第六話 祝福に満ちた回廊で
《CHERUB // THEATER OVERVIEW》
PANMIXIUM LAYER: EXCITATION—PERSISTENT
SANCTIFIED CORRIDOR (SERAPH): HEAT MEMORY—REMAINING
ANOMALY: RUBICANTE—LIKELIHOOD INCREASING
NOTE: INTERDICTION INTENSIFIES CAUSALITY DENSITY
アルファケンタウリ、焼けた縦線。
霧島の外縁、あの縦の回廊は、まだ残っていた。
セラフが“清める”ために焼いた線。
真っ直ぐで、正しい線。
正しいはずの線が、今は祈りの通路みたいに見える。
通路の縁が赤黒く脈打ち、熱の記憶が地層の奥でまだ生きている。
ヒナはその線を見ないようにしていた。
見れば、未来が見えてしまいそうだった。
未来は因果になる。因果はパンミクシウムを揺らす。揺れは悪魔を呼ぶ。
なのに、通路は目に入る。
通路は“ここにある”というだけで主張する。
いる、と同じ主張をする。
コバンが小さく言った。
「ヒナ……きょうも、いる?」
ヒナはコバンの頭に触れ、短く答える。
「いる」
返事はここまでしか許されない。
霧島の端末は隔離され、能天使の手順の中に閉じ込められている。
答える権利が削られた世界で、ヒナは触れることだけで“今”を繋ぐ。
上空に、セラフの影。
宇宙兵器のような大天使が、黙って同航している。
焼くほど深くなると理解していても、焼かねば回廊が崩れる。
セラフは黙って受け入れている。
黙って受け入れることが、ここでは祈りに一番近い。
能天使の列が動いた。
動きに迷いがない。迷いがないから怖い。
《EXECUTION ZONE》
BOUNDARY: EXPAND
COMMUNICATION: FULL FREEZE
ANGEL UNITS: HOLD / ASSET
資産。
その語がまたヒナの胸を冷たくする。
守護ではない。保全でもない。
“物”としての扱い。
サエは言葉を削っていた。
削るほど、規律が保てる。
規律が保てるほど、人が守れる——と思ってしまうのが、サエの傷だ。
リリエルは白紙の端末を抱えたまま、視線だけでログを追う。
端末が白紙なのに、彼女の目は白紙にならない。
白紙になれない管理者の目。
そしてチェラァブの声が、空から降ってきた。
音がないのに、空間が震えるような声。
「反応、上昇」
「回廊熱、層深度へ浸透」
「……ルビカンテ級悪魔、顕現確率、閾値超過」
主天使の声が硬い。
「セラフは?」
チェラァブは淡々と答える。
「清掃継続」
「清掃は必要。しかし清掃が燃料にもなる」
主天使は短く命じる。
「ならば、最悪に備える」
「ガルガリンの投入許可を」
“最悪”という語が、霧島の白い光の中で黒く見えた。
最初に現れたのは炎ではなかった。
炎は派手すぎる。炎は人の理解に寄りすぎる。
現れたのは、焼けた縁だった。
回廊の縁が、ひとつだけ濃く赤くなり、輪郭が立ち上がる。
立ち上がる輪郭は、人の形に似ている。
しかし中身は空洞で、空洞の奥が赤い。
炭化した聖画のようなひび割れ。
ひびから漏れる赤は、光というより“記憶”の色だった。
消えない熱。消えない期待。消えない遊び。
ルビカンテ級悪魔。
歩くたびに火花が落ちる。
だが火花は床を燃やさない。
代わりに“線”を燃やす。
通路の区画線。
ログの区分。
規律の境界。
そして、霧島の小さな居場所の境目。
燃えるのは物ではない。
燃えるのは「区切り」だ。
区切りが燃えれば、終わりが消える。
終わりが消えれば、永遠が始まる。
能天使が銃口を向ける。
《HOSTILE》
CLASSIFICATION: RUBICANTE
