2話『社会福祉万歳!牧場の午後』
一台の車が、山の麓にある建物の敷地へと入った。
周囲の木々と調和していない建物である。
車はエントランスに横付けされた。
まず、運転手らしき男が出てきて、手際よくドアーを開く。
運転手らしき男に促がされるように車から老夫婦が現われた。
老夫婦の表情は重く淀んでいた。
それにかまわず運転手らしき男は、車のハッチバックを開き備え付けのスロープを出し、車椅子に乗った女性で三十代であろう最重度の障害者を降ろす。
老夫婦は、車から降ろされた彼女のもとに駆け寄ると、笑顔を作った。
「疲れたでしょう。着いたわよ。」
「空気かきれいだなぁ。鳥の声が聞こえるぞ。」
彼女は老夫婦の一人娘である
「うーあ、ああーお」
老夫婦の声かけに反応する彼女。
三十数年、老夫婦はなるべく自分たちだけで彼女を必死で育てて介護してきた。
最重度の障害者を生んだ事からくる、社会への責任感や世間体、彼女への責任感や愛、親戚や他人からの心無い言葉や圧力、その他から、彼女がこの老夫婦の呪縛となっていた。
しかし、彼女の介護をするには、この夫婦はあまりにも老い過ぎたのだ。
「ごめんね。かあさんも、とうさんも、疲れて、もう貴方と暮らせないの。ごめんね。」
涙ぐみながら、硬直した娘の手を、握りしめる妻の背中を、夫は優しくなぜ、
「ここが今日からお前が住むところだ。」
と娘に告げると、車椅子を押しその建物の入り口へ入っていった。妻も後に続く。
ここは重度心身障害者療護施設である。
娘の介護や今後の生活・人生を他人に委ねる選択肢を選ぶということは、しのびなかったが、それを支えるにはあまりにも夫婦とも老いすぎた。心中という選択肢も考えたのだが、娘の顔を見るとできそうにもなかった。心中という選択肢を選ぶということは、彼女を必死で育てて介護してきた家族の歴史を、自らが否定することになり、それは耐えがたかった。
という理由から、娘をこの施設へ入所させることを希望し、数年、ベットが空くのを待っていた。
三人の目の前に広く明るいロビーが広がった。
ロビーで一人の女性の施設職員が、三人を待ち受けていた。
女性職員は、つかつかと近付いて来たかと思うと、自然に車椅子の前にしゃがみこみ、車椅子の上の彼女と目の高さをあわせて、話し始めた。
「こんにちは。今日から貴方の専従担当をさせていただきます。よろしくおねがいしますね。他。3名が専従担当として貴方の生活を、全面的にサポートさせていただきます。また紹介しますね。仲良くしてください。」
重度の娘に対し、そんなきちんとした対応をする他人をいままで知らなかった両親は「ここなら安心して娘の人生を委ねられる」という安心感を確信しながら、その様子を見守っていた。
「早速お部屋にご案内しますね」
女性職員は彼女にそう云うと、立ち上がり、彼女の両親である老夫婦に一礼した。
車椅子の後ろにいた老夫婦も、ふかぶかと頭を下げた。
2,3言挨拶をし、先に彼女にした自己紹介をした後、女性職員は老夫婦に代り車椅子を押し始め、老夫婦もその後に続いた。
明るく広い廊下には、車椅子に乗った障害者とそれに付き添う職員達がいこい、あちこちから笑い声が聞こえてくる。その障害者のほとんどが自分たちの娘と同じくらい最重度であるとみた老夫婦は安堵感を持った。
娘もこれから毎日楽しく過ごせることを確信しながら、老夫婦は廊下を踏みしめていく。
楽しげに娘に話しかけている女性職員の姿を見ながら、老夫婦は今まで背負ってきた重い肩の荷がすーっと下りていくのを感じていた。
しばらく歩くと廊下の前方の壁面にいくつかあるドアーの一つが開き、そこから何人か黒い衣装を着た人たちが出てくるのが見えた。
黒服の人たちは、ドアーから出ると向き直り、室内に向かって深々と一礼をして、静かにドアーを閉めこちらに向かって歩いてくる。
