第一話 憧れと恋の境界線 side - 美咲
私がその人を初めて見かけたのはまだ中学校入学前の冬休み、集めていた漫画の新刊が出た日で親友の優奈と駅前の本屋さんに行った時だった。
地元中学校の制服を着たその人は、当時の私にはさっぱり理解できなかった分厚い参考書を手にとってパラパラとページをめくりながら真剣な顔で中身を吟味しているようだった。
小学生の私からすれば中学校は未知の世界でそこに通っているお兄さんは大人そのものの存在だ。参考書を選んでいるスラリとした後ろ姿をこっそりとうかがいながら、大人の雰囲気をまとった制服姿のその人に憧れに近い想いを抱いた瞬間だった。
「あっれー、美咲ちゃんこんなところから誰を見ているのかなー?」
いきなり後ろから元気な声に呼ばれて飛び上がる。
「ゆ、優奈ったら、シーッ!」
店内は音量を下げたBGMが流れているけど基本的には静かな場所なので、いつもちょっと大きめの声でお喋りをしては先生に叱られてしまう優奈の声はかなり際立ってしまっていた。
「おぉ?」
優奈は私が慌てているのなんてお構いなしに、私が目を向けていた方向をどれどれ~と両手で双眼鏡を作って覗き込んでいる。
「おぉ?じゃないよ、お店の中では静かにしなくちゃ~~」
「でもここ、図書館じゃないんだから少しぐらいお話しても問題ないと思うんだけどなあ……」
「だけどお店で大きな声で騒いだら他のお客さんに迷惑だよ?」
「私、騒いでないんだけどなー、あ、あの人かな~~?」
ピタリとさっきのお兄さんが立っているところで双眼鏡の手を止めた。
「だからシーッだってば」
店員さんがやってきて静かにしてくださいねって言われるんじゃないかとドキドキしながら店内を見回す。幸いなことに本棚の影から本屋さんのロゴに入った店員さんが飛び出してくることはなかったけれど、今の調子でお喋りを続けたら絶対に私たちお店の人に叱られちゃうよ!
「美咲ちゃんったら、本当に恥ずかしがり屋さんなんだから~~」
「そういうことじゃなくて! とにかく静かに、シーーッ!」
クスクス笑う優奈の声に気がついたのか、その人が参考書から目を上げて私たちの方に目を向けた。
わー、目が合っちゃった!! 目が合ったとたんに自分の顔が赤くなるのが分かった。ひょえぇぇぇ、恥ずかしくて死にたいよ。絶対に騒がしい変な子たちがいるって思われちゃったよね?!
その人は私たちを見て少しだけ微笑むと手にした参考書を手にレジの方へと行ってしまった。
「もう! 優奈のせいで私たち笑われちゃったじゃん!!」
「なになに? もしかして美咲、今のお兄さんに一目惚れでもしたのかな?」
優奈の双眼鏡の手がこっちに向く。
「ちがうー!! もう、変なこと言わないでよね!!」
「あー、はいはい、ごめんねー」
「もー、人の話、聞いてないでしょー」
「そんなことないよ~~」
気のない優奈の返事に溜め息が出てしまった。
そりゃあ小学生の私にとって中学生のお兄さんお姉さんは別世界に住んでる大人だなって憧れることはあるけれど、それは断じて一目惚れとかそういうものとは違うんだからね!!
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そんなお子さまな私がその人の名前を知ったのはそれから直ぐ、中学に進学してしばらく経ってからのこと。
その人の名前は早瀬達央先輩。偶然にも同じ中学校に通っている三年生の先輩だった。
校内の女子情報網では物静かに本を読んでいる先輩らしいとの情報だけど、たまに他の先輩達とサッカーなんかしてグラウンドを走り回っているところをみるとまったくの文系男子ではないみたい。
あと優奈情報によると、先輩のお父さんは警察官でお母さんは日舞のお師匠様。お母さんはその世界では有名な人らしくてたくさんのお弟子さんを抱えているんだとか。そして先輩もたまにその教室で日舞を舞っているらしい。
その話を聞いた時、本屋さんで初めて見た時にとても姿勢が良いなって感じたのは先輩が日舞を習っていたからなんだなって改めて納得した。
「すらりとした先輩なら和装も似合いそうだよね」とニマニマ意味深な顔をして笑うのは、中学に入ってから腐な分野にすっかり目覚めてしまった友達の一人、桜ちゃん。彼女の頭の中で先輩が一体どんな目に遭っているのかだけは知りたくないかな……。
「美咲ちゃーん、また早瀬先輩のこと見てるでしょー」
私が窓際の自分の席から外を眺めていると、優奈がにやにやしながら近づいてきてこっそりと私の耳元で囁いた。慌てて手元にあったお菓子づくりの本に目を落としたけど時すでに遅しってやつかもしれない。
「違うよー、いい天気だなって思ってただけー」
「そんなに恥ずかしがることないじゃん?」
そう言いながら優奈が窓から下をのぞく。きっと彼女の目には校庭で早瀬先輩と同級生の人達がボールを蹴りながら走りまわっているのが映るはずだ。私は慌てて視線を明後日の方向に向けた。
