3.花に嵐
午後のお茶のワゴンを押して扉を開けると、部屋の主人はそこに居なかった。主人不在の部屋の奥では窓が大きく開け放たれていて分厚くて上質なカーテンがバタバタと風に煽られている。
窓に歩み寄った少女は翻るカーテンをタッセルで纏めながら、木登り(この場合は木下り)に最適でこちらに丁度良く枝を伸ばしている庭の大きな木を呆れたように見下ろした。
「もう、またですか? ちゃんと階段を使いなさいといつも言っているのに、仕方の無い姫さまですね?」
幸いにしてこの窓からは広い中庭がよく見渡せる。少女は生い茂る眼下の緑の中に主人の姿を探して視線を巡らせた。
そこは庭師に手入れされた植物や、それを際立たせるためのアーチやらベンチやらが上品な調和で配置されている。この時期は丁度、庭の中程に生えている立木の花が満開であった。冬を越したあの植物は、若葉を芽吹かせるよりも先にまず小さな蕾をびっしりと付けて見事な薄桃色の花を咲かせるのだ。
その大量の花々の僅かな隙間から、その木の下にいる小柄な主人の姿を見つけて、少女は小さく笑みを漏らした。
ゆらゆら揺れるハンモック。
花を楽しんでいるのか眠っているのかここからは定かでないが、木々の合間に釣ってある吊床はあの花を見上げるのに最適なのだろう。
少女は自分も枝をつたって庭に降りてみたくてたまらなくなり、ついには、そのほうが主人のもとへより迅速に辿り着けるから、と心中に苦しい言い訳をする。
行儀作法見習い中の少女は普段は淑やかに振舞っているものの、実は木登りの類いは得意である。
手近な枝に手を伸ばし、軽やかにスルスルと降りていく。多少ペチコートが引っ掛かっても誰も目撃者が居ないなら大丈夫大丈夫。
危なげもなく地面に到達した少女は、膝丈までのふんわりしたスカートを翻して主人のもとへと駆け出した。
「……姫さま?」
立木と立木の間に吊られた白い網状のハンモックに包み込まれるようにして、幼い少女がすぴすぴ眠っている。
眠る少女の身体の上には幾枚もの小さな花弁が降り積もっていた。それは彼女のくるくる巻いた髪色と同じ薄桃色だ。
その木の花の群生は真下から見上げると一段と見事で、緩い風に乗せて涼やかな匂いと共にその繊細な花弁をハラハラと舞い落としている。
ここだけ時間が静かに流れて、とき折り、立木の呼吸のように枝と花弁の擦れる微かな音が聴こえる。
「風流……と呼ぶのでしたよね。こういうのを?」
風流な風景に溶け込んで、ぐっすり寝入る小さな少女。
普段は、大人びた――というか尊大なご主人も、こうして眠っていれば年相応に愛らしい。もともと口を開きさえしなければ、あどけなく幼気な美少女そのものなのだが。
あんまり可愛いので暫く眺めていたいと思ったが、いくら暖かい日とはいえそろそろ3時だ、こんな場所でいつまでも眠っていたら身体が冷えてしまう。
「姫さま。起きてください、風邪ひきますよ」
揺り起こすと、主人は小さな眉にシワを寄せて何やらもごもご呟いた。
「……ぅ……ん。……針と糸……糸が、足らぬぞぉぉ……」
「寝ぼけてますか、アマリリス様?」
さらに声をかけると、主人はパチリと瞳を開き、不思議そうにこちらを見上げた。
「……あれ、ローズ?」
「はい、姫さま。お茶の時間ですよ。夢でも見てました?」
「……うむ。カーテンの穴を、ひたすら繕っている夢だ」
「ずいぶん、地味ですね」
「うむ。実につまらぬ夢であったな。まぁ、私のように現実が偉大で素晴らし過ぎると、夢は地道になるものなのだ」
主人アマリリスの視線が、自分を通り越しさらに上で揺れる薄桃色の群生に向けられる。少女ローズは屈んでいた身体を起こしてアマリリスの視線を一緒に追った。
「綺麗ですね」
「ソメイヨシノという遠い東方の島国から寄贈されたチェリーブロッサムだ。実を食す為ではなく、純粋に花を愛でる為の品種だ」
「ふーん、変わってますね」
「その地の剣士の生き様にもなぞられて、この花はかの国でとても好まれているのだ」
「花と剣士が?」
「うむ」
「良く分かりません」
「そうか?」
首を傾げたローズにそれ以上は語らず、アマリリスは大人びた笑みを浮かべる。
ハンモックから下りようとするアマリリスを手伝って、ローズが手を差し伸べた時。
ザザザ―――。
唐突に風が吹いた。
それは辺りの木立を大きく揺らしながら、この麗らかな庭へ冷えた空気を送りこんでくる。爛漫と咲き乱れていた桜木が大きく煽られて、桜色の花を一気に散らせ、少女達の周囲には雪のような花弁が幾千も舞い狂った。
その光景が
綺麗、と呟いた幼い主人を、少女は後ろから抱えるようにして、暫く二人で花吹雪に見入っていた。
桜花の散り際の美しさ。
それは刹那的であるからこそ美しい。
「……旅に出るぞ」
花吹雪を眺めたまま、主人が再び小さく呟く。
「……。珍しいですね、外出なんて」
「物見遊山ではない。長旅だぞ、ローズよ。明日には出発する」
「ずいぶん唐突です……御神託とか?」
主人は見た目は幼い少女だが、これでもヒッペアストラム神家随一の神聖系魔法使いである。
「うむ」
「では仕方ありません。さっそく荷仕度を始めましょう。でも、その前にティータイムです、姫さま」
「うむ。菓子は何だ?」
「クレームブリュレでーすv」
「(〃▽〃)わーいわーい」
また強い風が吹いてきて、少し肌寒くなってくる。
じわじわと曇天が広がり始めて、低い空にはゴロゴロと遠雷まで鳴りだした。
「嵐になりそうです。早く館に入りましょう」
「春雷だな」
大事の前触れと暗示される春の雷。単なる迷信ではあるが、突然の旅をひかえたこの場面には相応しい。
館へと足を急がせながら、暗い空と桜木とを振り返った。
これから来る嵐で、桜の花はすっかり散ってしまうのだろう。
それが、ただ残念で仕方なかった。
残念だけど多分、染井吉野は香りません。
しかし、品種不明ですが香る桜は確かにあるのです。お花見の時に甘い香りの素敵な桜があったのです。染井吉野より少し花色が濃くて綺麗な桜でした。そっちを使いたくて調べたのですけど品種がわかりませんでした……。
でも染井吉野も好きだよ。桜とモノノフ萌え。