上げ、スイッチを押した。途端にアナウンサーの顔が映し出される。

 霧子は二人に背を向けて、テレビの画面をじっと見ていた。

 「テレビなんか見ている場合!」

 美樹は霧子からリモコンを取り上げると、スイッチを切ろうとした。そのタイミングでアナウンサーが差し出された原稿を読み始めた。

 「いま入ったニュースです。今朝、九時ごろ名古屋市内の銀行で爆発がありました。」

 三人の目が画面に釘付けになった。

          2

 そこは名古屋市内にある名の知れた銀行の支店。

 朝だというのに、客がひっきりなしに出入りしている。

 中に入れば、明るい照明に照らされた行内を、客、行員が行き来している。

 「十二番でお待ちのお客様、三番窓口へお出で下さい。」

 行内に女性の声でアナウンスが流れる。それに釣られるように一人の男性が椅子から立ち上がった。

 男は真直ぐカウンターに向い、手にした紙袋を床に置くと、目の前の女性行員に笑顔を送った。

 「いらっしゃいませ。」

 笑顔で答える女子行員は、客の用件を待った。しかし、客はなかなか用件を切りださない。

 「どのようなご用件でしょうか?」

 笑顔を崩さず、女子行員は尋ねた。

 しかし、客の返答はない。

 ただ、笑顔を見せているだけであった。

 「お客様?」

 行員は怪訝そうな顔をした。

 「夜の女王の祝福を」

 客がポツッとつぶやいた。

 「え?」と聞き返す行員の前で、客の体が白く発光した。

 次の瞬間、大音響とともに銀行は爆発した。


 現場は惨憺たる有様であった。

 必死の消火で火災は沈下したが、銀行の行員やその時中にいた客たちのほとんどが死亡していた。かろうじて助かった者も意識不明の重体であった。

 外にも被害はあった。

 銀行に入ろうとした者やたまたま通りかかった者にも爆発の衝撃は容赦なく襲い掛かり、死傷者を出した。

 現場の中を歩く室田は何度目かのため息をついた。

 行内は黒焦げで、あるべきカウンターや椅子、机などは原型を留めず破壊されつくしていた。すさまじい爆発力であったことを物語っている。

 元がなんであったか不明の瓦礫を避けながら、室田は盛んに写真を撮っている鑑識員の後ろに立った。

 「何かわかったか?」

 その言葉に手を止めた鑑識員は、何をいまさらという顔をして振り返った。

 「見たとおりですよ。爆弾が爆発して、なにもかも吹っ飛ばした。」

 やけくそのように言う鑑識員に室田は苦笑した。

 「いや、爆発物の特定とかだよ。」

 「わかりません。痕跡がなさすぎるんです。」

 鑑識員は苦々しく答えた。

 「痕跡がない?」

 「時限爆弾とかだったら、時限装置の一部とか、そういったものが残っているんですが、今回のはそれが見当たらない。」

 鑑識員は現場を見渡したあと、お手上げというジェスチャーをした。

 「まさか、事故だというんじゃあないだろう。」

 「これほどの惨状です。事故とは考えにくいのですが。」

 そう言って、鑑識員はまた写真を撮り始めた。

 また、ため息をついて室田は現場から外へ出た。

 外は規制線が張られ、多数の警察官が野次馬を中に入れないようにしていた。室田はその様子を眺めながら、一台のパトカーに近づいた。そこへ、若い刑事が駆け寄ってきた。

 「室田さん。」

 「おお、高山か。なにかわかったか?」

 高山という若い刑事は、室田の前に立つと、頭を掻いた。

 「いや、めぼしい情報は。」

 「あやしい人物を見かけたというのは?」

 「それもちょっと。ここは人通りが多いですからね。」

 「うむ」

 室田は腕組みをして、難しい顔をした。

 「テロですかね。」

 高山の口から出た言葉に、室田は敏感に反応した。

 「めったことは口にするな。住民がこわがるだろう。」

 「もう、十分こわがってますよ。」

 「とにかく、聞き取りを続けてくれ。」

 「わかりました。」

 そう言って、高山は近くにいた別の刑事を引き連れて、街の中に戻っていった。それを見て、また室田はため息をついた。

 

 名古屋の事件から二日後。

 大阪郊外のとある大手スーパー。

 昼時、店内は多数の客で活気づいていた。

 この店に入ったばかりの若いバイトも先輩に言われるまま、ショーケースに商品を並べていた。そんな若者の目の隅に一人の女性の姿が映った。

 商品の前で片膝をついたままじっとしている。

 しばらく様子を見ていたが、じっとしたまま動かない。

 もしかしたら病気かもしれない。

 悪い予感が頭をよぎり、不安が胸を内側から圧迫した。

 あいにく、まわりには他の店員の姿が見えない。

 若者はおもいきって女性に声をかけた。

 「あの、どうしました?」

 その声に反応して、女性が顔を上げた。

 どこにでもいるような普通の主婦であった。傍らに白い紙袋が置いてある。

 「体の具合でも悪いんですか?」

 できるだけ優しい言葉をかけた。

 その言葉に主婦はにっこりと笑った。

 「いえ、大丈夫ですよ。」

 「本当ですか?なんか、顔色が悪いようですが。」

 心配そうな顔の若者へ手を振りながら大丈夫のアピールする主婦は、ゆっくりと立ち上がろうとした。それを見て、若者は介添えするように自分の肩を貸してあげた。

 それに支えられて立ち上がった主婦は、若者に頭を下げながら礼の言葉を繰り返した。

 照れくさそうに頭を掻く若者に、主婦は礼の言葉のあとにある言葉をつないだ。

 「夜の女王の祝福を」

 途端に主婦の体が白く発光し、若者だけでなく、店内すべてを巻き込んだ大爆発が起こった。

 

