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嘆きの洞窟

旅に出て五日目。

吾輩は今、非常に機嫌が悪い。

理由は単純だ。足元が濡れているからである。

勇者一行は、「近道だ」などという安直な理由で、街道を外れて洞窟へ入り込んだ。

「嘆きの洞窟」というらしい。

嘆きたいのはこちらである。

天井からは絶えず雫が垂れ、地面はぬかるみ、あちこちに水溜まりができている。

猫という種族は、足を濡らすことを何よりも嫌う。

吾輩は可能な限り、乾いた岩の上や、壁の出っ張りを選んで歩かねばならない。

これほど神経を使う移動は久しぶりである。

「暗いな……『ライト』!」

魔法使いの女が杖を掲げ、光の球を作り出す。

人間たちは「おお、明るくなった」と安堵しているが、吾輩にとっては迷惑千万だ。

猫の目は、微かな光さえあれば暗闇を見通せるようにできている。

いきなり目の前で閃光弾を破裂させられたようなものだ。

吾輩は目を細め、彼らの作り出す「明かり」の範囲外、すなわち本当の闇の中へと身を滑らせる。

光あるところには影ができる。

彼らは光の中にいるつもりだろうが、実際には自らの位置を魔物に知らせる標的になっているに過ぎない。

吾輩は彼らの視界に入らぬよう、闇と一体化して進む。

「止まれ! 罠の気配がする」

先頭を歩いていた盗賊風の男が、手を挙げて一行を止めた。

床の石畳の一部が、微妙に浮いているらしい。

踏めば壁から矢が飛んでくるか、あるいは落とし穴か。

男は慎重に地面を叩き、解除の方法を探っている。

人間というのは、どうしてこうも「地面」に執着するのか。

道は平面だけではない。

吾輩は彼らの頭上、鍾乳石の隙間を縫うように張り出した岩棚を見上げ、軽やかに飛び乗った。

幅は人間の掌ほどしかないが、猫にとっては大通りも同然である。

彼らが脂汗を流して地面と格闘している間に、吾輩は頭上を通り抜け、罠の仕掛けられたエリアのさらに奥へと先回りする。

そこには、天井から崩れかけたが一本、今にも落ちそうにぶら下がっていた。

その真下には、人間たちが警戒している床のスイッチがある。

吾輩は、そのグラグラした石筍の横を通り過ぎざま、尻尾で軽く叩いた。

ポロリ。

小さな岩の破片が落下する。

カチッ。

乾いた音がして、次の瞬間、壁の穴から数本の矢が発射された。

ヒュンヒュンヒュン!

