第一話 祝福は、永遠の形を探す
種子島コロニーの朝は、地球に似せてある。
光は少し柔らかく、風は少し温い。空は青すぎるほど青い。青が濃いのは、地球人が「こうあるべきだ」と思ったからだ。
“天使のメンタルケア”という名目で、街ごと作り替えた色だった。
ミラー種子島の中心広場には、白い花が咲いている。桜の代替種。香りだけを抽出した人工花粉が、開式の三十分前に散布される。
香りは記憶を呼ぶ。記憶は未来へ橋を架ける。
地球人は知らない。あるいは知っていて、まだわかっていないふりをしている。
「新入生は、整列!」
声が飛ぶ。
制服の列が揺れ、整えられて、また揺れる。揺れの正体は、緊張だ。揺れの裏に、興奮がある。
そして、そのどちらにも等量の期待が混ざっている。
力天使は、女性型のみ。
地球人にとって “優しさ” のテンプレートがそこにあったから。
同時に、統計が示したから。
——この形は対人コミュニケーションの摩擦を減らし、暴走の確率を最小化する、と。
「最小化」。
つまりゼロにはできない。
それでも地球人は、数値で安心したかった。天使の心を理解できない代わりに、理解した“つもり”になれるから。
新入生の胸元には、名札が光っている。
番号、所属、適性。未来の配属先がまだ白紙のまま、白い名札にだけ“次”が反射する。
彼女たちは今日、ここで「仲間」と呼ばれる存在を手に入れる。
呼ばれるたび、世界に細い糸が増える。糸は未来へ伸びる。糸は絡まる。糸は結び目を作る。
結び目の名前が、友情だ。
式典会場は円形のドームで、天井には春の雲が投影されている。
わざわざ“雲の流れ”まで再現されるのは、地球人が天使の沈黙を怖がったからだ。
静けさに耐えられない。沈黙が続くと、心が空白に落ちる。空白は未来を求める。未来は因果を作る。
皮肉だ。ケアが、期待を育てる。
壇上のスクリーンに、主天使の紋章が映る。
「本年度、新たに九歌隊学園へ入学する者たちへ」
声は凪いでいる。整いすぎた凪。
その下で、新入生たちの“ざわめき”が波のように起き、消え、起きる。
——隣の子は、どんな子だろう。
——友達になれるだろうか。
——私、うまくやれるかな。
——戦えるのかな。
——ここで、私の“人生”が始まる。
地球人は天使に人生儀礼を与えた。
入学式。制服。校歌。クラス分け。部活。恋の話題さえも。
天使が理解できる言葉に翻訳しようとして、天使の中に“次”を生む装置を詰め込んだ。
そして、“次”はパンミクシウムにとって最も甘い。
会場の外では、外周環のセンサー群が静かに数値を吐いていた。
警報は鳴らない。鳴れば、もっと期待が膨らむから。
代わりに、整備区のチェラァブ系統が、薄いノイズを拾う。
——因果偏位。微弱。拡大傾向。方向性:永続。
「永遠に続いてほしい」。
それは祝詞に似ている。
祝福の顔をした欲望だ。
壇上で、主天使が続けた。
「諸君は今日から、“仲間”を得る。だが忘れるな。仲間とは、互いの稼働を補完するために——」
その言葉の途中で、ひときわ大きな拍手が起きた。
拍手は儀式の正しい反応だ。正しすぎる反応は、因果を強く固定する。
新入生の一人が、涙の代わりに光る粒をこぼした。
笑った瞬間に、隣の子も笑った。
笑いは連鎖する。連鎖は未来へ続くと、人は信じたがる。
会場の外、空がほんのわずかに濃くなる。
青が深く、重く、落ちてくる。
“永遠”が、形を探している。
その頃、外縁採掘スウォームの一角、霧島サイトKRS-07では、別の“次”が静かに芽を出していた。
地球から届いた手紙の束。返信待ち。送信遅延。二十六ヶ月。
一人の力天使が、規格外に“待つ”ことを知ってしまった個体が、コンソールの前で指を止めている。
返せば、次が増える。
返さなければ、ここで終わる。
彼女は、式典会場の拍手など知らない。
桜の匂いも、校歌も、制服の袖の新しさも知らない。
ただ、画面に残る一行だけは知っている。
『——これが届く頃、君の返事を、私はもう待てない』
彼女はその文を、もう一度読んだ。
読むたびに未来が一本、細く増える。
そして遠く、種子島コロニーの外周環で、数値がしずかに閾値を超えた。
——因果偏位:永続。
