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第三話 祝福は贈り物とともに

霧島KRS-07。

霧島の朝は、音から始まる。

換気の低い唸り。搬送ベルトの乾いた擦過音。遠くでドリルが噛む短い悲鳴。

誰も「おはよう」を言わなくても、霧島はもう起きている。


ヒナは通信室の前で立ち止まって、指先を握り直した。

冷たいドアノブ。いつも通りの冷たさ。

それが今日は、少しだけ“見張り”の冷たさに感じる。


端末が起動すると、画面の上に新しい文言が増えていた。


《検疫プロトコル KRS-07 / Rev.3》


会話ログ:自動抽出(未来固定語の検知)


通信:冷却遅延(送信前 00:30:00)


文体:推奨テンプレート適用(“今日”の描写優先)


監査:主天使管制への自動転送(抜粋)


“冷却遅延”。三十分。

送信を押しても、三十分は送られない。


ヒナは唇を噛んだ。

感情が立ち上がる。悔しさ。反発。

それが未来に繋がりそうで、慌てて飲み込む。


机の上には、ローラへの返信の下書きが残っていた。

禁語フィルタが赤くする単語は、もうほとんどない。

ヒナは“永遠”も“ずっと”も書かない。

書かないのに、削られていく感覚がある。


祈りの言葉が、許可制になる。

——と思ってしまった瞬間、ヒナは首を振った。


霧島式。今。


足元。

音を三つ。

いる。


通信室を出ると、食堂のほうが賑やかだった。

霧島の賑やかは、いつも短い。小さく弾んで、すぐ止まる。

束になりにくい。だからここはまだ保つ。


犬頭のコバンが、紙袋を抱えて走ってきた。

「ヒナ! きょう、へん! へん、ふえる!」

「変?」

「端末、へん。光る。へん。おこられる!」


鳥頭のピィが、後ろから「ピッ、ピッ」と警戒音みたいに鳴き、床に落ちた小さな金属片を拾っていた。

猫頭は遠巻きに腕を組み、こちらを見ないふりをしながら言う。


「……監査が増えた。霧島に“客”が来る」


客。霧島の言い方だ。

歓迎ではなく、警戒の語彙。


ヒナの胸が少しだけ浮く。

正規が来る。学園で一緒に戦った、あの個体も来るかもしれない。


——期待。甘い匂い。


ヒナは息を吐くふりをして、拳を解いた。

そして、コバンに先に言われる前に、自分から問う。


「いま、いる?」

コバンが嬉しそうにみたいなセンサーを立てる。

「いる!」

ピィが「ピッ」と鳴き、猫頭が鼻を鳴らした。


ヒナは頷いた。

期待を、今に戻す。

憧れを、今に戻す。

難しい。でも、やる。


そのとき、廊下のスピーカーが短く鳴った。

緊急ではない。だが優先度の高い音。

霧島が、静かに姿勢を正す音。


「力天使個体ヒナ。ゲートへ。入港許可が下りた。正規個体二名、到着」


“二名”。


ヒナの背中が、すっと冷えた。

一名なら補強。二名なら監視。

霧島の言葉で言えば、それは護衛ではなく検分に近い。


猫頭がぼそりと言う。

「……来たな。首輪」


ヒナは返せない。

返したら未来になる気がした。

だから、今だけを握って、歩き出した。


霧島のゲートは、眩しくない。

種子島みたいな春の光は入れない。

代わりに、必要最小限の白い照明が、金属の輪郭だけを正確に浮かび上がらせる。


ゲートの前には、既に下級天使が集まっていた。

犬頭が尻尾アンテナを振りすぎて、制御が追いついていない。

鳥頭が落ち着かない歩幅で床を行ったり来たりする。

猫頭は壁にもたれ、最初から興味がないふりをしている。


ヒナは集団の前に立った。

立った瞬間、自分が霧島の代表みたいに見えて、胃がきゅっと縮む。


ゲートが低く唸る。隔壁が開き、外の冷たい空気が流れ込んだ。


最初に見えたのは、制服の袖だった。整った袖。無駄のない動き。

——種子島の匂いがする。


ひとり目が現れる。

背丈はヒナより少し高い。視線は冷静で、歩幅は迷わない。

学園で同じ戦場に立った力天使。


