第十二話 そして祝福、そして白河
UN-MNF//JOINT OPERATION ORDER
OBJECTIVE-1: CIVILIAN EXTRACTION(対象:LAURA)
OBJECTIVE-2: AREA SECURITY(MBK-GF TIDAL INCURSION)
AUTHORITY: JOINT COMMAND OVERRIDE(共同運用権限:一時上書き)
SUPPORT: SERAPH ACTIVE UTILIZATION(回廊清掃/開通支援)
DEPLOYMENT: ENFORCER ANGEL REINFORCEMENT(増援降下)
紙の言葉は、いつも祈りの顔をしている。
「保護」「説明責任」「共同運用」。
それらは慈悲のふりをして、鍵穴に指を差し込む。
種子島コロニーの会議室で、主天使の視線が一瞬だけ壁に落ちた。
壁の向こうでは、外周警報が一拍遅れて鳴っている。
グラフィアカーネ級——獣の波。寄せては返す、吠える手続き。
天井のスピーカーから、チェラァブの声が落ちる。
「回廊清掃は必要だが、焼くほど反応が深くなる」
誰もそれに「アーメン」とは言わない。
言えば束になる。束は未来になる。未来は餌になる。
政治は、束を好む。悪魔も、束を好む。
白河の朝は、整いすぎていた。
無人の街のはずなのに、窓ガラスは拭かれたように澄み、舗道の縁石は昨日より角が立っている。
人の手がないのに、生活の匂いだけが濃くなる。――甘い香、祝福の匂い。過剰な匂い。
ローラは“出口”へ向かって歩いている。
歩いているのに、どこかへ招かれている気がする。
祈りで封じたくなる。胸の奥の、古い癖で。
けれど祈れば負けだ。
壁の角から、姉が覗いた。
ファルファレルロ級。
姉の顔、姉の声、姉の距離。怒らない距離で近づき、逃げ道だけは塞ぐ距離で笑う。
「おはよう、ローラ」
ローラは返さない。返事は未来になる。
代わりに呼吸を数えた。吸って、吐いて、足音を刻む。
“今”に鎖を巻く。自分の心に検疫をかける。
姉は指を三本立てる。儀礼のように、昨日と同じ。
「祈ったら負け」
「泣いたら負け」
「名前を呼べたら勝ち」
ローラは頷きそうになって、やめた。頷きは同意、同意は期待。
期待は因果で、因果は白河を深くする。
姉が坂の下を指さす。
「今日の出口は、こっち」
道は下っていく。
下るほど街は中心へ寄り、空は狭まっていく。
外へ向かうはずの道なのに、白河は逆に、外を閉じてくる。
ローラの背筋がぞわりとした。
「……出口って言った」
声が出た。声は束になりやすい。ローラはすぐ呼吸を切る。今に戻す。
姉は肩をすくめる。軽いほど怖い仕草で。
「うん。出口」
「嘘じゃないよ」
「どこへ出るの」
姉は答えを急がない。急がないのが意地悪だ。
「“外”へ」
それから、子どもに秘密を教えるみたいに首を傾けた。
「でもね、ローラ。外って、どっち?」
ローラは答えない。答えたら未来が形になる。
姉は、待つ代わりに言葉を並べる。祈りの朗読みたいに。
「地球が外?」
「種子島が外?」
「それとも――“祈りの外”?」
祈りの外。
その語が胸の内側を撫で、撫でられたところが泣きたくなる。
泣けば負けだ。
ローラは唇を噛み、平らな声を作った。
「私は帰りたい。地球に」
姉は頷かない。頷けば確定するから。
代わりに、囁きだけを落とす。
「白河は、“帰る街”じゃないの」
「“帰したい街”」
帰したい。
戻したい。
危ない語彙だ。未来だ。因果だ。
ローラはそれを吸い込まないように短く吐く。今へ戻る。
「……どういう意味」
姉は指を折っていく。罪を数えるみたいに。
「この街にはね、最初から“席”がある」
「だれかの席」
「だれかの、いない席」
ローラの喉が詰まる。
昨日見た教室。新品の机。妹の席。
思い出すだけで泣きそうになる。泣けば負けだ。
姉は、その顔が好きみたいに少しだけ近づく。
「席は、呼ばれるのを待ってる」
「席は、名前が好き」
「名前で、息をする」
ローラは呼吸を切る。今に鎖を巻く。
「……あなたは何がしたいの」
姉は両手を広げた。祝福のしぐさ。指先は冷たい。
「遊びたい」
「永遠に」
「それだけ」
“それだけ”と言いながら、姉の視線は坂の下――白河のさらに中心へ落ちている。
出口のはずの先。中心。門の胎。
ローラは、今なら言える。泣かずに。
「出口じゃない」
「……出口のふりをした入口」
姉は嬉しそうに笑った。
「正解」
「でも、ローラ」
「入口って、悪いこと?」
ローラは「悪い」と言いかけて飲み込む。裁きは未来を増やす。
未来は餌になる。
姉が代わりに答えを置いた。
「入口は“門”になる」
「門は“招待状”になる」
「招待状は――受け取った人が、自分で歩いてくると完成するの」
ローラの背中に冷たい汗が出た。
自分で歩いてきた。出口だと思って。姉に教えられて。
――完成させてしまった?
