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火は野生では命取りである

町を出て三日が過ぎた。

吾輩にとっての三日は、人間にとってのそれとは重みが違う。

食らい、眠り、歩く。その単純なサイクルの繰り返しこそが生であるが、この三日間は少々勝手が違う。

なにしろ、前を行く「道連れ」が騒がしいのだ。

勇者一行は、街道を我が物顔で進んでいる。

先頭に立つのは勇者。その横に魔法使いらしき女、後ろには大柄な戦士と、荷物持ちの僧侶。

彼らの歩みは遅々として進まぬ。

人間という生き物は、どうしてこうも荷物が多いのか。

食料、水、替えの衣類、そして「世界を救う」という名の、実体のない重圧。

彼らは事あるごとに立ち止まり、地図を広げ、どちらの道が早いかと議論を交わす。

吾輩なら、太陽の位置と風の匂いだけで方角を知る。議論などしている暇があれば、足を動かせばよいものを。

彼らの背中を十間(約18メートル)後方から眺めながら、吾輩は草むらの中で欠伸あくびをかみ殺す。

「出たぞ! スライムだ!」

勇者が声を張り上げた。

街道の真ん中に、青くて半透明な物体がポツンと落ちている。

スライム。この世界では最も弱い魔物とされているが、吾輩にとっては「味のしない、粘つく水溜まり」程度の認識である。

避けて通ればよい。道は広いのだから。

だが、人間はそうはいかぬらしい。

「僕がやる!」

勇者は剣を抜き、大上段に構え、何やら必殺の掛け声とともにそれを叩き斬った。

バシャリ、と青い液体が飛び散る。

「やったか!」「さすが勇者様!」

仲間たちが手を叩いて喜ぶ。

たかが水溜まりを一つ潰しただけで、この騒ぎようである。

彼らは勝利の余韻に浸りながら、また歩き出す。

吾輩はその横を、濡れないように爪先立ちで通り過ぎる。

彼らが魔王の城にたどり着く頃には、吾輩は老衰で死んでいるかもしれぬ。

……彼らは勝利の余韻に浸りながら、また歩き出す。

吾輩はその横を、濡れないように爪先立ちで通り過ぎる。

実に非効率だ。


 