「……ヒナ」


その呼び方が妙に“現場”っぽくて、胸がちくりとした。

名前を呼ぶのは未来の匂いがするのに、これは今日の報告みたいな呼び方だ。


「サエ……」


ヒナが言うと、サエは小さく頷いた。

笑わない。でも拒絶でもない。必要なだけの肯定。


続いて二人目。

歩き方が少し違う。足音が静かすぎる。

制服は同じ形なのに、袖の位置がきっちり“正しい”ところで止まっている。

誰かの目を恐れているのではなく、誰かの目として歩いている。


「力天使監査補佐、リリエル」


声が柔らかい。

柔らかいのに、言葉が刃物みたいに整っている。

祝福の言葉の形をしているのに、温度がない。


「主天使管制の御名において、霧島サイトの現況を確認します。協力を」


御名において。

霧島の空気が、ほんの少しだけ硬くなる。

それは祈りの語彙だ。祈りの語彙は、ここでは命令の語彙にもなる。


犬頭のコバンが空気を読めず、一歩前へ出た。

「わあ! 制服! すごい! かっこいい!」

サエの視線が一瞬だけコバンに落ち、すぐヒナへ戻る。

リリエルは微笑んだまま、コバンの頭の角度と距離を測るみたいに見た。


「……あなたが、外縁起動個体」


リリエルの声は変わらない。ただ“確認”の形で突き刺す。


ヒナは背筋を伸ばした。反発が出そうになる。

出たら束になる。束は敵の餌だ。


だからヒナは、霧島式で返す。


「はい。ヒナです。いま、ここにいます」


“いま、ここにいます”。

祈りではない。宣誓でもない。

ただの現在地の報告。


サエがほんのわずかに目を細めた。理解した、という目。

学園での戦いを思い出している目。


リリエルは端末を立ち上げ、霧島の端末と接続する。

検疫ログが、彼女の画面に吸い上げられていく。


「通信遅延。文体介入。抽出ログ……」

まるで聖句の朗読みたいに読み上げる。だが内容は言葉の取り締まりだ。


「……適用は妥当。むしろ遅い。霧島は危険域に近い」


猫頭が鼻を鳴らした。

「お言葉が過ぎる」

リリエルは微笑んだまま、視線だけ猫頭に向けた。

「過ぎたのは、因果です」


サエが間に入る。声は短い。

「議論は後だ。——まず現場を見せてくれ」

それからヒナを見る。

「ヒナ。学園のときの手順、ここでも使えるか」


使える、と言いそうになって、ヒナは一拍置いた。

“使える”は未来の匂いがする。

“今日、使う”なら言える。


「今日なら。……今日、使います」


サエが小さく頷く。

「それでいい」


リリエルが付け足す。

「記録します。外縁個体の言語選択は、因果抑制に寄与」

記録。

またその言葉だ。写真。アルバム。

——まだここに敵はいないのに、胃が冷える。


コバンがヒナの袖を引いた。霧島の小さな声。

「ヒナ、いま、いる?」

ヒナはすぐに答えた。


「いる」


短い答えが、胸の余計な熱を冷ます。

サエの目がそのやり取りを一瞬だけ追う。

リリエルの端末が、それをログに残す。


——味方の目が増えた。敵の目も、増えるだろう。


「案内します」

ヒナは二人に言った。

「霧島の、今日を」



霧島サイトの外周へ出ると、空はいつも薄い。

アルファケンタウリの光は地球のそれに似せられているのに、どこか芯が冷たい。

パンミクシウムの皮膜がつくった“地球”は、地球ほど優しくない。


輸送車の窓から見えるのは、採掘施設の点在する暗い大地と、遠くに霞む種子島コロニーの輪郭だった。

あそこは明るい。明るい場所は因果が太る。

ヒナは見ないようにして、足元の工具箱に視線を落とした。


サエが隣で短く言う。

「現場はKRS-12。残滓の増殖と、通信ノイズの報告がある」

リリエルは端末を膝に置いたまま、淡々と続ける。

「“ノイズ”ではなく、パターン。拍手に似た周期。入力無しで表示される文言——『いま、いる?』」


ヒナの喉がきゅっと鳴った。

誰が? 敵が? それとも——味方の管理が、偶然そう見せているだけ?


