溜息と歓喜
『せっかく先輩と再会できたのに結婚してるんだもんな~』
と鷲崎織姫が落ち込んだ通り、山下達は既に既婚者である。事情があって今は一緒に住んでいないが、別に夫婦仲が悪い訳ではない。それどころか周囲が呆れるくらいにラブラブだ。娘である沙奈子との関係も良好で、そこに余人が入り込む隙はない。
『はあ、どうして私がいいなと思った男性はいっつも売約済みなんだろ…』
部屋に戻ってからもそんなことを考えながら「はあ…」と溜息を吐く織姫に対し、結人は、
「おい、おデブ。腹へった」
と容赦がなかった。すると織姫は目を吊り上げて、
「ぽっちゃりだけどデブじゃない!」
と返し、しかしそれで気持ちが切り換えられたのか遅い昼食にしたのだった。
昼食後、見た通り部屋は既に片付いているので困ることはなかったが、パソコンに向かい仕事を始めた織姫に対して、
「ちょっとこの辺ぐるっと回ってくる」
とだけ言い残し、結人は部屋を出て行った。こういうのはいつものことなので織姫も心配はしていない。心配があるとすれば他の子とケンカでもしないかということくらいだ。
部屋を出て階段を降りた結人は、さっき挨拶に行った一号室の方にちらっと視線を向けた。しかしそれ以上何もするでもなく、本当にアパートの周りをぶらぶらし始めただけだった。
が、この辺りは思ったよりも人影もまばらで、犬を連れた高齢者や、宅配業者や、幼い子供を乗せた自転車に乗った母親らしき女性とすれ違った以外に人を見かけなかった。結人と同じ小学生くらいの子供の姿はまるでない。
実際、ここは子供のいる世帯が少なくて、それがいつもの光景なのだ。しばらく歩いたところに小さな児童公園があった。そこでようやく子供の姿を見付けたが、ベンチに座って携帯ゲームをしている低学年くらいの男の子二人だけだった。
結人は、小さな画面を見ながらちまちま操作するようなゲーム機が嫌いだった。リモコンを振り回して体を使って遊べるTVゲーム機はそれなりに楽しめたが、グロテスクな描写が多くとにかく出てくる敵を殺しまくるだけのゲームばかりやりたがるので、織姫が新しいソフトを買わず、今ではすっかり飽きてしまった。
彼は危険な少年である。決して大きいとは言えない体に、ぐつぐつとした、熱くて暗いものを煮え滾らせ、それの捌け口をいつも求めいているような存在だった。その危険性を織姫がどこまで理解してるかと言えば、正直言って心許ない。彼女は彼のことをただちょっと乱暴なところもあってケンカっ早いだけの、いわゆるガキ大将的な、男の子にありがちなものとしか認識してなかったのだ。
にも拘らずここまで致命的な事件が起きずに過ごせたのは、もはや奇跡に近い幸運だっただろう。もしくは、彼女の底なしの朗らかさと天然ぶりが、彼の感情の発火点を微妙にはぐらかすことが出来ていたからかも知れない。彼女の何も考えてなさそうな能天気な笑顔を見てると、イライラしてるのが馬鹿馬鹿しくなるというのは確かにあった。
しかし、それだっていつまでも上手くいくとは限らない。事実、終業式直前、事件が起こってしまったのだから。
昼休憩の時、些細なことで同級生の男子とケンカになり、彼に負けそうになったその男子生徒が鋏を取り出しそれで彼の顔を殴ったのである。結果、結人は額を三針縫う怪我をして、更に反撃を試みた際に胸に強烈なタックルを食らい肋骨にひびが入る重傷を負ってしまったのだった。なにしろ、身長で十センチ、体重で十五キロ違う相手である。しかも相手も暴力は日常茶飯事だった奴だ。さすがに無謀であったのだろう。