日が落ちると、彼らは「野営」の準備を始めた。

街道から少し外れた森の開けた場所に、石を並べて火を焚く。

パチパチと薪が爆ぜる音がし、安っぽい干し肉を炙る匂いが漂う。

さて、ここからが吾輩にとっての「仕事」の時間である。

腹が減っては冒険などできぬ。しかし、わざわざネズミごときを追い回して体力を浪費するのも賢くない。

幸い、ここには「動く配給所」がいる。

勇者たちは火を囲み、硬いパンと干し肉をかじりながら談笑している。

彼らの食事作法は、お世辞にも褒められたものではない。

特に、あの戦士だ。

豪快に笑うたびに、手元の干し肉から小さな欠片がポロポロと地面にこぼれ落ちている。

勿体ない。実に嘆かわしい。

貴重な食材への冒涜である。

吾輩は闇に紛れ、戦士の背後にある岩陰から、その「落下物」を狙う。

距離は約5.5メートル。

彼らが地図を見て「明日のルートはどうする?」などと議論に熱中した瞬間、吾輩は疾風のごとく駆け抜ける。

地面に落ちた干し肉の欠片を、口のみで巧みに掬い上げ、そのまま反対側の茂みへと滑り込む。

所要時間は二秒。

人間たちの動体視力では、黒い風が吹いた程度にしか認識できまい。

茂みの中で、戦利品を検分する。

塩気が強すぎるし、まるで靴底のように硬い。

人間というのは、こんなものを「保存食」と呼んで有難がっているのか。味覚がおかしいのではないか。

以前、町の魚屋で失敬したマグロの切り身が懐かしい。あれは芸術品だった。

だが、文句を言っても腹は膨れぬ。

吾輩は硬い肉を奥歯で噛み砕き、飲み込んだ。

これは盗みではない。

彼らの旅を見守り、背後の安全を確保してやっている吾輩への、正当な報酬である。

いわば「護衛料」の前払いだ。安すぎるくらいだが、今はこれで我慢してやろう。

腹も満ちたところで、火のそばでの観察に戻る。

「火を焚けば、獣は寄ってこないからな」

戦士が得意げに言っているのが聞こえる。

愚かなことだ。

野生の獣は火というものは恐れない。野生では火など日常的に見るものでは無いので危険性など知らない。むしろ夜の森において、火とは

「ここに無防備な肉があります」という極彩色の看板である。

獣は火というものを光があれば、その外側に濃い闇ができる。獣たちはその闇に紛れ、火の周りで踊る愚か者たちをじっくりと観察できるのだ。

吾輩は彼らの輪には入らぬ。

火の粉が飛んでくるのも御免だし、馴れ馴れしく撫で回されるのも不愉快だ。

吾輩は彼らから少し離れた、高い木の枝の上を寝床と定めた。

ここなら全体が見渡せるし、何より地面の湿気を避けられる。

下では、勇者が「僕が見張りをする」と言って、剣を抱いて座り込んでいた。

他の三人は毛布にくるまり、早々に高いびきをかいている。

夜が更けた。

月が雲に隠れ、森が本当の闇に包まれる刻限。

見張りをしていた勇者の首が、船を漕ぎ始めている。

コックリ、コックリと揺れるその頭は、メトロノームのように正確だが、見張りとしての機能は停止しているに等しい。

平和ボケした寝顔だ。魔王に喧嘩を売りにいく者の顔ではない。

そのとき、風が変わった。

腐った肉と、濡れた獣毛の臭い。

吾輩の髭がピクリと反応する。

来たな。

闇の奥から、二つの赤い光が浮かび上がった。

狼である。それも、ただの狼ではない。魔力を帯びた「シャドウウルフ」とでも呼ぶべきか、通常の狼よりも一回り大きく、足音が全くしない。

狼は賢い。

火の周りで眠る三人と、座ったまま意識を飛ばしている一人を、値踏みしている。

そして、最も無防備な背中――勇者の背後へと、音もなく回り込んだ。

吾輩は枝の上から、その様子を冷ややかに見下ろしていた。

助ける義理はない。

彼らが食われようと、吾輩の知ったことではない。

むしろ、ここで旅が終われば、吾輩は彼らの荷物から干し肉を失敬して、独りで旅を続けるだけのこと。

だが。

狼が身を低くし、飛び掛かろうと後ろ足を沈めた、その場所。

そこは、吾輩がさっきまで毛繕いをし、抜け落ちた「至高のヒゲ」が落ちている場所であった。

吾輩のヒゲは幸運のお守りである。それを下等な獣の足で踏みにじられるのは、いささか癪に障る。

それに、ここで勇者が食われれば、血の臭いでさらに多くの魔物が集まってくるだろう。

そうなれば、吾輩の安眠も妨げられる。

「……邪魔だ」

吾輩は音もなく枝から飛び降りた。

着地地点は、狼の頭上。

重力に任せて落下し、着地の瞬間に、右前足の爪を最大限に伸ばす。

狙うは、狼の最も敏感な部分。湿った鼻の頭である。

「フギャッ!?」

狼が情けない声を上げた。

吾輩の爪は正確に鼻の頭を切り裂いた。痛みよりも、突然の襲撃に対する驚きが勝ったのだろう。

狼は飛び上がり、着地していた吾輩と目が合った。

吾輩は背中の毛を逆立て、瞳孔を開き、喉の奥からとっておきの威嚇をくれてやる。

「シャーッ!!」

貴様の晩飯はここにはない。失せろ。

狼は鼻を押さえ、尻尾を巻いて闇の中へ逃げ去っていった。

野生の獣は、自分より小さくとも「得体の知れぬ殺気」を持つ相手には手を出さぬものだ。

「う、うわっ! 何だ!?」

その騒ぎで、ようやく勇者が飛び起きた。

剣を構え、キョロキョロと周囲を見回す。

「はっ……殺気か!? 誰だ!」

寝ぼけ眼で叫ぶ勇者の足元を、吾輩は悠々と通り過ぎ、再び木の上へと戻る。

勇者は逃げていく狼の後ろ姿を見つけ、得心したように頷いた。

「そうか……魔物が近づいていたのか。僕の『気配察知』スキルが反応して、無意識に追い払ったんだな……危ないところだった」

……めでたい男である。

鼻血を出して逃げた狼が見えなかったのか。

あるいは、自分のいびきで敵を撃退したとでも思っているのか。

仲間たちも目を覚まし、

「さすが勇者様、寝ずの番ご苦労様です」

などと称賛している。

茶番だ。実に滑稽な茶番劇である。

だが、まあよい。

おかげで静寂が戻った。

吾輩は枝の上で丸くなり、冷たい夜風に当たりながら目を閉じる。

あの狼が、少しだけ吾輩の鈴を奪った鳥男に見えた。だから爪が伸びただけのこと。

決して、こいつらを助けたわけではない。

吾輩の宝物は、まだ遠い北にある。

この頼りない「道連れ」たちが、明日も生きている保証はない。

だが、少なくとも今夜は、邪魔な遠吠えを聞かずに済みそうだ。

木の上から見下ろす勇者の寝顔は、先ほどよりも少しだけ引き締まって見えた。

気のせいであろうが。

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