第九話 祝福されし招待
RUBICANTE: TERMINATED (BY: GARGARIN)
RESIDUE: ACTIVE—DRIFTING
PANMIXIUM: EXCITATION—INCREASE
JOINT OPERATION: UN-MNF—EXPAND
WINDOW SECURITY: PRIORITY 1
NEW THREAT: MBK-LB (LIBICOCCO) // PENDING
NEW THREAT: MBK-MC (MALACODA) // WATCH
種子島コロニー、上空。
赤い砂が、降っていた。
ルビカンテ級が焼き切って散った“終わり”の粉——その縁の赤さだけが、回廊の光に紛れて、ゆっくりと白い街を汚していく。
勝ったはずの朝だった。
旗が立ち、監査が歩き、提出物が整い、誰も拍手をしないまま、世界が次の手順に移ろうとしていた。
その“次”が、先に来た。
最初に気づいたのは、空の匂いだった。
金属の匂いでも、焦げた匂いでもない。
雨の匂い。
まだ降っていない雨の匂い。
種子島の記憶にある海の匂いが、急に遠ざかる。
海が遠ざかるとき、空は低くなる。
低くなる空は、地上へ迫る。
水平線——
本当は宇宙に水平線はないのに、誰もが“そこ”を見た。
回廊の端、白い街の向こう、光の境界に、黒い帯が生まれる。
黒い帯は雲ではない。
雲のふりをした圧だ。
それは遠くから“ゆっくり”来る。
ゆっくりなのに、目を離した瞬間に距離が縮む。
雲の動きではない。
“刑”の執行が、淡々と近づく。
チェラァブの声が天井から落ちる。
「残滓、再凝集」
「新規脅威、形成——」
言葉が最後まで届く前に、黒い帯が太くなった。
太くなるほど、空が低くなる。
低くなるほど、胸が重くなる。
重くなるのは恐怖ではない。
未来が圧縮されてくる感覚だ。
雲の中で、赤が閃いた。
稲妻ではない。
ルビカンテ級の残り火だ。
終わりの縁が、まだ燃え方を忘れていない。
そして、黒い帯の中心に——
目が開いた。
台風の目のように静かな穴。
静かな穴の周囲で、空だけが狂って回り始める。
回るものは雲ではない。
焼けた外装材、千切れた旗、裂けた導線、溶けた配線、そして赤い縁の粉。
破片が輪になる。
輪が増える。
増えるたびに、黒い帯が“形”になる。
まるで、暗雲が地上に触れる直前、
海ごと空を引きずってくるように。
――リビコッコ級悪魔。
顔がない。
笑いがない。
叫びがない。
ただ、風の刃がある。
そして狙いだけは、はっきりしている。
旗。
塔。
回線。
壁。
祈りの場所。
記録の場所。
“管理”の場所。
破壊は乱暴ではなかった。
乱暴なら怒りが生まれる。怒りは束になる。束は餌になる。
リビコッコ級の破壊は、怒りを与えない。
怒りの前に、終わらせる。
黒い帯が、白い街の上へ影を落とした。
影が落ちた瞬間、温度が一度だけ下がる。
下がった分だけ、甘い匂いが混じる。
祝福に似た甘さ。
甘いものほど獣になる。
リビコッコ級は、まず旗を裂いた。
風で裂けたのではない。
掲げるという儀礼そのものが、刃で切られた。
次に通信塔。
塔が倒れる前に、光が途切れた。
途切れた瞬間、世界の“繋がり”が薄くなる。
薄くなっていくのに、恐怖は濃くなる。
チェラァブが遅れて言い切る。
「破壊特化」
「意志薄」
「——だから、最も危険」
その言葉が落ちたとき、
暗雲はもう、水平線ではなく、頭上だった。
種子島コロニー、中枢。
中枢の会議室は、紙の匂いがした。
焼けた記録の穴——白紙の端末が、まだ眩しい。
UN-MNFの代表は柔らかい声で言う。
「被害拡大を防ぐため、即時の指揮権移管を」
主天使は硬い声で返す。
「移管は反応を深くする。深くすれば、次が来る」
「次を防ぐための管理です」
代表は微笑む。微笑みは布だ。
「地球への供給停止という最悪の未来を避けたいだけだ」
供給停止。