 「これで3件目か。」

 剣持は小田切の報告を受けて、眉間にしわを寄せた。

 「今度は博多のショッピングセンターです。」

 大阪のスーパーの爆破事件から間をおかず、今度は博多で爆破事件が起こった。今度も多数の死傷者を出し、世間は騒然とした。

 「今度も犯行声明はなしか?」

 「はい、テレビ局にも新聞各社にも犯行声明のようなものはありません。」

 「公安にも情報はなにもないのか?」

 「そちらも困惑しているようです。」

 小田切の答えに剣持も口をへの字にしたまま押し黙った。

 「ともかく、情報を集めてくれ。」

 絞り出すように出した剣持の言葉に、小田切は小さく、「はい」と答えると、そのまま立ち上がり部屋から出ていった。

 「ふ―-」

 剣持はため息をつきながら、自分の椅子に座りなおした。

 ポケットからタバコを取り出したが、指に挟んだまま、いつまでも火をつけようとはしない。

 「なにかがはじまっている。」

 ポツリと漏れる言葉とともに、剣持の中で不吉な予感が波紋のように広がっていた。

          3

 そこは中央区の某所にある料亭の一室。

 時は夜の8時。

 六畳ほどの和室の中央に据えられたテーブルを挟み、二人の男が酒を酌み交わしていた。

 ひとりは三十代半ばほどの精悍な男で、いま一人は五十を超した抜け目のない目つきをした男であった。

 「まずは総選挙の勝利おめでとうございます。長門さん。」

 そう言って五十がらみの男は、長門と呼んだ目の前の男に向って、銚子を傾けた。

 銚子から注がれる日本酒を盃で受けながら、長門の目には不満の色が浮かんでいた。

 「不満がおありのようですね。」

 「まあな。」

 長門は盃を一気に飲み干すと、自分の銚子を男に向けた。男はそれをうやうやしく受けた。

 「確かに予想より早く解散されましたな。」

 「あの古狸め。」

 長門の脳裏に、とぼけた笑顔を湛えた老人の顔が浮かんだ。

 「それでも、当選者の多くが青年部の所属です。これで長門さんの官房長官は決まりですよ。」

 空いた盃に向って、男は再度、銚子を向けた。

 盃を持ち上げた長門の顔に、今度は笑顔が浮かんだ。

 「気が早いぞ、榛名(はるな)。まだ組閣もはじまってない。」

 受けた酒を一気に飲み干すと、長門は自分の銚子を榛名と呼んだ男にむけた。

 そのあとは手酌だ。

 「官房長官といえば内閣の顔とも言えますね。そのうえ総理代理権の第一位になることが多い。」

 榛名が料理に箸をつけながら、唐突に話した。

 「どういう意味だ。」

 盃に酒を満たしながら、長門は榛名の顔を見なおした。

 「そういう意味ですよ。総理に何かあれば臨時代理として内閣を取り仕切る。総選挙に勝てば、総理総裁ですよね。」

 榛名は料理を口に持っていきながら、口元に(よこしま)な笑みを浮かべた。

 「そう都合よくはいかない。民友党には幹事長もいるんだ。」

 「長門さんの人気はかなり高いですよ。」

 「おせじか?」

 長門も目の前の料理に箸をつけた。

 「とにかく世の中、何が起こるかわかりません。最近は爆弾騒ぎもおこっています。」

 その言葉に長門の目が大きく見開かれた。

 榛名が、さらに邪悪さを笑みに付け加えて、銚子を向けた。

 「ともかく、心の準備はしておいた方がよろしいということですよ。」

 「そうだな。そのときになって慌てないようにはしておこう。」

 盃を上げながら、長門の口元にも邪悪な笑みが浮かんだ。


 長門と榛名の会合と全く同じ頃、同じ中央区の某高級マンションの一室にも二人の男がいた。

 一人は、剃刀のような鋭い目つきをした男であり、いま一人は窓辺に立って夜の街を眺めているこの部屋の(あるじ)、陸奥であった。

 「やつの行方はまだ掴めんのか?阿賀野。」

 窓辺に立っていた陸奥は、不意に振り向くと、ソファに座る、阿賀野と呼んだ男に向って、ナイフのような言葉を投げた。

 「まだ、つかめていません。陸奥さん。」

 阿賀野は陸奥の問いを無表情で受け流し、感情の無い言葉で返した。その阿賀野の態度に、陸奥は不快な表情を見せた。

 「女の方はどうだったんだ?」

 「北海道へ行ったという情報は掴んだのですが、一緒ではなかったようです。」

 相変わらず阿賀野の表情は能面のように変わらない。

 「手掛かりなしということか?貴様らの捜査能力も、たかが知れているということだな。」

 陸奥は皮肉っぽい笑みを見せると、阿賀野の前にドカッと座った。

 その笑みに、阿賀野の顔に初めて苦笑が浮かんだ。

 「まるっきり手掛かりがない、というわけではないです。」

 「ほう、なんだ?」

 興味深そうに見つめる陸奥の姿勢が、自然、前のめりになる。

 「駅の防犯カメラに瀬上らしき男の姿が映っていました。」

 そう言って懐から出したのは、一枚の写真であった。

 それを取り上げて、しげしげと見つめる陸奥を尻目に、もう一枚写真を取り出した。

 「これは上野駅で撮られた瀬上の姿です。」

 そこに写っている姿と、陸奥が手にした写真の人物は、はっきり同一人物であることを示していた。

 「上野に潜んでいるということか?」

 「わかりません。しかし、少なくともこの東京にいるということです。」

 阿賀野は淡々と陸奥に説明した。

 「女の方からはなにか掴めんのか?」

 「函館に向かったのはわかっているのですが…」

 そこで阿賀野は言いよどんだ。

 「どうした?」

 「それがどうも…」

 煮え切らない阿賀野の態度に、陸奥はイラついた。

 「見失ったということか?」

 その言葉に阿賀野は小さく頷いた。

 それを聞いて、陸奥は大きくため息をついた。

 「それが特殊行動班の実力か?」

 陸奥の非難の目に、阿賀野はなにかを言おうとしたが、沈黙を守った。

 「ともかく、その瀬上とかいう男を早く探し出せ。そして、やつが掴んでいる情報というのを取り返すのだ。」

 「わかりました。」

 そう言って、阿賀野は立ち上がり、部屋を出ようとした。その背中に陸奥の声が投げかけられた。

 「あまり失望させるなよ。」


 部屋から出た阿賀野は、一階に降りると、路肩に停まっているスカイラインに向かった。

 後のドアを開け、後部座席に乗り込むと、スカイラインは静かに走り出した。

 「女の行方か…」

 阿賀野が言葉を漏らした。それを聞いて運転手がドアミラー越しに阿賀野を見た。

 「何かおっしゃいましたか?」

 「いや、なんでもない。」

 そう言いながら、阿賀野の頭の奥である言葉が蘇えった。

 (女のことは追及するな。)

 今、思い出しても頭の中が凍りそうになる口調であった。

 あの方の命令は陸奥よりも優先する。

 長い溜息が阿賀野の口から洩れた。そのとき、阿賀野のポケットの中で呼び出し音が鳴った。その音に急かされるように、阿賀野はポケットから携帯電話を取り出した。

 相手は部下の長良(ながら)であった。

 「おれだ。何かわかったか?」

 『例の男を見つけました。』

 「なに!瀬上明か!?」

 『はい、間違いありません。』

 「よし、詳しいことを教えろ。」

 阿賀野の目がみるみる輝きだした。

 