考えが未来に伸びる前に、ヒナは手順をなぞる。

足元。音を三つ。いる。


KRS-12は霧島よりさらに霧島らしい施設だった。

金属の塊。配管の森。粉塵の匂い。

地球のふりをするものは何もない。


ゲートが開くと、現場の下級天使たちが駆け寄ってきた。

犬頭が一体、みたいなセンサーを寝かせて怯えている。

鳥頭が床をつつき、何かを必死に拾い集めている。


「……ここ」


ヒナが立ち止まった場所の壁に、四角い染みがあった。

ただの汚れに見える。でも角が正確すぎる。

額縁の跡。写真を掛けていた跡。


「学園じゃないのに」

ヒナが呟くと、犬頭が小さく鳴いた。

「……おもいで。くる」

「思い出?」

「おわらない、やつ……」


リリエルが端末をかざし、壁面をスキャンする。

「パンミクシウムの微粒子付着。繊維残滓の導線がある。——ここは“固定”を作られている」


固定。終わりを拒む形。


次の瞬間、監視カメラのモニターがちらついた。

通常の映像が一瞬だけ止まり、別の画に切り替わる。


——集合写真。


少女たちが並び、笑っている。

制服。リボン。整いすぎた明るさ。

ここにあるはずがない画だ。


「見るな」


サエが即座にモニターを遮る。

「目を合わせるな。固定に引っ張られる」


モニターの画面が、ぱちん、と黒くなった。

消えたはずなのに、部屋の空気だけが湿った。

古いアルバムの匂いが、ほんの少しだけ混じる。


ヒナは唇を噛む。

まだだ。これは前兆。

本体は来ていない。


そのとき、床の隅で“拍手”が鳴った。


パン。パン。


音は小さい。だが位置が不自然だ。

床の下。配管の奥。金属の陰から。

拍手の音が、どこからでも聞こえる。


「来る」


ヒナが言い終える前に、空気が走った。


床の継ぎ目から紙吹雪が噴き出した。

花束の繊維が絡み、毛並みになる。

小さな犬影が次々に立ち上がる。


群体犬——カニャッツォ級。

学園で見たものより規模は小さい。数十匹。

それでも“終わらない”の質は同じだった。


カニャッツォ級が一斉に頭を上げる。

目が花の蕊みたいに開き、歯が紙の刃みたいに揃う。

そして鳴く。


「いま、いる?」


声に聞こえた。

ただの反響のはずなのに、言葉の形をしている。

真似ている。学んでいる。

“今”を、合図として奪いに来ている。


リリエルが一歩引き、端末越しに号令する。

「射撃は牽制のみ。確殺は近接。——サエ、前線形成」

サエが頷く。

「ヒナ、結び目を狙え。戻る前に落とす」


正規の銃撃が走った。

犬が裂け、紙が散る。

けれど裂けた犬は、すぐ群れの中心へ潜った。

中心で繊維が縫い直し、毛並みが整う。

笑顔の仮面みたいな“歓迎”が戻る。


「終わらない……」


下級天使が声を漏らした瞬間、犬が嬉しそうに跳ねる。

恐怖の匂い。次の匂い。

それも因果になる。


ヒナは叫びたくなった。

叫びは束になる。束は燃料になる。

だから叫ばない。


代わりに、ヒナは“散らす”。


「……ばらばらに!」


サエが理解する。

「一斉唱和するな! 合図を揃えるな!」


ヒナは犬頭の下級天使に短く言う。

「コバン式でいい。けど、みんな同時に言わない。順番も決めない」


犬頭天使が震える声で、ぽつりと言う。

「……いる」

鳥頭が次いで鳴く。

「ピッ……いる」

別の個体が遅れて言う。

「……いる」


“今”が束にならない。同期が崩れる。


カニャッツォ級の群れが一瞬だけ躓いた。

回復の縫い目が乱れ、中心の渦が遅れる。


その瞬間、サエが前へ出た。

「今だ。割る!」


銃撃は押し戻し。

