第十一話 祝福、証言、贖い
彼女のことを、最初は「研究者」だと思った。
次に「善い人」だと思った。
そして最後に、その二つがこの場所では同じ罪になり得るのだと知った。
天城 祈は、白衣の袖がいつも少しだけ長かった。
手首を隠すほどではないが、手元を「慎ましく」見せる長さ。
彼女はメガネを直す癖があり、直したあと必ず、レンズの端を指先で拭った。
その仕草が、祈りの前の沈黙に似ていた。
研究机の隅に、小さな列があった。
犬。猫。鳥。天使。
掌に乗る程度のストラップと置物。安っぽい樹脂の光沢。
なのに、妙に清潔で、妙に整列していた。
彼女はその列を、仕事の邪魔になる場所に置いていない。
だが片づけてもいない。
そこに「置いておく必要」があるように、いつも同じ順で並べている。
「可愛いですね」
ナディームがそう言うと、祈は驚いたように目を上げた。
少し野暮ったい髪のまとめ方。少し実験室臭い柔軟剤。
けれど笑うと、人の緊張をほどく顔だった。
「好きなんです」
彼女は頷いた。頷き方が、赦しに似ている。
「犬は……怒らないでいてくれるから」
「猫は……勝手で、でも戻ってくるから」
「鳥は……どこまでも行けるから」
そして天使の置物に触れると、彼女は一瞬、言葉を探した。
照れたのではない。誤魔化したのでもない。
“ここでは言い方が難しい”という顔だった。
「天使は、願わないでしょう?」
願わない。
その語は信仰の教義ではなく、彼女の実感の言葉だった。
天使は願わない——願いの器にならない。
それがこの星で、どれほど希少な美徳か。
ナディームは返事をしなかった。
返事をすれば、彼女の言葉に未来が生まれる。
未来が生まれれば、因果が太る。
因果が太れば、パンミクシウムが笑う。
代わりに、仕事の声で聞いた。
「そのストラップ、増えたりしませんか」
祈は、メガネの奥で一度だけ瞬きをした。
瞬きが、告白の準備だった。
「……増えます」
声が小さかった。小さい声は束になりにくい。
それでも告白は告白だ。
「補給箱に入っていることがあるんです」
「誰も頼んでないのに」
「……落ちてることもある」
彼女は机上の天使を掌に乗せた。
それはただの置物なのに、手の中で“温度”を持つように見えた。
「パンミクシウム層に触れてから、です」
「拾ってるんです」
「……私の頭の中を。私の“好き”を」
そのとき、ナディームは胸の奥が冷えるのを感じた。
“好き”まで拾う。
必要なものだけではない。
生きている人間の、柔らかい部分まで。
祈は笑おうとしたが笑わなかった。
笑えば、軽くなる。軽くなれば、誰かが「祝福だ」と言う。
祝福と言った瞬間、期待が生まれる。期待は因果だ。
「だから……言わないといけない」
祈は言った。
「みんなに」
「これは祝福じゃないって」
祝福じゃない。
その否定は、彼女の善性の形だった。
光を光として言い切ること。
たとえ影を増やしてしまっても。
ナディームは止めたかった。
だが止める言葉は、いつも遅い。
遅い言葉は未来に触れる。未来は危ない。
彼は、ただ机上の小さな列を見た。
犬。猫。鳥。天使。
それらはまだ、刃ではなかった。
まだ、戦争の形ではなかった。
けれどパンミクシウムは、形を覚える。
形を覚えて、現実に置く。
現実に置いた形は、いつか「役目」を持つ。
祈は知らなかった。
あるいは——知っていても、言ったのだ。
善性で。
ナディームの机上には、紙が並んでいた。
紙はいつも、祈りの顔をしている。
「正しいこと」を書く。
「守ること」を書く。
「責任」を書く。
だが紙は、もっと深いところで欲望を運ぶ。
彼が掘っているのは、種子島コロニーの最初期の記録だった。
採掘の記録ではない。
