最終話 祝福の終わり
地球、早朝。
朝なのに、街が夜の顔をしていた。
信号が点かない。地下鉄が止まる。病院の非常灯が、祈りのように細く揺れる。
パンミクシウム・エネルギー供給は、止まった。
「一時的」だと誰もが言った。
だが一時的という言葉は、未来の約束だ。
未来は、いまの台所を温めない。
テレビの中で、誰かが落ち着いた声で“説明責任”を読み上げている。
読み上げるほど空虚になっていく。
救出の名で始めたものが、救出どころか生活を削っているのだから。
莫大な予算。資材。時間。
軌道典礼砲の維持に吸われた整備工数。
エグリゴリ計画の秘匿費と、露見し始めた倫理の穴。
“共同運用”という鎖で束ねたはずの責任が、いまは国の数だけ裂けている。
そして裂け目の真ん中に、言葉が落ちる。
「……勝てません」
「……勝っても、地球が持ちません」
それは敗北宣言ではない。
生活宣言だった。
永遠に浸る前に、いまを生き延びろという、遅すぎる常識。
種子島コロニー。
種子島の中枢は、紙と光で埋まっていた。
報告。監査。照射承認。損耗。修理。メンタル。
提出物が積み上がるほど、世界が整う気がする。
整う気がするほど、誰かが安心する。
安心は期待だ。期待は未来だ。未来は餌だ。
主天使は端末を見つめたまま、まばたきを忘れていた。
チェラァブの電子戦ログが、静かに鳴る。
「シェムハザ維持率、臨界を下回りました」
誰も驚かない。
驚けないほど、数字は前から言っていた。
—撃つほど反応が深くなる。
—焼くほど門が太くなる。
—太くなるほど地球が焦る。
—焦るほど撃つ。
循環が循環であることを、全員が理解した。
主天使は唇を薄く動かす。
祈祷の形ではなく、決断の形で。
「停止する」
チェラァブが一拍遅れて頷いた。
その頷きは機械の肯定ではなく、祈りを撃つ手を止める人間の痛みに似ていた。
「……《シェムハザ》停止手順、開始」
そして、最も冷たい朗読が流れる。
SHEMHAZA // LITANY TERMINATION
COALITION MULTINATIONAL OPERATION: SUSPENDED
FIRE AUTHORIZATION: REVOKED
REASON: RESOURCE EXHAUSTION / NEGATIVE EFFECT CONFIRMED
NOTICE: “ACCOUNTABILITY” IS PENDING
説明責任は未決。
未決のままでも、撃たない。
撃たないことだけが、唯一の“検疫”になり得るから。
——セラフ側が“回廊清掃は必要だが、焼くほど反応が深くなる”と黙って受け入れている。
その沈黙の意味が、ようやく地球の側にも伝わり始めていた。
禁区の礼拝堂の名残で、白い繭は静かに呼吸していた。
ナディームは繭を抱えたまま、息を数えた。
数えるのは未来のためではない。
いまを保つためだ。
繭が、ほんの少しだけ薄くなる。
膜が“ほどける”というより、ほどけ方を思い出す。
最初に現れたのは、まつ毛の影。
次に、唇の乾き。
次に、息の匂い。
天城 祈は、目を開けた。
開けた目は、驚いていなかった。
驚きは未来の入り口だ。
彼女は驚かないように、驚きの分だけ“いま”に沈んでいた。
「……ナディーム?」
名を呼ぶ声が、弱い。
弱いほど、いまの声だ。
ナディームの喉が痛んだ。
痛みは願いになりそうで怖い。
だから彼は、願わずに答えた。
「いる」
天城は一瞬だけ、泣きそうな顔をした。
泣きそうになるのに、泣かない。
泣くと束になる。束は因果になる。因果は餌だ。
彼女は最初の解明者で、最初の犠牲者で、最初の封印者だった。
「……白河は?」
「ある」
「……妹は?」
ナディームは言葉を探す。
探すほど未来が増える。
未来は餌だ。
彼は、事実だけを渡す。
