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第四話 祝福は、交わり信じられうる

地球 ローラの家。

ローラの端末は、もう驚かなくなった。

起動のたびに出る警告。遅延。接続拒否。

それでも彼女は驚かないふりをする。驚けば、未来が暴れるから。


机の上には、入学式の写真が置いてあった。

紙の光沢の中で、ローラは笑っている。

笑顔はまっすぐで、少しだけ押しが強い。

「これから」が写っている笑い方。


階下から父の声が聞こえた。

議会で使う声。家族に向ける声より少し冷たい。


「——種子島は、いずれ“共同運用”にせざるを得ない」

「エネルギーも防衛も一体だ。現場通信が抜けると、統制が崩れる」


補佐官の声が続く。

「通信監視は段階を上げました。未成年経由の抜け道も——」


ローラは写真を裏返した。

写真の裏には何も書かれていない。

何も書かれていないから、何でも書けてしまう。

それが怖い。


ローラはベッド脇に膝をつき、手を組んだ。


「神さま」


声が震える。震えを止めたら、祈りじゃなくなる気がした。


「今日、私に勇気をください」

「今日、私が……正しいほうを選べますように」


“永遠”は言わない。

言わないのに、胸の奥には残っている。

続けたい。ヒナと。

その願いの形が、危ない。


ローラは祈り終えると、引き出しから端末を取り出した。

画面の隅が、ほんの一瞬だけ滲んだ。


M


ローラは目をこすった。

もう一度見ても、Mはない。

ないのに、見た気がする。


そのとき、受信通知が鳴った。


短い音。

でも異様に“綺麗”な音だった。

規制をすり抜けた音は、普通もっと雑になる。


画面に文章が現れる。


きょう、わたしは、いま、ここにいます。

いま、いる。


ヒナの文体だった。

検疫を通る「今日」の言葉。

それが逆に怖い。綺麗すぎる。整いすぎる。


ローラは息を止めて、返信を打ちかけた。

(ヒナ! 大丈夫?)