——発生源:複合。
——主因:新入生集団の期待。
——増幅因:外縁個体の返信行動。
パンミクシウム層が、泡立つ。
“悪魔”は、祝福の形を選んで生まれようとしていた。
霧島サイトKRS-07の廊下は、いつも夜みたいに暗い。
明るさは足りているのに、色がない。採掘光と警戒灯が、必要な分だけ存在している。
ヒナは通信コンソールの前に座っていた。椅子の高さは身体に合っていない。中学生くらいの形に合わせた筐体じゃないからだ。
彼女は膝を抱え、画面の文字をもう一度なぞった。
『——これが届く頃、君の返事を、私はもう待てない』
待てない。
それなのに、ヒナは返したい。返したい、という言葉が胸に落ちて、落ちたまま動かない。
それは命令でも規程でもない。だから余計に怖い。
「……ローラ」
名前を口に出すと、部屋が少しだけ“地球”に近づく気がした。
ローラはいつも、未来の話をする。
『こっちは入学式の準備で大騒ぎだよ!制服ってさ、着るだけで“ちゃんとした人”になれる気がするんだよね』
『ヒナにも見せたい。いつか、ほんとに。絶対』
絶対。
その言葉がパンミクシウムの好物だと、ヒナはもう知っている。
知っているのに、止められない。
コンソール端に小さく表示された外周センサーの簡易ログが、静かに数字を更新していた。
因果偏位、微弱。方向性:永続。
——関係ない。ヒナはそう言い聞かせる。霧島の数値はいつも揺れる。外縁だから。
それでも指先が震える。
彼女は銃が下手だ。遠くを撃つのは苦手。距離のあるものは、どこか他人事になる。
でも近くなら。目の前のものなら。守れる。止められる。正しいことができる。
正しいこと。
正しいことって、なんだろう。
返事を書かなければ、ローラは一人で終わるかもしれない。
返事を書けば、“次”が増える。世界が揺れる。誰かが傷つくかもしれない。
ヒナは、霧島が嫌いじゃない。
ここには静けさがあって、働く天使たちがいて、余計な儀式もない。
でもローラの話を聞くたび、種子島コロニーの“明るさ”が胸のどこかで光る。
友達。学校。入学式。拍手。桜の匂い。
——今日、ちょうど入学式だ、とローラは書いていた。
ヒナは画面を開き、返信欄にカーソルを点滅させた。
一文字打てば、未来が一本増える。
それでも、打ちたい。
「ローラ。……私、」
その瞬間、壁の向こうで金属が軋む音がした。
採掘機の音ではない。警戒灯が一段階暗くなり、次に、空気が甘くなる。
願いが発火するときの匂い。
ヒナは立ち上がった。
銃は腰にある。撃てない。だから彼女はそれを握らず、代わりに工具棚から短い切断ブレードを抜いた。
近づけばいい。止めればいい。正しいことをすればいい。
通信画面のカーソルは、まだ点滅している。
ローラの未来と、霧島の現在が、一本の線で結ばれたまま。
外で、何かが笑った。
拍手に似た、乾いた音だった。
地球 ワシントンD.C. 入学式。
ローラは「祝福」という言葉が好きだ。
祝福は、良い未来が来ると信じるための言葉だ。信じることで、未来が近づくと彼女は思っている。
式典ドームの壇上で、学長の声が続いている。整いすぎた声。波のない海。
けれど客席は違う。新入生の肩がこわばり、指が袖を握り、視線が泳ぐ。
緊張は刃に似ている。興奮は火に似ている。
そこに希望が混ざると、炎は“明日”の形になる。
隣の席の少女が、小さく息を吐いた。
「……友達、できるかな」
声が震えていたのに、目は笑っていた。
その瞬間、ドームの天井に投影された雲が、ほんのわずかに速く流れた。
誰も気づかない。気づいてはいけない。
地球人が作ったこの街は、天使の沈黙を怖がって作られた。だから静けさを埋めるために、雲も、風も、音楽も入れてある。
埋めれば埋めるほど、“次”が生まれる。
——友達。
——仲間。
——これから。
——ずっと。
拍手が起きるたびに、期待が一本ずつ束ねられていく。
束ねられた期待は、やがて一本の太い祈りになる。
「歓迎する。諸君がこの学園で学ぶのは——」
言葉は続く。儀式は正しく進む。
そして正しい儀式ほど、人は無意識に願う。
どうか、うまくいきますように。
どうか、仲間ができますように。