STATUS: ENVIRONMENTAL
ROE-2: APPLY
撃つ。
弾は確かに当たる。
当たった“結果”が、熱として拡散する。
ルビカンテ級は倒れない。
倒れる個体ではない。
場そのものになる。
“執行区域”を、逆に自分の礼拝堂に変える。
チェラァブの声が一段硬くなる。
「撃つほど、励起が増える」
「……執行が燃料になる」
サエが低く言う。
「詰んでる」
ヒナは言葉を飲み込んだ。
飲み込んだ言葉が喉で熱になる。
熱は危ない。
でも目の前で下級天使の通路が焦げていく。
コバンが、意味のない勇気で一歩出そうとする。
ヒナはコバンの肩を掴んだ。
掴む手が震える。
震えは未来に似る。だから震えを今に戻す。
「いる」
ヒナは、口ではなく手で言う。
今はここだ、と。
上空でセラフの光が準備される。
セラフは撃てる。
撃てるが、撃てば深くなる。
それでも撃たねば、通路が礼拝堂になる。
地球、ワシントンD.C.。
地球では雪が降りかけていた。
ワシントンD.C.の街灯は、雪を祝福の粉みたいに照らしている。
祝福は、すぐ獣になる。
連邦の保全庫。
“未成年保護”の名の下に、ローラの端末が封印されている場所。
番号、封印、署名、監視。
正しい手順で固めた小さな聖域。
その聖域が、特異点になっていた。
封印袋の内側で、画面が一瞬だけ点く。
見えるようで見えない滲み。
M
そして床が鳴った。
鳴ったのは警報ではない。
コンクリートの内側から、獣が爪を立てる音。
黒い泡が、地球の床からも立つ。
パンミクシウムは地球にないはずなのに、反応は“窓”を伝ってくる。
因果は物質の境界を嫌う。
境界を嫌うから、境界を燃やす。
チリアット級悪魔が生まれた。
凶暴で、速い。
噛みつき、引き裂き、そして走る。
獣は道路へ飛び出し、白い石の街を駆ける。
信号を噛み、フェンスを裂き、記者のカメラに一瞬だけ“祈りに似た歪み”を残して消える。
ニュースは言い換える。
テロ。暴徒。異常個体。
言い換えれば安心できるから。
ローラは、その映像を父の部屋のテレビで見た。
父は電話に張りつき、声を硬くしている。
「封鎖しろ」「発表は抑えろ」「責任の所在を——」
ローラはペンダントを握った。
神の名を呼べない。
呼べば誰かが喜ぶ気がする。
だからローラは、名を呼ばずに、胸の中でだけ言った。
——今日。
——今日だけ。
そしてローラは気づく。
自分が何も打つ手を持っていないことに。
祈るだけでは、端末は戻らない。
祈るだけでは、獣は止まらない。
そのとき、家の“眼”が一拍だけ眠った。
玄関ホールに現れた男は、前と同じだった。
丁寧なスーツ。目立たない色。
アラブ系のすっきりした顔立ち。ひげはない。
目だけが鋭く、鍵束の位置を数えている目。
「驚かせてすまない、ローラ」
彼は鍵を壊さない。
警報も鳴らさない。
ただ、家の異常検知が“異常だと判断しない形”に整えられている。
どうやったかは分からない。
分からないからこそ怖い。
ローラは短く言った。
「……ナディーム」
呼んでしまった。
呼んだだけで、糸が一本増える気がした。
外で、遠いサイレン。
ワシントンの夜を獣が走っている。
ナディームは視線を窓の外へ投げ、すぐに戻す。
「時間がない」
丁寧さが、急ぐと刃になる。
「君の端末は、押収され、封印され、保管されている」
「そして今、保管庫が“巣”になり始めている」
ローラの顔が青ざめる。
「……あれが? あれが、私の……」
ナディームは否定しない。
否定しないことが、最悪の肯定になる。
「回収する」
彼は言う。
「避難ではない。奪還だ。君がやる。私が手順を開く」
ローラは息を吸い、吐く。
祈りではなく、決意の呼吸。
「……行く」
街は封鎖され始めていた。
車両が止まり、橋が閉じ、警官が叫ぶ。