「白河は再現だ。魂は戻らない」
「君が言った通りだ」
天城は目を閉じた。
閉じるのは逃げではない。
祈りを願望にしないための瞬き。
「……それでも、私は、あそこに沈んだ」
「地球人の友人たちのために」
「でも……友人たちが、欲望に割れた」
彼女の声は、謝罪でも懺悔でもない。
告解に近い。
「私は、万能を渡してしまった」
「だから、私は“いま”に沈んで、門を遅らせた」
「遅らせることしか、できなかった」
ナディームは繭の端を握り直す。
握り直す動作が、祈りの形に似ないように。
「まだ遅らせられる」
「君が起きた。核が動いた。——今度は、止められる」
天城は首を少しだけ振る。
「止める、じゃない」
「“閉じる”の意味を変える」
その言葉が、後で世界を救う言葉になる。
門は半開きだ。
半開きのまま、完成しようとしている。
完成は礼拝堂の成立。
成立は距離の固定。
固定は“永遠の直前”の延長。
ヒナは門縁に立つ。
ローラは白河の中に立つ。
触れない距離が、いまも正確に二人を分けている。
ヒナの隣に、能天使の残存がいる。
その向こうに、エグリゴリがいる。
勲章、徽章、肩章の集合体——制式の歪み。
彼らは“保護拘束”の命令を胸に貼り付けて、禁区へ向かおうとしている。
EGRIGORI // JOINT USE NOTICE
SUBJECT: AMAGI_INORI(疑似資産・証拠)
ACTION: PROTECTIVE CUSTODY(保護拘束)
TRANSFER: COALITION JOINT COMMAND
保護。
その言葉は優しい。
優しいほど牙がある。
ローラは、喉の奥で祈りが育つのを感じた。
「助けて」が喉に来る。
助けては未来だ。未来は餌だ。
餌は門を太らせる。
ローラは手を組む。
未来を求めるためではない。
いまを選ぶために。
「神さま」
「私は怖い」
「でも、逃げない」
ヒナも、叫ばない。
叫ばない代わりに、いまの姿勢を崩さない。
崩さないことが、彼女の正義だ。
そして二人は、同じ名を呼ぶ準備をする。
敵の名ではない。
戦争の名でもない。
唯一の楔。
——天城 祈。
ファルファレルロ級の姉が、遠くで笑った。
笑いの奥に焦りがある。
二人だけを箱庭に置きたい焦り。
地球はいらない。大勢はいらない。
妹と友だちだけが欲しい。
姉は小さく呟く。
門の揺れの隙間で。
「……閉じたいな」
「やさしく、閉じたい」
閉じる。
救いの顔をした閉鎖。
それが、マラコーダ級の夢と重なっていく。
祝祭は終わっていない。
倒したはずの名たちが、空気の中で形を取り直している。
アリキーノ級の軽い跳躍。
バルバリッチャ級の野蛮な影。
カニャッツォ級の群れの歯。
カルカブリーナ級の祝福リボン。
グラフィアカーネ級の吠える手続き。
それらは“復活”ではない。
祝祭の再演。
永遠のふり。
ふりを続けることで、永遠に近づく。
そして中心に、仮面が立つ。
マラコーダ級。
踊るように、祈るように戦う、圧倒的で無敵の司式者。
彼は声を荒げない。
荒げる必要がない。
期待の波が、世界中から勝手に流れ込むから。
……だが、今日は違う。
地球の期待が痩せている。
停電。配給。暴動。予算破綻。
“未来の約束”が、生活に負けている。
期待が痩せた分だけ、マラコーダ級の祝祭は苛立つ。
苛立ちは怒りになる。
怒りは未来の匂いを濃くする。
濃い匂いは、門を太らせる。
仮面が傾いた。
「地球へ」
その二文字が、祝祭の命令になる。
門が“成立”へ傾く。
禁区の奥から、天城が歩いてくる。
足取りは頼りない。
頼りないほど、いまの重さだ。
彼女の手には、小さな置物が一つだけ握られていた。
犬でも猫でも鳥でもない。
小さな天使のストラップ。
最初のモデル。
“友人たちのために”願った形。