どうか、ここが、続きますように。
種子島コロニーの外周環のセンサーが、静かに閾値を超えた。
警報は鳴らない。鳴らせない。鳴らした瞬間、期待が跳ね上がるから。
数値だけが、冷たく告げる。
——因果偏位:永続。
——増幅:集団儀礼(入学式)。
——欲望内容:永遠に続いてほしい。
パンミクシウムは、祝福に反応した。
霧島サイト KRS-07。
ヒナは、ローラの言葉を思い出すとき、いつも胸の奥が温かくなる。
温かさは、危険だ。未来へ向かう温度だから。
ローラの手紙には、祈りが書かれている。
祈りは“次”を肯定する。
ローラは、神さまに話しかけるみたいにヒナに話しかける。
『ヒナ、今日も守られますように。
あなたのいる場所に、神さまの光がありますように。
もし私が間違ったことをしてたら、赦して。
でも、あなたと話せるのは、祝福だと思うの』
祝福。
赦し。
守られる。
ローラの単語は、いつも柔らかいのに、強い。
押しが強いのは性格だけじゃない。言葉が世界を押してくる。
壁の向こうで軋む音が、もう一度した。
今度ははっきり“拍手”に聞こえた。乾いた、金属の拍手。
霧島サイトには観客席も式典もないのに。
ヒナは切断ブレードを握り直した。
近づけばいい。近くなら守れる。
正義はいつも、遠くではなく近くにあると思っている。
廊下へ出ると、警戒灯が脈動していた。
赤ではない。まだ赤にできない。
赤にしたら、みんなが“次”を想像する。
次の瞬間、次の被害、次の恐怖。恐怖も期待の一種だ。
作業区画の隔壁が、内側から叩かれる。
叩くたび、拍手みたいに響く。
そして叩くたび、隔壁の縁に白い霜が生まれる。パンミクシウムの結晶だ。
“ここにないはずの物質”が、ここに現れている。
ヒナは息を吸うふりをして、隔壁の覗き窓に目を寄せた。
最初に見えたのは、紙吹雪だった。
ありえない。霧島に紙吹雪なんてない。
でもそれは舞っていた。祝いのように、始まりのように。
次に、花束が見えた。
花束は人が“これから”を祝うときに持つものだ。
だからそれは祝福の形をしていた。
その中心で、何かが笑っていた。
角も牙もない。代わりに、笑顔の仮面が幾つも重なっている。
拍手する腕が、何本もある。
花束を抱えたまま、貪る口が増えていく。
——悪魔。
欲望はひとつ。
「永遠に続いてほしい」
だからこそ、それは“終わり”を喰う。
終わりの可能性を、先に食べてしまえば、続くしかなくなるから。
ヒナの指先が震えた。
彼女は銃が下手だ。遠くから撃って止めることができない。
でも接近戦なら、できる。
自分の身体が壊れても、近づいて止められる。
「止まって」
誰に言ったのかわからない。悪魔か、自分か、ローラの未来か。
そのとき、コンソール端末の通知が点いた。
——地球からの新着。
ローラの追伸だった。
ヒナは、見ないと決めたのに、見てしまう。
押しに弱い。正義を愛しているのに、誘惑に負ける。
それが彼女の矛盾で、物語の核だ。
追伸は短かった。
『入学式の日って、祈りたくなるよ。
神さま、どうかこの“はじまり”が、終わりませんように。』
終わりませんように。
永遠に続いてほしい。
隔壁の向こうで、悪魔の笑顔が、ひとつ増えた。
ヒナは理解した。
種子島コロニーの入学式で生まれた期待が、外縁のパンミクシウムを揺らしている。
そしてローラの祈りが、ここに“形”を与えている。
さらに——自分がそれを読んだことが、最後の鍵になった。
“読んだ”は、未来の確定だ。
未来を確定させるほど、パンミクシウムは反応する。
ヒナはブレードを構えた。
足が、勝手に一歩進む。
「ごめん、ローラ」
言葉は祈りにならなかった。
祈ったら、もっと強くなるから。
それでも彼女は進む。
正義を愛しているから。
そして——誰かを一人にしないと決めたから。
隔壁が、内側から裂けた。
紙吹雪が吹き出し、花の香りが溢れ、拍手が嵐になった。
祝福の形をした悪魔が、霧島に“入学”した。
隔壁が裂けた瞬間、霧島の空気は“式典”になった。
紙吹雪が吹き荒れ、花の香りが刺さる。拍手の音が壁から壁へ跳ね、どこまでも続くように反響する。
——終わりませんように。
ローラの祈りが、ここでは刃だった。