その四文字は祈りより強い鎖だった。
チェラァブが割り込む。
「火力を上げるほど励起は深くなる」
「セラフの照準は、必要だが——焼くほど深い」
代表は一拍だけ黙り、柔らかく言った。
「だからこそ、適切な手続きで撃つ」
手続き。
その言葉が、風より冷たい。
紙が回り、署名欄が埋まり、決裁が落ちる。
机上で世界が動く。
「セラフ、射撃許可」
代表が言う。
「共同運用の名のもとに」
セラフは返事をしない。
黙って照準を維持する。
——回廊清掃は必要だが、焼くほど反応が深くなる。
矛盾を、黙って受け入れる光。
種子島コロニー、上空。
空が、二重になった。
一つは地上の空。
もう一つは、そこに重ねて書き込まれた“別の空”——回廊の上でだけ成立する、戦略級の空。
リビコッコ級の暗雲が、水平線から来た。
来た時点で、すでに頭上だった。
黒い帯の中心に開いた目が、世界の“線”を見下ろしている。
その目に向かって、もう一つの目が開く。
ガルガリン。
台風のような戦略級大天使が、空域へ降りた瞬間、風向きが変わった。
変わったのは風だけではない。
世界の“終わり方”が変わった。
ガルガリンは声を出さない。
声は束になる。束は因果。因果は餌。
代わりに、風で命令する。
風が線になる。
線が環になる。
環が壁になる。
それは封鎖線ではなく、輪だった。
輪は聖別の形だ。
“ここから先は聖域だ”と示す、祈りの円。
ガルガリンの嵐は、祈りに似ていた。
秩序の嵐。
揺らしても形を保つ嵐。
地球人が礼拝堂で感じる“畏れ”の骨組みを、風だけで組み上げた嵐。
対して、リビコッコ級の嵐は刑だ。
祈りの型を持たない。
秩序を持たない。
ただ、断つ。
二つの嵐が接触した瞬間、
音が消えた。
雷鳴が響くはずなのに、雷鳴が届かない。
届かないのは、空気が薄いからではない。
音が“未来”だからだ。
未来はここで押し潰され、音にならずに散った。
見えるのは、光だけ。
リビコッコ級の赤い閃き——終わりの残り火。
ガルガリンの白い閃き——封印の稲妻。
白と赤が、空に聖句の裂け目を作る。
裂け目の向こうに、宇宙の黒が覗く。
黒の中で回廊が鳴り、回廊が“舞台”になろうとしている。
ガルガリンが輪を縮める。
縮めるほど、聖域が固くなる。
固くなるほど、地上の白い街が少しだけ息を取り戻す。
だがリビコッコ級は笑わない。
笑いがない。
その代わりに、回転の速度だけが答えになる。
破片の輪が、輪のまま増える。
増える輪は、祈りの円を真似ない。
祈りを真似ないから、祈りの弱点を持たない。
輪が輪へ噛みつく。
歯はないのに噛みつく。
噛みつく正体は、責任だ。
焼けた配線。千切れた旗。裂かれた記録紙。
それらが回転しながら聖域へ突っ込んでくる。
破片は物ではない。
破片は「こうなるはずだった未来」の欠片だ。
欠片が当たるたび、ガルガリンの輪が軋む。
軋むほど、輪は強くなる。
強くなるほど、リビコッコ級は破片を増やす。
増やされた破片は、地上の“言葉”からも生まれる。
監査の言葉。責任の言葉。議決の言葉。
それらが束になり、未来の形を持った瞬間、
風がそれを剥がし取り、刃に変える。
ガルガリンは、それでも輪を保とうとした。
輪を保つことが、彼の祈りだった。
彼は“封じる”。
“封じる”ことで、今を残す。
今を残すことで、天使たちが息をする時間を作る。
だが、リビコッコ級は“残す”ことを許さない。
刑は、猶予を嫌う。
猶予は未来を生む。未来は因果を生む。
因果はパンミクシウムを喜ばせる。
リビコッコ級の目が、輪の中心へ寄った。
寄り方が、接近ではない。
降臨だ。
台風の目が聖域の中心に触れた瞬間、
ガルガリンの輪は“裂けた”のではなく、裁かれた。
聖域の線が一本ずつ、正しく切られていく。
正しい切断。
正しい終わり。
それは神話の中でしか許されないような、冷たい美しさだった。
ガルガリンが初めて“声のない声”を上げる。