姉は覗き込む。覗き込み方が姉で、残酷だ。
「あなたが悪いんじゃないよ」
「あなたが賢いから、ここまで来られた」
「あなたが強いから、泣かずに歩けた」
褒め言葉が鎖になる。ローラは息を切り、今へ戻す。
強い、は未来の言葉だ。今の自分は、ただ呼吸しているだけ。
ローラは、勝ち筋の範囲でだけ問いを投げた。
「……白河の秘密を知ってるの?」
姉は答えない。答える代わりに遊びにする。
「秘密って、祈りのこと?」
「それとも――“好き”のこと?」
「好き?」
姉は坂の下を指さした。
「白河はね、だれかの“好き”で出来てる」
「だれかの“なくしたもの”で出来てる」
「そして、だれかの“戻したい”で出来てる」
戻したい。未来。因果。
ローラは喉の奥で砕くように吐く。今へ戻す。
姉が、淡々と唱える。祈祷文のように。
「犬」
「猫」
「鳥」
「天使」
ローラの目がわずかに見開かれる。
昨日、どこかで見た列。
――机の上の、小さな列。
姉は、その反応に満足したみたいに笑う。
「ね、知ってる形でしょ」
「知ってる形は、心をほどく」
「ほどけた心は、泣きたくなる」
「泣いたら負け」
意地悪だ。
意地悪であることを隠さないほど、秘密は深い。
ローラは、震えを声にしないまま言った。
「……じゃあ、あなたは誰の姉なの」
姉は一瞬だけ黙った。
黙ること自体が答えみたいだった。
それから、にっこり笑う。
「あなたの姉」
「ヒナの姉」
「――“妹の席”の姉」
妹の席。
白河の空が少しだけ広がりかける。礼拝堂の天井みたいに。
祈りが出そうになる。泣きそうになる。
どちらも負けだ。
ローラは、勝ち筋だけを胸の中で磨く。
名前。名前を呼ぶ。呼べたら勝ち。
姉は坂の下へ軽く手を振った。
「行こう」
「出口へ」
「白河が“外”へ出るための出口へ」
ローラは一歩踏み出す。
踏み出しながら思う。
(私は、帰るために歩いてるんじゃない)
(……誰かを“呼ぶ”ために歩かされてる)
姉の声が背後で囁く。祝福みたいに。
「祈らないでね」
「泣かないでね」
「その代わり――」
「名前を、呼んで」
種子島コロニー、最外周。
外周の水平線が黒く縁取られる。
雲ではない。群れだ。
犬と狼が先行し、その後ろから鹿の角が揺れ、猪の背のファイルがぎらりと開く。
鳥の紙翼が空を削り、白い紙が降り、落ちながら獣になる。
波。
津波。
獣の津波。
力天使隊が前へ出る。
女性型の隊列。刃の光。
学園で揃えられた歩幅で、しかし叫ばない。
叫べば束になる。束は餌になる。
彼女たちは“今”の刃だけを出す。
能天使の降着灯が上空に点る。
規律の影が降りる。
ENFORCER ANGEL // ROE READOUT
TARGET: MBK-GF SWARM(TIDAL)
MODE: AREA DENIAL / LINE HOLD
PRIORITY: PROTECT CIVILIAN CORE / GATE OPERATION
NOTE: DO NOT ENGAGE IN “CHEERING / CHANTING”(因果偏位リスク)
銃声が短く刻まれる。
刻まれるほど、獣の波は一瞬だけ“整列”する。
整列した波は、怖い。
怖いほど、言葉が生まれる。
獣が吠える。
「保護」
「説明責任」
「共同運用」
吠えるたび、紙の毛が逆立ち、条文の牙が伸びる。
撃たれても、沈まない。
沈む個体の背後から、別の層が前へ詰める。
詰めると紙が舞い、舞った紙が獣になる。
“撃退”ではない。
押し返すだけ。
押し返した瞬間、海が引くように退く。
退潮。
退潮の静けさが一番不気味だ。
引いたところで終わらないと、誰もが知っている。
波が引きながら吠える。
「共同運用」
「共同運用」
「共同運用」
それは予告だ。
次の満潮は、もっと整って来る。
種子島コロニー、中枢。
会議室の空気は、香ではなく紙の匂いだった。
資料の束、規格化されたフォント、署名欄の並び。
“正しさ”の顔をしたものが、机の上で静かに牙を研いでいる。
UN-MNF代表は、波の映像を背にして立った。