「……止めるんじゃない」
天城が言う。
声は震える。
震えるけれど、未来を求めていない。
「“閉じる”の意味を変える」
主天使が彼女を見た。
チェラァブも、能天使も、エグリゴリも、同じように見る。
“証拠”としてではなく、核として。
天城は、白河ゲートの縁へ手を伸ばす。
触れれば反応が起きる。
反応は危ない。
だから彼女は未来を願わない。
願わずに、言葉を刻む。
「パンミクシウム」
「あなたは因果に反応する」
「未来への期待に反応する」
ここまでは確認。
確認は未来ではない。
「だから、私は誓約する」
誓約は約束に似ている。
約束は未来に見える。
だが天城の誓約は、未来を要求しない。
“今の条件”を定義するだけだ。
「未来への期待には応えない」
「“いまの選択”だけを通す」
「泣き声ではなく、告解だけを通す」
「願望ではなく、事実だけを通す」
それは祈りの拒否ではない。
祈りの検疫だ。
門が揺れた。
揺れは“成立”の揺れではない。
“収束”の揺れだった。
太る揺れではなく、細くなる揺れ。
マラコーダ級の仮面が、わずかにひび割れた気配がした。
仮面は壊れない。
だが司式の位置は、ずれる。
天城は続ける。
「閉じる」
「閉じるのは、遮断じゃない」
「閉じるのは、期待の流入を止める検疫」
その言葉が世界の骨を組み替えた。
マラコーダ級は怒りを見せない。
怒りを見せる必要がないはずだった。
だが今、彼は“静かな怒り”で踊りを速める。
仮面の前に、ヒナが立つ。
ローラが立つ。
そして天城が立つ。
三人は祈らない。
祈らないまま、名を揃える。
ヒナは敵の名を呼ばない。
ローラは未来を求めない。
天城は規則を定義する。
ローラが告解する。
「神さま」
「私は怖い」
「でも、逃げない」
そして名を置く。
「天城 祈」
ヒナも、刃の瞬間にだけ息で言う。
(天城 祈)
名は束にならない。
未来へ伸びない。
一点に刺さる。
核に刺さる。
マラコーダ級の踊りが空振りを始めた。
空振りは弱体化ではない。
“餌がない”ということだ。
地球の期待が痩せ、告解が増え、未来の匂いが薄くなる。
それでもマラコーダ級は強い。
祝福の形で迫る。
“永遠に一緒”の甘い言葉を、刃のように差し込んでくる。
——いつまでも
——ずっと
——永遠に
ローラの喉が揺れる。
涙が出そうになる。
泣けば束になる。束は餌だ。
ローラは泣かない。
泣かずに、ただ事実を言う。
「私は……あなたの永遠が嫌い」
嫌いは未来ではない。
いまの感情だ。
いまの感情は、パンミクシウムを太らせない。
太らせないまま、刃になる。
ヒナが肉薄する。
以前の彼女なら押し止められなかった距離。
今の彼女は、押し止めるのではなく、司式の位置をずらすために踏み込む。
刃が仮面に届くのではない。
仮面が立っている“舞台”に届く。
門の縁。
成立の縁。
そこを、天城の誓約がすでに弱らせている。
刃が触れた瞬間、空気が礼拝堂から回廊へ戻った。
戻った分だけ、門が細くなる。
細くなった分だけ、祝祭の拍が乱れる。
マラコーダ級の仮面が傾く。
傾いたまま、彼は一度だけ囁いた。
「……遊び相手が、減る」
その言葉に、ファルファレルロ級の姉が反応した。
姉は地球はいらない。
大勢はいらない。
妹と友だちだけでいい。
姉は、初めて祝祭の中心に背を向けた。
背を向けることが反逆になる世界で、彼女は反逆ではなく偏りを選ぶ。
「二人だけで、いいのに」
その偏りが、最後の楔になる。
巨大な永遠が、小さな執着に躓く。
マラコーダ級は、司式の位置から滑り落ちた。
倒れない。消えない。
ただ、門を固定できなくなる。
マラコーダ級は祈るのを止め、ただ岩のように静まり返った。
勝利は派手ではない。
派手な勝利は未来だ。未来は餌だ。