叫びではない。
祈りの最短形。
——ここは、渡さない。
しかし刑は応えない。
応える代わりに、回転の核がガルガリンへ触れる。
触れた瞬間、風が風を喰った。
秩序が、秩序の外側から削がれた。
巨大な影が落ちる。
落ちる影は雲の影ではない。
戦略級が墜ちる影だ。
轟音は遅れて来た。
遅れて来た轟音は、鐘の音に似てしまう。
似てしまうから、誰かが反射で祈りそうになる。
祈りは束になる。束は餌になる。
餌を増やさないために、誰も声を出せない。
ガルガリンが墜ちた。
その瞬間、白い街の“終わり方”が一段近くなった。
そしてリビコッコ級の暗雲は、
神話の勝利者のように静かに回転を増した。
宇宙が、白く割れた。
セラフの第一射。
核融合の光が一本の裁きとして伸び、回廊の上空へ届く。
光は焼く。
焼けば反応が深くなる。
それでも撃たなければ、風は地上を更地にする。
リビコッコ級は、その光を“受けた”。
受けて、回転を増した。
焼かれた破片が熱を帯び、その熱がパンミクシウムの深部へ触れる。
触れた手応えが、空気を甘くする。
祝福に似た甘さ。
甘いものほど獣になる。
チェラァブの声。
「砲撃継続、危険」
「しかし停止も危険」
矛盾だけが正確だ。
セラフは黙って次弾のエネルギーを充填する。
黙ったまま、焼くほど深くなる現実を受け入れている。
種子島コロニー。
ヒナは地上にいた。
白い街の舗装は、昨日の焦げをまだ抱いている。
歩くたび、靴底がわずかに粘る。焼けた樹脂と、赤い粉が混ざっているからだ。
見上げると、空は“空”ではなかった。
雲が垂れているのではない。
破片が空を満たしている。
配線の束、薄く裂けた旗布、外壁の断熱材、透明樹脂の割れ片、骨材の粉。
それらが、空の同じ高さに揃って漂っている。
揃っているのに、秩序じゃない。
揃っているのは——風が“整列”させているからだ。
リビコッコ級。
遠くから見ると暗雲の帯。
近くで見ると、無数の物の死体が回っている帯だった。
帯の内側には、輪がある。
輪は一つではない。
輪の輪の輪。
細い輪、太い輪、歪んだ輪。
回転の速さが違い、速い輪は線に見える。
遅い輪は、刃の列に見える。
輪の外周は、何かを引きずっている。
引きずっているのは“音”。
——いや、音ではない。音になる前の圧。
鼓膜が先に痛み、遅れて風の唸りが届く。
そして中心に、目がある。
台風の目の静けさ。
だが穏やかではない。
静けさが“穴”になっている。
空に穴が開いて、そこだけ色が違う。
灰色でも黒でもなく、濡れた鉛みたいな色。
覗き込むと、奥が遠すぎて焦点が合わない。
穴の縁で、赤が走る。
稲妻ではない。
ルビカンテ級の残り火。
終わりの縁の赤が、輪の刃に貼り付いている。
赤い閃きは、時々“落ちてくる”。
落ちてくるものは火ではない。
赤い砂の雨だ。
雨粒じゃなく粉が降り、肌に当たると焼けるのではなく、甘く匂う。
焦げと砂糖が同時に来る匂い。
祝福に似た甘さが、喉の奥を痛くする。
上空の帯が揺れるたび、地上のものが勝手に動く。
軽い紙が浮く。
看板が鳴る。
窓枠が震える。
人の髪が逆立つ。
逆立つのは恐怖のせいだけではない。
“未来が引っ張られる”感覚だ。
次に壊れる場所、次に倒れる塔、次に裂ける線。
そういう“次”が、風の中で先に決まってしまう。
「……核へ」
サエの声が短く落ちた。
短い声は束になりにくい。束になりにくいから、餌になりにくい。
リリエルは白紙端末を抱えている。
白紙は眩しい。眩しいほど政治が寄る。
政治が寄るほど、上の輪が濃く回る気がした。
そこに双子が並んだ。
カストール。
ポリュデウケース。
胸に番号ではなく名を持つ例外。
彼らの機械声は祈りに似ない。
似ないのに、祈りより正確に今を守る言葉だけが並ぶ。
《CASTOR // ROE RECITATION》
PROTECT “TODAY”
CUT “BUNDLE-LINES”