外周モニターでは、グラフィアカーネ級が引き際の美しい退潮を見せている。
撃退ではない。引いているだけだ。
それでも代表は、引いた瞬間を「制圧」と呼んだ。
「状況は変わりました」
柔らかい声だった。柔らかい声ほど、命令は深く刺さる。
「地球側の“関与”は不可逆です」
「救出は、共同運用の成熟度を示す試金石になります」
試金石。
救出が、成果指標になる。
人命が、提出物になる。
主天使は椅子に深く腰掛けたまま、声の温度を上げない。
温度を上げれば束になる。束は餌になる。
「成熟度、だと」
「ここが何で出来ているか、まだ理解していない」
代表は微笑んだまま、別の束を机に置いた。
薄い紙束の表紙に、古い年号。
“第一次調査団事故 要約報告”。
——過去の種子島。礼拝堂が割れた夜。撤退。消息不明。
そのタイトルが、妙に整いすぎていた。
「事故」。
「要約」。
「教訓」。
「当該事案は、既に“総括”されています」
代表はそう言って、紙束を軽く叩いた。
叩き方が、告解の扉を閉める仕草に似ている。
「再発防止の枠組みは構築済みです」
「監査手順」
「権限の明確化」
「共同運用」
「説明責任」
言葉が増えるほど、白い層は深く息をする。
その呼吸を、代表は“管理可能”と呼ぶ。
主天使の視線が、紙束ではなく“空白”の方へ落ちた。
総括された、と言いながら、ページの端には黒塗りが残っている。
最も重要な箇所ほど白い。
白い箇所ほど政治が好きだ。
「総括してなお、波は来る」
主天使が言う。
「波は、お前たちの語彙で出来ている」
「保護、説明責任、共同運用——それを吠えながら襲ってくる」
代表は、うなずかない。
うなずけば同意になる。同意は期待になる。
期待は因果。因果は餌。
それでも代表は、同意の代わりに“前提”を置いた。
「だからこそ」
「地球側が主導します」
「この環境は“人間の介入”を前提に再設計されねばならない」
再設計。
言い換えれば、掌握。
礼拝堂を、指揮所に変える。
祈りの場を、管制室に変える。
チェラァブの声が天井から落ちる。
「回廊清掃は必要だが、焼くほど反応が深くなる」
「焼けば、門は開くのではなく沈む」
代表は視線を上げないまま言った。
「沈むなら、沈む位置を管理する」
「管理しない沈下は危険です」
「管理された沈下は、作戦です」
作戦。
沈下を作戦と呼ぶ。
深さを成果と呼ぶ。
主天使の指が、机の縁で一度だけ止まる。
止まるのは今。
しかしその“止まり”の中に、過去の種子島の声が混じる。
——奇跡を、管理できると思った。
——祝福を、統治できると思った。
——それが舞台を作った。
代表は、最後にこう言った。
柔らかく、しかしもう引き返さない声で。
「救出は、始まりにすぎません」
「門を“保持”できれば」
「地球は、アルファケンタウリへ“継続的に関与”できる」
「持続可能な共同運用が成立します」
継続的に関与。
それは招待だ。
悪魔が望む“永遠”に、地球人が自分から署名する行為。
主天使は言った。
「歴史は、もう一度割れるぞ」
代表は微笑んだ。
微笑みは祈りに似る。祈りに似るほど怖い。
「割れないように、地球が主導するのです」
外周モニターで、退潮した海の向こうが、また黒く縁取られ始める。
獣の波が、次の満潮の形を作っている。
代表は、最後の紙束を差し出した。
表紙には淡々と、JOINT COMMAND OVERRIDE。
署名欄の最上段に、星条旗の小さな印字。
その下に、幾つもの国名が並ぶ——日本の欄も、例外なく。
ペンは日本側へ回され、机上の沈黙が「同意」に加工される。
主天使の脇で、日本側の担当官が視線を伏せたまま、形式だけの線を引いた。
署名は祈りに似ていて、祈りに似ているほど、取り返しがつかない。
「共同運用」
「説明責任」
「保護」
吠え声が、会議室の紙の言葉と同じ速度で響いた。
その一致が、何より不吉だった。
霧島の朝は、警報で始まった。
空が赤く点滅し、犬頭の下級天使が尻尾を丸め、鳥頭が嘴を鳴らす。
「ひな、ひな、ひな……」
犬頭——コバンが、落ち着かない足取りで近づいてくる。