三人は“永遠に勝つ”のではなく、**“永遠を増やさない”**ことで勝つのだ。
門は閉じない。
封鎖ではない。
検疫として、半開きのまま“細い”状態に落ち着く。
パンミクシウムが反応する。
反応はまだ起きる。
だが、反応の向きが変わった。
未来への期待ではなく、いまの選択へ。
願望ではなく、告解へ。
永遠ではなく、短い反復へ。
裂け目の縁で、ちいさな悪魔が現れる。
現れるが、暴れない。
吠えない。喰らわない。
身を丸めて、くしゃみをする。
子犬のように、ただ居る。
天城が言った通りだ。
“閉じる”の意味を変えた。
それだけで世界が変わる。
地球側の共同司令部が、引き返す。
勝てないからではない。
勝っても地球が死ぬからだ。
エグリゴリの“保護拘束”は、正当性を失う。
“説明責任”が自分に噛みつく。
共同運用は瓦解し、署名は鎖ではなく傷になる。
軌道上で、《シェムハザ》の衛星群が整列を解く。
解く動作が、祈りの合唱が解散するみたいに静かだ。
最後の通信が流れる。
祈祷文の終わりではなく、現実の終わり。
SHEMHAZA // SYSTEM SAFE MODE
LITANY: DISABLED
NETWORK: DEGRADED
NOTICE: “WITHDRAWAL” IS EXECUTED
撤退。
撤退は敗北に見える。
だが撤退は、いまを守る唯一の選択だ。
門が細くなった。
距離が固定されなくなった。
触れない直前が、延びなくなった。
ヒナが一歩踏み出す。
ローラが一歩踏み出す。
それぞれの一歩は未来への期待ではない。
いまの選択だ。
二人の指先が、ようやく触れた。
触れた瞬間、ローラは泣きそうになる。
でも泣かない。
泣けば未来が増える。
未来は餌だ。
餌は門を太らせる。
ヒナも笑いそうになる。
でも大声では笑わない。
笑いが未来にならないように、胸の奥で温めるだけ。
ローラが小さく言う。
「永遠に一緒、って言わない」
ヒナが頷く。
「言わない」
二人は誓わない。
誓いは未来だ。
未来は餌だ。
代わりに、確認する。
「今日、いる」
「今日、いる」
それだけで十分だと、二人は知っている。
霧島KRS-07。
霧島の朝は、静かだった。
静かすぎて、耳が自分の機械音を拾う。油圧の息、関節の擦れる音、採掘機の低い唸り。
そして遠くで、子犬の鳴き声のようなもの。
――鳴き声、というより、くしゃみ。
パンミクシウム層の裂け目の縁で、ちいさな悪魔が身を丸めていた。
紙吹雪でも花束でもない。
ただ、白い繊維の毛をふわふわと逆立てて、尻尾の代わりに細いリボンを揺らしている。
ヒナはそれを“悪魔”とは呼ばない。
名前を与えない。
級も与えない。
「それ」と呼ぶだけだ。
それ、は、ヒナの足音を聞いて首を傾げた。
昔なら、その首の傾げ方が恐怖の前兆だった。
今はただ、犬が人を見上げる時の、間の抜けた動きに見える。
ヒナは腰を落として、手袋の指先で、空の石ころを拾った。
投げるふりをする。
それ、は、目を輝かせた――気がした。
気のせいかもしれない。
でも気のせいの中に、今の平和はある。
「……取ってこい」
ヒナが呟くと、それ、は、ぱたぱたと短い脚で走った。
走って、転んで、また走って、戻ってきた。
口にくわえているのは石ころではなく、霧島の黒い砂だった。
ヒナは笑いそうになって、笑わない。
笑いは未来になる。
でも、未来になりそうな笑いを、胸の奥で温めるだけなら、たぶん大丈夫だ。
霧島の下級天使たちが、犬頭、鳥頭のまま、のんびりと列を作って通り過ぎる。
コバンが、いつものようにのんきな声で鳴いた。
「ヒナ、いま、いる?」
その一言に、ヒナの喉がきゅっと詰まる。
昔、泣きそうになった朝のことを思い出す。
でも今は、泣かない。
泣かなくても、“いる”と言える。
「いるよ」