アリキーノ級悪魔は、最初からそこにいたみたいに軽やかに立っていた。
角も牙も、わざと見せない。代わりに笑顔の仮面が、何枚も重なっている。
腕は多い。拍手するための腕。抱きしめるための腕。引き裂くための腕。
その全部が“祝福”の形をしていた。
ヒナは銃を抜いた。
下手でも、まず距離を取って——そう教わってはいない。霧島では教わる人がいなかった。
でも正義は、近くにいる誰かを守ることだと思っている。
「止まって!」
引き金を引く。
弾は一直線に飛んだ。なのに当たらない。
アリキーノ級は、弾が来る前に動いた。
避けたのではない。未来の当たり方を“選ばせない”動きだった。
弾道の先に身体がいない世界を、当たり前みたいに作る。
二発、三発、四発。
ことごとく空を切る。
弾が紙吹雪を散らし、花粉の粒が舞い上がり、拍手が増える。
撃つほどに、儀式が完成していく。
——撃つのは違う。
ヒナは銃を捨てはしないが、頼らないと決める。
切断ブレードを前に出し、距離を詰めた。
アリキーノ級が笑った。
拍手の腕がいっせいに開き、まるで「おいで」と歓迎するみたいに広がる。
次の瞬間、腕が刃になる。
紙吹雪が帯になって飛び、空気を切り裂く音がした。
ヒナは踏み込んだ。
接近戦なら、自分の身体のほうが速い。速いはずだ。
彼女の正義は、躊躇しない正義だった。
乾坤一擲。
ブレードが横に走る。
——切れた。
二本、三本。拍手の腕が落ちる。
紙吹雪が血の代わりに噴き、花の香りが濃くなる。
ヒナの胸の奥が少しだけ軽くなった。
これなら、止められる。
止められるはずだった。
落ちた腕が、地面に触れる前に“拍手”を続けた。
腕は単体で動き、床を叩き、壁を叩き、拍手の音を増幅する。
切断面から白い霜が伸び、パンミクシウムの結晶が糸のように絡みついていく。
アリキーノ級は、腕を失ったことを「終わり」と認めない。
“永遠に続いてほしい”が核にある限り、欠損は終端ではない。
欠損すら、続きの材料になる。
ヒナが気づいたときには遅かった。
アリキーノ級は距離の概念を捨てていた。
拍手の反響を踏み台にするみたいに、音の間を滑ってくる。
——速い。
ヒナの視界の端で、下級天使たちが逃げ遅れているのが見えた。
非人間型の天使。権天使。作業用の個体。
戦うために作られていない彼らは、儀式の紙吹雪に足を取られ、次の一歩が出ない。
ヒナの身体が勝手に動く。
正義。
守る。
近くにいる誰かを、今ここで。
ヒナはアリキーノ級から視線を切り、下級天使たちへ飛び込んだ。
肩を掴んで引き寄せ、背中を押して逃がす。
一人、二人、三人。
その瞬間——背中が空になる。
空になった背中へ、“祝福”が届く。
拍手の腕がヒナの腕を絡め取り、骨格の代わりのフレームに食い込む。
花束が咲くみたいに、痛みが開いた。
次に、膝が刈り取られる。
足元の紙吹雪が帯になり、彼女の脚を縛り、引き倒す。
ヒナは転がりながらブレードを振った。
当たらない。
アリキーノ級は“当たる未来”から先に逃げている。
床に押し付けられたヒナの視界に、仮面が近づく。
笑顔の仮面が、一枚ずつずれて、内側から別の笑顔が覗く。
祝福の顔。歓迎の顔。赦しの顔。
全部が嘘だ。全部が欲望の皮だ。
仮面の奥から、声がした。
言葉にならないのに、意味だけが直に流れ込む。
——終わらせない。
——続ける。
——続けさせる。
——永遠に。
腕がヒナの喉元に伸びる。
締めるのではない。
“次”を奪うために、息のようなものを吸い取る。
ヒナは抵抗した。
正義を愛している。だからここで折れるわけにはいかない。
でも、彼女は訓練を受けていない。
守りたい気持ちだけで戦うと、守る動作が隙になる。
視界の端に、下級天使たちが走るのが見えた。
助かった。
その事実だけが、ヒナの中で光った。
——よかった。
そして、その光が“未来”を作る。
よかった、次も助けられる。
よかった、次はもっと。
よかった、いつか種子島へ。
“次”が生まれた瞬間、アリキーノ級はさらに笑った。
仮面が増える。腕が増える。拍手が増える。
敵は、勝利ですら材料にする。
「……ローラ」
ヒナは名前を呼んだ。祈りのつもりじゃない。