その声は、いつもなら呑気で、少し笑えるはずだった。
「いま、いる?」
その一言で、ヒナは泣きそうになった。
泣けば負け——それは白河の遊びだ。
でも霧島の“検疫”でも、同じだった。
泣いたら束になる。束は未来になる。未来は餌になる。
ヒナは笑うふりをして頷いた。
「いる。今日もいるよ」
外周の柵の向こうで、紙の獣が揺れる。
小規模のグラフィアカーネ級。探りの波。
犬の形、狼の形、鳥の紙翼——薄いが、確実に“満ちてくる”。
ヒナは銃を握らない。
握っても当たらない。
代わりに刃を抜く。
接近戦の距離でしか、自分は“今”を守れない。
波が柵へ噛みつく。
紙の牙が、検疫テープの筋肉を鳴らす。
ヒナは飛び、斬る。
斬った紙が舞う。舞った紙が甘い匂いを撒く。
祝福の匂い。——獣化した祝福。
ヒナは匂いを吸わないように、短く呼吸を切る。
吸えば、胸が温かくなる。温かさは希望になる。希望は未来になる。
未来は餌になる。
押し返す。
押し返した瞬間、波は引く。
引きながら、吠える。
「保護」
「説明責任」
「共同運用」
霧島にまで、その語彙が届く。
波は海だけじゃない。
政治の潮汐だ。
ヒナが刃を拭いているところへ、主天使の命令が落ちた。
淡々とした文字列。淡々としているほど、冷たい。
白河接続作戦:突入要員指名(個体:ヒナ)
作戦目的:要救出対象の確保/門の安定化
ヒナは、息を止めた。
止めた息が祈りになりそうで、すぐ吐く。今へ戻す。
「……やだ」
声が漏れた。
漏れたこと自体に驚いて、ヒナは口を押さえた。
“やだ”は未来を含む。未来は因果。因果は餌。
餌を増やしたくない。
霧島の空は低く、外周の柵の向こうでは紙の獣がまた形を整えている。
寄せては返す波。
押し返した次の満潮を、誰も喜べない。
ヒナは、霧島が嫌いではなかった。
嫌いではない。
犬頭のコバンがいて、鳥頭の子がいて、毎日が小さくて、今がある。
今を守ることだけが、自分の仕事だと思っていた。
白河。
種子島。
門。
救出。
それらは全部、未来の言葉だ。
未来の言葉は、パンミクシウムを深くする。
深くなれば、悪魔が増える。
増えれば、今が壊れる。
ヒナは画面を見つめたまま、唇を噛んだ。
「……誰を、救出するの」
端末は答えない。
答えないことが、いちばん冷たい。
要救出対象。
名前がない。
国籍もない。年齢もない。
ただの提出物のような言葉。
ヒナは知らない。
ローラがアルファケンタウリに来ていることを、知らない。
地球の夜から、白河へ招かれたことも。
姉の遊びの中で、祈らず泣かずに歩いていることも。
知らないから、ヒナの中で“救出”は他人事だった。
知らないから、ヒナの中で“突入”は怖いだけだった。
怖いのは、痛いからじゃない。
未来を増やしてしまうからだ。
コバンが近づいてくる。
尻尾を振る。
いつもの呑気な声で聞く。
「ひな、どこ、いく?」
そして、昨日と同じように、首をかしげる。
「いま、いる?」
その一言で、ヒナはまた泣きそうになり、堪えた。
泣けば束になる。束は未来になる。
「いる」
ヒナは笑うふりをして言う。
「今日もいるよ」
――そのとき。
通信端末が、ふいに“別の回線”を拾った。
主天使ではない。チェラァブでもない。
雑音混じりの、地球側の通信監視ログ。
…EXTRACTION TARGET: LAURA…
…WASHINGTON D.C…
…GATE: SHIRAKAWA…
ローラ。
ローラ、と聞こえた瞬間、ヒナの胸の奥がひやりとした。
次に、一気に熱くなる。
熱は未来になりそうで、ヒナは呼吸を切って今へ戻そうとする。
でも戻らない。戻せない。
ローラが、来ている。
アルファケンタウリに。
白河に。
ヒナは画面を掴んだ。
さっきまで「やだ」と思っていた言葉が、喉の奥で形を変える。
未来ではない。願いではない。
ただの“今”の決断になる。
「……行きます」
自分でも驚くほど、声が真っ直ぐだった。
主天使に言っているのか、チェラァブに言っているのか、それとも——ローラに言っているのか分からない。
「私、行く」
「迎えに行く」
