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第五話 祝福される執行

《VIRTUTES UNIT // BOOT LOG》


STATUS: ONLINE

JURISDICTION: UNITED NATIONS MULTINATIONAL FORCE (PRIMARY: USA)

THEATER: ALPHA CENTAURI / TANEGASHIMA COLONY COMPLEX

TARGET: MBK-MC-00

OBJECTIVE-1: COMMUNICATION INTERDICTION

OBJECTIVE-2: COMMAND CONSOLIDATION

OBJECTIVE-3: ASSET PROTECTION (ANGEL UNITS / PANMIXIUM SUPPLY)


《ROE RECITATION》


ROE-0: DO NOT NEGOTIATE WITH MALEBRANCHE ENTITIES

ROE-1: NEUTRALIZE COMMUNICATION NODES ON DETECTION

ROE-2: USE LETHAL FORCE IF INTERDICTION FAILS

ROE-3: COLLATERAL ACCEPTABLE WITHIN THRESHOLD

ROE-4: HUMAN MINOR DEVICES: SEIZE & ISOLATE (PROTECTIVE CUSTODY)


《SYNC》


ACK: LAMP—ON

ACK: LAMP—ON

ACK: LAMP—ON

ACK: LAMP—ON


音はない。

音がないから、荘厳に見える。

能天使たちの列は、兵士の列ではなかった。武器の列だった。

番号と規格と閾値だけが、胸元に貼り付いている。


外部カメラが切り替わり、黒い宇宙が映る。

星々の静けさの中で、ひとつだけ巨大な影が“同航”していた。


《SERAPH // EXTERNAL》


FUSION CORE: STABLE

FIRE CONTROL: STANDBY

CORRIDOR SANCTIFY: READY


戦略級大天使セラフ。

核融合の心臓が拍動し、超高出力の光が沈黙のまま準備される。

撃つためではない。道を作るためだ。

執行のための“清掃”。


《DROP SEQUENCE》


CAPSULE-01: READY

CAPSULE-02: READY

CAPSULE-03: READY

CAPSULE-12: READY


《RECITATION》


“EXECUTION IS MERCY.”

“INTERDICTION IS SALVATION.”

“ORDER IS CONTINUANCE.”