“接触”の記録だ。
当初の種子島は、日本を中心に組まれた多国籍の調査団の拠点。
観測と安全確保。測定と封じ込め。
言い換えれば、まだ「産業」になる前の「礼拝」だった。
安全祈願の儀礼。
共同宣誓。
行動規範。
持ち込める物、持ち込めない物。
誰が鍵を持つか。
誰が責任を負うか。
その時点で、芽はもう出ている。
共同運用。説明責任。保護。
まだ吠え声ではないが、文字列の中に同じ語が眠っていた。
ナディームは調達記録に指を滑らせる。
数量が合わない。
重量が合わない。
輸送の便数が足りない。
足りないはずなのに、施設は立っている。
足りないはずなのに、生活区画が整っている。
足りないはずなのに、学校の“雛形”まで見える。
彼は、空白の行をなぞった。
空白は、誰かの失敗ではない。
空白は「埋まった」のだ。
どこか別の方法で。
パンミクシウムに触れた日付に、赤い線を引く。
そこから先、記録は急に“よく出来すぎる”。
紙が美しくなる。報告が整う。説明が巧妙になる。
整うほど怖い。
整った未来ほど、因果は太る。
太った因果ほど、形を呼ぶ。
ナディームは窓の外を見ない。
窓の外を見れば、空にセラフの光を探してしまう。
探してしまえば、彼自身が「次」を期待してしまう。
彼は呼吸を短くし、端末の画面に戻った。
「種子島は、最初から礼拝堂だった」
彼は独り言のように言う。
祈りのためではない。
“答えを受け取るため”の礼拝堂。
答えを受け取るという行為が、どれほど危険か。
彼はもう知っている。
そして、次の資料がそれを裏付けた。
接触直後、物資の「出現」現象が始まったとする報告書。
書き手は天城 祈。
彼女の署名の横に、付箋が貼られている。
犬のストラップの形の付箋だった。
どこまでも皮肉な偶然。
ナディームは、その付箋を剥がさなかった。
剥がせば、そこに自分の手の熱が残る。
熱は記憶になる。記憶は未来になる。
彼はただ、ページをめくった。
最初に現れたのは、工具箱だった。
それも、調査団が持ち込んだ型式と同じ。
同じメーカー。同じ刻印。同じグリップの摩耗。
誰かが冗談を言った。
「神様が補給してくれたんだ」
笑いが起きた。
笑いは軽い。軽いほど、期待が入り込む。
期待は未来への手触りだ。未来は因果だ。
次に現れたのは、簡易通路のパネル。
地球の工事現場で見るような黄色と黒の縞。
次に、仮設の宿舎。
次に、医療用品。
次に、保存食。
次に、標識。
標識には、こう書いてあった。
立入禁止
危険
検疫区域
誰もそれを発注していない。
誰もそれを輸送していない。
なのに、そこにあった。
「祝福だ」
誰かが言った。
「人類は選ばれた」
誰かが言った。
「この星は我々を受け入れている」
誰かが言った。
天城 祈は、笑わなかった。
祝福の語彙が増えるほど、彼女の顔は白くなった。
「違う」
彼女は小さく言った。
「……祝福じゃない」
誰も聞かなかった。
聞こうとしなかった。
聞けば、不安が増えるから。
不安が増えれば、未来が増える。未来は因果。
因果が増えれば、出現が増える——
その循環が、もう始まっている。
祈の机の上の置物も、増え始めた。
犬。猫。鳥。天使。
同じ形。微妙に違う塗装。
まるで「写し」が増殖するみたいに。
補給箱の底に、天使のストラップが紛れている。
通路の端に、鳥のキーホルダーが落ちている。
誰かが拾って、祈の机に置く。
「これ、あなたのだろ?」
祈は受け取って、笑って礼を言う。
礼を言う声が、震える。
「……拾ってる」
夜の休憩室で、彼女はナディームにだけ言った。
「私の頭の中を」
「私の“好き”を」
「必要なものだけじゃなくて、どうでもいいものまで」
どうでもよくない。
ナディームはそう思った。