そう打った瞬間、画面が少しだけ揺れた。


音声が流れた。

拍手ノイズの奥から、ヒナの声が聞こえる。


「……ローラ?」


ローラの胸が熱くなる。

守りたい。

今すぐ、返したい。


でもローラは祈りの言葉を思い出す。

今日、正しいほうを選ぶ。


ローラは、返信を送らずに、もう一度手を組んだ。


「神さま……これは、本当にヒナの声ですか」


画面の隅に、また一瞬だけ滲む。


M



霧島KRS-07。

霧島の夜は、暗くない。

暗くない代わりに、ずっと白い。

白い光の下では、影が薄くなる。

影が薄い場所は安全だと、下級天使たちは信じている。


ヒナは食堂の隅で、金属のマグを両手で包んでいた。

温度はほとんどない。

それでも包むと、手の形が戻る。

“今”が戻る。


犬頭のコバンが、椅子を引きずって近づいてきた。

「ヒナ! あっち! きょう、おいしい!」

鳥頭のピィが、その後ろで小さな包みを持ち上げている。

包みの中身は、紙で作った星——折り目がぎこちない。

猫頭は壁にもたれて腕を組み、見ていないふりをしている。


「……ほら。霧島の“記念”だ」


猫頭がぼそりと言った。

記念。

その言葉にヒナの喉が少し固くなる。

第3話の湿ったアルバムの匂いが、頭の奥で鳴った。


でも、これは違う。

写真じゃない。

紙の星だ。

手で折った、今の形だ。


ピィが星を差し出す。

「ピッ……ヒナ、いる、スター」

コバンが誇らしげに言う。

「これ、みんな、つくった! ヒナ、かえってきた、よろこび!」


“よろこび”。

その単語は未来へ伸びやすい。

伸びる前に、ヒナは受け取って、胸に当てた。

紙の角が少し痛い。

痛みは今だ。


「……ありがとう」


声が震えそうになって、ヒナは飲み込んだ。

飲み込んだら冷たくなりすぎる。

難しい。今の温度のまま、言う。


「今日、もらう。……今日、大事にする」


猫頭が鼻を鳴らした。

「優等生みたいな言い方だな」

でも口元が少し緩んでいる。


そのとき、扉の向こうから足音が来た。

均一な歩幅。迷いのない重さ。


サエが入ってきた。

制服の袖がきちんと整っている。

霧島の白い光の下で、余計に“正規”に見える。


サエが食堂に入った瞬間、天井の換気がひとつだけ嫌な音を立てた。

霧島ではよくある音だ。よくあるから、皆が見ないふりをする音。


鳥頭のピィが首をかしげる。

「ピ……ピッ。あれ、いや、おと」

猫頭が肩をすくめた。

「換気の羽、また噛んでる。明日、整備——いや、今日、誰かがやる」


“明日”と言いかけて、猫頭は言い直した。

霧島の癖だ。未来を太らせないための、咳払いみたいな言い直し。


サエは何も言わずに立ち上がった。

制服の袖を一度だけ捲る。

その動作が、妙に静かで、儀礼みたいだった。


「工具」


短い要求。

霧島の会話の長さ。


コバンが慌てて工具箱を引きずってくる。

「これ! これ、ある!」

サエは箱を受け取り、換気ダクトの下へ行った。

踏み台に乗り、手探りでパネルを外す。

中から出てきたのは黒い粉塵と、油の匂いと、絡まった繊維。

霧島の泥だ。


サエは躊躇しない。

正規の手が、汚れに入る。

細い指で繊維をほどき、噛んだ羽根を整え、締め直す。

その手つきが、戦場で刃を扱うときと同じだった。

正確で、無駄がない。

だからこそ、温度がある。


換気が、音をやめた。

霧島の白い空気が少しだけ滑らかになる。


コバンが目を丸くした。

「サエ……すごい。サエ、霧島、なおした!」

ピィが「ピッ!」と高く鳴いた。

猫頭が小さく鼻を鳴らす。

「……正規でも手、汚すんだな」


サエは踏み台から降りて、袖を元に戻した。

その袖に、黒い粉が少しだけ残っていた。

それが不思議なくらい嬉しい汚れに見える。


「……今、必要だっただけだ」


言い訳みたいな言い方。

でも霧島では、その言い方がいちばん優しい。


ヒナは紙の星を握ったまま、その汚れを見てしまった。

“規律”の象徴が、霧島の粉塵を受け入れた。

それは未来の約束じゃない。

でも今日の事実として、胸に残る。


コバンが目を輝かせる。

「サエ! サエも、いる?」

サエは一拍置いてから、短く答えた。

「……いる」


