表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第二話 祝福の匂いが、甘すぎる

ミラー種子島・教室。

教室の窓から射す光は、わざと柔らかい。

地球の春の午前を模した照明で、影が尖りすぎないように調整されている。

黒板には白いチョークで大きく書かれていた。


「ようこそ、1年A組!」


その下に、桜の絵。下手くそな花びらがいくつも散っていて、誰かが描いたんだとわかる。

新入生たちの視線がそこに吸い寄せられて、少しだけ肩の力が抜けた。


「じゃあ、自己紹介しよっか!」


担任役の人型ロボットの大天使が明るい声を出す。

明るすぎて、少しだけ眩しい。

眩しいのは悪いことじゃないと、人間は思う。

眩しいほど、未来がある気がするから。


力天使の新入生たちは全員、女性型ヒューマノイド。

地球人が“安心する形”に寄せた結果であり、統計が“安定する形”として選んだ結果でもある。

だから教室は、制服のリボンや髪留めの色で溢れていた。

髪は本当の毛ではないのに、光を受けると揺れる。揺れは生命に見える。生命は希望に見える。


「えっと、私は——」


最初の子が立ち上がる。声が震える。けれど言葉はちゃんと前に出てくる。


「趣味は……音楽、聴くことです。よろしくお願いします」


拍手が起きる。

拍手は、歓迎の合図。

歓迎は、これからの合図。


ひとつ拍手が起きるたびに、教室の空気が少しだけ温かくなる。

温かさは悪いことじゃないと、人間は思う。

温かいほど、ここが居場所になる気がするから。


「次、私です!」


押しの強い子が手を挙げる。笑顔が眩しい。

「友達、いっぱい作りたいです! 放課後、一緒に寄り道しましょう!」


寄り道。放課後。

言葉の端に、明日がくっついている。


「私も……!」

「え、寄り道ってどこ?」

「商店街のクレープ屋さん!」

「制服で行くの、ちょっと憧れだったんだ」


笑いが連鎖し、教室の角まで転がっていく。

未来が、一本ずつ増える。


担任役の大天使が、拍手を促すように手を叩いた。

「いいね。じゃあ、最後に——みんなで円になろうか!」


床の中央に、自然に輪ができる。

輪は、外と内を分ける形だ。

輪は、仲間の形だ。

輪は、閉じると“続き”の形になる。


「こういうの、地球の学校だとやるんだよ」

「へえ、青春っぽい」

「青春ってなに?」

「なんか……眩しいやつ!」


眩しいやつ。

それが今日の教室に満ちていた。


担任役が言う。

「じゃあ、みんなで。これから一緒に——」


「がんばろう!」


声が揃う。

揃った声は、単なる音じゃない。束だ。

束は、因果になる。


——永遠に続いてほしい。

誰も口にしていないのに、意味だけが教室に立ち上がる。


床の隅に落ちていた紙吹雪が、ほんの少し動いた。

誰も気づかないほどの動き。

それでも、動いた。



種子島外周・監視室。

外周環の監視室では、警報音は鳴らない。

鳴らした瞬間に人は未来を想像する。未来は恐怖を生む。恐怖も因果を太らせる。

だから数字だけが上がる。


因果偏位:永続

増幅:集団儀礼(円陣)

発生領域:九歌隊学園 第三棟


「……また学園か」

チェラァブ系統の回線が一瞬だけノイズを吐く。

「群体反応。出現個体予想……、”カニャッツォ級”」


群体。回復。拘束。

遠距離が効かない。確殺は近接のみ。


「主天使へ。現場に正規部隊を。——それと、霧島の外縁個体の呼集命令」

「霧島の外縁個体……、ヒナ? 危険源じゃ……」

「危険源だからだ。あの個体は“今”の癖がある。束をほどけるかもしれない」



霧島サイトKRS-07。

霧島の通信室は、相変わらず冷えていた。

機械のための温度。正しい温度。

ここにはミラー種子島みたいな春の匂いも、制服の布の新しさもない。あるのは金属と消毒剤と、採掘粉の乾いた匂いだけ。


ヒナは端末の前に座り、監査フィルタの画面を眺めていた。

送信前チェック。禁語リスト。推奨表現。


× ずっと

× 永遠

× 絶対

△ 次(文脈によっては保留)