迎えに行く、という語が危ないのは分かっている。
未来を含む。因果を含む。
それでも、ヒナはそれを握った。
握ったまま、呼吸を短く切る。
今。
今だけを持って行く。
今を、向こう側へ届ける。
コバンが尻尾を振る。
分からないまま、嬉しそうに。
「ひな、いく!」
「いま、いく!」
ヒナはコバンの頭を撫でた。
撫でる手は震えない。震えれば束になるから。
「……うん」
「いま、行く」
霧島の外で、紙の獣の波がまた満ち始める。
吠え声が遠い。
「共同運用」
「説明責任」
「保護」
ヒナはそれを聞き流した。
聞き流すのは逃げではない。
今、聞くべき名前があるから。
ローラ。
地球の夜は、祈りの時間でもあり、監視の時間でもある。
ナディームは祈らない。
祈れば未来が生まれる。未来は因果になる。因果は餌になる。
彼は、未来ではなく“穴”を作る。
画面の向こうにあるのは、種子島コロニー中枢禁区の監査網。
共同運用が始まってから、監査は強化されたはずだった。
強化されたはずなのに、穴は増えている。
書類が増えるほど、ログが増えるほど、穴は生まれる。
白紙が混じる。
白紙は、門になる。
その“増え方”には、理由があった。
数時間前、地球側の回線に一通の署名済み文書が流れてきた。
上段に星条旗の印字、下段に並ぶ国名、その中に日本。
署名は儀礼で、儀礼は取り返しがつかない。
JOINT COMMAND OVERRIDE:ACTIVE
発動と同時に、監査網の仕様が切り替わった。
平時の監査ではない。
“統合作戦仕様”。
救出と治安維持を同一案件として束ねるための、統一テンプレート。
テンプレートは便利だ。
便利なものほど現場と噛み合わない。
噛み合わないものほど、例外が増える。
例外はログを増やす。ログが増えるほど、整合性は「数字」で保たれる。
数字で保たれる整合性は、呼吸を止めた聖歌隊に似ている。
止まったまま、形だけ整う。
形だけ整うほど、穴は増える。
画面には、切り替えの痕跡が残っていた。
監査タグの命名規則が変わる。
時刻同期が一拍遅れる。
権限継承が“暫定”で重なる。
平時なら許されない重なりが、“統合作戦”の名で許される。
ナディームは、その重なりを見て息を吐いた。
祈りではない。作業の呼吸だ。
(ありがとう)
と言いかけて、飲み込む。
感謝は未来になる。未来は危ない。
彼は代わりに、冷たい言葉を置く。
(都合がいい)
耳元のスピーカーが淡々と読み上げる。
種子島外周で、グラフィアカーネ級が満ちては返す。
その度に優先度が跳ね、警報が跳ね、人の目が跳ねる。
跳ねた目は禁区の奥を見ない。
“統合作戦仕様”は、その跳ねを正当化し、さらに速くする。
速いほど、穴は見落とされる。
ナディームは指を止めない。
止めれば躊躇が生まれる。躊躇は未来だ。
未来は危ない。
彼は元々、種子島の技術者だった。
初期の設計思想。監査プロトコル。人間が「安心する」ために作った冗長な手順。
その全部を知っている。
“安全”は、いつも人間の癖で出来ている。
癖は、鍵穴になる。
外部からのアクセスは拒否。
監査ログは不可逆。
外部署名は無効。
当然だ。
当然だから、突破できる。
彼がやるのは改竄ではない。改竄は目立つ。
彼がやるのは、もっと静かなことだ。
——白紙を差し込む。
監査ログの連続性の中に、ほんの一拍だけ“無記録”を作る。
無記録はエラーではない。
“整合性チェックが通る欠落”。
統合作戦仕様が生んだ、最も美しい副作用。
欠落ができれば、そこに“鍵”が刺さる。
鍵が刺されば、そこは“通れる”。
ナディームは、もう一つの画面を開く。
地球側通信網の異常な揺れ。
マレブランケのゲートが開きかけるとき、必ず現れるノイズ。
白河。
半開きの門。
招待状の紙質。
彼は小さく言った。声にすると未来になりそうで、極力薄く。
「……門を使う」
船では行かない。
正式な便なら、政治の監視に絡め取られる。
欲しいのは監査の外側から内側へ“落ちる”経路だ。
——ゲート。
悪魔の作った門を、逆に踏み台にする。