騒ぎを大きくしたくなかった学校側は双方に働きかけ和解させることで穏便に収めようとしたのだが、相手側がそれに納得しなかった。ケンカの原因は結人側にあるとして謝罪しなければ告訴も辞さないと言い出したのである。が、いくら教師が止めに入った時には結人が相手に馬乗りになっていわゆるマウントポジションを取ってたとは言え、鋏で殴られて三針縫う怪我を負ったのも肋骨にひびが入る重傷を負ったのも結人だったために、事を大きくすれば不利になるのは向こうの方だった。
だがその辺りの損得勘定もできないのか何か勝算があるのか、男子生徒の保護者側は一歩も引こうとしなかった。すると学校は結人側に相手に謝罪するように要求してきたのだ。さすがにこれには織姫も納得がいかずに憤慨して山下達に相談を持ち掛けたところ、もし学校の対応に不満があるのなら無理にその学校に通わせるのではなく、自分の娘が通う学校への転校も考えてみてはどうかと持ちかけ、それまで結人を通わせていた学校には愛想が尽きていたことと、勤めているデザイン会社が京都市にあるということで、渡りに船とばかりにその提案に乗ったというわけである。
ここでもし、結人がその学校に愛着でも持っていたら少しは躊躇ったかも知れないが、結人自身がまるでそんなこともなく、しかも最終的にマウントポジションをとり後はぼこぼこに殴り倒すだけになってたことで自分の勝利を確信してたのもあって逃げる形になる訳でもなかったこともあり、『オレはどこでもかまわねーよ』と吐き捨てた為に、結人が入院している間に手続きは済まされ、今日に至ったというわけだ。
そういう諸々を思い出しているのかいないのか、結人は淡々とアパートの周囲を歩き続け、三十分ほどでまた戻ってきたのだった。
だがその時、不意に一号室のドアが開き、あの山下達と姪の沙奈子が姿を現した。すると彼の姿に気付いた山下が、
「こんにちは」
と穏やかな感じで声を掛けてきた。それに合わせて沙奈子の方も、黙ったままだったが頭を下げて挨拶をしてきた。しかし結人はそれには応じず、ぎろりと威嚇するように二人を睨み付ける。にも拘わらず当の二人はそれを意にも介さずにもう一度頭を下げてそのまま歩いてどこかへ出掛けて行ってしまった。
「……?」
この時、結人は、表情は変わらず不遜な感じではあったが、実は内心、戸惑っていた。二人が彼に見せた態度が原因である。
それと言うのも、これまで結人がそうやって睨み付けた相手は怯えて目を逸らすか、『生意気なガキだ!』と激高して睨み返してくるか怒鳴りつけてくるかだったのだ。なのに山下達と沙奈子の二人は、間違いなく彼の顔を見た筈なのに平然とそれを受け流し、怯えるでも憤慨するでもなく立ち去ってしまった。それは彼にとっては信じられない出来事だった。
だがどういうことなのか確認しようにも二人はどこかへ行ってしまった。その場に一人取り残された結人は、何か腑に落ちないものを感じつつも、織姫の待つ部屋に戻るしかなかった。
そしてその日の夜、織姫の携帯に着信があった。山下達からだった。
「はい」と電話に出た彼女に対して、山下は言う。
『結人君、ハンバーグは好きかな』
唐突な質問に戸惑いつつも織姫が、
「はい、割と好きな方だと思います」
と応えると、山下が、
『それは良かった。実は沙奈子が手作りハンバーグを作ったんだ。それで二人にもどうかと思って』
と。せっかくなのでお近付きのしるしにということだったのだ。
「いいんですか!? じゃあ、伺います!」
夕食についてはこれから考えようと思っていたところへの思いがけない申し出に、織姫は歓喜した。しかも『沙奈子ちゃんの手作りのハンバーグ』をご馳走してくれるという。これまでにも何度も話を聞いて一度食べてみたいと思っていたところだったのである。
目を爛々と輝かせ、彼女は結人の方に振り返って言った。
「結人! ハンバーグ食べに行こ!!」




