1話 :吾輩は猫である
吾輩は猫である。名前はまだない。
どこで生まれたかとんと見当がつかぬが、気がついた時にはこの石造りの町の、薄暗い路地裏で雨水を啜っていたことだけは記憶している。
以来、この町に長く棲みついている。 どれほど長いかと問われれば困るが、少なくとも人間が言うところの「最近」ではない。
人間の時間感覚は信用ならぬ。彼らは百年を「昔」と呼び、一日を「永遠」と嘆く。吾輩にとっては、腹が減れば今であり、満たされれば永遠である。
この町は、人間たちの間では「始まりの町」などと呼ばれているらしい。 理由は単純で、勇者が住んでいるからだ。
人間は肩書きを好む。肩書きがあれば安心できるらしい。勇者がいれば世界は安泰であり、魔王がいれば世界は危機であると、彼らは定義づけに忙しい。
もっとも、吾輩から見れば、勇者も町人も、夜になれば似たような寝息を立てる、毛の少ない生き物に過ぎぬ。
町の中心には宿屋と酒場があり、そこには常に冒険者が集まっている。 剣を腰に下げた者、杖を背負った者、重たい鎧を着込んでいるせいで階段を上るだけで息を切らす者。 彼らは酒を飲み、声を張り上げ、世界の危機について語る。
世界が何度危機に陥ろうと、酒の量が減ることはない。この事実から、吾輩は一つの結論を得ている。 世界とは、彼らが思うほど壊れやすくはない。あるいは、彼らの肝臓の方がよほど危機に瀕しているのだと。
勇者もまた、この町の住人である。 若く、無駄に目立ち、視線を集めやすい男だ。
吾輩は何度か彼の後をついて回ったことがあるが、彼はしばしば周囲を警戒しながら歩くわりに、足元を見ていない。猫が前を横切っても気づかぬ程度には、注意力というものは曖昧だ。
更に、吾輩は彼の膝の上で眠ったことがある。そのとき彼は微動だにしなかった。魔王と戦う覚悟はあっても、猫を起こす覚悟は持っていなかったらしい。 人間とは、優先順位の奇妙な生き物である。
さて、吾輩には宝物がある。 それは首元に下げた、小さな鈴である。 金でも宝石でもない。
どこにでもある真鍮の古びた玉であり、市場に持ち込んでも、銅貨一枚の値もつかぬだろう。音も「チリ」とも「コリ」ともつかぬ、実に控えめなものである。
だが吾輩は、その鈴の音を聞かぬ夜を好まない。 歩くたびに微かに響くその振動は、吾輩が吾輩としてここに存在していることの証である。
この世界に来る以前から、吾輩のそばにあった。 なぜ持っているのか、いつ手に入れたのか、そうした問いは意味をなさぬ。
大切なものとは、理屈で説明できるものではないのだ。
そんな平和な日々を過ごしている時事件は事件は起きた。日時は太陽が中天に昇り、吾輩が屋根の上で最も心地よい微睡を貪っていた時に起きた。 突如として、空がかげったのである。
雲ではない。巨大な翼の影だ。 町の人々の悲鳴が上がり、鐘が乱打される。
吾輩が片目を開けて空を見上げると、そこには禍々しい黒鎧を纏った、鳥人のような姿の魔族が浮いていた。
魔王軍の幹部、「強欲将軍」とかいう名で手配書に載っていたような気がする。
「人間どもよ! 我が主、魔王様への貢物を差し出せ!」
将軍の声は雷のように響き、窓ガラスを震わせた。
冒険者たちが慌てて武器を構えるが、空を飛ぶ敵には手が出せず、右往左往するばかり。
勇者はまだ城に呼ばれていて不在だった。 将軍は鷹のような鋭い視線で町を見下ろし、金目のものを物色していた。 教会の鐘、商人の屋敷の装飾、
そして──屋根の上にいた、吾輩の方を見た。
正確には、吾輩を見たのではない。 吾輩の首元で、陽光を反射して「キラリ」と光った、あの鈴を見たのだ。
「ほう、小粒だが……よい輝きだ」
嫌な予感がしたときには、もう遅かった。 突風が吹いた。
吾輩の身体が宙に浮くほどの風圧とともに、黒い鉤爪が迫る。 吾輩は咄嗟に身を捻り、屋根の瓦に爪を立てて耐えた。だが、首元に走った衝撃までは回避できなかった。
ブチリ、という不快な音がして、首が軽くなる。
「貰っておくぞ、下等生物」
将軍は嘲るように笑い、その手には吾輩の鈴が握られていた。 吾輩は毛を逆立て、喉の奥から低い唸り声を上げた。
「シャーッ!」
返せ。それは吾輩の魂だ。貴様のような鳥頭が持っていても、ただの金属片に過ぎぬ。
だが、この醜い鳥男は吾輩の抗議など気にも留めず、他にもいくつかの宝石や金貨を強奪すると、高笑いを残して北の空へと飛び去っていった。
あとには、呆然とする町の人々と、鈴を奪われた吾輩だけが残された。
やがて、城の方から勇者が駆けつけてきた。 遅い。主役というのは、いつも事態が終わってから現れる。
「皆、無事か! くそっ、魔王軍め……こんな暴挙、許しておくものか!」
勇者は剣を抜き放ち、天に向かって誓いを立てた。
「僕は行く! 魔王を倒し、この世界の平和を取り戻すために!」
町の人々が歓声を上げ、勇者を讃える。
「そうだ! 行け勇者よ!」「世界を救ってくれ!」
町は一気に「旅立ち」の熱気に包まれた。 誰もが勇者の背中を見ている。誰もが「世界平和」という美しいお題目に酔いしれている。
屋根の上で、鈴を失った一匹の猫が、底冷えするような怒りを燃やしていることになど、誰も気づかない。
吾輩は、空になった首元を前足で触れた。 軽い。あまりにも軽い。 そして、静かすぎる。 あの控えめな音が消えただけで、世界はこれほどまでに色褪せて見えるものか。
吾輩は立ち上がった。 勇者は世界を救うために行くらしい。それは結構な話だ。 だが、吾輩には関係ない。
吾輩の目的は、世界平和などという曖昧なものではない。もっと切実で、もっと個人的で、それゆえに譲れぬものである。
あの鳥男は、北へ飛んでいった。 そこには魔王の城があるという。 ならば、行き先は同じだ。
勇者の出発は、まるで祭りのようだった。 ラッパが吹き鳴らされ、紙吹雪が舞う中、勇者一行が正門を出ていく。
人々は涙を流し、手を振っている。 その裏で、吾輩もまた、ひっそりと町を出ることにした。 誰に見送られることもない。誰も吾輩の旅立ちを知らない。 だが、それでいい。
勇者たちの隊列が作る長い影。 その影の中に紛れ込み、吾輩は一歩を踏み出した。
正面から戦うつもりはない。剣も魔法も持たぬ。 だが、忍び、聞き、避け、潜ることなら心得ている。
あの「強欲将軍」とやら、覚えておくがよい。 貴様は、世界で最も執念深い生き物を敵に回したのだ。
吾輩は猫である。 名前はまだないが、敵はいる。 そして、奪われたものを取り戻すまでは、決して引き下がるつもりはない。
そう決意した吾輩の瞳は、夕暮れの荒野において、爛々と黄金色に輝いていた。
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