その答え方が、霧島の答え方に寄っていて、ヒナの胸が少しだけほどけた。

サエはそれ以上言わない。

言わないのに、コバンは嬉しそうに尻尾アンテナを振る。

霧島の会話は短い。短いから束になりにくい。


続いて、リリエルが入ってきた。

彼女の足音は静かすぎた。

床に触れる前から、ここにいる感じがする。


リリエルは食堂を一瞥し、端末を開いた。

画面が淡く光る。

光が霧島の白と混ざって、境目が分からなくなる。


「……非公式集会。規定外」


猫頭が即座に言い返す。

「飯食ってるだけだ」

コバンが慌てて付け足す。

「えっと! これ、ケア! ケア、だいじ!」

ピィが「ピッ」と鳴き、星を見せる。


リリエルは微笑んだ。

微笑みは柔らかい。

でも柔らかいまま距離がある。

祝福の言葉みたいに、きれいで、触れない。


「ケアは重要。……記録します」


その一言で、空気が少し硬くなる。

記録。

また記録。

記録は写真へ繋がる。

ヒナの胸の奥が、ほんの少し冷える。


サエが横から言った。

「記録は後でいい。ここは——」

言いかけて止める。

“ここは休め”と言うと、未来にしてしまうから。


サエは代わりに、短く言った。

「……今だ」


リリエルが端末を閉じる。

閉じる動作が“譲歩”に見えた。

見えただけかもしれない。

でも霧島の下級天使たちは、すぐにそれを受け取る。


コバンがすかさず合言葉を投げる。

霧島の、今日を繋ぐ言葉。


「いま、いる?」


コバンはヒナを見て、サエを見て、リリエルを見て、順番を決めない。

束にしない。

霧島の知恵だ。


ヒナはまず、星を握り直し、手の痛みで今に戻ってから答えた。


「いる」


サエが続ける。

「いる」


最後にリリエルが、ほんのわずかに間を置いて言う。

「……いる」


その瞬間だけ、霧島の食堂が小さな礼拝堂みたいに静まった。

祈りの言葉ではない。

でも、今を確認する声が、祈りの形に似てしまう。


ヒナは思う。

こういう交わりなら、永遠じゃなくていい。

今日だけでいい。

今日が積み重なればいい。


——だからこそ、奪われたくない。


食堂の照明が一瞬だけちらついた。

誰も触っていないのに。

白い光が、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


ヒナは星を握る手に力を入れた。

紙の角がまた痛い。

痛みは今だ。


「……明日じゃなくて、今日」


ヒナは小さく言った。

誰に聞かせるでもなく。

自分のために。


そしてこの“今日”が、次の朝に検疫として起き上がる。


霧島の通路は、今日も金属の匂いだった。

搬送ベルトの音。換気の唸り。

“いま、いる”としか言えない環境。


ヒナが犬頭コバンの頭を撫でると、コバンが嬉しそうに尻尾アンテナを振った。

それだけで胸がほどけそうになる。

ほどけるのはいい。束になるのは怖い。


リリエルは端末を見たまま言う。

「行動ログ、取得。接触行為——因果抑制目的と判断」

言葉が冷たすぎて、逆に空気が凍る。


サエが短く返す。

「記録は後だ。現場の汚れが増えてる」


霧島の端末が、勝手に光った。


いま、いる?


誰も触っていない。入力もない。

それでも文字だけが、そこにいる。


リリエルの指が走る。

「……入力経路不明。外部介入」

サエが息を吸う。

「来るか」


ヒナは返事をしなかった。

言葉で返せば抜かれる。

抜かれた言葉は編集される。


ヒナは代わりに、コバンの頭に手を置いた。

“いる”を、動作で示す。

言葉を渡さない。


コバンが小さく鳴いた。

「いる!」


その瞬間、端末の文字が、ほんの少しだけ崩れた。

崩れ方が、笑顔の仮面みたいに見える。


リリエルが低く言う。

「……これは遊びじゃない」


サエが言う。

「遊びに見せてるだけだ。——来るぞ」



地球、ローラの家。

ローラは、監視の目を避けることを「罪」だと感じていた。

でも罪を恐れて何もしないのは、別の罪の気がした。

助けられるのに助けない罪。


ローラは決めた。

今日、勇気を使う。


回線が細く繋がった瞬間、画面が一段暗くなった。

暗い背景に、白い文字が浮かぶ。


娘よ


ローラはぞっとした。

誰がそんな呼び方をする?