どうでもよくないものほど、ここでは危ない。
パンミクシウムは、必要を満たすだけでは飽きない。
人の“未来”に触れたがる。
未来に触れると、出現は派手になる。
派手になると、人はもっと正当化する。
そして、祈りの言葉が増える。
「主が与えた」
「祝福だ」
「試練だ」
「使命だ」
それらは神に向けられていない。
パンミクシウムに向けられている。
向けられていると気づかないまま。
天城 祈だけが、それを怖がった。
祈は実験を派手にしなかった。
この場所で派手な実験は“願い”を増やす。
願いが増えれば、出現が増える。
出現が増えれば、期待が増える。期待は因果だ。
だから彼女は、観察した。
人が何を言ったとき、何が現れたか。
いつ笑ったとき、何が増えたか。
いつ怒ったとき、何が整列したか。
そしてある朝、祈はナディームの前に、短いメモを置いた。
因果(未来への期待)に反応する。
必要ではなく、期待の“形”を拾う。
形は戻るが、魂は戻らない。
「形は戻る?」
ナディームが問うと、祈は頷いた。
頷きながら、机の上の猫の置物を撫でた。
撫で方が優しい。優しいほど危ない。
「故郷の家の形は戻せるかもしれない」
「妹の笑い声みたいな音も、戻せるかもしれない」
「友達の髪留めも、戻せるかもしれない」
彼女はそこで息を止めた。
止めた息の中に、泣きそうなものがいる。
泣けば束になる。束は未来になる。未来は因果になる。
祈は泣かなかった。
泣かなかった代わりに、目を伏せた。
「でも」
声が小さい。
小さい声は祈りに近い。
「それは再現に過ぎない」
「私の妹は、戻らない」
「魂は戻らない」
「形だけが、ここに残る」
ナディームは何も言えなかった。
慰めは未来を含む。
未来を含む言葉は、ここでは刃になる。
祈は続けた。
「だから、言わないといけない」
「みんなに」
「祝福じゃないって」
「万能じゃないって」
「——危ないって」
それは善性の告白だった。
善性は、真理を抱えて黙っていられない。
善性は、光を隠せない。
ナディームは止めたかった。
だが止め方を誤れば、それも未来になる。
未来になれば、因果が太る。
因果が太れば——
彼はその先を言わなかった。
この段階では、まだ悪魔はいなかった。
だが「条件」は、もう育っていた。
祈が性質を告げた日、会議室の空気が変わった。
変わったのは恐怖ではない。
希望だ。
希望は美しい。
美しいほど危ない。
「つまり」
ある者が言った。
「我々は供給の鎖から解放される」
「つまり」
別の者が言った。
「地球のエネルギー危機を救える」
「つまり」
さらに別の者が言った。
「この星の権利は誰が持つ?」
祈は言った。
「違う。権利じゃない」
「願いに反応するんです」
「反応するなら、願いは抑えないと——」
だが彼らは聞かなかった。
聞くより先に、未来を握り始めた。
「救済」
「使命」
「保護」
「説明責任」
「共同運用」
言葉が増えた。
言葉が整列した。
整列した言葉は、すぐ“札”になる。
札はすぐ“鍵”になる。
鍵はすぐ“権限”になる。
「この技術で億万長者になれる」
「人類の救世主になれる」
「アルファケンタウリに独立国家を建てる」
「地球政府の介入を遮断する」
「いや、統合管理が必要だ」
「いや、監査が必要だ」
「いや、共同運用だ」
揉める。
揉めるほど、未来が増える。
未来が増えるほど、パンミクシウムは応答する。
まだ悪魔はいない。
けれど応答は加速した。
仮設の通路が、いつの間にか“街路”になった。
宿舎が、いつの間にか“街区”になった。
食堂が、いつの間にか“商店”の形を真似し始めた。
掲示板が、いつの間にか“学校の掲示”みたいな文面を貼り始めた。