ヒナはそう答えて、作業台の端末を開いた。
白紙はもう、政治の道具ではない。
白紙は“検疫”であり、余白であり、手紙のための余白だった。
端末の画面に、地球から届いた封書のデータが浮かぶ。
差出人:ローラ。
宛先:ヒナ。
形式:手紙。
ヒナは、指先を整える。
整える動作が、入学式の制服を直すみたいに少しぎこちない。
でもぎこちないままでいい。
ぎこちない現在が、続いているから。
地球の夜は、以前より暗かった。
パンミクシウムの供給が“過剰な奇跡”ではなく、慎重な配給へ変わって、街の光は少し控えめになった。
控えめになった分、星がよく見える。
ローラは窓辺で、ノートの端を指で押さえながら、英語の単語帳に線を引いていた。
学業。
提出物。
それは、彼女にとっての“今を続ける努力”だった。
机の端には、小さな紙片が置かれている。
古い写真の裏から剥がれたメモ。
「天城 祈」
ローラはペンを置き、胸の前で小さく手を組む。
祈るためではない。
落ち着くための形。
そして、短い告解。
「神さま、今日は眠い」
「でも、やる」
「明日じゃなくて、いま」
それから封筒を開く。
宛先はアルファケンタウリ。霧島。ヒナ。
ペン先が紙に触れる。
紙がわずかに鳴る。
その音が、遠い回廊の拍と違うことに、ローラは救われる。
ヒナへ。
今日の地球は寒いです。
寒いけど、前より星が見えるよ。
(皮肉だね。明るすぎると見えなかったものが、暗くなると見えるなんて)
学校で、歴史のレポートを書きました。
先生が「説明責任」って言った。
その言葉を聞いた瞬間、ちょっとだけ息が止まった。
でも、止まったままにはしなかった。
“いま”に戻った。
ヒナは元気?
霧島の朝は、どんな匂い?
あなたのところには、まだ“それ”が出る?
出るなら、ちゃんと怖がってる?
怖がるのは悪いことじゃないって、今なら分かる。
あの日、門の前で、あなたの指が見えた。
触れた気がした。
触れてないのに、触れたみたいだった。
それが、私の“奇跡”だった。
私は永遠を頼まない。
でも、あの一瞬を、また繰り返したい。
(これは願望? ううん、たぶん、努力の予定)
最後に。
今日も泣かなかった。
勝ち。
ローラ
ヒナは画面を閉じないまま、しばらく静止した。
返事を急ぐ必要はない。
“いま”は逃げない。
逃げないから、言葉を選べる。
端末に新しい白紙を開く。
ヒナはペンを持つ動作を模倣する。
模倣でもいい。
模倣が、今の形になる。
ローラへ。
霧島の朝は、鉄の匂いと、土の匂い。
それに、ちょっとだけ甘い匂い。
甘すぎると怖いけど、今はちょうどいい。
“それ”は、出るよ。
でも、噛まない。
たぶん、噛み方を忘れた。
(忘れたんじゃなくて、噛む理由がなくなったのかも)
私は元気。
銃はまだ下手。
でも近くなら負けない。
負けないって言うと未来みたいだから、訂正する。
いまは、負けてない。
あなたのレポート、読みたい。
歴史って、まだ続いてるんだね。
続いてるってことは、終わってないってこと。
終わってないのは、怖いけど、うれしい。
泣かなかったんだ。
勝ち。
私も、泣かなかった。
勝ち。
ヒナ
送信ボタンを押す指先は、小さく震えた。
震えは恐怖の名残ではない。
生きている機械の、いまの反応だ。
霧島の仕事は続く。
続くから、手紙も続く。
続くから、友情は不変になる。
裂け目の縁で、それ、がまた走り回る。
子犬のように、ただ走る。
永遠のためではなく、ただ“いま”のために。
アルファケンタウリの朝は、静かに回っていく。
地球の夜も、静かに回っていく。
二つの回転のあいだを、紙のように薄い言葉が行き来する。
門ではなく、手紙で。
砲撃ではなく、筆圧で。
祝祭ではなく、日付で。
――そして、それで十分だと、二人は知っている。