 阿賀野が部下の報告を携帯で受けている頃、陸奥にも電話がかかってきた。

 「もしもし」

 受話器の先から聞こえてくる声に、陸奥の中で緊張感が走った。

 『準備の方はいかがですか?』

 「計画どおり進んでいます。それより夜の女王の行動が早いのでは?」

 『急ぐ必要が出てきたものでね。なにか支障でも?』

 「いや、支障はない。我々も計画を早めようと思っていたところだ。」

 『そうですか。特に問題はないのですね。』

 その問いかけに、陸奥の返答がコンマ数秒遅れた。

 「特に問題はない。」

 『…わかりました。では、また。』

 電話は唐突に切れた。

 陸奥は受話器を握ったまま、しばらく立ちつくしていたが、ゆっくりと受話器を置くと、再び受話器をとり、ある番号を押した。

           4

 時は少し遡る。

 麻里江と美樹が剣持に会った翌日。

 瀬上は奈美からもらったメモを頼りにある店の前にいた。

 古本屋だ。

 店は開いているが、客の姿はない。奥に店主がいるだけであった。

 瀬上は今にも崩れてきそうな本棚の間をゆっくりと通りながら、店主が座っているカウンターの前に立った。

 店主は何かの本を手にしながら舟を漕いでいた。

 瀬上は少しためらったのち、口を開いた。

 「あの、すみません。」

 瀬上の声に店主の目が開いた。心地よい居眠りを妨げられたせいか、不機嫌そうな顔で瀬上をじろりと睨んだ。

 「いらっしゃい。」

 ぶっきらぼうに答える声にも不機嫌さは滲んでいる。

 「あの、この住所はここでよろしいのですか?」

 そう言って、瀬上は奈美に渡されたメモを店主に見せた。

 不審そうな顔をしながらメモを受け取った店主は、それをしばらく見ていた。やがてそのメモを瀬上に突き返すとゆっくりと立ち上がった。

 「そのメモ、だれからもらったんだい。」

 ぶっきらぼうな口調は変わらない。

 「リエという女性からもらったんです。ここを尋ねろと言われて。」

 「リエ?」

 明らかに疑いの目で店主は瀬上を見た。

 「知らんな。」

 にべもない返事に瀬上は落胆した。

 「すみませんでした。」

 肩を落としながら瀬上は店を出ていこうとした。

 「ちょっと待ってくれ。」

 「はい?」

 店から出ようとした瀬上を呼び止めた店主は、一冊の本を持って瀬上に近づいてきた。

 「来たついでだ。これを届けてくれないか?」

 「は?」

 「注文を受けたが、いつまでたっても取りに来ん。頼まれてくれんか?」

 「なぜ、私が…?」

 強引な店主にむかつく瀬上を尻目に、店主は本を差し出した。

 「住所はその本に挟んである。頼まれてくれたらお礼はするよ。」

 さっきまでのぶっきらぼうな顔とは打って変わって、にこやかに笑顔を作る店主は、瀬上に本を渡すとさっさと店の奥に引っ込んでしまった。

 「ちょっと」

 奥に向って言葉をかけるが、返事は帰ってこない。

 「どうして、俺がこんなことをしなきゃならないんだ。」

 そう小声で不平を言いながら瀬上は、本に挟んであるメモを取り出し広げた。

 住所と名前が書いてある。

 ここからさほど遠くない場所だ。

 “ついてないな”と心で思いながら、瀬上は店から出ると、メモの住所へ向かって歩き始めた。

 それを店の奥で見ていた店主は、ポケットから携帯電話を取り出し、ある番号に電話をかけた。

 

 歩き始めて10分ほど、瀬上はメモに書かれた住所にたどりついた。

 そこはテレビドラマに出てくるような洋風のかなり大きい屋敷であった。その門の前に立って、瀬上は多少の驚きを感じていた。

 「まいったな。」

 瀬上の脳裏にいやな想像が浮かんだ。

 「あの店主、相手がヤーさんなもんで、俺に押し付けたか?」

 再び店主に対する怒りが沸いてきたが、それと同時にルポライターとしての好奇心も頭をもたげてきた。

 (どんなやつが住んでいるか、見てみたいな)

 緊張感で震える指で傍らのインターフォンを押してみる。

 ほどなく応答があった。

 「どちらさまですか?」

 女性の声だ。

 「あの古本屋の使いできました。」

 そう言って本屋の名前を告げた。

 「少々、お待ちください。」

 そう返答があって1分ほどで門扉がひとりでに開き始めた。

 (自動ドアか)

 興味がますます湧いてくる。

 口元に笑みを浮かべながら瀬上は、門の中に入っていった。

 敷石をたどっていくと、これもかなり大きな洋風の玄関が現れた。その前に一人の若い女性が立っている。

 灰色のスーツとパンツを履き、縁なしの眼鏡をかけた秘書風の女性だ。

 「いらっしゃいませ。どうぞ、中へお入りください。」

 そう言って、秘書風の女性は玄関の重そうなドアを開けた。

 予想とは違う対応に戸惑いながら、さっさと中に入る女性の後について、瀬上も屋敷の中に入った。

 中も古いホテルを思わせる内装であった。大理石の上り(かまち)から絨毯が敷き詰められたホールが続く。

 思わず瀬上は靴を脱ごうとした。

 「どうそ、土足のままお入りください。」

 女性が笑顔を向けて進行方向に手を差し伸べた。

 「いえ、私は本を届けにあがっただけですから。」

 遠慮する瀬上を無視するように、女性は玄関ホールから奥へと歩きはじめた。

 あきらめと好奇心の入り混じった気持ちを胸に、瀬上は後についていった。

 静黙(せいもく)とした廊下を進み、右に折れると、正面に木製の重厚なドアが現れた。女性がそのドアをノックすると、中から「どうぞ」という声が聞こえた。

 女性はドアを開け、中に入るよう促した。

 それに応じて、瀬上は部屋の中に入っていった。

 広い部屋の奥の一角を占める、大きな机の前に初老の紳士が座っていた。

 「どうぞ、おかけください。」

 初老の紳士、剣持は瀬上にソファを指し示した。

 瀬上は緊張した面持ちでソファに腰をかけた。そこへ剣持が机を離れ、向い側のソファに座った。

 「本を届けに来て下さったそうで。ありがとうございます。」

 そう言って剣持は手を差し出した。

 いきなりの行動に慌てた瀬上は、座るとき片側においた本を取り上げ、剣持に差し出した。

 受け取った剣持はその本をやはり片側に置くと、瀬上の顔をじっと見つめた。

 「あの、なにか?」

 じっと見つめる剣持の真意が測れず、瀬上は思わず尋ねた。

 「メモをもっているそうで。」

 「え?」

 「見せていただけませんか?」

 「あ、はい」

 多少の混乱の中、瀬上は素直に奈美からもらったメモを剣持に渡した。受け取った剣持はそれをじっくりと眺めた。

 「これをだれから?」

 メモから目をあげて剣持は、また瀬上を見つめながら尋ねた。

 「リエという女性から渡されました。」

 「リエ?」

 「仙台のスナックで働いているホステスです。」

 瀬上は剣持の目の迫力に逆らえず、素直に答えた。

 「ホステス?その女性が私を名指ししたのですか?」

 「はい、剣持という人をたよれと…、あっ、あなたが剣持…さんですか?」

 「ええ」

 笑顔で答える剣持に対して、すぐに気付かぬ自分のうかつさに後悔しながら、瀬上は頭を下げた。

 「それでなぜ、そのリエさんという女性は、私を訪ねろとあなたに言ったのですか?」

 剣持の中ではすでにリエが奈美であると気付いていた。

 「私、追われているんです。」

 「ほう、追われている?」

 意外な理由に剣持は少し驚いた表情を見せた。しかし、その目は真剣そのものであった。

 「だれに?」

 「それは…」

 瀬上は言いよどんだ。

 言っていいものかどうか、迷っていると剣持は思った。

 「な…、いや、そのリエさんが私を頼れと言ったのでしょう。私のことを信用してもよろしいかと思いますよ。」

 「リエを知っているのですか?」

 「私の想像が当たっていれば、よく知っている女性です。」

 剣持は柔らかい笑みを見せた。その笑みを見て、瀬上の中で決心がついた。

 「私の名前は瀬上 明といいます。ルポライターをしています。」

 そう言って、瀬上はポケットから半ばよれよれになった名刺を取り出し、剣持に渡した。

 それを受け取った剣持は、名刺を持ったまま瀬上の目をじっと見つめた。

 「さ、どうぞ。続けてください。」

 促された瀬上は唇を一なめした。

 「私はスキャンダル専門のルポライターなのですが、あるきっかけで国防施設庁にいるある課長のスキャンダルを知って、追っかけていたんです。」

 剣持は口を挟まず、黙って聞いている。

 「ま、単純な贈収賄のスキャンダルなんですが、その課長と接触した時、スキャンダルを表に出さないかわりにある情報を入手したんです。」

 「ある情報?」

 「クーデターです。」

 「!」

 剣持の目がはじめて大きく見開かれた。それほど、インパクトのある言葉であった。

 「私も初めは信用しませんでした。自分の身を守るためのガセネタか、もしくは組織内の勢力争い程度と思っていました。でも、話を聞き、調べていくうちにクーデター話に真実味が帯びてきたんです。」

