闇夜の少女
とある男の奇妙な体験談を語ろう。
それはとてもとても奇妙な話だ。きっと多くの人は、あまりにも奇妙すぎて法螺話にしか聞こえない話だ。
男が初めて奇妙な体験談を語ったのは酒の席での話だから、法螺話にしか聞こえなかったというのもあるかもしれない。その席に居合わせた人たちは彼を大いに笑った。
酔っぱらった思考での話にしてはリアルティがある面白い話だと笑い、彼もへつらへつらとアルコールで赤くした顔で笑っていた。
周りは「普段もそれくらいの面白い記事を書けよ」やら「仕事でも酒が入ってた方が良いんじゃないか」などと冗談を言いながら、場を盛り上げた。
彼もまた「編集長が許可するならやってもいいよお」と満更でもないような笑みで返答した。彼は三流雑誌のライターだったのだ。
それも心霊やらUMAやら都市伝説やらを専門とするオカルトライターで、何か話題の心霊スポットがあれば取材しに行く行動派であった。
絶対に出ると言われた廃病院にも行き、ネットでヤバイと囁かれる霊園にも行ったことがあるが結果は微妙だった。なんの怪奇現象も起きないし、写真を撮っても錯覚で心霊写真に見えるものばかり。
昔から怪奇に憧れているのに、いまだに体験することが無いのはどういうことだろうかと、男はいつも言いながら退屈していた。
男は本当の怪奇現象を体験したことがなかった。
テレビで視聴者が投稿した怪奇映像を見ては、うらやましいなあと言うほど怪奇現象に飢えていたそうだ。
ある日までは……。
ある日、男は本当の怪奇を体験した。いや、遭った。今では酒の場で法螺話として語ることができるが、怪奇に遭ってしばらくは家から出ることもできず、眠ることもできなかった。そして、不安が頂点に達すると神社などで何度もお祓いをして連日睡眠をとった後、ようやく会社に復帰してきた。
それほどまでに男は衝撃を受けたのであろう。恐るべき目に遭った、誰かに話して心情を吐露しようにも絶対に信じてもらえない話。外に出歩けばまた怪奇に遭うのではないかという恐怖。
男の感性は至極真っ当なものだ。怖いもの好きでも怪奇に出遭えば彼と同じ反応をする。もし仮に怪奇に遭って恐怖しない者がいるなら、その者はきっと狂っているのだろう。怪奇においての狂っているというのは、言動や発言が狂っているという意味ではなく存在が狂っている。
紛れもない人の身でありながら霊を視覚できたり、たびたび怪奇に巻き込まれたり、酷い者は存在するだけで周囲に影響を及ぼすなどと、その他にもいろいろとある。私の場合は怪奇に遭わずとも怪奇の話が転がりこんでくる。
とまあ、前置きはこれくらいして怪奇物語を綴ろうと思う。
第三者からすればこの話は大したことはないかもしれない。しかし、この方面において恐怖は関係ない。重要なのは怪奇が在ったということだけである。
また、この話は又聞きしたものを文にしたものだから、執筆者自身の過大誇張が少なからず存在している。読者にはきっと作り話にしか思えないだろうが、男にとっては真実の話である。
男の話を嘘とするか真とするかは好きにしてほしい。ただ、言っておきたいことがある。嘘と決めつける人は怪奇から目を背けているだけではないだろうか。だってほら、あなたのすぐ近くには……いや不安を煽るのはやめておこう。
今はただ、この物語にだけ集中して欲しい。
男が怪奇に遭った日は冒頭で書いたことと同じような日。二人だけの寂しい酒盛りであったが、男にはだいぶ酔いが回っていた。
顔を真っ赤に染め、思考が乱雑としていて夢見心地に陥っていた。
「うぇへへへ、今日ありざとうえべるす、つきああてもれえて」
酔いに回ってろれつの回らない舌で男は知人に礼を述べた。
「うん、まあ、いつも奢ってもらっているから、これくらい大したことないよ。けど、大丈夫か? タクシー呼ばなくて」
反面、知人はあまり酔ってはいなかった。互いに飲んだ量は同じくらいだったが、男は一杯だけで赤くなるほどに弱かった。
酒に弱いにも関わらず酒好きで、怪奇に遭えないことを愚痴りながら飲むということを、知人相手に毎晩繰り返していた。
普段、男が酔ってもタクシーは呼ばない知人だが、この日はあまりに酔いが酷くてたまらなかった。
「おーおー、だいじょうぶだいじょうぶ。こっから歩いで二十分だぜぇ。タクシーなんでもったねぇ」
「いやでも、足元がふらついてるし」
「根性でなんとかすっからよ。無問題」