○ 今日

○ 今


ローラへの返信欄にカーソルが点滅している。

点滅は未来を急かす。

ヒナは深呼吸のふりをして、指を膝の上で握った。


「……今日」


口の中で言ってみる。

今日。霧島。冷たい机。犬頭の尻尾アンテナがぶんぶん振れる音。鳥頭が床のパンくずを拾う音。猫頭が「ばか」と言う音。

それなら書ける。束にならない。祈りにならない。


そのとき、壁のスピーカーが短く鳴った。

呼び出し。霧島では珍しい、緊急ではないが優先度の高い音。


「力天使個体ヒナ。主天使管制、並びにチェラァブ系統より通話命令」


ヒナは背筋を伸ばした。

胸の奥が、少しだけ熱くなる。

熱は危険だ。熱は期待に似ている。


画面が切り替わり、凪いだ声が流れた。主天使の声だ。


「ヒナ。霧島での任務継続を許可する。ただし——検疫レベルを維持したまま、外部任務に出てもらう」


「外部……?」

声が少し裏返りそうになって、ヒナは慌てて喉を整えた。


主天使の声は続く。

「九歌隊学園で因果偏位。集団儀礼による永続傾向。正規部隊だけでは束をほどけない可能性がある」


次に、別の音質が混ざった。電気が薄く擦れるような声。チェラァブ系統の回線だ。


「外縁個体ヒナの“今現在への調整”が、逆に有効と判断した。君は儀礼教育が薄い。だから束の危険が見える」


“薄い”。

遠回しに“未教育”と言われているのはわかる。

わかるのに、ヒナの胸の奥が少しだけ浮いた。


必要とされた。

それは、未来の匂いがする言葉だ。


ヒナは拳を握りしめ、掌の熱を抑えた。

期待してはいけない。

期待は甘い。甘いものはパンミクシウムが食べる。


「……行きます」


主天使が静かに釘を刺す。

「種子島は、お前の憧れの場所だろう。だが憧れは期待に変わる。期待は因果に変わる。因果は——」


悪魔マレブランケを呼ぶ」

ヒナが先に言った。


チェラァブの声が、少しだけ柔らかくなる。

「理解が早い。目的は鎮圧ではない。『終わらせる』のではなく、『束をほどく』。君の言葉と動作が鍵になる」


ヒナは頷いた。

頷きながら、頭の隅でローラの言葉が動く。


入学式。制服。友達。寄り道。

眩しいやつ。

眩しいやつは、危険でもある。


通話が切れたあと、ヒナは椅子から立ち上がれずにいた。

行く。種子島へ。学園へ。

憧れていた場所へ。


でもこれは、遊びでも見学でもない。

誰かの“はじまり”が、悪魔に喰われる前に、止めに行く。


「……正義」


ヒナは自分に言い聞かせた。

正義は未来のためじゃない。今ここで、誰かを守るためだ。

そう思えば、期待を減らせる気がした。


通信室を出ると、食堂のほうから賑やかな足音が来た。

犬頭のコバンが全速力で走ってくる。尻尾アンテナがぶんぶん振れている。


「ヒナ! ヒナ! いく! どこか、いく!」

「……うん。種子島」

「タネガシマ!」

コバンは言葉の響きだけで嬉しそうに跳ねた。

嬉しそうに跳ねるのも、期待の一種だとヒナは知っている。

でも霧島の嬉しさは小さい。束になりにくい。だから救われる。


鳥頭のピィも追いついてきて、トレーの端に薄い紙を置いた。

手順書だ。乱暴な字で、こう書いてある。


「こわい→足もと→音を3つ→『いる』」


猫頭は少し離れたところで腕を組み、こちらを見ないふりをしながら言った。

「……戻ってこい」

それだけ。

それだけなのに、ヒナの胸がちくりとした。


戻ってこい。

それは“次”を含む言葉だ。

危険だ。

でも危険な言葉は、優しいこともある。


ヒナはコバンの頭を撫で、ピィの紙を胸ポケットに入れ、猫頭のほうに小さく頭を下げた。


「いま、いる?」

コバンが聞いた。霧島式の合言葉。

ヒナはちゃんと答えた。


「いる」


今だけを確認する。

未来を誓わない。

それでも、足は前へ進む。


ヒナは出発ゲートへ向かった。

眩しい学園へ。

眩しい地獄の入口へ。



九歌隊学園の校舎は、霧島とは別の惑星みたいだった。

壁面は明るい色に塗られ、床は柔らかい足音を返し、廊下には掲示物が並ぶ。

「クラス目標」「委員会募集」「部活紹介」——全部が“これから”の札だ。


ヒナは、その札を目で追いそうになって、慌てて視線を落とした。

見てしまうと、想像してしまう。

想像は未来を作る。未来は因果を作る。