叫びは束になる。束はパニックになる。
ナディームは束を避けた。
束の外側を選ぶ。
地下へ。連絡通路へ。反射の少ない場所へ。
ローラは震えそうになり、ペンダントを握って震えを止めた。
止めるのではなく、今に戻すために。
遠くで獣の足音。
アスファルトを叩く音が、祈りのリズムを壊していく。
保管庫の手前、警備線が張られている。
ナディームはそこに“勝たない”。
勝つのは戦いだ。戦いはログになる。
彼はただ、そこにある規則の形を読み替える。
「君が前に」
ローラに言う。
「未成年保護の名目は、君にだけは通す。通さないと彼らは“保護”を語れない」
ローラは喉が痛くなるほど短い言葉で答えた。
「……わかった」
そして通る。
通る瞬間、ローラは気づく。
政治の言葉は盾にもなる。
盾は時に鎖にもなる。
保管庫は冷たかった。
清潔で、無音で、祈りの場所のふりをしている。
監視カメラの赤い点が、蝋燭の炎みたいに点滅する。
棚に並ぶ封印袋。
番号。署名。保全期限。
そして、その中にローラの端末。
ローラの手が伸びる。
伸びる手が震える。
震えは未来だ。未来は危ない。
ローラは目を閉じ、短く息を吐く。
——今日。
端末を掴んだ瞬間、袋の内側で画面が点く。
M
ナディームの目がわずかに細くなる。
確認の目。
しかし言葉にしない。言葉にしたら現実になる。
封印を解く。
解いた瞬間、空気が変わった。
匂いが変わった。
祝福の匂いではない。熱い鉄の匂い。
床が割れ、チリアット級が飛び出す。
獣は一直線に走る。
政治の中心の直線を好む獣。
ローラは端末を抱えたまま走った。
ナディームが扉を押さえ、逃走路を選ぶ。
選ぶ速さが異様に正確だ。
迷いがないのに、声は丁寧だ。
「止まるな」
「今だけ守れ」
ローラは泣きそうになりながら、返事をしない。
返事は束になる。束は窓を太らせる。
窓が太れば、獣が増える。
走りながら、端末が勝手に文字を出す。
いま、いる?
ローラの喉が熱くなる。
返したい。
返したらヒナが生きる気がする。
返したら何かが救われる気がする。
その“気がする”が因果だ。因果が燃料だ。
ローラは返さない。
返さない代わりに、端末を抱きしめて、息だけで言う。
——いる。
——いる。
——今日、いる。
地下通路の明かりが切れかけ、二人は一瞬だけ立ち止まった。
遠くで獣の爪がコンクリートを叩く。
時間がない。
そのときナディームの懐から、小さな写真が滑り落ちた。
ローラが拾い上げる。
白衣の女性。顔は見切れている。
背景に、工区番号の札だけが写っている。
ローラの目が、写真の裏の走り書きに止まる。
日本語。
「種子島 工区07」
「天城 祈」
ローラは息を呑む。
ナディームの手が伸び、写真を奪い返す。
奪い返し方が丁寧すぎて、丁寧さが痛い。
ローラが小さく言う。
「……日本人」
ナディームは、否定しない。
「そうだ」
ローラが続ける。
「この人……あなたの」
ナディームは言い切らない。
言い切らないまま、一言だけ落とす。
「彼女は、種子島で消えた」
「そして“アルファへ輸送”の記録が、途中で途切れた」
“消えた”ではない。
“途切れた”。
記録の言い方。
政治の言い方。
そして、祈りの言い方。
ローラは獣の足音を聞きながら、震える声で言った。
「……どうして、種子島はあんなに早く建ったの」
ナディームの目が、遠い。
遠い目は未来だ。未来は危ない。
だからナディームは、未来を言葉にしない。匂いだけ残す。
「あれは、既存の工期では説明できない」
「必要な心臓が、先に出来ていたような建ち方だ」
「……彼女は、その心臓に触れていた」
それ以上は言わない。
言えば現実になる。
現実は燃える。
霧島KRS-07。
同じ時間、アルファケンタウリでは、ルビカンテが回廊の縁を歩いていた。