知人の提案を断った男は身体を不安定に揺らしつつ、手を振って店から出た。
知人はあの調子で大丈夫かと思い、すぐに男に駆け寄りたかったが閉店間際であったこともあり、勘定する客が多くレジに並んで足踏みさせられた。
そんな心配を余所に男は乱れる足取りで人ごみの中へ紛れて帰路へと歩いて行った。
外は暗雲立ち込める寒空で、一息するたびに白い吐息が鼻や口から立ちこめる。街中は毒々しいネオン光で酔い人を照らす。あまりにも光が強いものだから一瞬、昼ではないかという錯覚が生じるが、慣れればどうということはない。
ゆたり、ゆたりと一歩ずつ足を視界定まらぬ先へと踏み出して自宅を目指す。
酔いどれる同類が歩く道を通り、ネオン光のスポットから外れ、橙の優しい光を照らす街灯がまばらにある道を進んだ。ここまでで約二十分、いまだに自宅には到着しない。
当然といえば当然だ。酔いの回った足では歩をあまり進められない。当の本人にしてみれば、常人の遅い足取りがとても速いと感じる。
そう感じる時間もつかの間、貫く外気に当てられて蒸気した身体は急速に冷却されて、昂ぶりが少し落ち着く。けれど歪んだ視界のまま。
「ああ、もうこんな時間――うぇぷ」
飲みすぎた代償の吐き気をこらえながら男は手首に装着されている腕時計を確認した。
時計の針は縦に歪んだ一直線になっていた。長針が短針に追いつけばおそらく次の日である。
「ひつも通り――ううぇ。さむさむっ」
肩をぶるっと震わせて、大変なことに気付いた。
喉の奥から酸っぱいナニカが逆流してきそうな匂いが上がってきた。
その正体が嘔吐の前触れだと理解するには刹那にもかからない。
きょろり、きょろりと歪んで見える周囲を見回して現在地点をなんとか確認し、脳内にだいたいマップを描いた。
ここから近いトイレは、男の帰路を先に進んだ途中にある公園の公衆トイレのみ。数分程度だけ嘔吐することを我慢すれば、公衆道に汚らわしいものを撒き散らさなくてもすむ。
男は社会規範に厳しい人だったのだ。
ともあれ男は吐き気をこらえて、腹を刺激しないように急がず焦らず足取りを進める。
ゆたり、ゆたりと進むたびに夜を照射していた妖艶な三日月が雲隠れしていった。
公園の公衆トイレ前に来た頃には、三日月はすっかり見えなくなり、深い闇夜は訪れていた。
「うぷっ!」
嘔吐寸前の男にとっては、どうでもいいことで気にかけた様子もなく白色の電球が照らすトイレへと飛び込んだ。
「うぺぺぺぺぺぺぺぺ」
口から吐瀉された黄土色のアーチを描き、それを便器が受け止めた。
いろいろなモノが混ざった流動物は、鼻にツンとくる刺激臭を放つ。
「うぺぺぺぺぺぺっぺぺっぺっぺっ……はあはあはあ……」
腹の中の流動物を吐きに吐き切った今、男は清々しさを感じて悦を感じた。
胃の中は軽く、身体の調子が良くなったような気がする。
そう思いながら個室から出ようとした瞬間、トイレの電球が何度か瞬いて光を失った。
閑寂の闇。
何とも運が悪いものだと気分を害しながらも、うっすらと見える闇の中を動いて洗面所に辿り着く。
まず手を洗い、蛇口より流れでる水をすくって一回、二回と口をゆすぐ。公衆トイレの水は、とても錆び臭く感じられた。
「ふーー」
安堵の息を吐いて男が公衆トイレを出ると、公園の出入口を照らす街灯がついいなかった。大方、電球の寿命が来たのだろうと推測した。
推測しただけで特に何とも感じない。小心者であれば少なからずの気味悪さを感じるかもしれないが、夜中に心霊スポットに赴くことのある男には恐怖は無い。
アルコールで若干の興奮はあるものの、闇夜に慣れた目で出入口を見ながら歩く。ちょっと前よりかはマシな足取りでふらふらと進んでいった。
くるりくるり。
公園の中央に差し掛かると出入口のそばに何かが舞っていることに気づいた。上下左右、縦横無尽にと、サッカーボールより小さめのナニカが優雅に空を舞っていた。
オカルトライターの彼はうやむやな思考回路の中、すぐに人魂かと思った。が、発光してないことから違うと判断する。
では何だろうと、目を凝らして注視してみるものの、酔いが残る彼の視力では輪郭やら空間やらがねじ曲がって詳細を掴めない。
本当に何だろうかと、沸き上がる好奇心に誘われて、出入口へと速度を早めた。
するとナニカは空中で停止し、反転した。
――――きょろり、じーーっ
「…………ゴクッ」