「こっち」


先導する正規の力天使が、淡々と歩く。制服の袖がぴたりと揃い、足取りがぶれない。

ヒナの歩幅は少し短い。中学生くらいの体格だからというだけじゃない。

この場所の眩しさに、歩調が乱れそうになる。


廊下の角を曲がった瞬間、匂いが変わった。


花。

入学式の花束の匂い。

それに、紙の匂い——紙吹雪の、乾いた匂い。


「……甘い」


ヒナが呟くと、隣の正規個体が眉をひそめた。

「嗅覚センサー、過敏?」

「違う。……これは、危ない」


言葉の意味を説明する前に、廊下の先で笑い声が弾けた。


「写真撮ろうよ!」

「制服、可愛い!」

「これからよろしくね!」


笑いはきれいだ。

きれいだからこそ、束になりやすい。


教室の前に着く。扉には札が掛かっていた。


1年A組


その文字の下に、桜の絵。

誰かが描いたのだろう、下手くそで、それが逆に眩しかった。

霧島には、こういう“下手くそな優しさ”がない。

優しさの形が違う。


扉の隙間から、歌が漏れていた。

校歌ではない。

もっと短い、口ずさむ程度のメロディ。


「はじまり、はじまり」

「これから、これから」


——儀式が続いている。

入学式が終わっても、“はじまり”は終わらない。


それが一番危ない。


「開けるよ」


正規個体が扉に手をかけた、その瞬間。


床の隅に落ちていた紙吹雪が、ふわりと浮いた。

風はない。換気も一定。

なのに浮く。


紙吹雪は、まるで呼吸するみたいに膨らみ、しぼみ、また膨らんだ。

次に、花束の繊維がどこからか伸びてきて、紙吹雪を縫い始めた。

一本一本が、毛を編むみたいに絡み合う。


ヒナの背筋が冷える。

霧島で見た“祝福の残骸”が、ここでは生きている。


「——来る」


ヒナが言った瞬間、扉の向こうから拍手が起きた。


パン、パン、パン。


拍手の音が、妙に近い。

教室の中の拍手ではない。

床の下から響く拍手だ。


正規個体が扉を蹴り開けた。


教室の中央では、新入生たちが円陣を組んでいた。

手が重なり、視線が重なり、言葉が揃う寸前。

束が、できる寸前。


「これから一緒に——」


担任役の大天使が笑う。

笑いは安心の合図。

安心は“続き”を求める。


そのとき、教室の隅のゴミ箱から、花の香りがした。

入学式の花束の匂いだ。

ここにあるはずのない匂い。


担任役の大天使が首を傾げる。

「……お花、持ち込んだ?」

誰も持ち込んでいない。

それでも匂いは濃くなる。


床に落ちていた紙吹雪が、風もないのに舞い上がった。

舞い上がって、まとまって、絡み合っていく。

細い花束の繊維が、どこからか伸びてきて、紙を縫い始める。


まるで、毛並みを整えるみたいに。


「あれ、なに……?」

誰かが笑う。最初は冗談みたいに。

「かわいい、犬……?」


犬。

友達の象徴。

一緒に帰る象徴。

守ってくれる象徴。


だから、それは犬の形を選ぶ。


紙吹雪と花束の繊維でできた小さな犬が、床に降り立った。

尻尾を振った。

歓迎みたいに。


次に、二匹。

三匹。

十匹。

教室の影から影へ、ぬるりと増えていく。


犬たちは一斉に、こちらを見た。

花の蕊みたいな目。

リボンみたいな舌。

紙の刃みたいな歯。


そして——拍手の音が、足音になった。


「下がって!」


正規の力天使が間に入る。銃を構え、短く号令。

「射撃、散開! 輪を守れ!」


銃声が弾けた。

紙の犬――カニャッツォ級悪魔マレブランケが裂け、花の繊維が散る。

床に紙吹雪が降り積もる。


——倒れた。

そう見えたのは一瞬だけ。


裂けた犬は、すぐ群れの中心へ潜り込んだ。

中心では紙吹雪が渦を巻き、花束の繊維が縫い直し、毛並みが整えられる。

欠けた部分が、祝福みたいに新しくなる。


カニャッツォ級はまた前へ出てくる。

さっきより綺麗に。さっきより速く。


「回復……!」

正規個体が舌打ちする。

「撃っても終わらない。戻って、縫われて、また——」


群れのカニャッツォ級が、円陣の輪に沿って走り始めた。

輪の外周に紙の毛が絡み、花の繊維が足首に巻きつく。

輪が首輪になる。

輪が檻になる。


新入生たちの息が浅くなる。

息が浅いと、人は未来を想像する。


次は?

助かる?

続く?