SILENCE “FUTURE-NOISE”
《POLYDEUCES // ROE RECITATION》
PROTECT “TODAY”
EXECUTE “MINIMUM”
STRIKE “CORE”
リビコッコ級の輪の刃が一段降りてくる。
降り方が“落下”ではない。
水平に迫る。
暗雲が水平線から迫るみたいに、地上へ影を押しつける。
ヒナの頬を風が撫でる。
撫で方が優しすぎて怖い。
優しさは祝福に似る。祝福は獣になる。
ヒナは銃を握らない。
銃は遠い。遠いほど言い訳が生まれる。言い訳は未来を含む。
ヒナは刃を握る。刃は今だ。
足音を三つに割る。
——いる。
——今日、いる。
カストールが地上の“線”を刈る。
通信線、指揮線、恐怖の線。
線が刈られると、見上げる者の喉が少しだけ楽になる。
叫びが束になりにくくなるからだ。
ポリュデウケースが跳ぶ。
跳んだ瞬間、輪の刃が彼の腕を削る。
削られた断面から火花ではなく白い粉が舞う。
粉はすぐに風へ回収され、上の帯へ吸い上げられる。
吸い上げられるほど、輪が一段太くなる。
「吸う……」
リリエルがかすれた声で言う。
「……破壊を、吸って、増やす……」
ヒナは上を見るのをやめた。
上を見ると未来が押し寄せてくる。
未来を見ないために、足元の“今”だけを見る。
核はある。
輪の中心、目の奥。
穴の中に沈む黒い塊。
それは破壊の当然だけでできた心臓だ。
ヒナが走る。
走りながら、風の刃を肌で読む。
刃の角度、刃の間隔、影の濃さ。
霧島の迷路を読むのと同じように、空の迷路を読む。
そして跳ぶ。
刃の“隙間”へ身体を滑り込ませる。
隙間は一瞬だけ開く。
開く瞬間を、今だけで掴む。
刃が頬を掠め、痛みが走る。
痛みは今だ。今なら戦える。
ヒナの刃が、目の縁へ届く。
届いた瞬間、リビコッコ級の回転が一拍だけ乱れる。
乱れた一拍。
その一拍に、双子が噛みつく。
ポリュデウケースが核へ打撃を重ね、カストールが周囲の“束”を沈める。
束が沈むと、上の帯が少しだけ薄くなる。
薄くなるほど、核の影が見える。
核が露出した。
チェラァブの声が落ちる。
「セラフ、今」
ヒナは息を吸わない。
吸えば未来が入ってくる。
代わりに、短く吐く。
——今日、いる。
宇宙がもう一度白く割れる。
セラフの第二射。
光が核へ刺さり、刺さった瞬間、台風の“目”が消えた。
消え方が美しすぎた。
破壊の刑が、裁きの光に従うように静かに終わる。
破片の輪が崩れ、赤い砂が落ちる。
砂は回廊へ積もり、コロニーの白い街を赤く汚す。
勝利。
でも重い。
焼いた分だけ、反応が深く残る。
チェラァブの声が低く落ちる。
「別の“招待”が来る」
ヒナは息を吸う。
息は未来を含む。
だから短く吐く。今だけ。
——今日、いる。
けれど“今日”の床が、もう揺れていた。
リビコッコ級が消えた空は、すぐには空に戻らなかった。
破片の雨が止んでも、匂いが止まらない。焦げた匂いと、砂糖の匂い。
祝福に似た甘さが、喉の奥をまだ刺している。
「……撤収」
主天使の命令が短く落ちた。
短い命令は今に近い。今に近いほど、兵は動ける。
動けるほど、考えなくて済む。考えれば未来が膨らむ。未来は因果。因果は餌。
撤収の列に、UN-MNFの影が混ざった。
戦場の後方に、制服ではないスーツが立つ。
立ち方が、祈りではなく“採点”だった。
「機体損耗を記録」
「弾薬使用量を記録」
「戦闘行動の再現可能性を——」
言いかけた言葉が、チェラァブの遮断で途切れる。
「不要」
その一語だけが落ちる。
落ちた一語が、逆に政治の顔を硬くする。
サエがヒナの肩を押した。
「帰る」
帰る、という語は珍しく優しい。
優しいほど未来になりやすい。
ヒナは返事を削って、頷くだけにした。
——いる。
——今日、いる。
ヒナの胸元には、端末がある。
黒い画面のまま、体温を吸って温かい。
温かさが怖い。