 話が話だけに自然、二人は前のめりになり、声も抑えたものになっていった。

 「クーデターとは具体的には?」

 「どうやら、テロを起こして、都内に戒厳令を敷かせ、その機に主要施設を押さえるという計画みたいなんです。」

 「テロ!?」

 瀬上の言葉に剣持は息を飲んだ。

 「現実離れしていると思わるかもしれません。しかし、実際にそうした動きがあるのです。そのために私の協力者は行方不明。私は命を狙われました。」

 「首謀者は?」

 「わかりません。ただ、統幕監部の者だろうとだけ。」

 「統幕監部か…」

 剣持は腕を組んで、考え込んだ。

 にわかには、信じられない話であった。しかし、目の前にいる瀬上という男がうそやじょうだんを言っているとも思えない。

 ましてや、奈美が助けた男だ。

 「なにか、証拠になるものはないのかね。」

 「あります。」

 「え!」

 瀬上の少年のような返答に、かえって剣持の方が焦った。

 「それは、ここにあるのかね?」

 「いえ、ある人に預けてあります。」

 「ある人?」

 「さっき、言っていたリエという女性です。」

 「え、奈美に!」

 「奈美?」

 剣持が思わず口にした奈美という名前に、瀬上は怪訝そうな顔をした。剣持も自分の迂闊さを後悔した。

 「い・いや、そのリエさんに証拠を預けてあるというんだね。」

 「はい、本人は知りませんが。」

 「知らない?」

 「リエには知らせず、プレゼントという形で渡してあるんです。」

 剣持は腕組みをして考え込んだ。こんな形で奈美がかかわってくると思ってもみなかった。

 「そのリエという女性と連絡をとる手段は?」

 「仙台のスナックにいけば。」

 簡単に言う瀬上に対し、剣持の表情は険しくなる一方であった。

 追手から瀬上を助けた以上、そのスナックにはもう戻るまい、と剣持は思った。

 剣持は腕を組んだまま、しばらく考え込んでいた。その様子を見ている瀬上は、だんだん不安と緊張が募ってきた。

 その緊張に耐えられなくなった瀬上の口が開いた。

 「あの、剣持さん。」

 「ん?」

 「私はどうしたらいいでしょう?」

おずおずとした口調で自分に問いかけてくる瀬上に、剣持の顔が上がった。瀬上の目には不安が充満していた。

その目を見て、剣持は笑顔を浮かべた。

 「君の身柄は私が責任をもって預かろう。安心したまえ。」

 その言葉と笑顔に瀬上の緊張が解け、不安が軽くなった。

 「とにかく、その証拠を早く手に入れないとな。」

 「しかし、私は追われている身ですから、リエと連絡をとることは…」

 「それは私にまかせてくれたまえ。」

 「え?剣持さんに。」

 意外な申し出に、瀬上の目が丸くなった。

 「君は私の用意した隠れ家に隠れていればいい。詳しい情報もほしいしね。」

 剣持の自信にあふれた言葉に、瀬上は安心感を溢れさせたが、その一方で不安が棘のように心の片隅に突き刺さっていた。

 しかし、ここは目の前の剣持という人物に、自分を預けるしかないと、瀬上の中で開き直りにも似た感情が沸き、棘のような不安を押し包んだ。

 「よろしくお願いします。」

瀬上が差し出す右手を、剣持は躊躇なくそして力強く握った。

          5

 その奈美は、東京へ向かう新幹線の中にいた。

 麻里江や霧子から逃げるように別れたあと、剣持の予想通り、仙台には戻らず、身を隠す場所を求めて、東京へ向かったのであった。

 そんなとき、なにげなしに見た携帯のニュースに、奈美は目を奪われた。

 “仙台で爆破事件、テロか?”

 衝撃的なニュースに奈美は食い入るように記事を読んだ。

 事件があったのはどうやら市内の目抜き通りにあるデパートのようであった。

 (ママたちは大丈夫かしら?)

 不安が奈美の胸に広がる。それとは別にこの事件がなぜか、史郎の姿と重なった。

 「まさか…」

 マリオネットの文字が、奈美の脳裏を駆け巡る。

 「いま、このときに自分の前に現れたのは…」

 計画がはじまるという意味なのか。

 史郎の姿とその笑顔が奈美を捕らえて離さなかった。

 (今度、史郎の前に立った時、戦えるの?)

 奈美は自分の心に問いかけた。

 しかし、答えが返ってこない。

 かえって不安が膨れ上がった。

 「兄さん…」

 亘の形見のペンダントを握ったとき、ふと、霧子の言葉が蘇えった。

 『国賓級でお迎えする用意があります。』

 とても信用できるような申し出ではないが、奈美の中で受けてみようかという思いが芽生えていた。

 そのとき、車内にメロディが流れ、間もなく東京駅到着のアナウンスが流れた。

 降りる準備をしながら、奈美は剣持に連絡することを考えた。


 その頃、剣持の屋敷でもちょっとした事件が起こっていた。

 「瀬上さんがいなくなった!?」

 小田切は部下の大山の報告に思わず、大声を出した。

 「ちょっと散歩すると言って、出ていったまま、見当たらなくなりました。」

 普段、温厚な小田切が目を吊り上げているのを見て、大山は深々と頭を下げた。

 「外に出たということか?」

 小田切も興奮している自分に気づき、大きく深呼吸すると、抑えた口調で尋ねた。それに合わせて、大山も目を上げて答えた。

 「どうやら、そのようです。」

 「そのようですって…」

 小田切は呆れ顔になった。

 「とにかく、局員を使って探し出せ。」

 「ハッ」

 大山は直立不動の姿勢で返答すると、すぐに屋敷を出ていった。

 「まったく、自分の置かれた立場をわかっているのか。あの男は。」

 小田切も大山の後を追うように屋敷を出た。


 皆が瀬上を探し回っている頃、屋敷を出た当の本人は、近くの駅に向っていた。

 人の出入りやタクシー運転手の立ち話姿を横目で見ながら、瀬上は駅の中に入り、なにかを探し始めた。

 駅の片隅に忘れられたように置かれた公衆電話を見つけると、瀬上は急いで駆け寄った。

 ポケットから小銭を取り出し、急かされるように受話器を取ると、ある番号を押した。

 しばらく呼び出し音を聞いていると、覚えのある声が受話器の向こうから聞こえてきた。

 「もしもし、“あんじゅ”ですが?」

 「あ、ママ。おれ」

 「え?瀬上ちゃん?」

 「ひさしぶり」

 瀬上は受話器の向こうにいるであろうママに、愛想笑いをした。

 「ひさしぶりじゃあないわよ。いったいどうしたの?刑事たちがあなたのことを聞きにきたわよ。」

 「刑事が…?」

 瀬上はすぐに偽物だと看破した。

 「リエはいるかい?」

 「リエちゃんは、この間からいなくなったわよ。」

 ママの声が荒れている。予想通り、リエは身を隠したのだ。

 「ママ。リエから連絡があったら、俺が会いたがっていたと伝えてくれる。」

 「それよりあなた、どこにいるのよ。」

 「ごめん、ママ。また連絡する。」

 そう言って、瀬上は急いで電話を切った。

 やつらはまだあきらめていなかった。いずれ、ここも探り当てられるのではないか。瀬上の中に不安の雲がむくむくと湧き上がってきた。

 瀬上は駅から急いで出ると、元来た道を戻ろうとした。

 その背後で瀬上を見つめる4つの目があった。

 ひとりが懐から一枚の写真を出すと、もう一人にそれを見せて、なにやらひそひそと話しかけた。

 もうひとりがそれにうなずくと、その場を早足に去っていった。

 残ったひとりは、瀬上の後をつけ始めた。


 そのころ、小田切と大山も駅の方向に向って急いでいた。

 小田切の勘で駅に目星をつけたのだ。

 しばらくして、二人の目に瀬上の姿が捕らえられた。

 「瀬上さん。」

 小田切はすぐに瀬上の元に駆け寄った。

 「勝手なことをしてもらっては、困ります。」

 小田切のさっそくの小言に、瀬上は恐縮そうな顔をして、頭を掻いた。

 「すみません。」

 「すぐに帰りましょう。」

 「大山、先に戻って、瀬上さんが見つかったと皆に報告してくれ。」

 「はい」

 大山はすぐに屋敷に向って駆けていった。

 小田切は瀬上を伴って、隠れ家へと歩き始めた。

 その後をつけてくる男に小田切は気付いていない。

 