誰も設計していないのに。
誰も決めていないのに。
「必要」ではないのに。
必要ではないのに現れるのは、期待が膨らんだからだ。
期待は因果だ。
因果が太ると、形は“先回り”して現れる。
祈は会議室の端で、机上の天使の置物を握りしめた。
白衣のポケットには犬と鳥のストラップ。
金具が小さく鳴る。
鈴の音に似ている。
鈴は礼拝に似る。
礼拝は静けさを呼ぶ。
静けさは、舞台を作る。
彼女は息だけで言った。
「……これ以上、未来を増やしたらだめ」
「お願いだから、みんな——」
お願い。
お願いは願いだ。
願いはパンミクシウムが拾う。
祈ははっとして口を閉じた。
閉じても遅い。
閉じたこと自体が恐怖になる。恐怖も未来だ。
ナディームはその場で初めて、背中の汗が冷えるのを感じた。
悪魔はいない。
しかし、悪魔が来る場所の空気が、もう出来ている。
会議室の外で、風がないのに旗が鳴った。
鳴り方が、鐘に似てしまう。
鐘に似ると、誰かが祈りたくなる。
祈りたくなると、未来が増える。
そして未来が増えれば、
ここはいつか必ず、答えを“形”で返す。
祈は机上の小さな列を見つめた。
犬。猫。鳥。天使。
まだ、ただの“好き”だ。
まだ、戦争の形ではない。
まだ、刃ではない。
けれど彼女の目は知っていた。
好きさえ拾われるなら、
刃もまた拾われる。
祈はメガネを直し、レンズの端を拭いた。
その仕草が、祈りの前の沈黙に似ていた。
そして——その沈黙の中で、
誰かが「次」を口にしかけた。
「次」を口にしたのは、祈ではなかった。
祈は止めようとして、止めきれなかった。
会議室の机の上に、誰かが図面を広げた。
「採掘だけじゃない。発電所が要る」
別の誰かが、別の紙を重ねた。
「発電所だけじゃない。送電網が要る」
さらに誰かが、声を上げる。
「送電網だけじゃない。権限が要る」
「権限だけじゃない。国が要る」
「国だけじゃない。軍が要る」
軍。
その語が出た瞬間、祈の顔色が変わった。
軍は未来だ。未来は因果。因果は餌。
餌が増えれば、パンミクシウムは“応答”を加速する。
「だめ」
祈は声を出してしまった。
声を出した時点で束になる。
束は未来になる。未来は因果になる。
「だめです!」
止める言葉は善い。
善い言葉ほど、人は反発する。
反発は怒りを生む。怒りも未来だ。
会議室が割れた。
割れ方が、宗派の分裂に似ていた。
救済を唱える者。支配を唱える者。監査を唱える者。独立を唱える者。
誰も自分を欲深いと言わない。
欲望はいつも、正義の衣を着る。
「人類を救うんだ」
「保護のためだ」
「説明責任がある」
「共同運用だ」
「世界が見ている」
「この奇跡を独占させるな」
「誰が奇跡を管理するのか」
奇跡。
その語が、祈の耳を刺した。
祈は机上の天使の置物を握りしめた。
犬、猫、鳥、天使。
小さな列が、彼女の手の中で乱れる。
乱れることが怖い。
乱れは未来を生む。
そのとき、会議室の照明が一拍遅れた。
停電ではない。
“応答”だ。
窓の外の回廊が、白く脈打った。
脈打ちが、鼓動に似てしまう。
鼓動に似ると、人は期待する。
期待は因果だ。
壁の継ぎ目から、紙が舞った。
紙は議事録の断片だった。
署名欄の切れ端だった。
“共同運用”のスタンプだった。
紙が舞い、床に落ちる。
落ちた紙が、ひとつの形を取る。
最初に見えたのは、仮面だった。
白い仮面。表情のない仮面。
次に見えたのは、人の形の実体。
滑らかで、無駄がなく、どこか舞台の役者のような姿。
誰かが息を呑む。
息を呑む音が束になりそうで、祈は叫びたくなる。
叫べば束になる。束は餌になる。
仮面の者が、踊るように一歩踏んだ。
一歩が礼拝の始まりみたいだった。