歩くたび、線が焼ける。
焼けるのは床ではない。床に引かれた「区切り」だ。
区切りが焦げて消えると、霧島と種子島の距離が、意味を失い始める。
距離が意味を失うと、逃げ場が消える。
逃げ場が消えると、遊び場が残る。
ルビカンテ級は、遊び場の中心に立った。
赤い縁だけで出来た外套の輪郭。
炭化した聖画みたいなひび割れ。
ひびの奥から、消えない熱が覗いている。
能天使の列が前進する。
金属の靴底が揃って鳴る。
揃った音は荘厳に聞こえるはずなのに、今日はただの“合図”だった。
遊びが始まる合図。
《VIRTUTES // ENGAGE》
TARGET: RUBICANTE
MODE: SUPPRESS
ROE-2: APPLY
ROE-3: COLLATERAL—WITHIN THRESHOLD
能天使が撃つ。
弾道は正確だ。
発射間隔も揃い、反動も揃い、空気が“整う”。
整うほど、パンミクシウムが喜ぶ。
弾丸がルビカンテの輪郭を貫く。
貫いても、肉は裂けない。
代わりに、空洞の内側で赤い熱がふくらみ、ふっと外へ滲む。
滲んだ熱は火花になり、床の線へ落ちる。
落ちた火花が、線を焼く。
線が消える。
線が消えると、能天使の射線も、指揮系統も、区画も、意味を失う。
《VIRTUTES // WARNING》
TARGET IS ENVIRONMENTAL
HEAT SPREAD: INCREASING
FIRE IS NOT OXYGEN-BASED
CAUSE: PANMIXIUM EXCITATION
能天使が隊形を変える。
変え方も正しい。
正しいほど、ルビカンテには“可愛い”動きに見える。
ルビカンテ級が、首を傾げた。
人間みたいな仕草。
でもその仕草は、同情ではなく玩具を見る仕草だった。
次の瞬間、赤い縁が揺れた。
揺れたのは身体ではない。
場が揺れた。
回廊の縁取りが一斉に赤く点火し、能天使の足元の区画線が消える。
床が滑る。
いや、滑るのではない。
“立っている”という概念が薄くなる。
能天使ユニットの一体が踏ん張ろうとした。
踏ん張るための計算を走らせた。
《VIRTUTES // STABILIZE》
GYRO: MAX
FOOTING: RECALC
…
計算の途中で、ルビカンテが“蹴った”。
蹴ったのは金属の体ではない。
蹴ったのは能天使の足元の「確かさ」だった。
確かさが蹴散らされ、能天使は一瞬、空中に放り出される。
落ちるのではない。
“落ちる”という終わりの動作が、燃えて消される。
だから、ただ弾かれる。
能天使が壁に叩きつけられ、金属音が広がる。
金属音が揃わない。揃わない音は不安の粒になる。
粒は因果になりかける。
別の能天使が火線を走らせる。
熱を消すための冷却弾。
煙幕。遮蔽。
正しい対応。正しいほど、遊び相手としてちょうどいい。
ルビカンテは、避けない。
避ける必要がない。
弾は当たる。
当たった結果が、また熱として拡散する。
そしてルビカンテは“じゃれる”ように、手を伸ばした。
伸ばした手は、手の形をしていない。
赤い縁が指のように裂け、能天使の銃身の上を撫でる。
撫でた瞬間、銃身に刻印されていた識別コードが、焼けて読めなくなる。
番号が消える。
番号が消えると、能天使は“誰”でもなくなる。
誰でもないものは、命令の行き先を失う。
《VIRTUTES // IDENT ERROR》
UNIT ID: LOST
COMMAND LINK: DEGRADED
…
能天使が沈黙する。
沈黙は彼らの標準だ。
でも今日の沈黙は、標準ではない。迷子の沈黙だ。
ルビカンテ級は、それを見て楽しそうに見えた。
笑っていない。
笑っていないのに、遊びの気配だけが濃い。
能天使が距離を取り、集中砲火へ切り替える。