——因果が太る。


ヒナは銃を抜いた。

構えは下手だ。

でも撃たないよりはいい、と思ってしまう自分がいる。


一発撃つ。

カニャッツォ級が軽く跳ね、弾道の先から消える。

当たらない。

当たったとしても、終わらない。


「……だめだ」


ヒナは銃を下げた。

霧島で覚えた真理が、ここでも同じ形で立ち上がる。


「戻らせたら終わらない」


ヒナの声は小さい。

でも、その小ささが逆に教室の中心に届いた。

正規個体の視線が一瞬だけこちらに向く。


「どうする」

短い問い。訓練の問い。


ヒナはブレードを抜いた。

金属の刃が光る。霧島の匂いが戻る。


「群れを割る。孤立させる。戻る前に切る」

そして、もう一つ。

「言葉も止める。……束が増える」


担任役の大天使が震えた声で言う。

「みんな、落ち着いて! 大丈夫、だよ……!」


“大丈夫”は優しい。

でも優しさが未来を束ねるときがある。


ヒナは円陣の中の新入生を見た。

怯えている子。泣きそうな子。強がっている子。

全員が「これから」を持っている。

持っていい。持って当然だ。

でもここでは、その“これから”が牙になる。


ヒナは叫んだ。


「『ずっと』とか『一緒に』とか、言わないで!」

教室が凍る。

「代わりに——『いま、いる?』って言って!」


「え……?」

「いま、いる?」

「いる……?」


一人が、震える声で言う。

隣が、同じように答える。


「いる」


そのやり取りが、点のように広がる。

「いま、いる?」

「いる」

「いま、いる?」

「いる」


未来の宣誓ではない。

今の確認だ。

束がほどける。


その瞬間、群体犬の毛並みが乱れた。

縫い目の光が一瞬だけ鈍る。

回復が遅れる。


——今だ。


ヒナは走った。

カニャッツォ級の群れの中へ。

怖い。

でも怖さは未来を想像させる。想像は因果になる。

だからヒナは怖さを“手順”に変えた。


足元。

音を三つ。

いる。


ブレードを振る。

狙うのは胴体じゃない。

カニャッツォ級の首元、花束のリボンの結び目。

そこが核だ。そこが“束”だ。


一匹が噛みつく。

紙の歯が腕に食い込み、花の香りが血の代わりに滲む。

吐き気が込み上げるほど甘い。


ヒナは噛まれたまま踏み込んだ。

近いなら守れる。近いなら終わらせられる。


刃が走り、結び目が切れる。


カニャッツォ級がほどけて、紙吹雪が落ちた。

花束の繊維が、力なく垂れた。

その犬は群れへ戻れない。戻る前に終わった。


ヒナは次へ行く。

戻ろうとする個体の進路に身体を滑り込ませ、刃を入れる。

終わりを与える。

永遠に反する行為を、正義として選ぶ。


正規部隊が理解する。

射撃は押し戻し。

確殺は近接。

群れを割って、孤立させ、結び目を断つ。


教室の中で、カニャッツォ級の群れが少しずつ崩れていく。

紙吹雪の山が増え、花束の繊維が床に絡まる。