祈りではない。
祈りを装った“戯れ”だ。
この者は後にこう呼ばれる。
——マラコーダ級悪魔。
名を知らずとも、意味が伝わる。
列の先頭。
“永遠”の形式。
マラコーダ級の背後に、さらに影が並び始めた。
列を成す。
戯れながら。踊りながら。
地球人を襲うためではない。
地球人の欲望の形を、祝うために。
誰かが叫ぶ。
「何だ、あれは!」
叫びは束になる。束は餌になる。
餌が増える。
列が太る。
祈の喉が痛い。
痛いのは今。今だけなら耐えられる。
だが今が、未来へ引き伸ばされる感覚がある。
マラコーダ級が仮面を傾けた。
まるで司祭が聖餐を掲げるみたいに。
そして胸の内側へ、言葉が落ちる。
——永遠に続いてほしい。
その欲望は、会議室にいた誰かのものだった。
誰か一人のものではない。
全員の言葉が重なって生まれたものだった。
「永遠に続いてほしい」
奇跡が。支配が。救済が。正当化が。自分の役割が。
そして何より、自分が“必要とされる未来”が。
祈は膝が震えるのを感じた。
悪魔は、まだいなかった。
悪魔は、今、生まれた。
探索チームは、すぐに“正しさ”を持ち出した。
正しさは早い。
早いほど、反射で動ける。
だが反射は未来を含む。未来は因果だ。
隔離。
封鎖。
監査。
説明責任。
共同運用。
武装配置。
撤退計画。
情報統制。
手続きの名を連ねるほど、空気が整列していく。
整列は安心を生む。
安心は未来になる。未来は餌になる。
マラコーダ級たちは、そのすべてを舞台装置として受け取った。
隔壁が降りれば、幕が下りたように踊る。
警報が鳴れば、音楽に合わせて戯れる。
銃列が並べば、観客席に向かって頭を下げる。
彼らは排除されることを恐れない。
恐れるのは、相手がいなくなることだけだ。
相手がいなくなると“永遠”が成立しないから。
「撃て!」
誰かが叫ぶ。
叫びが束になる。束は餌になる。
餌が増えれば、悪魔の列が増える。
撃つ。
焼く。
隔離する。
撤退する。
それらは全部、未来の作業だ。
未来の作業はパンミクシウムが大好きだ。
未来の作業が増えるほど、白い層が深く息をする。
祈は分かっていた。
このままでは、手続きが悪魔を太らせる。
排除するほど舞台が完成する。
そして人間は、舞台が完成するほど離れられなくなる。
自分が演者になるからだ。
正義を演じる。責任を演じる。救世主を演じる。
演じるほど、永遠に続いてほしいと願う。
祈は机上の小さな列を見た。
犬。猫。鳥。天使。
それは彼女の“好き”だった。
好きは弱点だ。弱点は餌になる。
だから彼女は、好きから目を逸らさなかった。
逸らすと、嘘になる。
嘘は未来を増やす。未来は餌になる。
彼女は、静かに言った。
「……人がいる限り、止まらない」
ナディームが息を呑んだ。
「何をする気だ」
祈は笑わなかった。
笑えば軽くなる。軽い決断ほど危ない。
「止める」
祈は言った。
「“ここ”を」
「“未来”を」
未来を止める。
それは人間にできることではない。
人間は未来を欲する。未来を増やす。未来を正当化する。
祈はその矛盾を、たぶん最初から知っていた。
だから彼女は——人間の形を捨てる決断をした。
彼女が向かったのは、パンミクシウム層の縁だった。
白い粉が積もる回廊の下。
光が深くなる境界。
あそこは“触れる”場所ではない。
“沈む”場所だ。
ナディームは追った。
追う足音が束になりそうで、口の中が乾く。
乾きは恐怖になる。恐怖は未来になる。
未来は餌になる。
「祈!」
名前を呼んだ瞬間、また未来が増える。
だが呼ばずにいられなかった。
呼ばない善性など、ただの臆病だ。
祈は立ち止まり、振り返った。
メガネの奥の目は、驚くほど静かだった。