 瀬上が小田切たちの手を煩わせていた頃、東京、上野の一角にある雑居ビルに剣持が姿を現した。

 築年数のかなり経ったそのビルの一階には、ビルと同じくらい年数の経った喫茶店があった。剣持は迷うことなく、その喫茶店に入っていった。

 中はこぢんまりとしていて、十人も入れば満席になるような店であった。

 客は一人しかおらず、それ以外はクラシック音楽だけが流れていた。

 剣持は奥の席に座る客の向かい側に、何も言わずに座った。

 無地のキャップを深く被った客は、黙ったまま、先に注文してあったコーヒーを取り上げ、口をつけた。

 「いらっしゃいませ。」

 マスターと思しき男が、水の入ったコップを剣持の前に置いた。

 「ブレンドをひとつ。」

 「かしこまりました。」

 マスターはその言葉の残したまま、カウンターに戻っていった。

 「ひさしぶりだな。奈美。」

 剣持は向かいに座る客に、躊躇なくそう呼びかけた。

 そう呼ばれて向かいの客は顔を上げた。

 「お久しぶりです。剣持さん。」

 奈美の赤い唇が軽く笑った。

 「元気だったか?」

 「おかげさまで。剣持さんも元気そうですね。」

 少し大人びた奈美であったが、その笑顔は昔のままであるのに剣持は安心した。

 「正直、驚いたよ。奈美から連絡をもらって。」

 そう言って、剣持は複雑そうな笑顔を見せた。それを見て奈美も悲しげな笑みを返した。

 「私も剣持さんに連絡しようか、しまいか、迷いました。」

 三年前に一緒に働いていた時、剣持は非常時の連絡方法を奈美に伝えていた。今回はその連絡方法を使ったのだ。

 「そうだろうな。そうそう、君が寄こした瀬上 明君は我々が保護したよ。」

 「よかった。無事だったんですね。」

 奈美は安堵の息を一つ吐いた。

 「その瀬上君なのだが、恐ろしい情報を我々にもたらしたのだ。」

 「情報?」

 奈美の胸に不安が過った。

 「防衛隊のクーデター計画さ。」

 「クーデター!?」

 奈美の目が大きく見開かれた。

 「とても、無視できない情報だ。」

 剣持の眉間にも皺が寄った。

 「奈美は瀬上君からプレゼントをもらっただろう。」

 話の内容が唐突に変わって、奈美の頬に朱が走った。

 「いえ、それは…」

 「照れることはない。それに艶っぽい話ではない。」

 「え?」

 剣持の目は真剣そのものだ。

 「そのプレゼントに証拠が入っている。」

 「証拠?」

 奈美の脳裏に開け方のわからない寄木細工が浮かんだ。

 「あれに…」

 「それを渡してほしいんだ。」

 そのとき、マスターがコーヒーを運んできた。テーブルにカップを置くと、マスターはさっさとカウンターに戻っていった。

 「わかりました。瀬上さんからもらった品はお渡しします。」

 「ありがとう。ところで奈美の用件とはなんだ?」

 その問いに、奈美は悩ましげな表情を見せると、そこから奈美と剣持の間に沈黙が流れた。

 コーヒーの湯気だけが時間の流れを見せている。

 「麻里江さんと美樹さんに、兄の命日のことを教えたのは剣持さんだそうですね。」

 唐突に切り出した言葉に剣持は戸惑った。

 「彼女らが霧子君の居場所を探していたのでね。私の推測を話した。」

 「霧子さんの。そうですか。」

 また奈美は黙り込んだ。

 その様子を見て、剣持は奈美が自分を恨んでいると思った。過去から遠ざかろうとしていた奈美に、結果的に過去の自分を突き付けてしまった。

 やはり、麻里江たちに情報を提供したのはまちがいだったのか。

 後悔が剣持の腹を重くした。

 「奈美、これっきりだ。」

 「え?」

 剣持が重々しく口を開いた。

 「君の持っている証拠を渡してくれたら、もう二度と君にかかわりを持たない。連絡もしない。」

 剣持の目が奈美を慈しむように見つめた。

 「いえ、そうじゃあないんです。」

 「え?」

 奈美が決心したように剣持に目を向けた。

 「剣持さんに連絡をしたのは、私を保護してもらいたいからです。」

 意外な申し出に、剣持は返答することができなかった。

          6

  同じ頃、麻里江と美樹も東京の幸徳井の屋敷にもどっていた。北海道での出来事を報告するためであった。

 「あぶないところだったな。」

 景明は二人の顔を交互に見ながら、その無事を喜ぶように笑顔をみせた。

 「私たちの命を狙ってきたということは、核心に近づいているということだと思います。」

 麻里江は景明をまっすぐ見ながら、自分の思いを語った。

 「多分そうだろう。翔を襲った相手も同じ鬼龍一族だと思う。」

 「私もそう思います。」

 そう言った後、二人は思案顔になり、口を閉じた。そばに座っていた美樹は、不安げな顔をして二人を見た。やがて沈黙に耐えかねた美樹が、口火を切った。

 「これからどうするの?」

 それに答えるように、麻里江が口を開いた。

 「奈美さんがカギを握っていると思います。」

 「たぶんな。」

 二人の意見が一致した。

 「でも、おねえさんの行方はわからないんだよ。」

 美樹は奈美のことをいまだに、おねえさんと呼んでいる。

 「確かに美樹のいうとおりだ。」

 美樹の言葉に景明は腕を組み、眉間に皺を寄せた。

 「剣持さんなら、なにか情報を掴んでいるかもしれないわ。」

 「うん、そうだね。前のときも剣持さんの勘があたったもの。」

 麻里江の意見に、美樹はすぐに同意した。

 「剣持君に会ってみるか?」

 「はい、これからすぐにでも。」

 「そうか、では剣持君に連絡しておこう。」

 景明がそう言った時、障子の外から「失礼します」という声が入ってきた。

 「なんだ?」

 景明の問いかけに、障子が開き、白い作務衣を着た青年が入ってきた。

「先生、お耳にいれたいことが。」

「うん?」

入ってきた青年は、景明のそばに寄ると、その耳に何かを囁いた。すると、景明の顔色がみるみる変わった。

 その変化に麻里江と美樹はお互いの顔を見合った。

 「なにか、あったのですか?」

 麻里江が尋ねると、景明が暗い顔をしながら美樹を見つめた。

 「京都で爆発事件が起こった。」

 二人の顔に緊張が走った。

 「しかも、場所が保春殿の屋敷のある地区らしい。」

 「ええ!」

 美樹の顔色が真っ青になった。


 美樹はさっそく京都の保春の元に電話を入れた。

 予想に反して、保春への電話はすんなりとつながった。

 「あ、おじさま。美樹です。大丈夫ですか?」

 『美樹か。いきなり大丈夫とはなんだ?』

 「だって、京都で爆発事件が…」