その瞬間、上空からセラフの光が落ちた。
《SERAPH // SANCTIFY》
EXECUTE
LINE: 03
OUTPUT: VERY HIGH
RISK: ACCEPTED
光は縦に走り、回廊の一部を“清掃”する。
湧き口を焼き、火花の発生源を削る。
だが削られた熱は、深部へ沈む。
沈む熱が、ルビカンテの輪郭をさらに太らせる。
ルビカンテは光を見上げた。
見上げ方が、祈りに似ている。
祈りに似ているから怖い。
そして、ルビカンテが一歩、前に出た。
その一歩で、能天使の列が二列、崩れた。
蹴散らされた能天使が床を滑り、壁を削り、火花を散らす。
散った火花が線を焼く。
線が消える。
消えた線の向こうで、霧島の居場所の境界が薄くなる。
「下がれ!」
サエの声が、初めて束になりかけた。
束になりかけて、サエは喉で止めた。
止めることで、今を守る。
「撤退」
サエは短く言う。
「霧島区画、閉鎖。下級個体を先に」
能天使は撤退を許さないはずだった。
しかし能天使の回線は焼け、命令は遅れ、隊形は崩れている。
皮肉なことに、その乱れが“撤退の隙”を生んだ。
ヒナはコバンの手を握った。
握ると震える。震えは未来。
だからヒナは足元に集中する。音を三つ。いる。
「いくよ」
ヒナは言った。
長い言葉は言わない。
長い言葉は未来を含む。
コバンは泣きそうな顔で頷き、ピィが包帯箱を抱えて走り、猫頭が後ろを振り返る。
振り返った先で、ルビカンテ級が“追う”のではなく、見送るように立っている。
見送るのは優しさじゃない。
次の遊び場を選ぶ余裕だ。
撤退路の床の線が、じりじりと焦げる。
焦げが追いかけてくる。
追いかけてくるのは炎じゃない。
終わりを消す熱だ。
ヒナは走りながら、胸の奥でだけ繰り返した。
——いる。
——今日、いる。
その“今日”の背後で、ルビカンテは回廊を舞台にしたまま、ゆっくりと向きを変えた。
霧島では足りない。
もっと多くの遊び相手がいる場所へ。
種子島へ。
撤退路の曲がり角で、ヒナは一瞬だけ立ち止まりかけた。
霧島の壁際、能天使が積み上げた隔離ケースが見えたからだ。
透明な樹脂の中に、通信端末が眠っている。
眠っているはずなのに——
ケースの隅が、ほの白く光った。
光は蝋燭の火のように揺れ、すぐに消えそうで、だから目を奪う。
画面に文字が浮かびかける。
いま、いる?
一文字目が現れた瞬間、回廊の赤い縁が遠くで脈打った。
熱の記憶が回線を舐める。
舐めた熱が、文字の輪郭を焦がす。
“いま”の二文字が、灰になりかけた。
ヒナはケースへ手を伸ばしかける。
伸ばした指が震える。震えは未来。未来は危ない。
ヒナは拳を握り、痛みで今に戻す。
文字は、最後まで表示されなかった。
光がふっと消え、画面はまた真っ暗になる。
まるで最初から何もなかったみたいに。
でもヒナの胸だけが、そこに“あった”と知っている。
「……いる」
ヒナは声に出さず、唇の内側でだけ言った。
答えは届かない。
届かないのに、答えずにはいられない。
サエが背中越しに短く言う。
「行くぞ」
ヒナは頷き、走り出す。
走る足音を三つに整え、今を握る。
その背後で、回廊の赤黒い脈がもう一度太くなった。
遊びの気配が、撤退路の影をなぞるように、静かに笑った。
地球、ワシントンD.C.。
ワシントンの地上に出ると、雪が強くなっていた。
雪は静かに落ちる。
静けさは祈りに似ている。
祈りに似ている静けさの中を、獣が走る。
チリアット級が街灯の下を横切り、白い道を裂く。
ローラは息を止め、壁に背をつける。
ナディームはローラの肩を軽く押し、視線だけで“今は動くな”と言う。
端末が熱い。
手の中で、熱を持っている。
物理の熱ではない。
因果の熱。
画面にまた出る。
いま、いる?