静かすぎて、祈りに見える。
彼女は白衣のポケットから、ストラップを取り出した。
犬。猫。鳥。天使。
ひとつずつ掌に乗せる。
掌の上に、小さな列を作る。
「……これ、好きなんです」
以前と同じ言い方。
けれど今は、別の意味だった。
「わたしの“好き”は、拾われる」
「拾われて、形になる」
「形になって、世界に置かれる」
彼女は天使のストラップを指先でなぞった。
なぞり方が、告解の手つきだ。
「だから」
祈は言った。
「ここに置いていく」
「……わたしの好きも」
「わたしの未来も」
「待て」
ナディームの声が震えた。
震えは未来になる。未来は餌になる。
彼は歯を食いしばって震えを殺した。
祈は首を振った。
「止められない」
「止めようとするほど、舞台になる」
「舞台になったら、悪魔は踊る」
「踊り続けるために、もっと欲望を呼ぶ」
そして彼女は、最初から分かっている言葉を言った。
「真理は光だと思った」
「でも光は影も作る」
「わたしが影を作った」
「なら——押し戻す」
押し戻す。
それは戦いの語彙ではない。
贖いの語彙だ。
祈は掌のストラップを、床にそっと置いた。
犬、猫、鳥、天使。
小さな列を、境界線の手前に。
置いた瞬間、金具がちいさく鳴った。
鈴の音に似ていた。
礼拝の音に似ていた。
そして彼女は、白い層へ身を擲った。
落下ではない。
招待でもない。
自分から入る。
自分の意志で沈む。
白が白を飲み込み、彼女の白衣が消える。
消える直前、メガネのレンズが一瞬だけ光を返した。
その光が、最後の合図みたいにナディームの目に刺さった。
次の瞬間、パンミクシウムが深く息をした。
応答は、悪魔の増殖ではなかった。
それが最初の違いだった。
白い層が裂け、そこから“形”が現れた。
形は人ではない。
人の欲望に似ていない。
犬の頭をした小さな存在。
猫のようにしなやかな胴体。
鳥の頭をした軽い影。
そして、簡略化された羽の輪郭を持つ——天使の像。
祈の“好き”の列が、そのまま立ち上がったみたいだった。
けれど彼らは玩具ではない。
玩具の形をした、刃だった。
彼らは叫ばない。
叫ばないから束にならない。
束にならないから餌を増やさない。
彼らは願わない。
願わないから因果を太らせない。
因果を太らせないから、悪魔を喜ばせない。
マラコーダ級の列が踊りながら押し寄せる。
踊りは祈りを装う。祈りを装うから厄介だ。
だが“原初の天使”たちは、祈りに反応しない。
反応しないまま、今の刃で切り込む。
犬頭が跳ぶ。
猫のような影が滑り込む。
鳥頭が上空から体当たりする。
天使の像が、無表情のまま前線を押す。
押す。
押し返す。
押し返すというより、舞台から降ろす。
舞台の縁に追い詰められたマラコーダ級が、仮面を傾ける。
怒りはない。恐怖もない。
あるのは、失望に似た“退屈”だけ。
——相手がいなくなる。
その言葉が、胸の内側に落ちた。
悪魔は理解している。
“永遠の戯れ”は、相手がいて初めて成立する。
原初の天使たちは相手にならない。
願わないから。
今しか持たないから。
未来を増やさないから。
悪魔は、踊りながら退いた。
遊びが終わったのではない。
遊び相手が減るから、退いただけだ。
白い層の縁に、静けさが戻る。
静けさは礼拝に似る。
だがそれは祈りではない。
祈りを奪う者たちが去った後の、空の静けさだ。
ナディームは呆然と立ち尽くし、足元を見た。
境界線の手前に、ストラップが残っている。
犬、猫、鳥、天使。
列のまま、ちいさく光っている。
祈は、そこにはいない。
撤退は決まった。
決まるまでが早すぎた。
早さは恐怖の証拠だった。
調査団は荷をまとめ、通路を封鎖し、鍵を回収し、記録を束ねた。