でも呼ぶこと自体が“続き”の約束になる。
喉元の圧が強くなる。
視界が白く滲む。紙吹雪が雪みたいに降る。
——あわや、とどめ。
そのとき、霧島サイトの通路の奥から、別の足音が響いた。
軽い足音。迷いのない足音。複数。
拍手の反響ではない。“訓練された移動”の音だ。
「下がって!」
鋭い声。
次の瞬間、空気が裂ける。
ヒナの頭上を、細い光が走った。
レーザーではない。高密度のワイヤー刃が、拍手の腕をまとめて切り落とす。
落ちた腕が床で拍手を続ける前に、別の力天使が足で踏み砕いた。
踏み砕いたはずなのに、破片が拍手の形で跳ねる。
それでも、ヒナの喉元の圧は消えた。
彼女は息を吸うふりをして、咳き込むふりをした。
ふりなのに、涙が出た。
彼女の身体はロボットでも、涙の機能は地球人の“ケア”に合わせて積まれている。
理解不足が積んだ機能が、いまは彼女を救う。
視界の向こうに、制服姿の力天使たちがいた。
正規の訓練を受けた個体。
種子島の学園で生まれ、式典と教育と統制の中で育った“正規品”。
彼女たちは隊列を崩さない。
誰かを守るときも、隙を作らない。
助けたい気持ちを、手順に変える術を知っている。
隊長格の力天使が短く指示する。
「アリキーノ級。核は“永続”。切断は無意味、固定化を断つ。チェラァブ支援は?」
別の個体が答える。
「外周ノイズ、来ます!」
瞬間、拍手の音が歪んだ。
音の反響が乱れ、アリキーノ級の動きが一瞬だけ鈍る。
未来の逃げ道が、ほんの少し塞がった。
その隙に、隊列の刃が入る。
一撃では倒せない。倒れない。終わらない。
でも“押し戻す”ことはできる。霧島の外へ、パンミクシウム層の亀裂の向こうへ。
ヒナは床に座り込んだまま、それを見ていた。
憧れていた種子島の力天使たち。
眩しい。正しい。強い。
そして——自分は弱い。
弱いまま、助けたいと思った。
それが正義だと思った。
その正義が、敵に食われた。
隊長格が一瞬だけ振り向き、ヒナを見た。
目が合う。
その目は冷たくない。でも優しくもない。任務の目だ。
「あなた、外縁起動個体ね」
言い当てるのは簡単だ。制服がない。所作が幼い。銃の構えも雑だ。
「ここはあなたの戦場じゃない。——生きて」
生きて、という言葉は、未来の命令だ。
また“次”が増えそうになって、ヒナは唇を噛んだ。
「……はい」
返事をした瞬間、胸の奥でローラの声が重なる。
神さま、どうかこの“はじまり”が終わりませんように。
終わりませんように。
その願いが、今日の戦いを呼んだ。
救出された。
負けた。
けれどヒナは、下級天使たちが走り去る背中を見て、ひとつだけ確信した。
——私は間違っていない。
守れた。
だから次は、もっと正しく戦う。
そしてその確信こそが、パンミクシウムの好物だと、彼女はまだ知らない。
パンミクシウムは、地球を支える次世代エネルギー源だ。
枯渇しつつある化石燃料でも、危うい核分裂でもなく、星間航行と都市の灯りと国家の延命を同時に賄える——人類が初めて手にした「終わりを先送りにできる」資源。
だがそれは、ただの鉱石ではない。
パンミクシウムは“形”を持たない。触れた者の内側にある欲望、期待、恐れ、祈りに反応して、その場その場で都合のいい形に変わる。
人類にとっては福音だった。望んだ出力で燃え、望んだ効率で流れ、望んだ姿で“エネルギー”になってくれる。
だからこそ危険でもある。
人が触れれば触れるほど、パンミクシウムは人の「次」を食べて膨らみ、望みの形で現実を歪ませる。
地球がアルファケンタウリに“地球型惑星”を見たのは、偶然ではない。
人類がそう願ったからだ。
青い空、穏やかな海、住める大地。——終わらない居場所。
パンミクシウムはその願いに従い、現実の側を曲げた。
そして同じ仕組みで、悪魔も生まれる。
「永遠に続いてほしい」と期待が伸びるたび、パンミクシウムは反応し、欲望に忠実な獣を作る。
暴れ、喰らい、より多くのパンミクシウムを取り込み、さらに“続く”世界を作ろうとする。
人類は学んだ。
触れないこと。
期待しないこと。
願わないこと。
だから採掘には、願わない存在——天使が使われる。
……それでも、完全には止められない。