 「それか。大丈夫だ。爆発があったのは私の屋敷から遠く離れたところだ。」

 それを聞いて、美樹は安堵のため息をついた。

 『あいかわらずだな。美樹。どうだ、うまくいっているのか?』

 「まあ、ぼちぼちね。」

 美樹は照れ笑いをしながら、曖昧に返答した。

 『その様子だと、苦労しているようだな。そばに景明はいるのか?』

 「うん、いるよ。替わる?」

 『ああ、たのむ。』

 美樹は受話器を耳から離すと、そばにいた景明に受話器を渡した。

 「よかったわね。美樹。」

 麻里江が美樹を労わるように肩に手を置いた。

 「うん、一安心だよ。」

 先ほどまでの青い顔が、元の元気色の美樹に変わっている。それを見て麻里江も胸をなでおろした。

 「それでは、何かあったらまた連絡する。」

 景明が受話器を置くと、笑顔を見せながら二人に視線を向けた。

 「保春殿が心配なくてよかったな。美樹。」

 「心配おかけしました。」

 美樹は素直に頭を下げた。

 「幸徳井さま、先ほどの件ですが…」

 「剣持君にだね。わかった。連絡を入れておこう。」

 「ありがとうございます。」

 麻里江は頭を下げると、すぐに玄関に向かった。

 「あ、待って。麻里江。」

 美樹もそのあとを追った。

 それを笑顔で見送った景明は、再び受話器を取った。


 その剣持は、奈美を連れて屋敷に向う(クラウン)の中にいた。

 そこへ、突然携帯が鳴った。

 すぐに携帯を耳にあてた剣持の眉間に皺が寄った。

 「そうか。わかった。」

 そう言って、剣持は携帯を切り、ポケットにしまい込んだ。傍らで奈美が不安げな顔で剣持を見ている。

 「何かありましたか?」

 「幸徳井さんから連絡があった。麻里江君と美樹君が私に会いにくるそうだ。」

 「麻里江さんと美樹さんが…」

 奈美の表情が曇った。

 「どうする、奈美?」

 「いまは彼女たちと会いたくないです。」

 「しかし、隠れているわけにはいかないだろう。」

 「別人になります。」

 奈美の唐突な申し出に剣持は戸惑った。

 「別人になるって…」

 「変装します。」

 「変装か…」

 剣持は顎に手をあて、しばらく思案したが、すぐに携帯を取り出し、ある番号を押した。

 「あ、安室君か。すまんが化粧室を開けておいてくれないか。そうだ、あと5分ほどしたらそちらに到着する。そうしたら一人、メイクアップしてもらいたいのだ。よろしくたのむ。」

 そう指示して剣持は携帯を切った。

 「あと、適当な名前も必要だな。新しく入った新人ということにしよう。」

 「すみません。」

 「いや、いいんだ。それより本当にいいのか?霧子君にコンタクトをとって。」

 「はい、お願いします。」

 軽く頭を下げると、奈美はそれっきり黙り込んだ。剣持もあえてそれ以上奈美に話しかけず、運転手に一言指示を与えるとそのまま目をつぶって、背もたれに身を預けた。

 クラウンは屋敷とは別の方向へ進路を変えた。


 麻里江と美樹が剣持の屋敷に到着したのは、景明から連絡があった三十分後だった。景明の連絡もあり、今度もすんなりと中に通されたが、剣持が不在で、応接室でしばらく待たされることにはなった。

 「いそがしいのかな。剣持さん。」

 「それは特捜局の局長だから。」

 待たされること二十分余り、美樹が退屈を持て余した頃に、秘書らしき女性が剣持の到着を告げにきた。

 二人は女性の案内で剣持の部屋に通された。

 「待たせてすまなかったね。」

 優しい笑顔で出迎えた剣持は、二人をソファに座るよう促した。二人は素直にソファに座り、その向かいに剣持も座った。

 「霧子君には会えたかね?」

 「はい、ただ、いろいろな目にもあいましたが。」

 そう言って、麻里江は北海道での出来事を掻い摘んで話した。

 「そうか、大変だったな。それで結局、お仲間の消息は掴めなかったわけか。」

 「はい、残念ですが。」

 一瞬、三人の間に沈黙が流れた。

 その沈黙を麻里江の言葉が破った。

 「ところで剣持さんにお聞きしたいことがあるのですが。」

 「なんだね。」

 真剣なまなざしで自分を見つめる麻里江に、剣持は微笑みかけた。

 「北海道で奈美さんという方に会いました。」

 「奈美に…」

 「あの方はどういう方ですか?」

 まっすぐな質問に、剣持はすこしたじろいだ。

 「どういう方とは?」

 「霧子さんの目的は、奈美さんのようでした。それは剣持さんもご存じのことですよね。」

 「確信があるわけではなかったがね。」

 そう言いながら、剣持はポケットに手をいれ、タバコを取り出した。

 「あ、いいかね?」

 タバコを口に銜えたとき、二人の少女がいることに初めて気づいた風に、剣持は尋ねた。

 「どうぞ。」

 麻里江も気を使う風に、灰皿を剣持の前に進めた。

 「改めてお伺いします。奈美さんはどういう方なのですか?」

 「うむ、3年前、うちで働いていたことがある。ただ、捜査員の個人情報に係わることだから、詳しくは教えられないのだ。」

 剣持は突き放すように答えながら、タバコに火をつけた。

 剣持の急な態度の変化に麻里江と美樹は困惑した。

 「では、なぜ霧子さんが、奈美さんを追っているのかも教えてもらえないのですか?」

 「それは私にはわからない。霧子君には霧子君なりの理由があるのだろう。」

 「じゃあ、史郎という男のことは?」

 美樹が口を挟むように尋ねた。

 「史郎…?」

 唐突に出た“史郎”という名前を聞いて、剣持のタバコを持つ指が固まった。

 その名前には覚えがあった。奈美が仇と思う男の名前だ。

 「はじめて聞く名前だね。」

 剣持はあえてとぼけた。しかし、麻里江には剣持が嘘を言っていると感じた。しかし、それはあえて口に出さず、麻里江はまっすぐ剣持を見つめた。

 剣持も自分の心の内を見透かされるような麻里江の眼差しに、たじろぎ、焦った。

 「すまないが、私にはこれ以上、お話しできることはないようだ。」

 そう言って、剣持は火を点けたばかりのタバコを灰皿に押し付け、この場を切り上げようとした。

 剣持の冷たい言い方に、麻里江と美樹はこれ以上は無理だと判断した。

 「失礼しました。」

 麻里江は立ち上がると頭を下げた。

 「お役に立てず、申し訳ない。」

 剣持も立ち上がり、右手を差し出した。

 「いえ、また来ます。」

 麻里江は笑顔を剣持に送りながら、差し出された右手を握った。

 その麻里江の目の奥に不屈の意志を剣持は見た。この娘は一筋縄ではいかないと感じると同時に、この娘たちなら奈美の力になるのではとも思った。

 