彼は禁区の監査網へ、最後の一行を落とす。
攻撃コードではない。
権限移譲の偽装でもない。
欠落に呼応するタグ——空白を空白として通すための札。
画面の隅で、種子島の警報がまた跳ねた。
満潮。獣の波。吠える手続き。
「共同運用」
「説明責任」
「保護」
その吠え声が、ナディームの部屋のスピーカー越しにも聞こえる。
遠いのに、同じ速度で迫ってくる。
まるで、紙の言葉が獣を飼っているみたいに。
ナディームは笑わない。
笑えば軽くなる。軽いほど未来になる。未来は危ない。
彼はただ、確信だけを冷たく磨く。
(天城は白河の奥にいる)
(門が半開きなら、通れる)
(統合作戦仕様が穴を増やすなら、刺さる)
画面に表示が出た。
AUDIT GAP: ESTABLISHED
JOINT TEMPLATE MISALIGNMENT: CONFIRMED
BLACK ZONE ACCESS: PENDING
まだ“侵入”ではない。
だが門は、もう“こちら側”に影を落とし始めている
アルファケンタウリ、白河。
坂の先で、白河は“中心”の匂いを持ち始める。
香りが甘い。甘すぎる。
祝福の匂いは、いつも過剰だ。
無人の学校がある。
校舎は新しすぎる。新しすぎて嘘みたいだ。
教室の一つに、机が一つだけ新品で置かれている。
妹の席。誰かのための席。
ローラはそこへ近づき、喉が詰まる。
泣きそうになる。
泣いたら負け。
姉が背後で囁く。
「座ってみる?」
「呼べる?」
「名前」
ローラは首を振らない。振ると否定が未来になる。
代わりに、ゆっくり教室を出る。
足音を数える。
今を数える。今を検疫する。
校舎の奥に、小さな“列”があった。
犬。猫。鳥。天使。
ストラップと置物が、机の上に並ぶ。
祈の机の列と同じ。
ローラは息を止めた。
止めた息が祈りになりそうで、すぐ吐く。
祈ったら負け。
姉が肩をすくめる。
「かわいいでしょ」
「ここ、白河の“好き”だよ」
白河の好き。
それは、天城 祈の好き。
ローラは祈りたい。
神に。誰かに。救いに。
祈れば、この列が“答え”を返してくれる気がする。
でも祈ったら負けだ。
この街は、祈りを餌にする。
ローラは、勝ち筋だけを置いた。
声を震わせずに、列に向かって言う。
「ヒナ」
その名前で、胸の奥が少しだけ温かくなる。
温かさが未来になりそうで、彼女はすぐに呼吸を切る。
今に戻す。
もう一つ、声にするか迷う。
迷いは未来だ。
でも——呼べたら勝ち。
名前を呼べたら勝ち。
ローラは、喉の奥を押し開いた。
「天城……祈」
その瞬間、白河の空が一拍、止まった。
礼拝堂の天井みたいに広がりかけた空が、躊躇する。
“今”が刺さったのだ、とローラは直感した。
姉が、少しだけ不機嫌に笑う。
「勝ちに近いね」
「でも、まだだよ」
種子島コロニー、最外周。
波はまた満ちる。
外周で、獣が吠える。
「共同運用」
「共同運用」
「共同運用」
会議室では、その吠え声が紙の言葉と同じ速度で反復される。
代表が言う。
「波を断つには、原因を断つ」
「原因は白河」
「門を開き、救出し、閉じる」
閉じる。
簡単に言う。
閉じられるものは、最初から開かない。
セラフの運用端末に、許可が入る。
黙って受け入れる光。
黙って受け入れる砲。
チェラァブが最後に落とす。
「焼くほど反応が深くなる」
セラフ側は、返事をしない。
返事をしないまま、光量を上げる。
回廊は舞台になる。
舞台になるほど、白河は礼拝堂になる。
白河の中心で、空気が変わる。
甘い匂いが、香ではなく煙に近づく。
煙は儀礼の匂いだ。
儀礼は“永遠”の匂いだ。
姉がローラの前に立つ。
姉の顔は、姉ではない。
影が濃い。
ヒナの影のような形が、背後で遊ぶ。
「出口、ここだよ」
姉は言う。
「外へ出たいなら、ここ」
「外が来るなら、ここ」
ローラは、遠くで仮面の気配を感じた。
踊るような圧。祈るような殺気。
無敵の静けさ。
マラコーダ。
名を知らなくても、胸が知ってしまう。
門が、胎動する。
白河全体が、ひとつの礼拝になりかける。
祈りが集まれば、門は開く。