得体の知れない視線が向けられたような気がして、男は思わずツバを飲み込んだ。気づけば手足が震え、血液が高速で循環して心音が大きく鳴り響き、額から汗が幾度も伝う。
男から今までにない恐怖と怯えを抱く。ナンダカワカラナイがアレは怪奇だと薄々と感じたのだ。
くるくる、くるりくるり。
ナニカは再び舞い始めながら、何かを試すように男の方へ近づいてくる。
先ほどより範囲を広げて舞うナニカを男は首を動かしながら、焦点を定める。
空中を舞うナニカはヒラヒラとした細いものが付いているようだった。何というか……人の髪のようなものが付いている。
男とナニカの距離がさらに縮まる。
「見えてるんだ」
「あっ……」
不意を付いて聞こえてきた幼く儚げな声の主を、しっかりと捉えた男は驚愕した。
くるくる。
空を舞う……空を舞う……■■は男を見据えて嬉しそうに微笑んで、喜びを舞うことで表現する。
流れ行くままに永遠に刻まれる終わらぬ舞踏。軽快なステップを踏むかのように■■は舞った。
男はソレを凝視して正気を崩壊させる。怖いもの好きの彼でさえ耐えられないソレは、何くわぬ表情で再度笑った。ソレは、ソレは……。
――――くるくる、狂う狂う
あか抜けぬ少女の――生首だった
「あ、あ、あああああ……」
「わたし、迷子になったの」
何と言ったらよいのか戸惑いながら身体を硬直させる男に、ほっそりとした少女から言葉が投げられた。
少女の髪はストレートで、もし身体があるのであれば、少女の髪は肩までといったところか。
と、男が混乱の最中にどうでもいいことを考えていると少女がアクションを起こした。視線を男に向けたまま360度、ぐるりと回転する。
「ねぇ、オジさん。聞いてる?」
「お、お、お……」
その時、それまで寿命で消えていたと思われる街灯の電球が突然橙の光を取り戻し、二人を照らした。
男の目前には髪色、黒と金のプリン体にして瞳は黒。そして雪のような肌に造形整った顔。――生首が鮮明にあった。
少女は無邪気な笑みを浮かべたが、男は顔面蒼白となっていた。この世ならざるモノが男の前にある。怪奇に遭いたがっていた男は、この状況に喜ぶのではなく悲鳴を上げる。
「お、わーーーーッ!!」
あらん限りの心の底からの絶叫を上げて、少女の横を通り抜けて公園を飛び出した。思いを占めるのは畏れと早く家に逃げ込みたい気持ちでいっぱいだ。
男は寒空の風を受けて鼻を赤くし、肺や心臓は限界まで稼働させて道を駆け抜ける。その背後からナニカがついて来ているような錯覚があった。
ナニカとは少女の生首だ。振り向くのは怖いが、ついて来ていないか気になった男は、速度を維持しながら後ろを素早く振り向く。
ふよふよ。
鼻先と鼻先がぶつかりそうな距離で、風の抵抗を物ともせずに男の速度に余裕で追いついている少女がいた。
この世の法則を超越している。重力を無視しては浮かび、胴体が無いのに生きている。これはもう生物や人間とは言えない。比べること自体が生物を冒涜する行為だ。
少女はおぞましい姿で言葉を口にする。
止まれば死ぬ。そう男は解釈して背中を震わす。
死、死、死……。
ひたすらに死への想像が膨れて弾ける。
「……ぎにゃあああぁぁぁぁぁぁ!?」
響く絶叫に転倒音。
男は地に顔面を伏したが、痛みすらも忘れたように急いで逃走を試みる。
本当は立ち上がるつもりであったが、腰が引けてしまい、地を惨めに這うような形となった。
今、どの方向に、どのくらいの速さで、どこに向かおうとしているのかは分からない。
頭の中はごちゃごちゃに乱されて、自分の身体という感覚が薄れていた。あるのは逃げるという一つの願望だけ。
「お願いです。話、聞いて下さい」
暗雲がスーっと引いていき、月が出てきて視野が明るくなった。
――――くるくる
いつの間にだろうか。男の目前に病的なまでに白い肌が月夜に照らされている。
――――狂う狂う
頭は見ることを拒否したにも関わらず、男は深淵の底を覗いてしまった。
鮮明にその姿を捉えてしまったがために、理性が崩壊の音を立てる。
「アアアアアアアアアアアアァァァァァァァァッ…………」
男は中で何かが切れることを聞き、視界が暗くなっていく。
自分の意思ではどうにもならなく、その流れに身を任せた。
「わたしの胴体、何処にあるか知ってる? 胴体のところへ帰りたいの」
完全に切れる寸前、男は声の主を見つめた。
そこにいたのは、目を伏して悲哀の表情を浮かべた少女――――の生首だった。