父でもない。先生でもない。


でも、その次の文字が、ローラの信仰心の柔らかい部分に触れる。


御名の下に、交わりは続く

赦しは、いつも近い


ローラは唇を噛んだ。

祈りの語彙を、誰かが盗んでいる。

盗んで、飴みたいに舐めさせようとしている。


「……違う」


ローラは小さく言った。

「神さまは、こんなふうに——」


次の瞬間、画面の隅に滲む。


M


ローラの心臓が跳ねた。

そして、音声。


拍手ノイズの奥から、あの声。


「ローラ。だいじょうぶ」


ヒナの声に似ている。

似ているだけで、同じじゃない。

同じじゃないのに、心がほどける。危ない。


ローラは手を組んだまま、震える声で言った。


「神さま……今日、私が間違えませんように」


祈りの途中で、画面がまた言う。


今日だけ、でいい

今日だけ、君と遊ぶ


ローラは目を閉じた。

これは神じゃない。

でも“神の言葉”を知っている悪意だ。



KRS-12。

湿ったアルバムの匂いがまだ壁に残っている。

フォト・モールドの痕跡が、薄い四角の染みとして残っている。


その四角が、今日、もう一度濃くなった。


パンミクシウム層が鏡の床みたいに揺れた。

水面ではないのに、水面のように。

現実が反射して、反射が現実になる。


そこから、人型が立ち上がった。


黒い法衣めいた戦闘衣装。

そして顔——滑らかな仮面。表情がない。

なのに、光の当たりで笑って見える。


立ち上がる所作が、礼拝の始まりみたいだった。

足を揃え、手を胸の前で重ね、静かに一礼する。

それが“挨拶”ではなく、“開始の祈り”に見える。


リリエルの端末が勝手に文字を吐いた。


対象:MBK-MC-00

危険度:測定不能

分類:マレブランケ最上位


リリエルは無機質に声に出す。


「……MBK-MC-00。確認。交戦禁止」


禁止。

しかし仮面は、禁止を聞かない。


仮面の人型が、ひとつステップした。

それは回避ではない。舞踏の一歩。

次の瞬間、空間が“ずれた”。



リリエルは管理で戦う。

点検灯。警告音。隊列合図。通信チャネル。

全てを“整える”ことで勝ち筋を作る。


リリエルの指が走る。


「照明、乱数化。警告音、同期切断。——隊列、再編」


その瞬間、仮面が手を合わせた。

祈るように。

祝福するように。


端末の画面が、一瞬だけ光って、真っ白になった。


ログが消えたのではない。

ログが「最初から無かった」ことに編集された。


リリエルの端末には、白しかない。

管理が、白紙になる。


リリエルが眉をひそめる。

もう一度入力しようとした、その瞬間。


白紙に、文字が浮かんだ。


神さま、今日だけ守って


ローラの祈りの言葉。

あり得ない。地球の言葉が霧島の端末に現れるはずがない。


リリエルの目が一瞬だけ揺れる。

管理者の揺れ。

その揺れを、仮面は見逃さない。


仮面が、舞踏の半歩。

踊りながら近づく。

距離が縮まったというより、距離の概念が編集されて消えた。


仮面が指先で、リリエルの端末に触れた。


触れた瞬間、リリエルの身体が崩れたわけではない。

ただ、彼女の“機能”が切れた。


端末が沈黙し、彼女の口から言葉が落ちた。

管理が折れた。


リリエルが膝をつく。

その姿勢が、祈りの姿勢に似てしまうのが残酷だった。



サエは規律で戦う。

短い号令。間合い。守るべきものの優先順位。

戦場を“成立させる”力。


サエが叫ぶ。


「撤退経路確保! 霧島個体は後退! ヒナ、前へ出るな!」


仮面が、くるりと回った。

回転が舞踏のようで、戦いに見えない。

なのに、その回転だけで隊列が崩れる。


サエの号令が届く前に、皆の位置が微妙にずれる。

一人分のずれが、二人分の隙になる。

隙が、崩壊になる。


サエが踏み込む。

刃が走る。

確かに仮面の胸元を裂いた——はずだった。


次の瞬間、裂いた“結果”が消える。


刃は当たったのに、当たっていないことになった。

傷は存在しない。

存在しないものに、規律は勝てない。


サエの呼吸が乱れかける。

規律が崩れかける。

その瞬間、仮面が手を掲げた。


祝福の所作みたいに。


サエの身体が、倒れないまま膝をついた。

倒されていないのに、屈している。

屈した“結果”だけが編集されて残る。


規律が折れた。


サエは歯を食いしばり、ヒナを見た。

「……逃げろ」

それは命令というより、祈りに近かった。



ヒナは“今”で戦う。

言葉を渡さない。束にしない。

足元、音、いる。


仮面が、ゆっくりヒナへ向いた。

表情はない。

なのに笑って見える。

ヒナの胸が冷える。笑顔が一番危ないと知っているから。


空間に文字が浮かぶ。


いま、いる?