泣き声が束になれば、門は開く。
だから姉は、遊びの規則で泣かせようとする。
「泣かないでね」
姉は笑う。
「泣いたら負けだから」
アルファケンタウリ、パンミクシウム層。
上空、能天使が降りる。
降下は儀礼だ。規律は礼拝だ。
ただし神へ捧げる礼拝ではない。
命令へ捧げる礼拝。
星の暗がりに、降着灯が縦に並ぶ。
一つずつが冷たい句点のように点り、次の瞬間、流星の列になって落ちる。
ENFORCER ANGEL // ENTRY RITE
PHASE-1: ORBITAL DROP(Ceremony)
PHASE-2: GATE BREACH SUPPORT(SERAPH COORD)
PHASE-3: CIVILIAN EXTRACTION(LAURA)
ROE: NO PRAYER / NO CHANT / NO NAME-CALL(因果偏位防止)
機械声が読み上げるたび、現場の空気が一拍ずつ固くなる。
祈るな。唱えるな。名を呼ぶな。
因果を増やすな。——正しいはずだ。
だがその「正しさ」の上に、別の正しさが重なって落ちてくる。
JOINT COMMAND OVERRIDE: ACTIVE
PRIORITY UPDATE: GF-TIDAL CONTAINMENT(外周波封じ込め)
PRIORITY UPDATE: GATE STABILIZATION(門の安定化)
PRIORITY UPDATE: CIVILIAN EXTRACTION(救出)
NOTE: PRIORITIES ARE CONCURRENT(同時達成)
同時達成。
それは、現場にとって「全部やれ」という意味だった。
外周から警報が跳ねる。
グラフィアカーネ級、満潮。
紙の獣が吠える。吠え声が会議室の語彙と同じ速さで迫ってくる。
「保護」
「説明責任」
「共同運用」
指揮系統は今朝切り替わったばかりだ。
周波数が変わり、呼称が変わり、担当が変わる。
救出のためのルートが、外周防衛のために塞がれる。
外周防衛の火線が、門の焼却開通と干渉する。
“統合作戦仕様”は整っているようで、現場では噛み合わない。
能天使は整列し、機械の手で混乱を押し潰そうとする。
だが混乱は声にならない場所で膨らむ。
声にすれば束になる。束は因果になる。因果は餌になる。
だから誰も叫ばない。叫べない。
そこで、力天使が前へ出た。
彼女たちは叫ばない。
祈らない。
希望の言葉を掲げない。
ただ、前へ出る。
学園で揃えられた歩幅。
けれど学園の眩しさはここにはない。
あるのは刃の重さと、守るべき“今”だけ。
紙の獣が柵を越えようとした瞬間、少女の形の力天使が最初に踏み込んだ。
銃は撃たない。撃っても当たらないからではない。
撃てば遠くに期待が伸びる。期待は未来だ。
彼女は距離を詰め、刃で“今”を切る。
斬られた紙が舞う。
舞った紙が甘い匂いを撒く。祝福の匂い。
匂いは心をほどく。ほどけた心は泣きたくなる。
泣けば束になる。
だから力天使は呼吸を短く切り、匂いを吸い込まない。
涙腺を締め、声帯を締め、今だけを持って斬る。
勝利を作らない。
未来を増やさない。
退潮を勝利と呼ばない。
——原初の天使たちが、そうだった。
パンミクシウム層から滲む“最初の規範”が、戦場の底でうっすら鳴る。
音ではない。言葉でもない。
けれど、刃を握る手の奥に残っている。
地球人の友人たちのために。
それが、天城 祈の最初の願いだった。
妹のためでも、故郷のためでもなく——
まず、いま目の前にいた地球人の友人たちを、生きて帰すために。
彼女が身を擲った瞬間に現れた天使たちの忠実は、
“英雄の志”ではなく、ただの実直な配慮だった。
あなたたちが、生きて地球へ戻れますように。
そのために、ここで押し返します。
その祈りの形だけが、今も力天使たちの戦い方に残っている。
彼女たちはそれを口にしない。
口にすれば束になるから。
束になれば因果になるから。
能天使ログは、矛盾した命令を矛盾のまま読み上げ続ける。
ROE REMINDER: NO NAME-CALL