ローラの指が震える。
返せば回線が太る。
太れば獣が増える。
増えれば誰かが死ぬかもしれない。
政治が死ぬかもしれない。
ヒナが死ぬかもしれない。
ローラは返さない。
返さない代わりに、端末の角を強く握る。
角が痛い。痛みは今。
今がローラを救う。
ナディームが静かに言う。
「君は、強い」
褒めていない。評価でもない。
ただ観測だ。
「……君は、窓だ」
「窓は、開きやすい」
「だから、今日だけ閉じていろ」
ローラは涙が出そうになり、涙を飲み込む。
飲み込むと胸が熱くなる。
熱は危ない。
でも泣かないと自分が消える気もする。
ローラは、泣かない代わりに小さく頷いた。
頷きは祈りに似ない。
頷きは今の合図だ。
アルファケンタウリ、種子島コロニー。
アルファケンタウリの深層ログに、チェラァブが新しい線を引いた。
新しい線は、回廊の赤黒い脈と繋がっていく。
繋がり方が、まるで“誰かの遊び場”をなぞるようだ。
《ORIGIN TRACE》
FIRST PRAYER VECTOR: DETECTED
SIGNATURE: AMAGI INORI (PROBABLE)
NOTE: “ETERNAL PLAY” PATTERN—HIGH CORRELATION
主天使の声が、一拍だけ止まった。
管理の世界で、一拍止まるのは稀だ。
「……天城、祈」
名を口にするだけで、空気が焦げる気がした。
だが主天使は口に出した。
出してしまった。
出した瞬間、どこかの層が喜んだ気がした。
チェラァブが続ける。
「彼女は“願いを現実化する”性質の最初の解明者」
「そして……自発的沈降の可能性」
「目的ベクトル、推定:失われた故郷/妹/女友達の再現」
「……永遠に遊ぶ」
“永遠”。
その語は禁句のはずなのに、ログは禁句を吐く。
ログは祈りではない。
だが祈りに似てしまう。
主天使が低く言った。
「最初の祈りが、まだ燃えている」
セラフの外部ステータスが無言のまま点灯している。
黙っていることが、今は祈りより重い。
チェラァブの画面に、新しい比較窓が開いた。
顔の輪郭、瞳孔の比、口角の癖、声帯モデルの共鳴。
数字が、祈りのように並ぶ。
《MORPHO MATCH》
SUBJECT: HINA (FORTITUDINES UNIT)
REFERENCE: AMAGI HIKARI (ARCHIVE—LOST)
SIMILARITY: 0.93
主天使の声が、一段低くなる。
「……九三パーセント?」
チェラァブは淡々と告げる。
「外形一致だけではない」
「情動応答の“間”も一致」
「——彼女は、天城祈の“妹の像”に近い」
ヒナはその場にいたのに、名前だけが遠かった。
“妹”。
言葉が未来を呼びそうで、ヒナは足元に視線を落とした。
音を三つ。いる。
コバンが小さく聞く。
「ヒナ……いる?」
ヒナは答える。
「いる」
返事は短い。
短い返事だけが、世界の大きな因果に飲まれないための杭だった。
ルビカンテが回廊の縁を撫でるように歩いていた。
撫でるたび、終わりが焦げ、境界が消える。
境界が消えれば、遊びは終わらない。
ルビカンテ級は、もう霧島だけでは足りなくなっていた。
そこにいるのは少数。
声も足音も、束にならないよう短く削られている。
削られた“今”は、遊び相手としては小さすぎる。
だから、赤い縁は向きを変えた。
回廊の線が、一本、種子島コロニーへ伸びる。
伸びるのは道ではない。
終わりを燃やしながら進む、祈りの通路だ。
ルビカンテ級は進撃する。
走らない。急がない。
ただ、確実に“区切り”を焼きながら距離を詰める。
そして焼いた区切りの跡に、火花が残る。
火花は光に似ている。
光に似ているから、人は「救い」と錯覚しそうになる。
錯覚した瞬間、遊びの輪に入ってしまう。
種子島の外縁、監視塔の光が揺れた。