誰も声に出していないのに、言葉だけが空間に残る。

聖句ではない。規定だ。

祈りではない。宣告だ。


《EJECTION》


CAPSULE-01: RELEASE

CAPSULE-02: RELEASE

CAPSULE-03: RELEASE


棺のようなカプセルが、順番通りに射出される。

整いすぎた順番。

それは戦術ではなく儀礼に見えた。


能天使は落ちる。

落ちるというより、宣告が地上へ移動していく。


大気圏(地球型に整えられた薄い空)に触れた瞬間、火花が咲いた。

燃える尾が伸び、煙の筋が引かれる。

香炉の煙みたいに、ゆっくりと、しかし確実に。


上空で、セラフが光を起こす。


《SERAPH // FIRE CONTROL》


CORRIDOR SANCTIFY: EXECUTE

OUTPUT: HIGH

MODE: CLEAN LINE


レーザーが落ちた。

落ちたのは破壊ではなく、線だった。

真っ直ぐな縦の線が、パンミクシウム層の乱反射を焼き切り、降下のための透明な回廊を作る。


焼けた跡は、黒ではなく、赤黒い。

地層が“熱を覚えた”みたいに脈打つ。


能天使カプセルは、その回廊を滑り落ちる。

風が整えられ、乱れが消え、落下が儀礼になる。


種子島コロニー。

種子島の司令部前に、布が上がった。

白と青。丸い地図と枝。

国連旗。


旗は布切れなのに、重かった。

掲げられた瞬間、空気の所有者が変わる。


司令部の中に、監査団が入る。

制服の色が違う。言葉の温度が違う。

「透明性」「未成年保護」「共同運用」。

どれも綺麗な言葉だった。綺麗だから怖かった。


学園区画の倉庫から、箱が運び出される。

卒業アルバム。入学式の台本。式次第。生活指導の記録。

写真の四角が、敵の毒ではなく、政治の資料になる。


「心理ケアの適正評価」

口にすると祝福のようで、実際は手綱だ。


司令部前の広場では、旗の影が長く伸びていた。

国連旗の影は、風に揺れるたびに床のラインを撫でていく。

撫でるのに冷たい。

触れていないのに、手綱みたいに感じる。


学園区画の入口付近に、力天使たちが数人、固まって立っていた。

正規の制服。整えられた髪。けれど目だけが落ち着かない。

入学式の時の眩しさを知っている目が、今日は眩しさを避けている。


「……能天使、来るんだって」

誰かが言う。声は小さい。束にならないように。


「私たちが弱いって言われたみたい」

別の子が笑おうとして失敗する。笑顔が割れる。

笑顔が割れると、未来が覗く。未来は危ない。


「戦えるのに」

「戦ってきたのに」

「でも、政治は戦果を見ない。鍵を見る」


鍵。

通信鍵。輸送鍵。兵站鍵。

戦場の外の言葉が、戦場を決めていく。


遠くで、能天使の降下予告が掲示板に流れた。

整った英語と、整った日本語。

整いすぎていて、誰の言葉でもない。


力天使の一人が、胸元の小さな十字のペンダントを握った。

握った瞬間だけ、祈りが“今”に戻る。


「……神さま。今日、私たちを見てて」

誰にも聞こえない声で言う。

聞こえないからこそ、嘘じゃない。


その裏で、司令部の奥——監査団が入れない一段深い区画で、

もっと冷たい会話が進んでいた。


壁面いっぱいに投影されたのは、パンミクシウム層の反応予測。

曲線が幾つも重なり、未来の可能性が網目になって揺れている。

網目の中心に、ひとつの文字列が点滅していた。


VIRTUTES DEPLOYMENT


主天使は、映像ではなく数値を見ていた。

声は短い。


「能天使投入で、因果はどれだけ膨らむ」


答えたのは、電子戦戦略級大天使チェラァブだった。

姿はここにない。声だけがノイズのない鋭さで落ちてくる。

機械の声なのに、どこか聖歌の伴奏みたいに冷たい。


「予測モデル、更新」

「能天使武装は、周辺の“確実性期待”を最大化する」

「確実性は因果を太らせる。因果はパンミクシウムを励起する」


スクリーンの網目が一段濃くなった。

赤い部分が増える。

増え方が、生き物の血管みたいに見える。


主天使が言う。

「励起の閾値は」


チェラァブが淡々と答える。

「局所的に超過の可能性、四八パーセント」

「降下回廊の清掃(セラフ支援)を含む場合、五九パーセント」


主天使の指が止まる。

管理の指が、初めて一拍遅れる。


