決着
「う、うわあああああっ!!」
勇者の絶叫が、静寂な裏門に木霊した。
それは戦意高揚の叫びではない。恐怖を振り払うための、悲痛な喘ぎ声だ。
彼は剣を滅茶苦茶に振り回しながら、オーク・ジェネラルへと突貫した。
対するジェネラルは、動じる様子もない。
兜の奥で、冷ややかな嘲笑が浮かんだように見えた。
羽虫が飛んできた。その程度の認識だろう。
ジェネラルは丸太のような腕を振り上げ、巨大な鉄の棍棒を無造作に振り下ろした。
ブンッ!!
空気を引き裂く重低音。
直撃すれば、勇者の細い体など肉片へと変わる威力だ。
「ひっ!?」
勇者は、無様に足を滑らせた。
だが、それが幸いした。
体勢を崩して地面に転がったことで、棍棒は彼の頭を通過し、石畳を粉砕したのだ。
ドゴォォォォン!!
石飛沫が舞い、勇者の頬を切り裂く。
「あ、あ、あ……」
勇者は腰を抜かし、後ずさる。
ジェネラルは攻撃の手を緩めない。
今度は横薙ぎだ。
勇者は這いつくばったまま、泥だらけになって転がり、それを避ける。
剣など構える余裕はない。ただ、生き延びるために本能で動いているだけだ。
その姿は英雄とは程遠い。
泥水に塗れ、鼻水を垂らし、死に物狂いで逃げ回る小動物のようだ。
吾輩は屋根の上から、その一方的な蹂躙を見下ろしていた。
長くは持つまい。
次の攻撃か、その次か。
勇者のスタミナが切れるのが先か、ジェネラルの慈悲なき一撃が捕らえるのが先か。
吾輩は周囲を見回した。
吾輩の爪や牙では、あの分厚い鎧を貫くことはできぬ。
ならば、猫には猫の戦い方がある。
この「高低差」こそが、吾輩の武器だ。
屋根の縁に、手頃なものがあった。
二階の窓辺に飾られた、素焼きの植木鉢だ。
中には土と、赤い花がたっぷりと詰まっている。
重さは……吾輩の体重と同じくらいか。
猫の前足で動かすには骨が折れるが、不可能ではない。
下では、ジェネラルが勇者を壁際へと追い詰めていた。
「ぐぅ……っ、はぁ、はぁ……」
勇者は背中を壁に預け、剣を両手で握りしめているが、その手は痙攣している。
もう逃げ場はない。
ジェネラルが、トドメとばかりに棍棒を高く掲げた。
その視線は勇者に釘付けだ。頭上の猫になど気づくはずもない。
「……さらばだ、名も無き花よ」
吾輩は植木鉢の裏側に回り込み、後ろ足を踏ん張った。
全身のバネを使い、頭突きのようにして鉢を押す。
ズズッ……。
石造りの窓枠と鉢底が擦れ、鈍い音がする。
あと少し。あと数センチ。
下で、ジェネラルが腕を振り下ろそうとした、その瞬間。
「ええいっ!」
吾輩は渾身の力で、植木鉢を突き飛ばした。
重力という名の見えざる手が、赤い花を抱いた土塊を捕まえる。
落下。
距離は5メートル。
ヒュンッ。
風切り音と共に落ちていくそれは、ジェネラルの硬い兜の脳天へと、吸い込まれるように直撃した。
ガシャアアアアンッ!!