刃は確殺。


ヒナが踏み込む。

狙うのは胴ではない。首元。リボンの結び目。

そこが“束”だ。

そこを断てば、戻る前に終わる。


一匹、倒す。

二匹、倒す。

紙吹雪の山が増える。


犬たちは必死に中心へ戻ろうとする。

戻れた個体は縫われて再生する。

戻れない個体は終わる。


戦いは追い込みに見えた。

しかし——


床に散った紙吹雪が、ただの紙で終わらなかった。


紙が壁へ這った。

繊維が配管を伝った。

犬の毛並みが四角い形を作り始めた。


ヒナが気づいて、背筋が冷える。

「……枠」


壁に額縁の跡が増える。

さっきの四角い染みが、増殖していく。

カニャッツォ群が追い詰められているのではない。

追い詰められた群れが、“場”を作っている。


サエの声が硬くなる。

「撤退じゃない。——儀式だ」


リリエルが端末を叩く。

「パンミクシウム反応、上昇。永続固定の場を作ってる。止めないと——」


そのとき、匂いが変わった。


花の甘さが、湿った紙の匂いに変質する。

古いアルバムの匂い。

咳が出そうな、甘い腐り。


ヒナは息を吸いそうになって、止めた。

吸うと重くなる。重くなると未来が来る。


床の下で拍手が鳴った。

今度は拍手じゃない。

低い詠唱のように連なる反響だ。


カニャッツォ群は“犬”であることをやめていく。

犬の群れが、写真館になる。


「——来る」


ヒナが呟いた瞬間、壁の四角の内側が暗くなった。

黒い菌糸が、写真の表面みたいに広がり始めた。


卒業写真のカビ


坑道の壁が、四角く滲んだ。


最初はただの染みだった。

採掘粉が湿気で固まっただけの、よくある汚れ。

でもその四角は角が正確すぎる。枠の形をしている。

誰かが“写真を飾る場所”を決めたみたいに。


「……フレーム?」


床を這っていた花束の繊維が跳ね上がった。

紙吹雪が渦を巻く。風はない。換気も一定。

なのに渦が生まれる。

渦は、場を固定する。


四角い枠が二つ、三つ、十。

坑道の壁という壁に、額縁の跡が増殖していく。


匂いが変わった。


入学式の甘い花の香りが、湿った紙の匂いに変わる。

古いアルバムを開いたときの、少しだけカビた匂い。

鼻の奥に残り、吸うたびに肺が重くなる匂い。


「吸うな!」


リリエルが冷たく言った。

「スカルミリオーネ級。瘴気が“記録”として定着するタイプよ」


記録。写真。

終わりじゃなくて、残り続けること。


枠の内側がゆっくり暗くなる。

黒い菌糸が、写真の表面みたいに広がっていく。

そしてそこに——笑顔が浮かんだ。


集合写真だった。

大勢の少女たちが並び、同じ制服で、同じ明るさで笑っている。

笑いが揃いすぎていて、逆に不気味だった。

揃う笑いは束だ。束は因果になる。


「見るな」


サエがヒナの肩を掴む。

「目を合わせるな。——持っていかれる」


でもヒナは、見てしまった。


枠の中の一番端。

少しだけ前のめりになっている子がいる。

髪の色が蜂蜜みたいに淡い金。

光の当たり方で、茶色にも金にも見える、ローラの色。


その子の口が、ゆっくり動いた。


音は出ていないのに、声だけが脳の中で響いた。


「ヒナ。だいじょうぶ。……神さまが、守ってくれるよ」


ローラの言い方だった。

“守ってくれるよ”の語尾が、少しだけ強い。

優しさの形をした押しの強さ。


ヒナの胸の奥が熱くなる。

熱は危険だ。期待の匂いがする。

会いたい。守りたい。——続いてほしい。


その瞬間、枠が増えた。


壁の四角が、まるで拍手みたいに増殖する。

一つが二つに、二つが四つに。

坑道が“写真の廊下”になっていく。