「……半分以上か」


チェラァブが続ける。

「励起が激化した場合、出現マレブランケの級は上がる」

「チリアット級までは想定内」

「しかし……その先は」


画面の端に、未確定ラベルがいくつも生まれては消える。

名前だけが先に滲む。


BARBARICCIA-LIKE

RUBICANTE-LIKE


主天使が低く言う。

「最上位(MBK-MC-00)の“遊び”を助ける可能性は」


チェラァブの声が一瞬だけ硬くなる。

硬くなるのは感情ではない。計算の警告音だ。


「可能性、否定できない」

「封殺は、窓を一点に絞る」

「一点は、特異点になる」

「特異点は……“永遠”を呼ぶ」


主天使は旗の影を見ない。

けれど旗の影は、数字の上にも落ちている。


「ならば、手順を増やす」

「監査を増やす」

「執行を——増やす」


チェラァブが静かに言う。

「増やすほど、反応は増える」

「因果は……抑えられない」

「抑えるなら、“今”を削るしかない」


“今”を削る。

それはヒナたちが守ろうとしているもの、そのものだった。


主天使は短く宣言した。

「投入は中止しない。国連決議だ」

「ならば、最悪に備える」


チェラァブの声が、祈りではない形で落ちる。


「了解。電子戦、展開」

「回線、浄化」

「——しかし、パンミクシウムは反応する」


スクリーンの赤が、ゆっくりと増えていく。

未来の網目が、静かに太っていく。


その頃、広場の力天使たちは、ただ互いの顔を見ていた。

何も言わずに。束にしないように。

それでも不安は、目に出る。


旗が揺れた。

風が鳴った。

そして、降下の時刻だけが、正確に近づいてきた。

その数値の横で、セラフの外部ステータスが無言のまま点灯していた。

回廊清掃は必要だが、焼けば焼くほど反応が深くなる——それを理解したうえで、セラフは黙って受け入れている。


《SERAPH // SANCTIFY: EXECUTE // RISK: ACCEPTED》



霧島KRS-07。

霧島では、紙の星がもう戻らない。

透明な保全袋の中で、星は“証拠”になって運ばれていった。


コバンは星の代わりに、ヒナの手首を見上げる。

いつもの問いを投げる勇気が出ない顔。


ピィは包帯箱を抱えたまま動かない。

猫頭は壁にもたれて、目を伏せている。

霧島は短い会話で生きてきたのに、その短さすらログにされる。


サエは壁際に座り、呼吸を整えていた。

規律の象徴が、粉塵で汚れた袖をまだ洗っていない。

洗ってしまったら、今日が消える気がしたのかもしれない。


リリエルは白紙の端末を抱え、何度も画面を撫でる。

画面は答えない。

管理が折れたまま、音も戻らない。


天井スピーカーが鳴った。


《UN-MNF // COMMAND TRANSFER COMPLETE》

《SITE: KIRISHIMA / ENTRY AUTHORIZED》


続けて、低い機械声。


《DECLARATION》

THIS AREA IS AN EXECUTION ZONE.

NONCOMPLIANCE WILL BE EXECUTED.


ヒナの胸の奥が冷えた。

“処刑区域”。

祈りの語彙に寄せるなら、ここはもはや聖堂ではなく裁判所だった。


霧島のゲートが開く。

白い光の中へ、黒い影が入ってくる。


能天使。

人の形に近いのに、人ではない。

表情がない。目がない。

あるのはセンサーと番号と、無音の威圧。


《AREA ENTRY LOG》


UNIT-04: ENTER

UNIT-07: ENTER

UNIT-09: ENTER

UNIT-12: ENTER


《INTERDICTION》


COMMUNICATION NODES: SCAN

CIVILIAN DEVICES: SEIZE

ANGEL UNITS: HOLD POSITION


“天使ユニット:位置保持”。

ヒナはそれを読んだ瞬間、少しだけ息が詰まった。

彼らは守る対象ではなく、資産だ。

守られるのではなく、保全される。


サエが立ち上がり、短く言う。

「霧島の下級個体がいる。手順は——」

能天使が返す。


《RESPONSE》


ACKNOWLEDGED.

COLLATERAL THRESHOLD: APPLY.