 二人が帰ったあと、剣持は小田切を呼んだ。

 「なんでしょうか?局長。」

 「瀬上君はどうしている?」

 自分の席に戻りながら、立っている小田切に剣持は尋ねた。

 「自分の部屋で大人しくしてます。」

 「いつまでもここに閉じ込めておくわけにもいかんだろうな。」

 「彼もけっこう、いらいらしてますからね。」

 この間のことを思い返しながら、小田切は苦笑した。

 「いずれ、別の場所に移動することになるだろう。いつでも移動できるように準備と警戒はしておいてくれ。」

 「はい、それだけですか?」

 「あと、新人がひとり入る。面倒を見てくれ。」

 「新人?」

 唐突な話に小田切は、多少驚いた。

 「入ってきたまえ。」

 剣持がドアの方に呼びかけると、ドアが静かに開き、そこに一人の女性が立っていた。もちろん、小田切は初めて見る女性であった。

 「壬生真奈(みのうまな)君だ。」

 そう紹介すると壬生真奈と呼ばれた女性が部屋に入ってきた。

 「はじめまして、壬生真奈です。」

 真奈は挨拶とともにからくり人形のように深々とお辞儀した。

 三つ編みの髪に、そばかす顔に丸メガネ。御世辞にも洗練されたとは言えないスーツとスカートを履いた彼女は、どう見ても捜査員とは見えない。

 小田切の中で不安と落胆が湧き上がった。

 「小田切、よろしくたのむぞ。さがっていい。」

 「は、はい。」

 小田切はそれ以上口にせず、黙ったまま部屋を出た。あとから真奈がついてくる。

 「まいったな。お守りか。」

 「え」

 いつの間にかすぐ後ろに真奈が立っている。多少びっくりした小田切は、仕方なそうな顔でついてくるように言った。

 「小田切さん、私、なにをすればよろしいでしょう。」

 唐突の質問に小田切も困った顔をした。

 正直、真奈の能力がわからない。

 「あの、さっき言っていた瀬上さんという方のお世話をしましょうか?」

 助け舟のようなその言葉に小田切はすぐにのった。

 「そうだな。瀬上君も君に世話をしてもらえば、多少、気が休まるだろう。くれぐれも気をつけてくれよ。」

 「わかりました。」

 そう言って真奈は、廊下を駆けていった。しかし、すぐに戻ってきた。

 「どうした?」

 「あの、瀬上さんはどちらにいらっしゃるのでしょう?」

 小田切は深いため息をしながら、瀬上のいる部屋を指差した。

 