温かいほど“窓”に見える。窓は太りやすい。
サエが短く言った。
「返事、するな」
命令は短いほど今を守る。
ヒナはまた頷く。返事をしない代わりに、端末を押さえた。
移送車は窓が小さかった。
小さい窓は外を見せない。外を見せないのは保護のためで、同時に隔離のためだ。
“検疫”という語が頭に刺さる。
車内には下級天使が二体、同乗していた。
犬頭の子が膝を揺らし、鳥頭の子が首をかしげている。
彼らは戦場を知らない。
知らないまま、ヒナを「いつものヒナ」として見上げる。
それが、痛かった。
痛いのは今だ。今なら耐えられる。
でも痛みを未来へ伸ばすと、泣きたくなる。
泣けば束になる。束は餌になる。
犬頭の子が小声で言った。
「ヒナ、……勝った?」
勝った、という語は未来を含む。未来は危ない。
ヒナは言葉を削って答える。
「……終わった」
終わりは燃える言葉なのに、今日はそれしか言えなかった。
終わった、と言い切らないと、次が来てしまう気がした。
霧島の外壁が見えた。
採掘施設の灰色。
街の白さとは違う、現場の色。
油と金属の匂いが、遠くから先に届く。
扉が開いた瞬間、その匂いが胸の奥を少しだけ落ち着かせた。
霧島は迷路で、迷路は慣れた者のためにある。
コバンが走ってきた。
小さな手(肉球の形をしたグローブ)が、ヒナの袖を掴む。
「ヒナ、いま、いる?」
その声で、ヒナの胸がほどけそうになる。
ほどけた瞬間に、涙が喉まで上がってくる。
だめだ。
泣くと束になる。束は餌になる。餌が増えたら、また来る。
ヒナは膝を折り、コバンの頭を撫でた。
撫でる動きは“今”の動き。言葉より先に、掌で今を作る。
「いる」
短く。
今日だけ。
コバンが安心したみたいに尻尾を振る。
その軽さが救いみたいで、怖い。救いは未来になりやすいから。
サエが周囲を見回し、低く言った。
「封鎖、強化されてる」
確かに、通路の端に臨時のロックが増えている。監査用のタグ。共同運用の印。
霧島の“家”に、他人の札が貼られていく。
リリエルが白紙端末を抱え、ぼそりと言う。
「……白紙が増えると……誰かが書きたくなる……」
書きたいという願いが因果を太らせる。因果が太れば、悪魔が来る。
そのとき、別の札が増えた。
スーツの男が二人、霧島の入口に立ち、主天使へ紙を差し出す。
「安全確認のための一時封印」
「端末も対象です」
ヒナの指が端末へ食い込む。
封印。
封印は守りで、同時に奪取の入口だ。
主天使の声が硬く落ちる。
「これは霧島の管理下だ」
スーツの男が柔らかく返す。
「共同運用の枠内で、保護を——」
保護。
その語がまた鎖になる。
サエがヒナへ顔を寄せ、ほとんど息だけで言った。
「——返すな」
ヒナは頷く。返事をしない。
返事をしないことでしか守れないものがある。
そして、霧島の静けさが、ほんの少しだけ“整いすぎた”。
油の匂いも、金属の響きも、下級天使の足音も——全部が一拍だけ遅れる。
遅れた一拍に、冷たい畏れが混ざる。
礼拝の沈黙に似た距離。
祈りの場に似た圧。
サエが顔を上げる。
「……来る」
ヒナも分かった。
霧島は迷路だ。
迷路に慣れた者は、風の変わり目が分かる。
廊下の奥で、足音がしないのに“近い”気配がした。
霧島KRS-07。
霧島の静けさが、整いすぎていた。
油の匂いも、金属の響きも、下級天使の足音も——全部が一拍だけ遅れる。
遅れた一拍の間に、共同運用の札が壁に馴染んでいく。
札が馴染むほど、霧島は“家”ではなく“区画”になる。
区画になると、言葉が増える。
言葉が増えると、未来が膨らむ。
未来は因果。因果は餌。
餌が匂うと、来るものがいる。
ヒナの胸元で、端末が黒いまま熱を持った。
封印されかけた窓が、体温を吸って、呼吸するみたいに温かい。
温かさが怖い。
温かいほど“返事”を誘うからだ。
画面は黒いのに、黒いまま光が滲む。
滲みは言葉ではなく、問いの形をしている。
いま、いる?