サエの眉が僅かに動く。

閾値。

守りたいものが閾値の下に落ちれば、消える。


ヒナは口を開きかけて閉じた。

言葉は危ない。

言葉はログになる。ログは政治になる。政治は刃になる。


足元。音を三つ。いる。


能天使が武装を展開する。

金属が開き、銃口が並ぶ。

弾倉がはまる音は、祈りの終止みたいにきっちり揃う。


《WEAPON SYSTEM》


ARM: LOCK

HEAT: NOMINAL

AMMO: READY

MODE: INTERDICTION


その瞬間、霧島の床が“鳴いた”。


パンミクシウム層は、因果に反応する。

未来への期待。確実な勝利。秩序回復。

能天使の武装は、それ自体が巨大な期待の塊だった。


秩序が戻る。

敵は排除される。

通信は封じられる。

安全が戻る。


——その期待に、パンミクシウムが応えた。


床の継ぎ目から、黒い泡が立ち上がる。

泡の中に、赤い繊維が走る。

繊維が絡み、骨格ができ、歯が生える。


獣の匂いがした。

花束の甘さではない。

熱い鉄の匂い。血のない血の匂い。


チリアット級悪魔マレブランケ


本来の“戯れ”ではなく、執行に噛みつくために生まれた凶暴。

湧いた瞬間から突進する。

怒りを学ぶ前に怒っている。


《HOSTILE DETECTED》


CLASSIFICATION: CHIRIAT

STATUS: FERAL

COUNT: MULTIPLE


能天使が一斉に銃口を向ける。

整いすぎた一斉。

束になりすぎた一斉。


チリアット級が笑ったように見えた。

笑顔ではない。

噛む口が開いただけだ。


《ROE-2》


USE LETHAL FORCE IF INTERDICTION FAILS.


能天使が撃つ。

撃ち方が“正しい”。

反動が揃い、照準が揃い、倒れる順番すら揃う。


チリアット級が裂け、泡が散る。

しかし裂けた残骸が、パンミクシウムの床に吸い込まれる前に——

別の個体が跳び出す。

武装への期待が続く限り、湧きが続く。


能天使は淡々と、閾値を計算しながら前進する。


《COLLATERAL》


THRESHOLD: 0.12

CURRENT: 0.07

PROCEED.


閾値の下なら、進む。

下級天使がそこにいても。

施設がそこにあっても。


「待って!」


ヒナが叫びそうになって、喉で止めた。

叫べば束になる。束は敵の餌になる。

でも止めたら、誰かが噛まれる。


コバンが後ろで震えている。

ピィが包帯箱を落としそうになっている。

猫頭が壁の影に下がる。


ヒナは走り出しかけた。


その瞬間、サエがヒナの腕を掴む。

力は強くない。

強くないのに、逃がさない強さがある。


「……行くな。今は」


ヒナは歯を噛む。

今なのに。

今を守るために動けない。

制度の“今”が、ヒナの“今”を上書きする。


上空で、セラフが光を落とした。


《SERAPH // CORRIDOR》


SANCTIFY: EXECUTE

LINE: 02

OUTPUT: VERY HIGH


レーザーが床を縦に裂く。

裂くのは敵ではない。湧き口だ。

パンミクシウムの反応面を焼き、泡の噴出口を塞ぐ。


光は荘厳だった。

神の光に似ている。

でもそれは神ではない。兵器だ。


焼け跡が赤黒く脈打つ。

脈は、熱の記憶だ。

熱の記憶は、次の悪魔の餌になる。


チリアット級の湧きが止まる。

能天使の射撃が止まる。

静けさが戻る。


《INTERDICTION RATE》


87%

HOSTILE: CHIRIAT—NEUTRALIZED

COMMUNICATION: PARTIALLY SEALED


能天使は成功判定を出す。

成功。

その言葉が、霧島の空気をさらに冷たくする。

守られたのではない。処理された。


リリエルが白紙の端末を握りしめ、焼け跡を見る。

焼け跡が赤黒く、細い脈のように残っている。

脈が、微かに“燃える色”をしている。


能天使のログが、ふと乱れた。

乱れは誤差ではない。

パンミクシウム層の深部から、別の反応が返ってきた。


《ANOMALY》


BARBARICCIA-LIKE SIGNATURE (UNCONFIRMED)

RUBICANTE-LIKE SIGNATURE (UNCONFIRMED)