遺影・位牌・遺骨を持っているため、老夫婦にもそれが何のための集団か理解できた。
老夫婦は自分たちと重ね合わせ、見知らぬその一団とすれ違いざまに、深々と一礼した。
「亡くなられた方は・・・・・?」
老夫婦がそう聞くと女性職員は、
「今日、退居される方のご家族です。」
と明るく答えた。
もう少し故人を悼む言葉や表情を想像していた老夫婦には、彼女の言い方が不自然に思えた。〃退居〃という言葉にも少し引っ掛かりを覚えたが、差し迫った愛娘と生活を分かつまでの残りわずかな時間を大切にしたいという想いが勝っていた。
老夫婦は長い廊下を進みながら、再生されていく娘との日々の記憶を噛みしめていく。後悔と自責の念が波のように繰り返し彼らの心に押し寄せる。
娘が生まれた時の喜び、障害が分かった時絶望感と罪悪感にさいなまれた日々、世間の好奇な視線や心無い言葉や態度。何度心が砕けそうになったことだろう。その都度、寝たきりで言葉も発しない娘の満面の笑顔に救われてきた。それで十分だった。夫婦二人で必死に育ててきた。親子三人ひっそり町の片隅で暮らしてきた。気が付くと彼女が夫婦の生きる支えになっていた。だが、夫婦は老いた。老いた身体では娘の生涯を見届けられない。親のエゴだと十分わかってはいる。しかし、自分たちより先に死んでくれたら……などともしばしば思うのだが、それとは裏腹にとにかく健康で笑顔でいてくれることを老夫婦は望まずにはおれなかった。若い頃の娘を育てているときは必死で、老いるのはわかってはいたが想像が出来なかったし、しようとも思わなかった。それが悔やまれる。老夫婦は長い廊下を一歩一歩踏みしめるようにゆっくり進んだ。
その時、近づきつつある前方の壁面の扉から、再び人が現れた。老夫婦には女性だということはわかったが容姿まではわからなかった。娘の車椅子をおす彼女と目が会いにっこりと微笑んだことからここの関係者だろうと察した。
「ひとまず拒絶されなくて良かったね。もうしばらく様子診ないといけないけれど、とりあえずよかった!」
開いた扉のなかから響く老齢でいて闊達な声の主の方をまっすぐ見て、
「先生、ありがとうございました。では、失礼します。」
というと深々と頭を下げ、その女性は扉を閉めると晴れやかな表情でこちらに駆け寄ってきた。
車椅子を押す彼女は静かに足を止める。それに合わせて老夫婦も足を止めた。女性は、まず車椅子に乗る老夫婦の愛娘に会釈し、続いて老夫婦に会釈した。
「おめでとう!」
車椅子を押す彼女から話しかけた。
「ありがとう!長かった!やっと普通の生活ができる」
軽く手を握り合う二人。老夫婦はそれをほほえましく思いながら静かに見守った。
「本当に良かったね!」
「うん、これからしばらく療養もかねてあなたたちのサポートにまわるから、安心して」
二人は軽く会話を交わしほほえみ合った後、車椅子に歩み寄り腰を落とした。
扉から出てきた女性は、笑顔で車椅子乗っている老夫婦の娘の顔を静かに見据えこう言った。
「こんにちは、初めまして、これからしばらく、あなた方のサポートをさせてください。よろしくお願いします。」
女性は、車椅子乗っている老夫婦の娘が笑顔でこたえるのを確認して、ゆっくり立ち上がり、老夫婦に軽く会釈したあと、すれ違い後方に消えていった。その後ろ姿を見送り、4人はふたたび進みはじめた 。
脚力が弱っている老夫婦には、ことさらこの廊下は長く感じた。
妻がふぅっとため息をつく。
そんな妻の曲がった背を夫は愛おしそうに優しくなぜる。
その様子を見て、車椅子を押す彼女は静かに優しく言う。
「もう少しですよ。お二方にはまず、医院長いや理事長からお話があり、諸手続き済ませてからこの方の居室にご案内します。あの扉の向こうで理事長が待っております。