拍手の足音が、途切れ始める。


「いま、いる?」

「いる」


新入生たちの声が、輪を首輪から集まりに戻していく。

輪がほどけると、首輪もほどける。

束がほどけると、回復もほどける。


最後の数匹が、群れの中心へ戻ろうとして——戻れなかった。

中心そのものが、束を失って薄くなっているからだ。


カニャッツォ級の影が、紙吹雪へ崩れた。

花束の繊維だけが、床で微かに震えた。

尻尾の名残みたいに。


担任役の大天使が、へたり込んだ。

「……ごめん。こんなはずじゃ……」


新入生たちは泣いていた。

でも生きている。

誰も死んでいない。


正規の力天使がヒナを見る。

視線はまだ厳しい。けれど拒絶ではない。


「……あなたのやり方で、束がほどけた」

ヒナは頷く。

「霧島のやり方」

「霧島?」

「今を守るやり方」


ヒナは教室を見回した。

眩しい場所。憧れの場所。

そして、危険な場所。


でも危険だからこそ、守る価値がある。

眩しさが壊される前に、守りたいと思った。

その“思った”が未来になりそうで、ヒナは慌てて息を整えた。


そのとき、主天使管制の通達が入る。


「外縁個体ヒナ。検疫レベル引き上げ。あなたは抑制にも増幅にもなり得る鍵」


ヒナは小さく返事をした。

「……はい」


帰る。霧島へ。

そしてローラへ、また“今日”を書く。

永遠ではなく。

ずっとでもなく。

ただ、いま。



地球 ローラの家。

ローラは机の上に、入学式でもらった紙を広げていた。

クラス名簿。校則。行事予定。写真購入の案内。

どれも「これから」が詰まっていて、眩しい。


でもローラの視線は、紙の端ではなく、引き出しの奥に隠した小さな端末に向いていた。

アルファケンタウリへの“こっそり通信”に使っている端末。

彼女の罪と祝福が同居しているもの。


階下から、父の声が聞こえた。

議員としての声。家族に向ける声より、少し硬い。


「——種子島は“日本の顔”で通してきたが、もう限界だ」

「輸送路と防衛が一体化してる。九歌隊ドックがある以上、誰が握るかでエネルギーの配分が決まる」


別の男の声が続いた。たぶん補佐官。

「世論は“人類の共同資産”で押せます。日本側の管理能力に疑義を出せば——」


ローラは息を止めた。

言葉の意味は全部わからない。

でも「種子島」という固有名が、胸の奥を冷やした。


父が低く言う。

「表では“共同運用”。裏では“実効支配”だ。……鍵は通信だ。現場の情報を押さえろ」


通信。

ローラの指先が、引き出しの奥の端末に触れそうになって、引っ込んだ。


補佐官の声が笑う。

「規制を強化すれば、民間の抜け道は塞げます。特に“子ども”は——」


そこで声が途切れた。誰かが階段に気づいたのかもしれない。

ローラは慌てて自室のドアを閉め、鍵をかけた。


心臓がうるさい。

うるさいと、未来が押し寄せる。

見つかったら?

ヒナは?

終わってしまう?