答えない。
答えれば窓が太る。
太った窓は、さっき見た札の手順に回収される。
サエが先に立ち、短く言った。
「見るな」
見ると未来が入ってくる。
ヒナは視線を落とし、端末を押さえた。
リリエルが白紙端末を抱えたまま、かすれた声を落とす。
「……白紙の近くは……音が薄い……」
薄いのに、圧が濃い。
濃い圧は、祈りの場に似る。
そのとき、霧島の廊下の奥で——
足音がしないのに“近い”気配がした。
礼拝の沈黙に似た距離。
祈りの場に似た圧。
誰かの“赦し”みたいに近づいてくるのに、赦される気がしない。
光が、ひとつも増えない。
照明はそのまま。
なのに、廊下が白く見える。
白さが清めに似て、清めが祝福に似てしまう。
祝福が獣になる前の白さ。
仮面が現れた。
人型の実体が、それを支えている。
歩幅が舞踏の歩幅で、肩の動きが祈りの動きで、
そのすべてが“儀礼”として完成している。
マラコーダ級。
最強の悪魔。
遊びの王。
そして今日は、“祈りを見た者”。
仮面の縁がほころび、声がないのに声がした。
喉で鳴るのではなく、胸の内側へ直接落ちる声。
——窓を、ありがとう。
——祈りを、見せてくれてありがとう。
ヒナの背筋が冷える。
この悪魔は、破壊を急がない。
破壊より先に、世界を“整列”させる。
整列は規律を生む。規律は未来を生む。未来は餌を生む。
マラコーダ級の目的は更新されていた。
力天使と永遠に戯れるだけでは足りない。
地球人とも永遠に戯れたい。
その地球人の名は——ローラ。
マラコーダ級の視線が、ヒナの胸元へ落ちる。
端末。
窓。
そして扉になりかけたもの。
——招待状は、ここにある。
——扉は、開く。
サエが一歩前に出る。短く言う。
「止まれ」
止まれという命令は今の言葉だ。
だが“今”の言葉ほど、マラコーダ級には似合わない。
マラコーダ級は止まらない。
止まらないまま、祈るように両手を広げた。
霧島の空気が、さらに一段静かになった。
静かすぎる静けさが、戦いの合図になる。
霧島は迷路だった。
迷路は、慣れた者を守る。
守るはずだった。
廊下にいるのは三人だけ。
ヒナ。サエ。リリエル。
下級天使たちは隔壁の向こうへ退避させた。
コバンの足音も、犬頭の息遣いも、もう聞こえない。
聞こえないほうがいい。
聞こえたら、守りたい未来が増える。未来は因果。因果は餌。
リリエルが白紙端末を抱えたまま、背中で扉を押さえている。
白紙は眩しい。眩しいほど政治が寄る。
政治が寄るほど、悪魔も寄る。
サエは一歩前。
短い命令だけを落とす。
「線を作る」
線は未来になりやすい。
でも線がなければ、迷路は迷路のまま喰われる。
ヒナは胸元の端末を押さえた。
黒い画面が、体温を吸って温かい。
温かさが怖い。
返事を誘う温かさだ。
廊下の奥、仮面が“祈るように”立っている。
マラコーダ級。
歩かないのに近い。
近いのに、踏み込めない。
距離が狂っている。
狂っているのは空間ではなく、こちらの“心の手順”だ。
サエが低く言う。
「来る」
言った瞬間、未来が一粒増える。
未来が増えると、マラコーダ級の圧が濃くなる。
マラコーダ級は舞踏の一歩を踏む。
踏んだだけで霧島の照明が一拍遅れる。
遅れる一拍が礼拝の沈黙に似て、胸が冷える。
——招待状は、ここにある。
声はない。
なのに胸の内側に言葉が落ちる。
言葉が落ちるほど、端末が重くなる。
ヒナは走る。
霧島の曲がり角を、霧島の癖で抜ける。
配管の影、床の段差、壁の傷。
全部が“今”の地図だ。
銃は抜かない。
銃は遠い。遠いほど言い訳が生まれる。言い訳は未来を含む。
ヒナは刃を抜く。刃は今だ。
足音を三つに割る。
——いる。
——今日、いる。
マラコーダ級へ肉薄。
仮面の縁に、刃が届きそうになる。
届く、と思った瞬間——
マラコーダが“祈るように”身を引いた。
引いたのに、距離は縮んでいる。
縮んでいるのに、刃は届かない。
届かなさが、永遠の形をしていた。
永遠の形は、欲望の形だ。
欲望はパンミクシウムを呼ぶ。
呼ばれたものが悪魔になる。
リリエルが後方で呻く。
「……記録番号……付けられない……」
白紙端末の画面が勝手に白くなる。
白さが増える。
白さは“書ける余地”だ。
余地は政治が好きな空白だ。
サエが壁際の非常遮断を叩く。
隔壁が降りる。
降りる音が束になりそうで怖い。
束は未来。未来は餌。
隔壁は最後まで降りない。
降りる前に、マラコーダ級がそこに“いる”。
走っていない。
ただ、そこにいる。
ヒナの喉が痛い。
痛いのは今。今なら耐えられる。
でも痛みが涙に変わる前に、ヒナは刃をもう一度振る。
一閃。
仮面の表面に、傷が入った——ように見えた。
見えただけ。
傷が入った“ことにされた”だけ。
マラコーダ級は傷を見下ろし、静かに首を傾ける。
その仕草が姉の仕草に似てしまう。
似てしまうものは、窓を太らせる。
——妹よ。
声が落ちた瞬間、ヒナの胸が冷え切る。
妹、という呼び方が心の奥の“似ている”を揺らす。
揺らすと未来が増える。未来が増えると、端末が重くなる。
マラコーダ級の指が伸びる。
伸び方が、祈祷の手つきだ。
掴むのではない。
“赦す”みたいに触れる。
触れられた瞬間、端末が熱を持った。
熱が、返事の形になる。
いま、いる?