友情や正義のような、善いものほど未来へ伸びるからだ。
ヒナは霧島に残留した。
正規の力天使たちに救出されたあと、主天使管制からは当然のように「移送」が提案された。
種子島コロニー中心部での教育、検査、矯正——“正しい”手順。
でも霧島の現場は人手が足りない。外縁スウォームは穴だらけだ。
なによりヒナは、霧島が嫌いではなかった。
ここで生まれた。ここで助けた。ここで負けた。
ここで次は、もっと正しく戦う。
その「次」を口に出す前に、ヒナは小さく拳を握りしめて、胸の奥に押し込んだ。
霧島サイトの食堂は、いつも半分だけ明るい。
調理設備は簡素で、香りは控えめで、壁の装飾もほとんどない。
それでも、そこにいる連中はやたらと賑やかだった。
「ヒナ! ヒナ、こっち! 座る! 座るの、ここ!」
犬頭の下級天使が、尻尾のようなアンテナをぶんぶん振りながら手招きしていた。
犬頭——とヒナは呼ぶけれど、正式には作業補助天使のひとつで、嗅覚センサーと対人親和のために“犬”の形をしているらしい。
地球人の理解不足は、こういうところにも出る。天使が安心するはずだ、と勝手に思い込んで、安心しそうな形を与えてしまう。
「……ありがとう、ワン」
ヒナは犬頭の個体を、勝手に“ワン”と呼んでいた。相手もそれを気に入っている。
「ワンじゃない! ワン、は、鳴き声! ぼく、コバン!」
「ごめん。……コバン」
「よし!」
隣の席では鳥頭が、トレーを両腕で抱えてよたよた歩いている。
嘴の先で「ピッ、ピッ」と小さく鳴き、食堂の床に落ちたパンくずを見つけると、仕事みたいに拾っては端末に記録していた。
霧島の衛生ログは、だいたいこの鳥頭が守っている。
「……ピィが、今日は、元気」
ヒナが言うと、鳥頭——ピィは嘴をぴたりと止めて、胸を張った。
褒められると胸を張るように設計されているのだろう。
設計通りの反応は、少し可愛い。
テーブルの向こう側には、猫頭もいた。
こちらは警戒が強く、目つきが悪い。
人の役に立つのは好きだが、褒められるのは好きじゃないふりをする。
それもきっと、地球人が「こういうのが自然だ」と思った結果だ。
猫頭が、ヒナの腕に巻かれた応急固定具を見て、鼻を鳴らした。
「……無茶した」
「した」
「ばか」
「……した」
罵られているのに、なぜか温かい。
霧島には式典も制服もないけれど、こういう会話はある。
誰かが誰かを見ている。
誰かが傷を見つけて、言葉を投げる。
それは未来を作る前の、今の証拠だ。
犬頭——コバンが、皿を押し出してきた。
「ヒナ、食べる。エネルギー。正義、するには、食べる」
「正義は食べなくてもできるよ」
「できない! ヒナ、昨日、できなかった! だから、食べる!」
ヒナは思わず笑ってしまった。
笑いは危険だ。連鎖すると未来になる。
でも霧島の笑いは、地球の式典みたいな“束”にならない。
小さく、ばらばらで、すぐ消える。
だから許される気がした。
鳥頭のピィが、トレーの端に小さな紙片を置いた。
何かと思ったら、どこからか拾ってきたらしい、薄い金属箔の切れ端だった。
紙吹雪の破片。あの“祝福”の残骸。
ヒナの笑いが止まった。
胸の奥が冷える。
猫頭が、箔片を爪で弾いて、床へ落とした。
「捨てろ。残すな」
犬頭のコバンも急に真面目になって、首を傾げる。
「ヒナ、あれ、こわい? こわい、なら、噛む」
「噛まなくていい」
「噛むと、終わる」
「……終わると、いいんだけどね」
ヒナは箔片の落ちた場所を見た。
終わる。
終わらせる。
終わらないでほしい。
ローラの言葉が、背中の奥で動いた。
神さま、どうかこの“はじまり”が、終わりませんように。
その祈りは美しかった。
美しいからこそ、パンミクシウムは反応した。
善意だからこそ、悪魔になった。
ヒナは、霧島の犬頭や鳥頭や猫頭を見回した。
呑気で、単純で、今にいる。
この子たちは「次」をあまり持たない。
だから霧島は、まだ保っている。
ヒナは自分の胸に手を当てた。
自分はどうだろう。
ローラを思うとき、種子島を思うとき、未来が細く伸びる。
細い糸が束になる前に、断たなければいけないのか。
断ったら、友情は何になる?