」
彼女が指で指示したのは、黒い衣装を着た人たちや先ほどの女性が出てきた扉だった。さっきはずいぶん遠く感じていたのだが、いつの間にかあと十数歩になっていた。家族の歴史を振り返るかのような気持ちで足を進める老夫婦に合わせて、彼女はゆっくり車椅子を押した。わずかな時間だったが老夫婦にはとても長く感じた。実際には4人がその扉の前に立つには数秒ほどだった。
老夫婦が息を整え顔を上げるころ合いで、彼女は軽く扉を三回叩きノブに手をかけてそのまま押し開けた。
「失礼します!」
彼女は一礼して言葉を続ける。
「今日入所される方とご家族がお越しになられました。ご家族にご入室いただいてよろしいですか?」
彼女の問いに「うむっ」と低い声が室内から響く。
彼女は優しく「こちらへ」と室内へ老夫婦を誘導すると、
「私たちは先に居室へ行ってますね。後でお迎えに上がります」
と言い残し、一礼して扉の向こうに消えていった。広い部屋の大きな窓の窓際に、その広さとは不釣合いな普通の事務机が置かれ、椅子もグレーの背もたれとキャスターの付いた事務椅子だった。その事務椅子に、白衣で身を包み首に聴診器を引っ掛けたいで立ちの中肉中背の白髪交じりの男が和やかな表情で座っていた。老いた目では確認できないが卓上にはたぶんで肩書入りあろうプレートらしきものが置かれている。おそらく『理事長』と書かれているであろうということは老夫婦にも容易に想像できた。老夫婦は深々と頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
それが二人の今ここで愛娘のためにできる、最大限のことに思えた。
「ようこそ、まきば園へ。さあ、こちらにお座りください。」
園長と思しき男は首の聴診器を机に置き、立ち上がり老夫婦を事務机の前の応接セットに誘導する。二人は支持に従いそれに腰を下した。白衣の男は老夫婦と相対する向かいのソファーにゆっくり座った。
「お疲れでしょう」
「はあ、まあーーー」
「ああ、そうそう遅れました。これを」
応接セットのテーブルの上のケースの中から名刺を取り出し白衣の男は、両手で差し出した。
「わざわざご丁寧に」
少し頭を下げそれを受け取ると、老夫婦は各々眼鏡をかけて、こころもち顔と距離を置き焦点を合わして、印刷された文字を拾う。
二人は白衣の男の肩書を確認して顔を上げその顔をうかがう。
「理事長さん?」
「はい、そうです!私がここの理事長をさせていただいております。よろしくお願いします!」
男は身を乗り出して老夫婦に話を続けた。
「ここまきば園は、厚労省の実験的先進思考特別特定障害者施設です。まあ、いわば小さな特区のようなものです。」
自信に満ちた表情で、理事長は話を続けた。
「国の先進的なプロジェクトの中心として、介護のマンパワー不足解消の切り札的なことや、障害者ことに重度の社会参加、社会的役割、雇用、存在意義、生きる意義や、福祉と医療の有機的連携を図りQOLの向上、虐待といったこれまでおざなりにされてきた問題への究極的な解決策がここなんです」
理事長の説明に対し老夫婦は
「はあ・・・・・・」
という薄い反応だった。
その反応に一切どうじず言葉を続ける理事長。
「隣に併設された医療センターが医療面でサポートしますから、元気に健康な生活を送れます。そうでなければ私たちも困りますからね。」
それまで理解できずにいた老夫婦も、その最後の言葉に感銘を受けた。
「娘をよろしくお願いします」
二人は深々と頭を下げた。
それまで饒舌に語っていた理事長も静かな微笑みを浮かべ、二、三歩歩み寄り二人の肩に手を置いた
「お疲れ様でした。」
老夫婦は長年背負ってきた肩の荷がやっと下せたように思えた。
