マイホームダウン
『駅に着いたよ。ダッシュで帰るね』
夫の孝志からメールが届くと亜紀の心は躍った。
二人はラブラブとしか表現しようのない新婚夫婦だった。今日はそんな二人の結婚一ヶ月記念日だ。
午後7時過ぎ。亜紀は少しお腹が減っていたが、夫と一緒に食べるため我慢していた。
アパートのドアが開く音がすると、亜紀は玄関に飛び出していった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
二人は玄関で熱い口付けを交わし、抱き合った。亜紀の背中にまわっている孝志の手には駅前の洋菓子屋の箱が握られていた。
部屋に入ると、孝志は活き活きとした顔で言った。
「とびっきりの話がある」
そう告げた孝志は、ケーキの入った箱をテーブルの隅に置き、話を始めた。
「実は、会社から一戸建ての家を貰える事になったんだ。しかも場所は都内の一等地!」
「え、何それ、ほんとなの?」
亜紀は驚き顔で孝志を見つめた。
「ほんとさ、ただ……、一つだけ条件があるんだ」
孝志は自慢げだった顔をほんの少し曇らせ言った。
「やっぱり何かあるんじゃない…」
――最近じゃボーナスも出ない会社があるっていうのに、普通の社員に一戸建てをプレゼントなんておかしな話。
と亜紀は思った。
「実はその条件ってのは、ウチの会社で開発された新薬の実験台になることなんだ…」
「実験台って…本気なの?」
亜紀はその言葉に驚いて顔を曇らせた。
孝志はその顔を見ると、彼女を安心させるように言った。
「亜紀、そんなに難しく考えないで、どこか悪くなるとかそういう心配は絶対なくて、飲むだけで健康になるすごい薬らしいんだ。それに毎月1回データを取るだけでいいらしい、それだけで一戸建てを貰えるんだよ。ね、どう?」
考志はやや興奮気味にこう説明したが、亜紀の胸につかえるモノは無くならなかった。
しかし本当にそうなら…。二人の愛の巣がこの小さな貸しアパートから一戸建てに変わるなんて夢のようだ。でもあまりにも条件が良すぎる気もする。誰もが知ってる大きな製薬会社だから変なクスリではないと思うけど…。
亜紀が答えに困っていると、孝志は、
「絶対大丈夫だから信じて」
と言って亜紀を抱きしめた。亜紀は胸に不安を秘めたままだったが、彼の言葉に頷いた。
――大丈夫。孝志を信じて間違いだったことはない。
そして二人は結婚一ヶ月記念日を楽しんだ。
その夜、孝志は、
「大きな一戸建てに住むんだ。二人じゃ寂しいだろ」
と亜紀に言った。
この日から二週間後、二人は一戸建てに引っ越した。
引越しが終わった頃に、孝志の上司で野村という中年の男が新居にお客第一号としてやってきた。
野村は日曜だというのに黒いスーツ姿で、引越し祝いとして例の薬が入ったビン持ってきていた。
「毎朝一錠を水で飲んでくれればいい。それだけだ」
野村は玄関で簡単な説明をし、市販の風邪薬のような白い錠剤が入ったビンを二人に渡した。
「じゃあ、お幸せに」
野村はそう言ってすぐに帰っていった。
翌日から二人は薬を飲み始めた。最初の一錠を飲んだ後は二人とも不安になったが、体に何の違和感を感じることもなく、数日継続しても何も起こらなかった。そして次第にそれはサプリメントを飲むような感覚になっていき日常の習慣になった。
薬を飲み始めて一ヶ月。この間、二人は風邪を引くことも無ければ何の病気にもかからなかった。健康そのもの。
こんな簡単な事で手に入れた新居に二人は大満足していた。閑静な高級住宅街の一戸建て近所の住民も良い人ばかり。亜紀が抱いていた薬に対する不安はとうに消えていた。
だがそのニヵ月後。
引っ越してから三ヵ月程経ったある日、二人は孝志の上司、野村を家に招いた。
野村は三ヶ月前と同じ黒のスーツでやって来た。
「どうしたのかね?」
豪華なリビングの持ち主である夫婦を前に、男は招かれた理由を訊いた。
「実験の途中で申し訳ないんですが、僕達、話し合った結果、離婚することにしました」
孝志は上司にそう告げた。
「何言ってるんだ。ついこの間、結婚式を挙げたばかりじゃないか、それにこの新築の家もあるっていうのに…一体どうしたんだい」
少し間があって孝志が答えた。
「何というか、とても恥ずかしいんですが…、僕達お互いのことを深く知らずに結婚してしまったんですよ、3ヶ月経って、お互いの嫌な所が目に付くようになりました。そしてある日、もう一緒には暮らせないなって思ったんです」
亜紀もそれに頷き、彼に続いて言った。
「結婚前の彼と今の彼はまるで別人なんです。何もかも隠して私と結婚したんです。私は騙されていたの。もう我慢の限界…」
野村は実験が頓挫になるせいか困り顔で言った。
「そうか…、考え直してくれるのが一番良いのだが。もし別れるようなら、約束通り家を手放してもらう事になるぞ…」
「ええ、それはかまいません…。本当に申し訳ないのですが、僕らの意思は絶対に変わらないと思います…」
話が終わると、孝志に見送られ野村は車に乗り込んだ。亜紀は見送りには来なかった。
しばらく車を走らせた所で野村は会社に報告の電話を入れた。
「ええ、私です。離婚です」
「そうか…新婚カップルにも効いたか、それでどうしたんだ、何か保障してやったのか?」
「いえ、彼らは薬のせいだとは思っていないようなので、何もしなくて良いかと」
「そうか、ならいい」
「しかし、病気にならないのは素晴らしいのですが、これはひどい副作用ですね…」
(了)