だめだ、とヒナは思う。
思った瞬間が未来になる。
未来が餌になる。
ヒナは声を出さずに端末を押さえ込む。
押さえ込むのに、端末は滑る。
滑り方が奪取ではない。
“手続きの完了”みたいに、静かに移る。
サエがマラコーダ級の腕へ斬り込む。
斬り込んだはずなのに、刃が空を切る。
空を切った音が霧島の壁に小さく響く。
響きが束になりそうで、サエが歯を噛む。
リリエルが叫びそうになる。
叫べば束になる。束は餌になる。
リリエルは叫ばない代わりに、白紙端末へ視線を落とす。
白紙に書ける余地。
余地に願いが入りそうで、震える。
マラコーダ級が端末を掌に載せた。
載せ方が丁寧すぎる。
壊すのではない。
招待状として扱っている。
そのとき——遠くで金属の足音が揃った。
霧島の迷路の外側から、規律の音が近づく。
能天使の到着だ。
足音が揃うほど、空気が“執行”へ寄る。
ヒナの胸がほんの少しだけ軽くなる。
助かる、と未来が膨らみそうになる。
だめだ。
膨らめば餌になる。
霧島の曲がり角の向こうで、無機質な声が朗読される。
《ANGEL-ENFORCER // ROE》
IDENTIFY: TARGET “MBK-MC”
AUTHORIZE: LETHAL FORCE
PRIORITY: SECURE “WINDOW”
二体、三体。
能天使の影が見えた。
銃口の線が揃い、足取りが揃い、手順が揃う。
揃う。
揃うことが、マラコーダ級にとっては“食べやすい形”だった。
マラコーダ級は能天使へ振り向かない。
振り向かないまま、祈るように両手を広げた。
端末を掌に載せたまま。
まるで献げ物を掲げる司祭のように。
——扉は、開く。
霧島の空間の縁が、白く裂けた。
裂け目は光ではない。
光に似た“余白”だ。
白紙の端末と同じ種類の白。
書ける余地。呼べる余地。
能天使が一斉に発砲する。
発砲音が束になりそうで怖いのに、束になる前に余白が音を吸う。
銃弾は裂け目の縁で歪み、どこにも届かない。
サエが叫びかけて、叫ばない。
叫ばない代わりに踏み込む。
だが踏み込んだ一歩が、裂け目の前で“止められる”。
止められるのは壁ではなく、儀礼だ。
リリエルが倒れそうになりながら端末の白紙を見て、息だけで言った。
「……白紙が……扉……」
言葉が続かない。続けば未来になる。
マラコーダ級は仮面を傾け、ヒナを“見た”。
見たのに、目が合わない。
合わないまま、胸の内側に言葉だけ落ちる。
——あなたは、守れなかった。
——だから、招待は成立する。
次の瞬間、裂け目が深くなる。
白が白を呼び、霧島の空気が礼拝の終わりみたいに落ちる。
マラコーダ級は端末を携えたまま、裂け目へ“舞い込んだ”。
走っていない。
ただ、世界の手順から外れるみたいに消える。
裂け目が閉じる。
閉じた後に残るのは、静けさだけ。
静けさの中で、能天使の足音だけが規律のまま響く。
現場に残されたのは——
ヒナ、サエ、リリエル。
そして遅れて到着した能天使たちの“手順”だけだった。
ヒナは端末のなくなった胸元を、空のまま押さえた。
泣きそうになる。
泣けば束になる。束は餌になる。
泣けないまま、息を三つに割る。
——いる。
——今日、いる。
でも、端末はもう“扉”になってしまった。
地球、ローラの家。
ローラの家は、保護という名の檻になっていた。
揃った足音。柔らかい声。任意の署名。
祈りは提出物になりかけている。
「再現性の確認」
「安全保障」
「共同調査」
父は抵抗しようとする。
だが政治は家族の心臓へ手を伸ばすのが上手い。
「協力しなければ予算が止まる」
「協力しなければ地球が危ない」
「協力しなければ娘が危ない」
ローラは十字を握りしめる。
痛みで今に戻る。
声にしない祈りだけを、胸の奥に折りたたむ。
(主よ、今日をください)
(ヒナを、今日だけ生かしてください)
そのとき、部屋の空気が変わった。
レンズでも、箱でも、警護でもない。
もっと古い“畏れ”の匂い。
仮面が、そこにいた。
いつ入ったのか誰も分からない。
でも“いる”と分かる。分かってしまう。
マラコーダ級。
地球側へ顕現したその姿は、祈りの場に似た静けさを纏っていた。