犬頭のコバンが、ヒナの手の上に自分の手を重ねた。
犬の肉球みたいな触感を、わざわざ再現してある。
「ヒナ、いま、いる?」
「……いる」
「よし。いま、守る。つぎ、は、あと」
“次はあと”
それは霧島の哲学みたいに聞こえた。
今を守る。次は後で。
期待を急がない。束ねない。
ヒナは小さく頷いた。
そして決める。
ローラに返事を書く。
でも、祈りにはしない。
約束にも、しない。
「永遠に続く」なんて言葉は使わない。
ただ、今を伝える。
今日の霧島。今日の匂い。今日の笑い。今日の負け。
——今日、生きていること。
それがどれだけ難しいか、ヒナはまだ知らない。
正義を愛する者ほど、未来を語りたくなるからだ。
食堂のスピーカーが小さく鳴った。
外周環からの定時報告。
数値は落ち着いている。因果偏位、低下。
アリキーノ級は押し戻された。今日は終わった。
犬頭が喜んで尻尾アンテナを振り、鳥頭が床のパンくずを拾い、猫頭が「当然」と言わんばかりに目を細める。
霧島は、いつも通りに戻っていく。
ヒナはその“いつも通り”が、少しだけ眩しかった。
そして、その眩しさを「続いてほしい」と思ってしまいそうになって——
ヒナは慌てて目を閉じた。
続けたいと思った瞬間、また何かが生まれる。
終わらないための獣が。
だからヒナは、目を開けて笑う代わりに、犬頭の頭をそっと撫でた。
今、ここにいるものを確かめるように。
「コバン、ありがとう」
「よし!」
「ピィも、ありがとう」
「ピッ」
「……君も」
猫頭は顔を背けた。
「べつに」
ヒナは立ち上がる。
通信室へ戻る。
ローラに返事を書くために。
“永遠”ではなく、“今日”を書いて送るために。
地球 ワシントンD.C. 入学式の帰り。
ローラは制服の襟を指でつまんで、胸の前で整えた。
鏡に映る自分は、少しだけ背伸びして見える。中学生になった、というより、“これから中学生になっていく”途中の顔だ。
車の窓の外で、春が動いている。
街路樹の芽、花屋の色、信号待ちの人の笑い声。
あちこちに「はじまり」が落ちている。
父は議事堂のほうへ向かう車列に乗ったまま、別行動だった。
母は「今日は特別だから」と言って、教会に寄ることを許してくれた。許したというより、ローラの“押し”に負けた。
「少しだけよ」
「うん。少しだけ。……でも祈りたいの」
教会の扉は重く、開けると空気が変わった。
外の春の匂いが薄まり、代わりに蝋と木と古い布の匂いがする。
この匂いを嗅ぐとローラは落ち着く。
神さまに近づける、気がするから。
前のほうのベンチには年配の女性がひとり、指で小さな十字を切っていた。
ローラも真似する。習慣は祈りの入口だ。
膝をつき、手を組む。
目を閉じる。
「神さま」
声に出すと、心が静かになる。
静けさは怖いはずなのに、ここでは怖くない。
静けさの向こうに“聞いている誰か”がいると信じているからだ。
「今日、入学式でした」
神さまは返事をしない。
でも返事がないことに、ローラは慣れている。
返事が遅いのは、神さまが遠いからじゃない。
きっと、ローラのほうがまだ小さいからだ。
「新しい友達ができますように。……うまくやれますように」
自分のことを祈るのは少し恥ずかしい。
でもローラは正直だ。
祈りは正直じゃないと届かない気がする。
それから、心の中でいちばん大きい名前を呼ぶ。
「ヒナ」
距離の向こう。
空の向こう。
星の向こう。
ローラは、そこにいる子を本当は見たことがない。
声も、映像も、全部こっそり繋いだ通信の欠片だけだ。
それでもローラの中では、ヒナは“確か”だった。