「あの先輩と初めて会った時もさっきみたいに見てたよね? こんな風にまた会うことになるなんてさ、これってやっぱり運命の出会いってやつなんじゃないの?」
「だから違うって」
優奈は私がこっそりと先輩を見ていたのに気がついてから、その相手が小学校時のあの冬休みに本屋で見かけた人だとすぐに分かったみたい。
「美咲ってば男子の告白にもずっとNOだよね? それってやっぱりあの早瀬先輩のことが心のどこかに頭に残っていたからじゃない? あれ? これってものっすごい純情物語になるんじゃ?」
「だから違うんだってばーー!! だからー、そのう……ちょっと憧れてるだけ、なの!」
もうこれは運命の出会いの赤い糸かもしれないね?とラノベ好きの彼女は言うけれど、なんの接点もない私と早瀬先輩がお話をする機会なんてものがあるはずがない。それもあってか私は教室の窓から先輩を見ているだけで満足しちゃっている。
三年生ともなるとやっぱり大人だよねえ……と相変わらず自分より少し大人なお兄さんお姉さんに憧れながらすごしていたらそろそろ季節は十月、中学校生活を始めて半年が経とうとしていた。
「いっそのこと告白しちゃえばいいのに。私たち応援しちゃうよ?」
「だから違うんだってばあ。それに、早瀬先輩にはほら、杉野先輩がいるじゃない?」
早瀬先輩とよく一緒にいるところを見かけるのは先輩と同じ三年生の杉野晴香先輩。
杉野先輩は合唱部に所属していて先輩が歌うと黒山の人だかりが出来るほどの歌唱力の持ち主。放課後に先輩がソロで歌っているのが聴こえてくることがあるけれど、透き通るような声ってああいう声のことだよねって私にでも分かる、とーっても綺麗な歌声を持っていた。
しかも色白でストレートの黒髪がつやつやなとっても美人な先輩で、早瀬先輩と二人で並んでいると美男美女って感じですごくお似合いだった。
「あんな美人の先輩がカノジョさんがいるのに、私みたいな茶髪天パのおチビな後輩に告白されちゃったら早瀬先輩、困っちゃうよ……するつもりないけど!」
「あの人、本当に先輩のカノジョなのかなあ」
優奈が首をかしげた。
「だっていつも一緒にいるところ見るよ?」
「いつも一緒だからってカノジョとは限らないんじゃ? その理屈で言ったら早瀬先輩とよくつるんでる山崎先輩も先輩のカノジョってことになっちゃうし」
ちなみに山崎先輩というのは今、早瀬先輩とボールを追いかけている一人でどこから見ても女子には見えない存在。女子にも男子にも人気のある爽やか王子様系の先輩だ。
「山崎先輩は男じゃん!」
「じゃあカレシ。うっわー、自分で言ってドン引きだよ、私」
「……」
私もドン引きだよ、優奈ちゃん……。
「まあそれは冗談だけど杉野先輩はともかく、早瀬先輩が杉野先輩のことを自分のカノジョだって公言したのを聞いた人っていないんだよ。だから状況証拠は揃っていても実際は未確定なの」
「それはそうだけどさあ……」
でも二人が一緒に下校するところをよく見かけるんだもん。そんな時の杉野先輩はいつも楽しそうに早瀬先輩に話しかけているし、早瀬先輩も穏やかな微笑みを浮かべて杉野先輩の話を聞いているようだった。あの様子からして二人が付き合っているのは間違いないと思うんだけどな……。
そしてそんな二人を見ると時々チクリと胸が痛くなるのはどうしてだろう。
「そう見えるだけで、意外と真実は違っていた、なんてことよくあることじゃない?」
「優奈、それは小説の世界」
「そうかなあ……。でもさ、窓から先輩を見ている美咲の表情は、まさに恋する乙女そのものだよ。あ、何か神が降りてきた、ネタにしてもいい?」
「やーめーてぇぇぇー」
優奈の言葉に悲鳴をあげてしまった。
彼女は皆に大っぴらに話してはいないけれど、彼女は十三歳にしてラノベ界にデビューした作家先生でもあった。しかもかなりの売れ筋。
たまに他のクラスの子が読んでいるラノベが優奈が書いたものだったりするのが友達としてとても嬉しい。嬉しいんだけどネタに詰まった時に私達をネタにしようとするのだけはやめてほしいんだよね。今のところそれが実現したことはないんだけど、そのうち自分達が優奈の書くお話に出てきそうでとっても怖い。
「まあ確かにネタにしてその中で美咲が幸せにするにしても、まずは実世界で幸せになってくれなくちゃ面白くないよね」
「面白くないって……」
「じゃあ美咲が幸せになるまでは書くの待つことにする。編集さんにはこんな話を思いついたんだけどどうかなって話しておくから、リアル世界の美咲ちゃんがまずは頑張れ!」
「なんでそうなるのかな……」
「印税がっぽりだったらおごるからさ」
「そういう問題じゃないと思うんだけどなあ……!!」
優奈とそんな言い合いをしていた私の耳に杉野先輩の歌声が聴こえてきた。
だけどこの時の私はまだ知らなかったんだ、憧れがいつの間にか恋に変わるんだってこと。