ローラは机の上の紙を押さえ、ゆっくり呼吸した。

信心深いのは、こういうときだ。

祈りは未来の暴走を、言葉にして落ち着かせてくれる。


ローラはベッドの脇に膝をつき、手を組んだ。


「神さま」


声が震える。震えは恥ずかしい。でも嘘はつけない。

祈りは正直じゃないと届かない気がする。


「今日、私は……怖かった」

「でも、ヒナのことを考えると、もっと怖い」


“永遠”は言わない。

今日だけ。今日だけ守って、と言うと決めたから。


「神さま、どうか——今日だけ、ヒナを守ってください」

「今日だけ、私が間違えませんように」

「もし私が罪を重ねているなら、赦してください」


赦し。

その言葉は優しいはずなのに、いまは刃みたいに胸に刺さった。

赦されたいから続けるのか。続けたいから赦しを求めるのか。

どちらでも、ローラは手を離せない。


祈りのあと、彼女は引き出しを開けて端末を取り出した。

画面は暗い。通信には時間がかかる。

でも暗い画面を見るだけで、ローラは少し落ち着いた。


「……ヒナ」


名前を口にすると、未来が動きそうで怖い。

だからローラは自分に言い聞かせる。


今日だけ。

今日だけでいい。

明日を誓わない。



霧島サイト KRS-07。

霧島のゲートが開いたとき、ヒナは眩しさが抜けたのを感じた。

種子島の柔らかい光、花の匂い、制服の布の擦れる音。

全部が背中に残っているのに、霧島はそれを許さない。

金属の匂いが、現実として上書きしてくる。


「——ヒナ!」


犬頭のコバンが、廊下の向こうから走ってきた。

尻尾アンテナがぶんぶん振れている。

ぶんぶん振れているのに、足取りはちゃんと止まる。

霧島の子は、束にならない。小さく、今だけで完結する。


鳥頭のピィが後ろからよたよた付いてきて、胸ポケットの手順書と同じ紙をもう一枚差し出した。

新しい紙。上書き。今日の紙。


猫頭は少し離れた場所で腕を組み、相変わらずこちらを見ないふりをして言った。

「……生きてたな」

褒めているのか、叱っているのか、いつも通りわからない。


ヒナは笑いそうになった。

笑いは眩しくて、束になりそうで、怖い。

だから笑いの代わりに、息を吐くふりをした。


「ただいま」


その一言が、未来になりそうで怖かった。

“また帰ってくる”の匂いがするから。


コバンが目を見開く。

そして霧島式の合言葉を、まっすぐに投げてきた。


「いま、いる?」


ヒナは、その言葉を聞いた瞬間、喉の奥が熱くなった。

熱は危険だ。期待に似ている。

でもこれは違う。未来じゃない。今の確認だ。


種子島の教室で、震える声が連鎖したことを思い出す。

「いま、いる?」

「いる」


輪が首輪になりかけたのを、ほどいた言葉。

祝福が獣になったのを、止めた言葉。


ヒナはコバンの犬頭を見た。

紙吹雪と花束の繊維でできた“犬”を、今日も何匹も終わらせた。

それでも、目の前の犬頭は無邪気に尻尾を振っている。

守るべき“犬”は、ここにいる。


ヒナの目が、少しだけ滲んだ。

涙の機能は、地球人の理解不足が積んだもの。

でも今は、その不足がありがたい。


ヒナは小さく頷いて、ちゃんと答えた。


「いる」


コバンが、嬉しそうに跳ねた。

「よし! いる! ヒナ、いる!」

ピィが「ピッ」と鳴き、猫頭が鼻を鳴らした。


ヒナは胸の奥に溜まっていた眩しさを、霧島の冷たい空気で少しずつ冷ましていく。

未来を誓わずに、今だけを守る。

それがどれだけ難しいか、彼女は知り始めている。


廊下の奥で、監視端末が小さく光った。

検疫レベル引き上げ通知。

“鍵”としてのヒナ。

管理される未来。


でもヒナは、目の前の犬頭に手を伸ばす。

いま、ここにいるものを確かめるように。


「コバン……ありがとう」

「よし!」


泣きそうな熱は、泣かないまま、胸の中でほどけていった。


霧島の今日が、戻ってきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