束ねるほど未来が増える。未来が増えるほど危ない。
だが未来を増やさず撤退することはできない。
原初の天使たちが、撤退路を守った。
守り方が静かだった。
守り方が“今だけ”だった。
誰もが祈の名を口にした。
口にした瞬間、祈が未来になる。
未来になった祈は、パンミクシウムに拾われる。
だから記録は、こう書いた。
天城 祈:消息不明
それが最も冷たい赦しだった。
名を固定せず、未来を増やさないための嘘。
嘘は罪だ。
だがこの場では、罪が命を救う。
地球人が減ると、悪魔も減った。
悪魔は“永遠の戯れ”の相手を失うと退く。
退くのは敗北ではない。
次の舞台へ移る準備だ。
種子島は、静かになった。
静かになったが、元には戻らない。
一度現れた形は、残る。
残る形が、人間の欲望の残骸になる。
撤退艇の窓から、ナディームは白い層を見た。
白の奥に、祈がいる気がした。
気がすることは期待だ。期待は未来だ。
未来は危ない。
彼は目を閉じた。
閉じても祈りはしない。
祈れば、ここでまた未来を増やすから。
ナディームは端末の画面を見つめ、指で空白をなぞった。
輸送記録は途切れている。
死亡報告はない。
救出報告もない。
消息不明。
最も都合のいい言葉。
最も冷たい言葉。
最も政治が好きな言葉。
彼は、別の資料を開く。
撤退後の種子島コロニーの拡張記録。
異常な速度。
異常な増築。
地球の街並みを模した施設。
学校。儀礼。入学式。繁華街。監査ゲート。共同運用棟。
人間の欲望が、形を太らせた。
「ここを第二の地球にする」
「ここを資源の都にする」
「ここを支配の座にする」
そのどれもが“救済”の衣を着ている。
一方で、管理の記録がある。
天使の管理ログ。
“今”の維持。
因果偏位の制御。
願いを増やさない運用。
そして下級天使の形態記録——犬頭、鳥頭。
ナディームは目を細めた。
そこに、祈の机上の小さな列が透けて見えた。
犬。猫。鳥。天使。
兵器設計ではない。
美学でもない。
善性の残骸だ。
彼は理解した。
種子島の現在は、二つの意志でできている。
ひとつは、人間の欲望。
もうひとつは、天城 祈の贖い。
欲望が拡張し、贖いが管理する。
だからコロニーは“成立してしまった”。
成立してしまったから、政治は群がる。
群がるから、吠える。
吠えるから、パンミクシウムはまた深く息をする。
そして今——ローラが招待された。
白河が現れた。
ヒナの影のようなファルファレルロ級が遊びに誘う。
祈は、消えていない。
ただ、形を変えた。
ナディームはそれを「確信」と呼ぶしかなかった。
机上に、古い写真が一枚あった。
調査団の集合写真。
画面の端に、白衣の袖が見切れている。
メガネの女。
机の上には小さな列。
犬。猫。鳥。天使。
ナディームは写真を伏せた。
伏せるのは祈りではない。
祈りにしてしまうと未来が増えるからだ。
窓の外で、遠くの空が一瞬だけ白く明滅した。
セラフの光——と彼は思ってしまい、すぐ思考を折った。
思うことも因果だ。
因果は餌だ。
それでも彼は決めた。
白河へ行く。
祈の痕跡へ行く。
ローラが踏み込んだ“再現都市”へ行く。
そこは天城が拒んだはずの再現だ。
拒んだはずのものが成立しているなら、彼女はまだ戦っている。
戦っているなら、救えるかもしれない。
救いという語が口に出そうになり、彼は飲み込む。
救いは未来だ。
未来は危ない。
代わりに、彼は冷たい言葉で自分を縛った。
「回収する」
「空白を」
「そして——」
彼は写真の裏にある、天城の筆跡を思い出す。
真理は光だ。
光は影を作る。
影を押し戻すには、誰かが投げなければならない。
彼女が投げたのは身体ではない。
——人間の未来そのものだった。