揺れたのは機械ではなく、見張る人の目だ。
「……来る」
誰かが呟いた。
呟きは束にならないよう小さい。
小さいのに、広場の空気が一斉に薄くなる。
学園区画の外にいた力天使たちが、足を止める。
制服の襟を正す手が震え、震えた手を握り潰す。
握り潰すのは未来だ。未来は危ない。
だから彼女たちは、呼吸を短く切り、今に戻す。
「配置につけ」
指揮の声が流れる。
声はいつもより硬い。
硬い声ほど、祈りに似てしまう。
力天使たちは動揺しながらも、動く。
廊下を走る子がいる。走らない子もいる。
泣きそうな顔の子もいる。
それでも足は止まらない。
校舎の窓際に、卒業写真のカビの匂いが残っている。
あの四角の中の“永遠”が、今は敵の匂いに近い。
誰かが写真立てを倒しそうになり、慌てて直す。
直す手が震え、震えを隠すために指を強く曲げる。
「……こわい」
誰かが言う。
その言葉は弱さじゃない。
弱さを言えるのは、まだ“今”が生きている証拠だ。
サエが前へ出た。
短い命令だけを落とす。
「散開」
「守れ」
「——今を」
“今を”。
その語は危ないのに、いま言わなければ守れない。
主天使管制が割り込む。
無機質な音声。
そこに、国連回線の硬さが混ざっている。
《UN-MNF // ALERT》
《HOSTILE: RUBICANTE—MIGRATION CONFIRMED》
《ASSET PROTECTION PRIORITY: UPDATED》
資産。
またその語が出る。
力天使たちの背中が、ほんの少しだけ硬くなる。
硬くなった背中は、祈りの姿勢に似てしまう。
似てしまうほど、パンミクシウムが喜ぶ気がして、誰も長く背筋を伸ばせない。
そして、別の回線が落ちてきた。
低い音圧。空気が回る音。
台風の中心が近づくときの、あの耳鳴り。
《KIRISHIMA / TANEGASHIMA AIRSPACE》
STRATEGIC ARCHANGEL: GARGARIN—DEPLOYMENT AUTHORIZED
戦略級大天使ガルガリン。
見えないはずの風が、先に来る。
コロニーの人工樹木がざわめき、旗が強く煽られる。
国連旗も、コロニー旗も、同じ風に叩かれる。
風の前では、所属も色も同じ布だ。
空が暗くなる。
暗くなるのは夜ではない。
雲の渦が生まれ、渦の芯が一点に絞られる。
台風のような戦略級大天使が、空そのものを武装に変える。
ガルガリンは“降りる”のではなく、降らせる。
圧。風圧。旋回。
それだけで、空域の秩序が書き換わる。
ルビカンテ級の赤い縁が、風に触れた。
火花が舞い、舞った火花が、風に乗って広がる。
広がる火花は、祝福の紙吹雪に見えそうで、見えない。
見えないから、なお恐ろしい。
力天使たちは配置につく。
銃を構える子もいる。刃を握る子もいる。
ヒナはまだ霧島側にいる。
それでも、種子島の空気が変わったことは、霧島の壁越しにも伝わってくる。
ガルガリンの渦が、最初の唸りを上げた。
唸りは宣告の声。
祈りではない。
祈りに似せた、執行だ。
地球では、チリアット級が白い街を駆け抜けた。
獣は笑っていない。
笑っていないのに、“楽しそう”に見えるのが最悪だった。
ローラは端末を抱え、ナディームと影の中に身を寄せた。
返事はしない。
しないけれど、胸の奥でだけ、今を繰り返す。
——いる。
——今日、いる。
端末の隅に、また一瞬だけ滲む。
M
それは文字ではなく、気配だった。
回線の向こうが、こちらの動揺を見ている気配。
そして、動揺を遊んでいる気配。
遠くで獣が方向を変えた。
まるで誰かに呼ばれたように。
アルファの渦が、もう一段、深くなった。
赤い縁が、もっと多くの遊び相手を求めて、種子島へ伸びていく。
そしてその先に、まだ名前のついていない影がある。
統制を噛む影。執行を喰う影。