 屋敷を辞した麻里江と美樹はすぐには帰らず、近所の家の前で隠れるように屋敷を見張っていた。

 「どうするつもりだい?麻里江。」

 「そうね…。」

 目をつぶって、しばらく考えをめぐらせていた麻里江は、突然、目を開け、美樹の顔を見つめた。

 「美樹、ユキを出してくれる。」

 「え、いきなりどうしたの?」

 「いいからお願い。」

 麻里江に頼まれ、美樹は背中の管を下すと、その口を地面に向けた。

 「ユキ、出ておいで。」

 美樹の言葉に管からユキが滑り出た。

 地面に降りたユキに向ってしゃがみこんだ麻里江は、持っていたポシェットから白い紙を取り出し、それにペンで何かを書くと、呪文を唱えた。

 「二つに別れし言霊は、(とき)(しょ)もなく、ひとつなり。」

 そう唱えた後、それを真っ二つに引き裂き、その一方をユキの額に貼り付けた。

 「ユキ、この匂いを嗅いで。」

 今度はガーゼをポショットから取り出し、それをユキの鼻先に持っていくと、ユキは言われた通りにその匂いを嗅いだ。

 「麻里江、それは…」

 美樹にはそのガーゼに見覚えがあった。そして、麻里江がやろうとしていることに思い当たった。

 「さあ、ユキ、あの屋敷に行って、この匂いの人を探して、見張って。その人が出かけたら後を追ってね。」

 そう命じてユキの頭をなでると、ユキは一鳴きしたあと、一目散に屋敷へと駆けていった。

 「麻里江、そのガーゼ、おねえさんの治療のとき使ったものでしょ。」

 「ええ、なにげなしに取っておいたんだけど、思いがけず役にたちそうだわ。」

 そう言いながら立ち上がると、麻里江はガーゼと残った紙をポシェットにしまい込んだ。

 「でも、いいのかい。剣持さんを見張るようなことして。」

 「いまはしょうがないわ。手掛かりは奈美さんしかいないんだから。」

 美樹の心配を背中で聞きながら、麻里江はしばらく剣持の屋敷を見つめた。すでに日が西に傾きつつあり、屋敷は赤く染まっていた。

 「さ、なにか食べにいきましょ。」

 振り返った麻里江は、笑顔を美樹に見せながら歩き出した。

 「待ってよ。麻里江。」

 屋敷を振り返りながら、美樹はそのあとについていった。

         7

 麻里江の待っていた動きは、思いのほか早くやってきた。

 その翌日の深夜。

 屋敷のある住宅街は、東京とは思えないほど深く寝静まっていた。その闇の中を駆ける一団があった。

 その一団は瀬上の隠れ家の前に集まると、じっと中の様子を伺った。

 一人が無言で合図を送る。それに呼応して一団が左右に散った。

 一団が姿を消して数分後。近所の家から煙が上がった。

 「火事だ!」

 叫び声が響く。

 「火事だぞ!」

 叫び声は人々を家から引き出し、引き出された人々の口から更に叫び声が木霊した。

 それは屋敷の中にいる局員の耳にも届いた。

 「火事か?」

 小田切が部下の局員に尋ねた。

 「どうやら近所で火が出たようです。」

 「様子を確かめてこい。」

 「はい」

 小田切に命令されて、部下は外へ飛び出していった。

 その後ろに二人の局員がついていった。

 「飛び火したぞ!」

 表から叫び声が飛んでくると同時に、屋敷の中に煙が立ち込め始めた。

 「火が回ってきたというのか?」

 小田切も屋敷の外へ飛び出した。

 その頃、瀬上の部屋のドアを叩くものがあった。

 「だれですか?」

 瀬上も外の騒動に目を覚まし、ベットの上に起き上がっていた。

 ドアが開き、真奈の眼鏡顔が部屋をのぞきこんだ。

 「壬生さん。」

 「瀬上さん、すぐ着替えてください。」

 真奈は部屋に入るなり、そばに置いてあった瀬上の服を取り上げ、目をぱちくりさせている瀬上に渡した。

 「何事です?」

 「近所で火事が起きたようです。」

 「火事?」

 「いやな予感がします。早く着替えて。」

 そう急かされて、瀬上はあたふたと服を着始めた。

 そのとき、どこかでガラスの割れる音がした。同時に煙が流れ始めた。

 「ハンカチで口を押えて。それから身をかがめて。」

 真奈は瀬上の手を引くと、廊下に飛び出した。

 すでに廊下は煙で充満しつつあった。

 「こっちです。」

 そう言って、真奈は煙の流れる方向とは逆の方へ駆けだした。

 「ゴホッ、ゴホッ」

 煙で喉と目が痛くなる。瀬上は、できるだけ身をかがめて、真奈の後をついていった。

 煙で視界が遮られそうになる中、真奈は迷わず、出口へ向っていく。

 瀬上も必死になって真奈の後姿を追った。

 出口が見えた時だった。

 目の前に人影が立ちはだかった。

 瀬上は、はじめ捜査局の人間かと思った。しかし、その思いは次の行動で打ち破られた。

 人影が何かを振り下ろした。

 真奈はそれを紙一重で躱すと、人影の顎に掌底を食らわした。

 影はもんどりうって倒れ、真奈はその上を飛び越えた。瀬上もそれに続いた。

 外に出ると、煙は薄まり、目も喉も幾分、楽になった。

 「壬生さん、さっきの一体…」

 真奈に問いかけようとしたとき、黒いものが瀬上の上に覆いかぶさった。

 口と腕をとられ、身動きがとれなくなる。

 「ぎゃ!」

 短い悲鳴とともに口と腕が急に楽になる。

 見ると、足元に黒装束の男が倒れていた。

 「はやくここを離れましょう。」

 真奈が瀬上の腕をとると、いきなり駆け出した。

 「み・壬生さん」

 真奈と瀬上は一目散に裏口を目指す。

 裏口のドアを開けると、だれもいない路地が、街灯のか細い光に照らされて、長く続いていた。そこを真奈は、瀬上を引き連れて、迷うことなく駆けだした。

 野次馬の声と消防車のサイレンを背中で聞きながら、二人は頼りない灯りと暗闇に彩られた路地をどこまでも走っていった。

 しばらくして、瀬上の息があがる。

 走る速度も極端に落ち、やがて瀬上は道の真ん中で立ち止まった。

 「瀬上さん、立ち止まらないで、走って下さい。」

 先を走る真奈は、立ち止まった瀬上を見て、そのそばに駆け寄りながら瀬上を急かした。

 「ま・まってくれ。少し休もう。」

 瀬上は恨めしい目で真奈を見ながら、懇願した。

 「やつらが追ってきます。早く逃げないと。」

 「逃げるって、どこへ?」

 「別の隠れ家があります。」

 「隠れ家?それって…」

 瀬上が言いかけた時、真奈がその口を手で押さえた。

 「?」

 「しっ」

 何事かという顔をする瀬上をよそに、真奈は鋭い目つきで辺りを見回した。そして、有無を言わせず瀬上の手を取ると、路地裏へ入っていった。

 切れかかった街灯が瞬く裏路地に入った二人は、そこが商店街の裏であることに、その匂いと様子で気付いた。

 「一体、どうしたんだ?」

 真奈の行動の真意が測れない瀬上は、ただうろたえていた。

 「こっちに来て」

 真奈がまた、瀬上の手を取ると、近くにあったゴミの収集箱に近づくとその蓋を開けた。

 「入って」

 「え?」

 「いいから、入って」

 真奈は強引に瀬上を収集箱の中に押し込んだ。

 「ちょっと、壬生さん。」

 収集箱から出ようとする瀬上の頭を押さえた真奈は、そのまま蓋をしめた。

 「おい、どういうことだい。壬生さん。」

 「私がいいというまで、そこから絶対出ないで。」

 そう言うと、真奈は路地の中央へ歩き出した。

 不安と悪臭に気分を悪くしながら、瀬上は真奈の言うとおりにゴミ箱の中でじっとした。

 外では収集箱から100メートルほど離れたところで、真奈が立ち止まり、闇の向こうを見つめていた。

 「隠れてないで出てきたら。」

 その言葉につられるように、黒い影が1つ、その正面に現れた。

 同時に左右にも黒い影が現れた。

 都合、3つの影が真奈を取り囲んだ。

 「男を渡してもらおう。」

 正面の影が言葉を発した。

 真奈はそれに言葉を返さなかった。

 「おとなしく渡せば、命は助けてやる。」

 再度、影が言葉を発した。

 その言葉に真奈の唇が笑った。

 「そう言って、助けた例はないわ。」

 「それじゃあ、無理にでも聞こう。」

 その言葉と同時に左右の影が動いた。

 拳がうなりを上げて、真奈に襲い掛かる。

 真奈はそれをボクサーさながらのフットワークで躱していく。しかし、二つの影の攻撃は止まることなく、スピードを上げながら次々と襲い掛かってきた。

 そのスピードと数に、真奈の体が少しづつ後ろに下がる。

 後ろに建物の壁を背負った時、一方の影の拳が正面から迫った。

 真奈の体が横にズレる。

 その脇を拳が猛スピードで通り過ぎ、コンクリートの壁を打ち砕いた。

 瞬きをする間もなく、別の影の拳が真奈の顔をめがけて飛んできた。

 身を沈めた真奈の頭の上を、黒い塊となった拳が壁に激突した。

 そのまま、二つの影の間をすり抜けた真奈は、影たちの力に驚愕した。

 「おまえたち…」

 振り返った影は、瞬く街灯の下で屈強な男になった。

 男の一人が笑った。

 その瞬間、真奈の背中に冷たいものが貫いた。同時に後ろからいきなり羽交い絞めにされた。

 「しまった」

 なんとか振りほどこうともがいたが、男の力は強力で、何ともならない。

 「このまま、首の骨をへし折られたくなかったら、男の行方を言え。」

 そう言いながら真奈の首に、更に強烈な力が加わった。

 前の二人はにやにや笑いながら、成り行きを見守っている。

 男の向う脛を蹴ったりしたが、何の反応も示さない。

 絶体絶命であった。

 「無駄な抵抗はやめて、さっさと言え。」

 その声を後頭部で聞きながら、真奈は右手を頭に持っていき、生え際の毛を一本抜いた。

 「いつまでも強情を張っていると、取り返しのつかないことになるぞ。」

 そう脅しながら、男が顔を近づけてきた。

 そのとき、真奈の右手に持った髪の毛がピンと立ち、そのまま男の右耳に差し込まれた。

 髪の毛は針のように男の頭を貫き、反対の耳から飛び出した。

 男の体が一瞬硬直し、そのまま力が抜けて、真奈に覆いかぶさってきた。

 前の二人は何が起こったのか、すぐには理解できなかった。

 その二人の前で男の体が徐々に持ち上がった。

 「重いわね。」

 そう言うと、真奈は男の体を二人に向って投げつけた。

 予想しない攻撃に、ひとりは躱す間もなく男の下敷きになり、いま一人はかろうじて下敷きは免れたが、態勢を崩して地面に突っ伏した。

 下敷きになった男が起き上がろうとした時、真奈から放たれた銀の針が、男の額に突き刺さった。

 ほぼ同時に、起き上がろうとしていたもう一人の男の首に、一本の細い銀の糸が絡みついた。

 後ろから真奈が、両手でおもいっきり男の首を締め上げた。

 糸を外そうともがくが、糸は男の首にきつく食い込み、その顔はすぐに赤紫に変色していった。

 間をおかず、男の動きは止まり、力なく首をうなだれた。

 静寂が蘇えった。

 真奈は、倒れた三人を顧みず、瀬上の隠れているゴミ収集箱に近づいた。

 蓋を開け、なかに縮こまっている瀬上を見て、真奈は軽く笑った。

 「もう出てきてもいいですよ。」

 そう言って真奈は、瀬上が箱から抜け出るのを手伝った。

 「いったい、何があったんだい。」

 「追っ手を撒いただけです。さ、次の隠れ家に向いましょう。」

 真奈は瀬上の手を引くと、目的地に向かって歩き出した。

 その一部始終を街灯の上から眺める一匹の獣がいた。

 管狐のユキである。

 ユキは屋敷の屋根裏に潜んでいたが、火事騒ぎで真奈が動き出すと、迷いなくその後をつけてきたのだ。

 そして、その様子を遠く、幸徳井の屋敷で見つめていたのは、麻里江であった。麻里江は布団の上に起き上がり、札を握りしめながら、ユキの目を通して、いま起きたことをすべて見ていた。

 「やっぱり、剣持さんの元にいたのね。」

 麻里江の口元に笑みが浮かんだ。

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