矢は誰もいない虚空を切り裂き、反対側の壁に突き刺さった。

「うわっ!?」

人間たちが悲鳴を上げて体を縮める。

しばらくの静寂の後、勇者が恐る恐る顔を上げた。

「……作動した? 誰も触ってないのに」

盗賊が首をかしげる。

「天井から石が落ちたみたいだ。偶然スイッチを押したんだな……ついてるぜ、俺たち」

「神のご加護ね」

僧侶が胸の前で手を組む。

違う。猫の尻尾である。

だが、彼らが上を見上げた時には、吾輩はすでにその場を離れ、さらに奥の岩陰で顔を洗っていた。

偶然で片付けてくれるなら好都合だ。礼など言われても腹は膨れぬ。

洞窟の奥、開けた空間に出た。

そこには、冒険者の心をくすぐるものが鎮座していた。

宝箱である。

装飾の施された、見るからに高価そうな箱が、部屋の中央にポツンと置かれている。

「宝箱だ!」

戦士が声を上げ、駆け寄ろうとする。

「待て、まだ罠があるかもしれない」と盗賊が言うが、その声にも期待の色が混じっている。

人間は欲深い。

「中身は何だろう?」「古代の秘宝か?」「装備かもしれない」

彼らは箱を囲み、鍵穴を探し始めた。

吾輩は、離れた岩陰からその「箱」を観察していた。

……臭う。

古い木材の匂いではない。

生臭い、腐った肉の臭い。そして、独特の粘液の臭い。

それに、箱の隙間から微かに漏れる、湿った呼吸音。

吾輩の耳と鼻は誤魔化せない。

あれは箱ではない。胃袋を持った捕食者である。

人間たちは「鍵がかかっているな」「魔法でこじ開けるか?」などと議論に夢中で、箱自体が呼吸していることに気づいていない。

このままでは、開けた瞬間に戦士の頭がパックンチョである。

戦力が減るのは困る。荷物持ちが減れば、吾輩の「配給」も減るからだ。

致し方ない。

吾輩は闇を駆けた。

人間たちが箱の正面に注目している隙に、背後へと回り込む。

彼らの松明の光が届かぬ、箱の裏側。

そこには、木目に見せかけた「皮」が張ってある。

吾輩は音もなく近づき、その生暖かい表面に、両前足の爪を突き立てた。

爪研ぎには少し柔らかすぎるが、贅沢は言えぬ。

バリバリバリッ!!

渾身の力で引っ掻き、ついでに噛み付いてやった。

「ギシャアアアアアッ!!」

宝箱が悲鳴を上げた。

否、咆哮したのだ。

背中を突然抉られた激痛に、擬態を続ける余裕を失ったらしい。

箱の蓋がバカっと開き、中から巨大な舌と鋭い牙が現れ、暴れ出した。

吾輩はすでにバックステップで闇の中へ退避済みである。

「うわああっ!?」

「ミ、ミミックだ!!」

「いきなり正体を現したぞ!?」

人間たちは大パニックだが、幸いにも距離があったため、噛みつかれずに済んだ。

不意打ちを狙っていたはずのミミックは、背中の痛みにのたうち回り、完全に隙を晒している。

こうなれば、ただの「箱の形をした魔物」である。

勇者の剣と魔法使いの炎が炸裂し、哀れなミミックは数分と経たずに沈黙した。

後に残ったのは、黒焦げの木片と、ドロドロした体液のみ。

「危なかった……こじ開けようとしていたら、腕を持っていかれていたぞ」

戦士が冷や汗を拭う。

「でも、なんで急に暴れ出したんだ?」

勇者が不思議そうにミミックの残骸を見つめる。

「さあな。腹が減って我慢できなかったんじゃないか?」

盗賊が適当なことを言い、皆も「そうかもな」と納得した。

ミミックの背中に、三本の爪痕が刻まれていることには、誰も気づかない。

暗がりの中、吾輩は前足についたミミックの不味い体液を拭い取るのに必死だった。

ペッ、ペッ。

変な味がする。最悪だ。

「よし、先を急ごう。この洞窟を抜ければ、隣国との国境だ」

勇者が号令をかける。

彼らは再び隊列を組み、光の魔法を掲げて歩き出した。

「ここを抜けても、魔王城まではまだまだ遠いな……」

戦士がぼやく。

「ええ。大陸を縦断しなきゃいけないもの。それに、北へ行くには『大賢者の封印』を解く鍵も探さないと」

魔法使いが地図を見ながらため息をつく。

どうやら、吾輩の鈴を取り戻す旅は、思ったより長くなりそうだ。

吾輩は、口直しが必要だと強く感じていた。

このジメジメした洞窟を抜けたら、次の町では今夜の「配給」として、一番高い干し肉を要求することにしよう。

吾輩は、誰にも気づかれることなく闇に紛れ、彼らの最後尾について歩き出した。

人間たちはまだ知らない。

この洞窟の攻略が、一匹の猫の気まぐれによって成されたことを。

そして吾輩もまた、彼らに感謝されるつもりなど毛頭ない。

ただ、鈴を取り戻す道中の障害を、爪先で排除したに過ぎぬのだから。

冒険は、まだ始まったばかりである。

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