リリエルが歯噛みする。

「……反応してる。誰の因果だ。誰が燃料になってる!」


ヒナは息を吸いそうになって、慌てて止めた。

吸ったら重くなる。

重くなったら未来を想像する。未来は束になる。


足元。

音を三つ。

いる。


ヒナは自分に言い聞かせる。

今。ここ。霧島。壁。床。刃の重み。


枠の中のローラが、もう一度口を動かした。

今度は、ローラがいつも祈るときの言い方で。


「神さま……今日だけ、守って」


“今日だけ”。

ローラが変えた祈りの言葉。

それすらここに映る。ここまで届く。


胸が痛い。

友情が、毒の形で返ってくる。


サエがヒナを引き寄せる。

「ヒナ、見るな。——今を見ろ!」


ヒナは頷く。

見るな、じゃない。

“今を見る”だ。


枠には角がある。四隅。

角は結び目になる。結び目は断てる。


「枠の角を切る」


ヒナが言うと、サエが即座に理解した。

「四隅を落とせ。写真にさせるな。——リリエル、同期を崩せ!」


リリエルは端末を壁のパネルに接続し、点検灯の制御を奪った。

一定だった点滅が乱れる。警告音の間隔がばらばらになる。


「儀式にテンポを与えるな。——ランダム化」


管理の技術が、儀式の足場を壊していく。

皮肉だった。

でも今は、その皮肉が命綱だ。


ヒナは走った。

ローラの枠へ行きたくなる。行ったら束にされる。

だから行かない。別の枠へ行く。

“今”に従う。


刃が四角の角へ走る。

紙と繊維が裂け、黒い菌糸が糸を引く。

息をすると湿った匂いが肺に絡む。

でも吸わない。吸うふりだけで耐える。


角が落ちると、枠は“写真”でいられなくなる。

笑顔が崩れ、輪郭が溶け、ただの汚れに戻っていく。


ひとつ、ふたつ、みっつ。


枠が剥がれるたび、坑道の空気が少し軽くなる。

軽くなると、未来の匂いが減る。


——それでも最後に残った枠があった。


ローラの枠。


金色の髪。笑い方。祈りの口癖。


「ヒナ、絶対——」


ローラの声が、脳の奥で言いかけて止まる。

彼女が“絶対”を言いかけて飲み込むときの癖。

ヒナにも分かるほど、ローラそのもの。


ヒナの指が止まりかける。

切ったら、ローラを切るみたいで怖い。


でもそれは写真だ。写真の毒だ。

本物じゃない。

本物を守るために、これは終わらせる。


ヒナは目を閉じて言った。


「……いま、いる」


そして刃を振る。


角が落ち、枠が歪み、ローラの笑顔が薄れる。

薄れる直前、枠の中のローラが、確かに笑った。


「それでいいよ」


声が優しかった。

優しさは危険だ。

でもこれは未来の誓いじゃない。

今ここで、決断を肯定する声だった。


枠が崩れた。


坑道の壁から四角が消え、湿った匂いが引いていく。

スカルミリオーネ級は完全顕現できないまま、黒い菌糸を残して沈んだ。

残った菌糸は、写真の跡みたいに薄く、しかししつこく壁に貼り付いていた。


「押し戻した」


サエが短く言う。

勝利ではない。定着を阻止しただけ。

でもそれで十分なこともある。


リリエルが端末を抜き、息を吐くふりをした。

「……あなたの“今”が役に立ったわ」

褒めているのか、記録しているのか、分からない声。


ヒナは頷く。

胸の奥がまだ熱い。ローラの声が残っている。

——それが次の火種になる予感がした。



霧島へ戻る輸送路の中、ヒナは監視端末のログを眺めていた。

リリエルが提出用にまとめた戦闘記録。

そこには冷たい言葉で整理された数字と、発生した“枠”の数と、瘴気濃度の推移が並ぶ。


ヒナは、最後の欄で指を止めた。