スーツの男たちが身構える。
だが身構えが、儀礼の一部に回収される。
マラコーダは舞うように一歩踏み、彼らの“手順”を終わらせた。
声がないのに声がする。
——ローラ。
——祈りを、見た。
——美しい“今日”を、見た。
ローラの喉が乾く。
名前を呼ばれた瞬間、窓が太る気がした。
マラコーダ級は端末を掲げない。
端末を“扉”として、空間の縁にそっと触れる。
白い裂け目が、薄く開く。
向こうに赤い砂。白い街。回廊の光。
そして、遠い星の匂い。
——招こう。
——導こう。
——永遠の遊びへ。
宗教語彙を真似る声。
けれど本質は、遊びと捕食の招待状。
父が叫ぶ。
「娘に触るな!」
叫びは束になる。束は未来を含む。未来は因果。
その因果が扉を太らせるのが分かって、ローラの心臓が跳ねた。
スーツの男が言う。
「ローラ、こちらへ」
「保護対象を確保する」
保護対象。
自分が“対象”である言葉。
母が泣きそうな顔で言う。
「ローラ、お願い、ここにいて」
お願い。
お願いは祈りに似て、祈りは窓を太らせる。
ナディームが影から言う。
「……今日だけを守れ」
ローラは分かる。
今日だけを守るなら、ここに留まるべきだ。
でもここは檻だ。
檻に留まれば、祈りは提出物になる。
提出物になれば、次は“再現”になる。
再現は、窓を装置化する。
窓が装置になれば、獣が量産される。
その未来を見てしまった。
ローラは十字を握りしめる。
握りしめる痛みだけが、今だった。
マラコーダ級が囁く。
——ここは檻。
——あちらは舞台。
——あなたは、選べる。
選べる、という言葉が最悪だった。
自由に見えるから。
ローラは目を閉じた。
声にしない祈りを、さらに短く折りたたむ。
(主よ)
(わたしの友を)
(助けたい)
(でも、わたしの祈りを、彼らに渡したくない)
(檻の中で、祈りを“再現”にされるくらいなら)
(せめて、わたしが選びたい)
選びたい。
それも未来だ。未来は因果だ。
でも切羽詰まった因果は、時に刃になる。
ローラは目を開け、扉を見る。
赤い砂と白い街の向こうに、何かが待っている匂いがする。
友がいる匂いがする。
「……ヒナ」
声に出してしまった。
声が束になりそうで、喉が痛い。
ローラは、泣かない。
泣けば束になる。束は餌になる。
泣かないまま、決める。
「……行く」
父が叫ぶ。母が泣く。男たちが動く。
その全部が束になり、扉が太る。
マラコーダ級は嬉しそうに舞わない。
ただ、儀礼の手つきで手を差し出す。
——招待は成立する。
ローラは、その手を取った。
次の瞬間、ローラの姿が消える。
消え方は拉致ではない。
“承諾”の消え方だった。
檻の中の人々だけが取り残され、
扉の縁だけが、白く震えた。
種子島コロニー。
赤い砂が回廊に積もる。
勝利の砂。焼けた反応の砂。
祝福に似た色の砂。
ヒナは端末を失った手を、胸の前で握りしめた。
友情の窓が切れた。
切れたのに、切れた場所が熱い。
泣きそうになる。
泣けば束になる。束は餌になる。
だから泣けない。
代わりに、息を三つに割って今へ戻す。
——いる。
——今日、いる。
でも“今日”に、ローラがいない。
その事実が、今を裂く。
チェラァブの声が落ちる。
「地球人ノード消失」
「招待成立」
「パンミクシウム層、深部反応——上昇」
UN-MNFはすぐに言葉を作る。
「地球人拉致事件」
「責任の所在」
「共同管理の強化」
「禁区鍵の国際管理」
白紙に、政治の文章が書かれ始める。
文章は正義になり、正義は命令になる。命令は資産になる。
地球。
ナディームは空っぽになった部屋を見て、喉で息を止めた。
確信が、また人を運んだ。
確信が、また窓を太らせた。
それでも彼は、目を逸らさない。
——ローラはアルファケンタウリへ行った。
——なら、答え方はそこにある。
——天城 祈も、そこにいる。
そして彼は、祈らないまま動き出す。
祈れば因果が太る。
だが確信は祈りに似ている。
アルファケンタウリ。
赤い回廊と白い街。
そこへ、地球の足音が混ざり始める。
その足音が、遊びになる前に。
その足音が、永遠になる前に。
ヒナは、今だけを繰り返す。
——今日、いる。