ROE REMINDER: CONFIRM EXTRACTEE IDENTITY BY NAME
ROE REMINDER: MINIMIZE CAUSALITY
ROE REMINDER: ACHIEVE MULTI-OBJECTIVE SUCCESS
名を呼ぶな。名で確認しろ。
未来を増やすな。全部成功しろ。
現場の混乱が、刃先を鈍らせそうになる。
そのとき、力天使たちの隊列だけが不思議に静かだった。
静かであることが抵抗だった。
静かであることが、祈りを拒む祈りだった。
ヒナも列の中にいる。
胸元は空だ。端末はない。
だが胸の奥に、名がある。
ローラ。
統合作戦が名を提出物に変える。
能天使の規律が名を縛る。
それでもヒナは名を束にしない。
叫びにしない。祈りにしない。
ただ、“地球人の友人たちのために”という最初の形に重ねて、
今の刃の重みとして握る。
握ったまま、前へ出る。
外周では波が満ち、門では焼却が始まり、救出は期限になって迫る。
全部が同時に進む。
同時に進むから、現場は崩れる。
それでも、力天使たちの戦い方だけは崩れない。
最初の天使を思わせる忠実さで、
彼女たちは今日の“今”を、ひとつずつ押し返していった。
セラフの光が走った。
回廊が焼かれる。
焼かれた場所が、裂け目になる。
裂け目が、門の縁になる。
門が半開きになる。
半開き——それは最悪の安定だ。
開いていないから救えない。
閉じていないから退けない。
礼拝の途中。永遠の途中。
門の隙間から、白河の匂いが漏れる。
甘すぎる祝福の匂い。
ヒナは匂いを吸わない。
短く呼吸を切る。今に鎖を巻く。
能天使が先に突入しようとする。
門が“呼吸”して、能天使の隊列を押し戻す。
規律が揺れる。
揺れは未来になる。未来は餌になる。
餌が増えれば、門はさらに深くなる。
ヒナが前へ出る。
規律より先に、刃で今を突く。
門縁へ飛び、半開きの隙間に身を滑り込ませる。
その瞬間、向こう側で声がした気がした。
泣き声ではない。
祈りでもない。
“名前”の声。
「……ヒナ」
ローラも、こちら側の刃の気配を感じた。
学園の眩しさではない。
霧島の静けさでもない。
今を守る、痛いほど近い気配。
ローラは泣きそうになり、噛み殺す。
泣けば負け。
祈れば負け。
勝ち筋だけを叫ぶ。
「ヒナ!」
門の隙間で、ヒナの心臓が跳ねた。
跳ねた鼓動が未来になりそうで、彼女は歯を食いしばって今に戻す。
合流できる距離。
指が届く距離。
そのとき、門の影が変わる。
仮面が、隙間にぴたりと差し込まれる。
マラコーダ級。
踊るように、祈るように、そこにいるだけで圧倒的。
無敵の静けさが、半開きの縁を“扉の蝶番”に変える。
「ようこそ」
たったそれだけで、誰も押し返せない。
ヒナの刃は、届く前に重さを失う。
能天使の規律は、言葉にならない空白で折られる。
門は、半開きのまま、呼吸を続ける。
外周の波が、いったん引いた。
撃退ではない。退潮だ。
引き際が美しすぎて、不気味だった。
静けさが戻る。
静けさは礼拝に似る。
でもそれは赦しではない。
“次のための静けさ”だ。
チェラァブが観測ログを読む。
声が、ほんの少しだけ低い。
「深層の減衰率が……異常」
「セラフ砲撃反響……戻らず」
「回廊底部、光学観測不能域、拡大」
観測不能。
白紙。
空白。
セラフの遠隔映像に、一瞬だけ“影”が映る。
雲ではない。群れでもない。
台風でもない。
地形のように動く、円弧。
潮が引くときにだけ見える、海底の背骨みたいな輪郭。
そして——光がそこへ吸い込まれていく。
チェラァブが言いかけて、飲み込む。
「……規格外」
誰も名を知らない。
名を与えるには早すぎる。
けれど胸が理解してしまう。
次は、波ではない。
次は、舞台そのものが動く。
半開きの門の向こうで、ローラが息を整える。
こちら側で、ヒナが刃を落とさないように握り直す。
二人はまだ、触れられない。
それでも“今”を保つ努力だけが、細い糸になって繋がっている。
そして回廊の底で、
何か巨大なものが——眠りから身じろぎした気配がした。