文字の色が変わった。

蜂蜜みたいな金。ローラの髪の色。

そして筆跡の癖まで、ローラに似てくる。

ローラだ。


音が聞こえた。

耳ではなく、胸の奥で響く声。


「ヒナ、お願い。返事して」

「私、こわい」


ローラの声。

祈りの前の、少しだけ弱い声。


ヒナの喉が熱くなる。

返事をしたい。

返事をすれば、ローラは安心するかもしれない。

でも返事をすれば、回線が太る。

太った回線は、悪魔の遊び場になる。


“永遠に戯れる”ための、太い糸になる。


ヒナは口を開きかけて、閉じた。

言葉を渡さない。

代わりに、ブレードを床へ突き立てた。


金属音。

その音が、ヒナを今に繋ぎ止める錨になる。


ヒナはコバンの頭に触れた。

霧島の現実。

小さな手触り。

編集できない現在。


「……いる」


声に出さない。

動作で示す。

今ここで、戦うことで示す。


仮面が、踊るように距離を詰めた。

そして——触れない。殺さない。

ただ、ヒナの胸の“揺れ”だけを拾い上げる。


拾い上げた揺れが、どこかへ送られる。

ローラへ。地球へ。

“窓”を太らせるために。


仮面が一礼する。

礼拝の終わりのように。

舞踏の終止のように。


そして、舞台を去る。


勝ち負けじゃない。

遊びの開始宣言だった。



地球、ローラの家。

ローラの端末には、沈黙が戻った。

戻ったはずなのに、静けさが怖い。

静けさの中に、誰かが潜んでいる気がする。


画面に一行だけ出た。


交わりは途切れない


ローラは震える手で端末を伏せた。

祈りの言葉が、もう安全ではない。

祈りすら編集される。


ローラは泣きそうになりながら、もう一度だけ祈った。


「神さま……今日、私を赦してください」

「でも、今日、私は——」


言葉が続かない。

続けたら“続き”になるから。

続きは、悪魔の餌になるから。



霧島へ撤退した通路は、いつもより長く感じた。

距離が伸びたのではない。

“帰還した結果”だけが、重く編集されて残っている。


ゲートの内側に入った瞬間、霧島の白い光が目に刺さった。

眩しさではなく、冷たい正しさの光。

光は傷を隠さない。傷をそのまま見せる。


「担架、こっち!」


声が飛び、金属の車輪が床を鳴らした。

種子島から増援に来ていた力天使たち——正規の小隊が、霧島の内側で待っていた。

戦場から戻る者の匂いを、彼女たちは知っている。

だから動きが早い。言葉が少ない。


二人がサエの肩を支え、別の二人がリリエルの身体の下へ担架を滑り込ませる。

リリエルは抵抗しようとした。管理者の癖で、状況を“自分で把握したい”のだ。

けれど腕が言うことをきかない。端末も応えない。


「動かないで。規定通り」

メディック役の力天使が無機質に言った。

その無機質さが、今は救いだった。

救いは時に温かさではない。手順だ。


霧島の下級天使たちも、遅れて動き出す。

犬頭のコバンが工具箱を抱え、鳥頭のピィが包帯の箱を引きずる。

猫頭は何も言わずに壁の非常灯を点け、通路の角を照らした。

霧島の“今日”のやり方で、救助を支える。


ヒナはコバンの頭に手を置いたまま、動けなかった。

動けば、心が未来へ伸びそうで怖かった。

未来に伸びた瞬間、あの仮面が笑う気がした。


サエがヒナを見た。

苦しい呼吸の合間に、短く言う。


「……生きろ。今を離すな」


ヒナは頷いた。頷いただけで喉が痛い。

頷きは誓いに似てしまうから。

だから、足元。音を三つ。いる。


そのとき、天井スピーカーが鳴った。

霧島の全域に届く、硬いチャイム。礼拝の鐘ではない。管制の鐘だ。