「音声混線:不明」

「『いま、いる?』の入力無しで表示」

「発信源:施設内ではない」


施設外。外周。もっと遠い場所。


ログの下に、添付された波形がある。音声の断片。

聞けばただのノイズだ。

でも耳が拾ってしまう。


拍手の反響に混じって、誰かが“編集”している気配。

ノイズが言葉に寄っていく。

寄っていく途中で、わざと外れる。外れて、また寄る。


まるで「見せたい形」に整えている。


ヒナの背中が冷える。

これは偶然じゃない。群れの学習でもない。

“誰か”が切り貼りしている。


そのとき、端末の画面が勝手に切り替わった。

黒い背景に、白い文字が一行だけ浮かぶ。


「いま、いる?」


ヒナは答えない。

答えたら束にされる。束にされたら写真になる。

写真になったら腐る。


画面の白い文字が、ほんの少しだけ崩れた。

崩れ方が、笑顔の仮面みたいに見えた。


そして最後に、端末の隅に——

誰も入れていないはずの小さな“署名”が一瞬だけ滲んだ。


M


次の瞬間、画面は元に戻った。

ログも消えている。

見たはずのものが、最初から無かったみたいに。


サエが隣で気づく。

「どうした」

ヒナは首を振った。

今、言葉にしたら未来になる気がした。


ただ胸の奥で確信する。


最強の悪魔マレブランケ――

——マラコーダ級悪魔マレブランケが、こちらを見ている。


霧島の搬送ベルトの音が、今日の音として戻ってくる。

それでも、今日の影は増えた。



地球 ローラの家。

ローラの端末は、いつもより起動が遅かった。

画面が暗いまま、しばらく息を止めたみたいに固まる。

それから、遅れて白い文字が浮かんだ。


《NOTICE》

Unapproved long-range communication attempt detected.

This device may be subject to monitoring.


英語の警告は、ローラの胸にそのまま落ちる。

“監視される”。

まるで罪を指でなぞられているみたいに。


ローラは端末を閉じ、引き出しに戻そうとして止めた。

止めたら未来を考える。

未来を考えたら、怖くなる。

怖くなったら、祈りが“永遠”へ戻ってしまう。


だから、今日は今日だけ。


ローラはベッドの脇に膝をついた。

手を組む。小さな教会の匂いを思い出す。

木の匂い。古い聖書の紙の匂い。

それは、アルバムの湿った匂いとは違うはずなのに——一瞬だけ、似てしまった。


「神さま」


声が震える。

震えるのを止めようとすると、嘘になる。

祈りは嘘が混ざると届かない気がする。


「今日だけ、守ってください」

「今日だけ、私が……間違えませんように」


階下から、父の声がまた聞こえた。

会議の声。議員の声。


「——“共同運用”は口実だ。手綱は握る」

「種子島は要だ。エネルギーも防衛も、あそこを押さえれば——」

「通信を押さえろ。現場の声が漏れると厄介だ」

「能天使の配備は進んでいるか」


ローラは手を強く組み直した。

手の痛みで、今に戻る。


“現場の声”。

それがヒナの声と重なってしまう。

重ねたくない。重ねたら、国家が友情を踏む。


ローラは祈りの最後に、いつも言う言葉を今日だけ変えた。


「神さま。……今日、私に勇気をください」


勇気。

それは未来の言葉じゃない。

今日の、行動の言葉だ。


ローラは立ち上がり、端末を引き出しから出した。

警告は消えない。

でも消えないからこそ、ローラは“やり方”を変える必要があると悟る。


(今日だけ。今日だけでいい。

今日、ヒナに届く方法を考える。)