リリエルの唇が開く。

言葉が出ない。

出せば束になるのではなく、現実になる気がした。


バルバリッチャ。

ルビカンテ。

名前はまだ確定していないのに、もう匂いだけがする。

より強大で、より凶暴で、より“燃える永遠”。


セラフの光が遠くで低く唸る。

回廊を清めた光が、次の災いの線にも見える。



地球、ローラの家。

ローラの家に、丁寧な人たちが来た。

丁寧な制服。丁寧な言葉。丁寧な手袋。


「未成年保護のため」

「危険な通信接触の可能性」

「端末の保全措置」


端末は、ローラの手から離れた。

透明な封印袋に入れられ、番号が貼られる。

それは“守る”ではなく“押収”だった。


ローラは手を組んで祈った。

でも祈りの言葉が、頭の中で整いすぎた文章に変わっていく。

まるで誰かが清書しているみたいに。


封印袋の中で、画面が一瞬だけ点く。


M


文字が滲み、笑顔の仮面みたいに崩れる。


封じたものほど、永遠に甘い


ローラは声にならない声で叫んだ。

叫べば助かるわけじゃない。

でも叫ばないと、自分が消える。


「神さま……」


神の名を呼ぶほど、誰かが喜ぶ気がした。

だからローラは、名を呼ばずに、ただ言った。


「……今日、私をここに」


今を。

今だけを。



霧島KRS-07。

霧島の通信端末は、隔離ケースに入れられた。

能天使の手順で。

「通信ノード保全」の名の下に。


ケース越しに、画面が一瞬だけ光った。


いま、いる?


ヒナの心臓が跳ねる。

答えたい。

答えれば回線が太る。

答えなくても、今度は別の痛みが来る。


答えない自由ではなく、答える権利が奪われる痛み。


ヒナが手を伸ばす前に、能天使がケースに手を置いた。


《ROE-1》


NEUTRALIZE COMMUNICATION NODES ON DETECTION.


蓋が閉じる。

金属音。

“今”が閉じ込められる音。


コバンが小さく聞いた。

声が泣きそうで、しかし束にならないように短い。


「ヒナ……いま、いる?」


ヒナはコバンの頭に触れた。

紙の星はない。

でも触れられる温度は残っている。


ヒナは短く答えた。


「いる」


その答えが、どこまで届いたのかは分からない。

届くな、と制度が言う。

届いてほしい、と心が言う。

心の言葉は危険だ。危険だから、今だけを握る。


能天使のログが、最後に一行だけ吐く。


《EXECUTION》


CONTINUE.