《主天使管制:即時接続》


通路の壁面モニターが自動で起動し、白い背景に文字が並ぶ。

映像は出ない。声だけが落ちてくる。

声は人間でも天使でもない、霧島の上にある“権限”の声。


「報告しなさい」


主天使。天使を管理する天使。

“主”と呼ぶのに祈りはない。あるのは統制だけだ。


サエが短く言う。

「交戦。敗北。撤退。敵は最上位」


主天使の声が即座に被せる。

「最上位という語彙は曖昧です。識別番号で答えなさい。——そして、なぜ交戦した」


サエが言う。

「敵が交戦を許さなかった」


一拍の沈黙。

その沈黙が、責任追及の形をしている。


主天使は続けた。

「通信遮断は実施したか」


ヒナの背筋が冷えた。

遮断——それは“ローラ”の窓を閉じることかもしれない。


主天使の声がさらに落ちる。

「地球側統制から照会が来ている。未知の通信痕跡。未成年端末経由の可能性——確認せよ」


未成年。

ローラの顔が脳裏に浮かび、ヒナは拳を握りかけて止めた。

拳は未来を作る。未来は因果になる。因果は敵の餌だ。


主天使は淡々と、しかし致命的な情報を“付記”の形で投下する。


「通告。国際連合安全保障理事会、緊急協議を開始。議題は“パンミクシウム供給網の安全保障”」

「米国代表部が決議案を起草。名目は人類共同資産の保護。実体は運用権の再編だ」


通路の空気が、さらに冷たくなる。

地球の政治が霧島に触れてくる。真空越しに、手綱の鎖が鳴る。


主天使が続ける。

「決議案には、種子島コロニーの『国連監督下での共同運用』が含まれる」

「共同運用とは、通信鍵・輸送鍵・兵站鍵の共有。——つまり掌握」


掌握。

言葉が霧島の壁に打ち込まれる。


「米国は“通信の鍵”を理由に介入を正当化する。未成年経由の痕跡が事実なら、現場は政治の罪状になる」

「あなた方の戦闘は戦闘ではない。——国際案件だ」


そして主天使は、さらに冷たい“実務”を並べた。

地球の圧が、数字と手順の形で降ってくる。


「第一。国連監査団は種子島学園区画の資料提出を要求」

「学校行事——入学式、卒業式、校則、生活指導、記念写真(卒業アルバム含む)」

「目的は『士気・心理ケアの適正評価』。——要するに、天使の心の型を政治の資料にする」


記念。

写真。

湿ったアルバムの匂いが、ヒナの喉の奥で鳴った。

敵の毒だったものが、味方の監査にもなる。

終わらせたはずの四角が、別の手でまた増える。


「第二。未成年端末の件」

主天使の声が一段と冷たくなる。

「米国は“未成年保護”を名目に、関係端末の**強制回収と保全シージャ**を要求」

「該当端末が議員家族の所有であれば、政治的象徴になる。——救助ではなく、押収だ」


ローラの端末。

あの小さな窓。

祈りの机の上の、唯一の糸。

それが“保護”という名で奪われる。


「第三。象徴の件」

主天使は、象徴を象徴だとは言わない。

ただ手順として宣言する。


「種子島コロニー司令部に、国連旗掲揚の予告」

「“監督下共同運用”の開始合図として。——現場の士気と統制を同時に縛るため」


旗。

布切れひとつが、戦略級の兵器みたいに重い。

掲げられた瞬間、誰のものかが決まってしまう。


メディック役の力天使が割り込む。

「患者搬送中。詰問は後に」

声は無機質だが、動かせない一線を守っている。

無機質の中に“執行者”の荘厳さがある——その片鱗。


主天使は譲らない。

「搬送を優先してよい。だが、手順は即時に切り替える」

「霧島サイト、隔離手順へ移行。言語ログの全提出。対外通信は全面凍結」

「国連監査団に備え、運用記録の整形を開始。欠落は現場責任として処理される」


