オーク・ジェネラル
裏門周辺は、墓場のように静まり返っていた。
町の反対側、正門の方角からは、夜空を焦がす赤い炎と、ドカーンという爆発音が響いてくる。
「うおおお! 燃えろ燃えろぉ!」
という魔法使いや戦士たちの景気の良い叫び声が、風に乗って微かに届く。
あちらはさぞかし賑やかなことだろう。
だが、吾輩と勇者がいるこちらは、別世界のような静寂に包まれている。
配置されていた衛兵は、わずか三名。
彼らは震える手で槍を握り、暗闇の広がる森を見つめていたが、勇者の姿を認めると、縋るような目で駆け寄ってきた。
「ゆ、勇者様! お待ちしておりました!」
「正門が始まったようです……こっちにも、本当に来るんでしょうか?」
衛兵の声は震えている。 対する勇者は、何も答えなかった。 否、答えられなかったのだ。
胃の中身を吐き出したばかりの喉は引きつり、極度の緊張で奥歯がカチカチと鳴るのを、必死に噛み締めて堪えているからだ。
だが、極限状態にある衛兵たちの目には、その青白い沈黙すらも「英雄の落ち着き」として映ったらしい。 勝手な解釈である。
その時、森の闇がヌルリと動いた。
音もなく、風が止まる。 月明かりが雲の切れ間から差し込み、その異形の集団を照らし出す。
いつの間にか、そこに「いた」のだ。
オークである。 だが、正門で暴れているような雑兵とはわけが違う。
全身を黒光りする重厚な鎧で固め、手には人間一人を容易く叩き潰せそうな鉄の棍棒。 整然とした隊列。
そして先頭に立つ、4メートルはある巨大な影。 オーク・ジェネラル。
群れを統率する王であり、圧倒的な殺気の塊だ。
「ば、馬鹿な……!」
衛兵が悲鳴を上げる。
「主力は正門じゃなかったのか!? なんでこんな化け物が裏門に……!」
ジェネラルが一歩、足を踏み出した。
ズシン。
たった一歩で、地面が揺れたような錯覚を覚える。
その圧倒的な「質量」は、勇者への信頼などという脆い精神的支柱を、一瞬でへし折るのに十分だった。
「ひ、ひいいっ!」
「無理だ! あんなの勝てるわけねぇ!」
「逃げろぉ!」
一人が槍を放り出すと、恐怖は伝染した。
残る二人も、我先にと町の中へと逃げ出した。 「あ……」
勇者が呼び止める間もなく、衛兵たちは蜘蛛の子を散らすように暗闇へと消えていった。
後に残されたのは、逃げ遅れた勇者ただ一人。
ジェネラルは、逃げ惑う雑魚には目もくれず、ただ一点、勇者だけを見据えていた。
ジェネラルの距離は約10メートル。
ジェネラルがゆっくりと、棍棒を肩に担ぎ直す。
勇者が、じりっと半歩下がった。
その目は、逃げた衛兵たちが消えた路地裏の方角を向いている。
誰もいない。誰も見ていない。 今なら、あのアリの這い出る隙間のような路地に逃げ込めば、助かるかもしれない。
「……逃げろ、逃げるんだ」
勇者が、うわごとのように呟いた。
「誰も見てない。衛兵さんも逃げた。僕が逃げても……誰も責めない」
彼は震える手で剣を握りしめているが、その切っ先は地面を向いている。
「無理だよ……あんなの、勝てるわけないじゃないか……」 「
僕は勇者なんかじゃない……ただの一般人だ。ハッタリでここまで来ただけなんだ……」
涙声で、自分に言い聞かせている。
逃げるための正当な理由を並べ立て、足を動かそうとしている。
だが、彼の足は地面に縫い付けられたように動かない。
「……でも」
勇者は、顔を上げた。
「ここで僕が逃げたら……町のみんなはどうなる?」 「
戦士さんは……魔法使いさんは……『大将に任せた』って、笑って行ってくれたのに」
彼はガクガクと震える自分の膝を、拳で殴りつけた。 ドンッ。
「動けよ、くそっ……!」
「嘘つきでもいい。詐欺師でもいい……!」
勇者は叫んだ。誰に聞かせるわけでもなく、己の弱き心に対して。
「ここで仲間を見捨てて逃げたら……僕は一生、本当のクズになっちまう!」
勇者は顔を上げた。
その瞳には涙が溜まっている。鼻水も垂れている。 とても英雄の顔ではない。迷子の子供のような、情けない顔だ。
だが、彼は逃げなかった。 逃げる代わりに、剣を握り直し、切っ先をジェネラルへ向けた。
「う、うわあああああっ!! 来るなあああっ!!」
それは威嚇にもならない、ただの恐怖の絶叫だった。
だが、彼は一歩も引かず、化け物の前に立ちはだかったのだ。
吾輩は、屋根の上で振り上げた前足を止めた。 ……ほう。 人間とは、つくづく理解し難い生き物だ。 恐怖と利益を天秤にかければ、逃走を選ぶのが生物としての正解だろう。
だというのに、この男は「見栄」や「責任」などという実体のないもののために、死地へ踏みとどまった。
愚かだ。救いようがなく愚かだ。
だが――嫌いではない。
吾輩は屋根の縁に身を乗り出した。
勇者が死ぬのは勝手だが、ここで彼が潰れれば、町は火の海になり、吾輩の寝床も食事も失われる。
それに、せっかく拾った「便利な下僕(勇者)」を、ここで使い潰すのも惜しい気がしてきた。
ジェネラルが大きく息を吸い込み、咆哮の構えを取った。
その殺気が、物理的な風圧となって勇者を襲う。
孤立無援。絶体絶命。 だが、勇者は知らない。
その頭上には、世界で最も執念深く、そして自分の「餌場」を守るためなら手段を選ばない、一匹の猫がいることを。
「……やれやれ」
吾輩の口から、ため息が漏れる。 どうやら今夜は、ただの見物人ではいられそうにない