窓の外で、夜の風が街路樹を揺らした。

揺れは祈りに似ている。

でも祈りだけでは足りない夜がある。



霧島KRS-07。

霧島のゲートが閉じる音は、地球の夜より確かだった。

金属が噛み合い、隔壁が沈み、外の冷たい空気を遮断する。

世界を切り分ける音。


搬送ベルトの音が戻ってくる。

今日の音。

今の音。


ヒナが通路へ出ると、下級天使たちが待っていた。

犬頭のコバンが最初に飛び出してくる。

尻尾アンテナがぶんぶん振れている。

ぶんぶん振れているのに、ぎりぎりで止まれるのが霧島だ。


「ヒナ! かえった! かえった!」

鳥頭のピィが後ろで「ピッ、ピッ」と鳴き、猫頭は壁にもたれて目を細めた。

猫頭がぼそりと言う。

「……汚れが増えた顔だな」


ヒナは笑いそうになって、笑わない。

笑いが束になるのが怖い。

でも胸の奥は、少しだけ軽かった。


サエが一歩後ろで立ち止まり、霧島の通路を見回した。

視線は鋭いが、どこか安堵が混ざっている。

戦場の帰還を知っている目。


リリエルは端末を見ながら言った。

「正式に報告します。霧島は危険域。——外縁個体ヒナの運用は継続が妥当」

“運用”。

人の形をした存在を、機械みたいに呼ぶ言葉。


ヒナは反発しそうになって、止めた。

反発は未来を作る。未来は因果を太らせる。

だから今を守る。


コバンが、いつもの合言葉を投げてくる。

霧島式。今日を繋ぐ言葉。


「いま、いる?」


ヒナの喉が熱くなる。

熱は危険だ。期待に似ている。

でもこれは違う。未来じゃない。今の確認だ。


学園で。坑道で。写真の中で。

ローラの声に揺らいだときも、この言葉に戻った。


ヒナは小さく頷き、ちゃんと答えた。


「いる」


コバンが跳ねる。

「よし! いる! ヒナ、いる!」

ピィが「ピッ」と鳴き、猫頭が鼻を鳴らした。


その様子を、サエが黙って見ている。

理解の目。

「束にするな」という警告と、「それでも守れ」という承認が同時に入った目。


リリエルは、そのやり取りを端末に記録しようとして、指が一瞬止まった。

ほんの一瞬だけ、彼女の表情から“監査”が薄れる。

それでも次の瞬間には戻る。


「……記録。霧島式コール&レスポンス。因果抑制に寄与」

言葉は冷たい。

でも冷たいからこそ、守れることもある。

ヒナはそれを知り始めてしまった。


サエがヒナに向かって言う。

「お前の“今”は武器だ。だが、武器は狙われる」

リリエルが続ける。

「あなたは危険。だけど必要。——だから監視する」


監視。

首輪。

猫頭が言った言葉が、現実の輪郭を持って迫る。


それでもヒナは、コバンの頭にそっと手を置く。

手を置ける距離のものを守る。

それが正義だと信じたい。


そのとき、ヒナの腰の端末が一瞬だけ震えた。

画面は見ない。

見たら未来を想像する気がした。

けれど、背中に冷たい線が走る。


さっき見た“署名”。

消えたログ。

笑顔の仮面みたいに崩れた文字。


——M。


ヒナは深呼吸のふりをした。

足元。音を三つ。いる。


霧島の今日が、ぎりぎりで保たれている。

そして、その“ぎりぎり”を、誰かが面白がって見ている気配がある。

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