整形。

記録を“正しく見える形にする”命令。

それは悪魔の編集と、似てしまう。

味方の言葉で、現実がまた歪む。


主天使の通達が続くあいだ、ヒナは無意識に手の中の紙を握りしめていた。

ピィが折った星。コバンが誇らしげに運んできた星。

霧島の“記念”。写真ではない、今日の手触り。


紙の角が指に食い込み、痛みが今を繋いでいた。

だから手放せなかった。


担架が角を曲がり、救護区画の前で一度止まった。

そこに、見慣れない二人が立っていた。

制服の色が違う。霧島の白にも種子島の白にも属さない、もっと“地球”の白。

胸元に小さな紋章——国連の丸い地図と枝。


ひとりが名札を見せた。

声は丁寧だが、丁寧さが刃になっている。


「国連監査団、先遣。資料保全のため、対象物の収集を開始します」

「学校行事関連の物品、生活儀礼の記録、心理ケア用品——すべて」


ヒナは理解するのに一拍遅れた。

心の型を測るために、霧島の“手触り”まで欲しがっている。


もうひとりがヒナの手元を見た。

視線が星に刺さる。


「それも。——“記念物”として回収対象です」

「材質、折り目、授受の経緯。集団心理の痕跡が含まれる」


ヒナの喉が鳴った。

星はただの紙だ。

ただの紙なのに、奪われると胸が裂ける。

裂ける胸は因果になる。因果は敵の餌になる。


コバンが一歩前へ出た。

「だめ! それ、ヒナの! ヒナ、いる、スター!」

ピィが「ピッ!」と鳴き、猫頭が壁に手をついて息を吐いた。

霧島の小さな輪が、反射的に星を守ろうとする。


リリエルが担架の上から、かすれた声で言う。

「……抵抗は規定違反」

言った瞬間、彼女自身がそれを憎んでいるように見えた。

管理の言葉が、優しさを折る。


サエが苦しい呼吸のまま、短く言った。

「……渡すな、とは言えない」

言えない。国際案件。手順。旗。押収。

規律の世界では、紙の星は武器より軽い。軽いから守れない。


ヒナは一度だけ目を閉じた。

足元。音を三つ。いる。


そして、星を差し出した。

指先が紙から離れる瞬間、角の痛みが消えた。

痛みが消えると、今が薄くなる。


監査官が星を透明な保全袋に入れる。

袋の中で、星が“証拠”になる。

霧島の今日が、ファイルの中に閉じ込められる。


コバンが泣きそうな声で聞いた。

「ヒナ……いま、いる?」

ヒナはすぐに答えた。今を、紙じゃなく言葉じゃなく、体で守るために。


ヒナはコバンの頭に手を置いた。

「いる」


担架が動き出す。

金属の車輪が床を鳴らし、リリエルの白紙の端末が揺れる。


リリエルは床の光を見つめ、白紙を抱えたまま、かすれた声で言葉を吐き出した。

無機質な声。記録の声。

それが今は、祈りより重い。


「MBK-MC-00……”マラコーダ級悪魔マレブランケ”……通信確立を確認。最優先脅威、更新」


主天使の声が、ほんのわずかに止まった。

驚きではない。計算の停止だ。


次に落ちてきたのは、地球の“決定”だった。

主天使の声に、別の回線の硬さが混じる。

国連の言葉が、主天使の口を借りて喋る。


「国際連合名義、暫定措置。多国籍統合防衛措置:発動準備」

「投入戦力:能天使。目的:通信路の封殺、現場の指揮権の一元化」

「交戦規定(ROE):執行段階へ」


《多国籍統合防衛措置:発動準備》

《能天使(Virtutes)投入:審議完了》

《ROE(交戦規定):執行段階へ》


無機質な文字なのに、宣告みたいに重い。

赦しではない。祈りでもない。

執行だ。

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