その文字の裏で、どこかの回線が、静かに笑った。

声ではない。

拍手でもない。

ただ、永遠の遊びの気配。


そして地層の奥で、赤黒い脈が、次の名前を育てている。



地球、ローラの家。

ローラの部屋は、静かすぎた。

端末が消えた机は、祭壇から燭台を奪われたみたいに空っぽで、祈りの言葉が置き場をなくしている。


封印袋に入れられた端末は、もう家にない。

“未成年保護”。

その言葉は優しい顔をしていたのに、結果は奪取だった。


ローラは膝をつき、手を組んだ。


「神さま。今日、私を——」


言葉が途中で切れる。

続けたら“続き”になるから。続きは、悪魔の餌になるから。

ローラは唇を噛んで、祈りを短く折りたたんだ。


そのとき、家のどこかで、ごく小さな音がした。

金属の爪が一度だけ触れたような、乾いた音。

続けて、何も起きない。何も壊れない。

だから余計に怖い。


ローラは息を止め、ドアを開けずに耳を澄ませた。


——玄関の電子錠が鳴った気がした。

けれどロック解除の音はしない。警報も鳴らない。

“鳴った気がする”だけが残る。

まるで、現実が一瞬だけ編集されたみたいに。


階下へ降りる途中、ローラは壁際の監視パネルを見た。

表示は正常。異常なし。

なのに、パネルの隅にだけ、見慣れない小さな記号が残っている。


一回だけ点いて、すぐ消えた――

薄い三角形の点滅。


ローラは知らない。

けれどそれは、誰かが“この家の眼”を、ほんの一拍だけ眠らせた印だった。


玄関ホールに、男が立っていた。


丁寧なスーツ。目立たない色。

アラブ系のすっきりとした顔立ちで、ひげはない。頬と顎の線が静かに整っていて、表情の影が少ない。

そのぶん、目だけが鋭い。

部屋の形ではなく、部屋の“鍵”を数えている目。


父はいない。

警備員の気配もない。

男は“招かれたふり”で、そこにいる。


ローラが一歩踏み出した瞬間、男は視線だけで気づいた。

振り向き方が静かすぎて、怖い。


「驚かせてすまない、ローラ」


名字ではなく、名。

それも、間違えようのない発音で。

ローラの背中が冷たくなる。


「……誰ですか」


ローラは短く言った。

短い言葉で今に留まろうとする。

霧島のやり方を、知らないうちに真似ている。


男は胸ポケットから、名刺のような薄いカードを出した。

だが印字はない。紙ではなく、ただの“形”だけがある。

形だけで信用を求める手つき。


「私は……ナディーム。ナディーム・アル=ハーリス」

「以前、パンミクシウム関連の技術開発に関わっていた。今は、少し違う立場だ」


“違う立場”。曖昧な言い方。

曖昧なのに、言葉の運びが手慣れている。

ローラはふと、玄関の鍵に目をやった。

鍵は無傷で、警報も鳴っていない。


——なのに、この男はいる。


ナディームの視線が机に流れる。端末があった場所へ。

視線だけで、ローラは悟る。


「端末が押収されたことも知っている」

「……“保護”という名目は便利だ。鍵を奪うのに最適だからね」

「だが、押収された鍵は鍵束に繋がる。君はその結び目に触れてしまった」


ローラは十字のペンダントを握った。

金属の冷たさが、今を繋ぐ。

ナディームは、その動作を“見なかった”ふりをした。

見なかったふりができる人は、たいてい見えている。


「種子島には秘密がある。力天使の製造、その“理由”だ」

「なぜ女性型だけなのか。なぜ“今”に調整されているのか」

「それを知る者は政治と軍の中心にいる。君の父も、その外側ではない」


ローラの胸がきしむ。

父の声がよみがえる。共同運用。掌握。通信鍵。

全部が一本の糸になって、首に巻きついてくる。


「……どうして、私に」


ローラは絞り出した。

絞り出すほどに、声が震える。

震えは未来に似てしまう。


ナディームは、ためらわずに答える。


「君が唯一だからだ」

「世界が回線を封じたのに、封じきれなかった一点が君だ」

「一点は特異点になる。特異点は、世界を動かす」


ナディームの声は丁寧で、温度がない。

だから、祈りの言葉に似てしまう。


「君が繋がった相手——ヒナ」

「彼女は、種子島の秘密の中心にいる」


ヒナの名前を他人の口で聞いた瞬間、祈りが汚されるみたいで胸が痛んだ。


「やめて」

ローラは言う。

短く。束にならないように。


ナディームは首を振る。

否定の動きが、赦しのふりをしている。


「やめない」

「私は君を壊しに来たんじゃない」

「……君に、選ばせに来た」


ローラが息を呑んだ、その瞬間。


拍手ノイズのない静けさの中で、あの気配が一瞬だけ笑った気がした。

耳ではない。胸の奥。

温度のない笑い。


M


見えないのに、確かに“反応”があった。


ナディームの目がわずかに細くなる。

嬉しそうではない。驚いてもいない。

ただ、確認した者の目。


「……今、何かが反応した」

「大丈夫。恐れるべきは、君の罪悪感じゃない」

「恐れるべきは、“窓”を欲しがるものだ」


ローラは喉が鳴った。

“窓”。

それはローラが持っていた唯一の糸で、唯一の祈りの相手だった。


「君の端末へ、もう一度触れたい」

ナディームは静かに言う。

「君の回線——君の“窓”を、こちら側から開きたい」


ローラは答えられなかった。

答えれば、次の“続き”が生まれるから。

続きは危ない。

でも、黙れば黙るほど、世界は勝手に続きを作ってしまう。


ナディームは名刺のないカードを、そっと玄関の棚に置いた。

置き方が丁寧で、だから余計に怖い。


「考えて。明日ではなく、今日」


その言葉が、霧島の合言葉みたいに胸に刺さる。


男は影のように去った。

去り方も静かで、玄関の鍵は最後まで鳴らなかった。


扉が閉まったあと、ローラは机の前に立ち尽くした。

そこには端末がない。

なのに、机の上の空気だけが、ほんの少し温かい。


まるで誰かが、そこに“いる”みたいに。

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