素焼きの鉢が砕け散り、土と花弁が舞い散る。
「グオッ……!?」
ジェネラルが呻き声を上げた。
いかに重厚な兜とはいえ、数キロの物体が頭上から直撃すれば、脳震盪くらいは起こす。
ジェネラルは視界が揺らいだのか、よろめきながら天を仰いだ。
手元の棍棒が手から滑り落ち、ドスンと地面に落ちる。
「えっ……?」
勇者は、目の前で起きた現象が理解できていないようだった。
突然、空から花が降ってきて、無敵の怪物が頭を押さえて苦しみ出したのだから。
「な、なんだ……神罰か……?」
彼は呆然と見上げている。
おい、何をしている。
神罰ではない。猫罰だ。
ジェネラルが怯んでいるのは今だけだ。数秒もすれば正気を取り戻し、今度こそ貴様をミンチにするだろう。
吾輩は屋根の上から、苛立ちを込めて尻尾を叩きつけた。
その時、勇者の目に光が戻った。
彼は震える手で剣を握り直し、歯を食いしばった。
「……い、今しか、ないっ!!」
恐怖で足が動かないはずなのに、彼は地面を蹴った。
頭で考えるよりも早く、体が動いたのだろう。
「うおおおおおおっ!!」
勇者は、よろめくジェネラルの懐へと飛び込んだ。
狙うは、兜と鎧の隙間。
喉元。
「死ねええええええっ!!」
ズブッ。
嫌な音がした。
勇者の全体重を乗せた突きが、正確に肉を貫いた。
「……ガ、ッ……」
ジェネラルの動きが止まった。
口から、ゴボリと黒い血が溢れ出す。
その双眸から、急速に光が失われていく。
ドオオオオオォン……。
巨木が倒れるような音を立てて、オークの王は仰向けに倒れ伏した。
土と花弁にまみれたその死に顔は、どこか滑稽ですらあった。
「……は、はぁ……?」
勇者は、自分の手にある剣と、倒れたジェネラルを交互に見た。
腰が抜け、その場にへたり込む。
「た、倒した……? 僕が……?」
手が震えている。
だが、その震えは先ほどまでの恐怖とは違う。
生き延びた安堵と、成し遂げた興奮によるものだ。
吾輩は屋根の上で、小さく鼻を鳴らした。
まあ、悪くない。
最後の一撃だけは、褒めてやってもいいだろう。
吾輩は軽やかに屋根から飛び降りた。
勇者は放心状態で、自分の手の震えを見つめている。
吾輩は、倒れたジェネラルの胸元へ忍び寄った。
鎧の隙間から、何やらキラキラしたものが転がり落ちていたからだ。
紫色のビー玉……いや、魔石か。
将軍クラスの魔物が持つ、魔力の結晶だろう。
鈴の代わりにはならぬが、転がして遊ぶには良さそうだ。
吾輩はその魔石を口に咥え、勇者に気づかれぬよう、素早く物陰へと移動した。
その時、遠くから足音が聞こえてきた。
「大将ーッ! 無事かーッ!?」
「勇者様ーッ!」
正門での戦いを終えた仲間たちが、血相を変えて走ってくる。
彼らは、裏門の惨状を見て息を呑んだ。
逃げ帰った衛兵たちの報告を聞き、勇者の死体があると思っていたのだろう。
だが、そこにいたのは。
巨大なオーク・ジェネラルの死体の上に立ち(実際は腰が抜けて座り込んでいるが、遠目には立っているように見えたらしい)、夕闇の中でうつむく勇者の姿だった。
「す、すげぇ……」
戦士が目を丸くする。
「ジェネラルだぞ……? 俺たち全員でかかってもヤバい相手を、たった一人で……無傷で!?」
魔法使いが口元を押さえる。
「見て、あのジェネラルの頭……兜が粉砕されているわ。あの一撃で、脳天をカチ割ったのね……!」
守備隊長が震えながら膝をついた。
「神よ……これぞ、真の英雄の姿……!」
違う。
植木鉢だ。
よく見ろ、頭に赤い花が乗っているだろうが。
だが、興奮した人間たちの目には、勇者の姿しか映っていない。
「勇者様万歳!」「バルダーの英雄だ!」
仲間たちが駆け寄り、勇者を胴上げしようとする。
勇者は「え、あ、うん……」と白目を剥きかけているが、彼らの熱狂は止まらない。
吾輩は、その騒ぎを冷ややかな目で見つめながら、路地裏の闇へと消えた。
口の中の魔石が、カチリと音を立てた。
やれやれ。世話の焼ける下僕だ。
だが、あの震える足で一歩も引かなかった根性だけは、評価してやる。
今夜の「配給」は、上等なミルクも追加させるとしよう。