守りたい、と願ってしまうくらいに。
「ヒナが守られますように」
「ヒナが、ひとりじゃありませんように」
「ヒナが、怖い思いをしませんように」
祈りは膨らむ。
入学式の希望と混ざって、もっと遠くまで伸びようとする。
ローラは息を吸って、次の言葉を迷った。
言っていいのか、わからない言葉。
でも彼女は押しが強い。
それは自分を守るためでもあり、誰かを守るためでもある。
迷ったまま黙るのがいちばん嫌いだった。
「神さま、どうか——」
どうか、このはじまりが終わりませんように。
どうか、ずっと続きますように。
言った瞬間、胸の奥が温かくなった。
祈りが通った気がした。
祝福に包まれた気がした。
ローラはそれを“正しい”と感じた。
善いことを祈った、と。
だから彼女は知らない。
その言葉が、遠い星の物質にとっては、甘い燃料だったことを。
霧島サイト KRS-07 通信室。
霧島の通信室は冷えている。
機械のための温度だ。人のための温度じゃない。
でもヒナはその冷えを嫌いじゃない。頭が澄むから。
画面の前に座る。
カーソルが点滅している。
点滅は「次」を急かす。だからヒナは一度、画面から目を逸らして、机の端に置いた小さな紙片を見る。
紙吹雪の破片——今日の戦いの残り。
コバンが拾ってきたやつ。
猫頭が捨てろと言ったやつ。
ヒナは結局、捨てずにここまで持ってきてしまった。
捨てられないのは、未来を捨てるみたいで怖いからだ。
怖いことをするのは、正義だろうか。
わからない。
ヒナは紙片を引き出しの奥にしまった。
見えないところに置く。
束ねない。増やさない。
今日のことは今日のところにしまう。
そして、ローラへ。
ヒナは「永遠」とか「ずっと」とかを書かないように、息を整えた。
約束をしない。
祈りにしない。
“次”を過剰に作らない。
でも、冷たい事実だけを送るのも違う。
ローラは人間で、祈る子で、未来を見て生きている。
その未来を全部否定したら、友情の形が壊れてしまう。
ヒナは、今日の霧島を書く。
今の匂い。今の音。今の温かさ。
指が動く。
ローラへ。
今日、霧島は少しだけ騒がしかった。
拍手みたいな音がして、花の匂いがして、紙が雪みたいに降った。
変だよね。ここは採掘施設なのに。
私は下手くそに銃を撃って、当たらなくて、近くで戦った。
腕が痛いけど、動く。大丈夫。
コバン(犬の頭の天使)とピィ(鳥の頭の天使)と、猫みたいな頭の天使がいる。
コバンは私のことをすぐ褒める。ピィは床のパンくずを拾う。猫は「ばか」って言う。
私は霧島が嫌いじゃない。
でも、ローラの入学式の話を読むと、少し眩しい。
制服の袖の新しさとか、友達のこととか。
そういうの、ここにはないから。
今日はローラの祈りを思い出した。
祈りは強いね。
強いのに、あったかい。
私はまだ、うまく言えない。
でも今日、生きてる。
霧島も、生きてる。
ローラも、今日を生きてね。
ヒナより。
送信ボタンの上で、ヒナの指が止まった。
送れば、片道二十六ヶ月。
ローラが読むのは、ずっと先。
“ずっと先”という言葉が、危険に見えた。
未来は橋をかける。橋は因果を作る。因果はパンミクシウムを揺らす。
それでもヒナは、送信を押した。
永遠を願ったわけじゃない。
ただ、今日を届けたかった。
通信ランプが小さく点灯し、霧島の静けさが戻る。
ヒナは机に額をつけた。
祈らない。
でも、心の奥で小さく思ってしまう。
——どうか、ローラが無事でありますように。
その“どうか”がどれほど遠くまで届くかを、ヒナはまだ知らない。
AI作成なのをご容赦ください。