理事長はまた老夫婦と相対したソファーにゆっくり腰を下ろし、大きく一呼吸置いた後、
「さて、手続きに入りましょうか」
と、静かにいうと目の前のテーブルの花瓶を端に寄せた。
老夫婦は持参したカバンの中を手で探り、分厚く膨れた茶封筒を引き出した。老夫婦の妻が封筒の中を確認する。その様子を隣りて心配げに夫は見守る。
「これをお願いします。必要なものは揃えたつもりですが、どうでしょう?」
確認し終えると過ごしてきた歳月をものがたるその両手で、妻は重たげに分厚く膨れた茶封筒を理事長に差し出した。まるで貴重品のように・・・。
「では、確認します」
それを無造作に鷲掴みすると、片手を茶封筒に差し入れ、中身を引出し、理事長はテーブルの上にドサッと置いた。その反動で先ほど端に寄せた花瓶に刺されていた花も少なからず揺れる。そんなことには気にと止めず、ときおり眉間にしわを寄せ、せわしなく紙の上に滑らせている指先の文字列に視線を走らせていく。
老夫婦はしばらくその様子をうかがっていたが、居心地が悪くなって、何気なく質問をしてみた。
「娘を受け入れてくださりありがとうございます。何年も待たないとベッドが空かないかと思ってましたが・・・」
理事長は、書類に目を通しながら、こともなげに話し始めた。
「介護スタッフは隣に併設している移植医療センターの患者でねぇ。私の手術を待っているので・・・」
脈絡がわからず困惑する老夫婦をよそに、彼は話し続けた。
「・・・事前に受けてもらった健康診断で娘さん健康で今あなた方といた彼女と適合したので・・・」
その言を聞き困惑している老夫婦に目もくれず、ひたすら必要書類に目を通しながら、茶封筒の中身の中にカードが見ながら、理事長は話を続けた。
「あなた方も記載されたでしょう?娘さんのドナーカード。あなた方の承諾書付きで。このドナー登録は娘さんの安心安全な生活を約束するものです。スタッフは娘さんの健康に細心の注意を払うでしょうし、他の施設などのような虐待することもありません。患者いやスタッフにとって、娘さんたちこの施設に入居された方たちは唯一のドナーかもしれませんし、しあわせな生活を約束されたのも同然です。スタッフはそのために日々献身的な業務に励んでいます。心身共に健康でいてもらうことがここの目的であり最大の使命です。」
ようやく、必要書類その他を確認し終えて、フーっと息をつぎ
「これでよしっ!」
と視線をあげた理事長が見た老夫婦は、顔を青ざめさせていた。
老夫婦は押し黙ってしまった。
気に求めず、ゆっくりと立ち上がり腰に手を当てひねりながら、窓際に歩み寄る。
大きな窓が開かれ柔らかな風と隣りの巨大な移植医療センターの窓ガラスが反射する午後の光が差し込んできた。
気持ちよさそうに伸びをする理事長。その様子を、怒りと疑念と悲しみと後悔が複雑に絡み合った思いで、沈黙し見ていた。風がすがすがしいほど、光が温かいほど、老夫婦の複雑に絡み合った思いは、より深刻さを増幅させる。
「お茶でも飲みますか」
という理事長の言葉を遮るように、老婆は声を絞り出す。
「あなた方は鬼畜ですか?うちの子の死を待っているように聞こえましたが?」
その言葉に理事長は驚きもせず、いたって普通に話す。
「そういいましたが、それが何か?」
動揺を隠し切れない老夫婦に対して、静かに言葉を続ける理事長。
「あなた方ご夫婦もそうでしょう?空きベッドを待つということはそういうことですよ」
老夫婦は何も言い返せない。
「コーヒー飲まれますか?」、と聞きながら理事長は、手際よくサイホンでコーヒーを沸かし、三つのカップに注ぐ。
老夫婦はただ呆然とそこに佇んでいた。
窓からの穏やかな光と清々しい風に包まれる、午後のまきば園の理事長室から今日もコーヒーの香りがする。
そう、ここは牧場だ。・・・・・臓器の・