『嘆きの谷に、青い鳥は舞う』8
8
目を覚ました時、おれの両腕は鎖によって繋がれていた。
見覚えのない景色だった。埃っぽく、湿っていて、街のゴミ捨て場とどっこいの汚らしい場所。打ちっぱなしのコンクリート。布が被せられ、もう何年も動いていなさそうなコンベアー。
頭が痛む。倒れた時にぶつけたのだろうか。手足に力が入らない。くそったれめ。
「まだ寝てなよ。もう少しだけ」
おれの前にしゃがみ込んで、誰かがそんな事を言った。
いや声は覚えている。そんなふうに喋る事を知らないだけで。
「キド……ニー……?」
「そうだよ。あたし」
それまでとは全く違う優しい声音で、キドニーは言った。
「あんたに……謝っておこうと思ってさ」
謝る?
「あんたの言う通りなんだ。あたしの体は、もうギフトの使い過ぎでボロボロ。クスリを打ってないと神経が昂っちゃって、誰でもいいから傷つけたくなってくる……」
なら、もう……。
「ごめんね。本当にあんたの言う通りだ。たぶん、持ってあと二、三回かな。でも、それだけ持てば十分だよ」
「何を……言ってやがる」
言葉を口に出すのも力がいる。くそ。
「このあと、あたしとルシアはバルバロイへ入るための試練に挑む。突破出来るかどうかはわからないけど、あたしは、ルシアのために死ぬ気でやろうと思う。あの子が幸せになれるなら、あたしはどうなったって構わない」
キドニーの首元で何かが光った。ロケットだ。
「何で、そこまで」
キドニーははにかむように笑った。
その笑顔がまるで写真のように目に焼きつく。
「あたしをクズ扱いしなかったのは、あの子だけだったんだ。何にも知らないお嬢様のくせに、あたしの事を真剣に見てくれたんだ」
違う、違う。
違うだろう、キドニー。お前の事を真剣に見ていた人間は、ほかにもいた。お前の家族は、隣人は、お前の事を愛していた。
「この世界で生きていくためには、強い力が必要なんだ。誰にも負けない、ルシアのお父さんにも負けないくらいの強い力が。バルバロイなら、それが手に入る……」
違う。駄目だ。そんなものに頼るな。
「……よ、せ」
「……ああ、あと。親父の面倒見てくれてありがとう。結局、病院は行けなかったし、あんたにも何も返してやれないけど」
キドニーは立ち上がった。
「さて、そろそろ行かないと。たぶん、あんたは無事帰れるよ。あいつがあんたに会いたがっていたから」
踵を返し、キドニーは歩き始めた。止めようとした。止めなければならなかった。だが、体が動いてはくれない。
「じゃあね。探偵さん」
――そして、また。
おれの意識は闇へと落ちていく。
次に目を覚ました時は、さっきよりだいぶマシだった。何があったかを覚えているからだ。だが……
「気が付いたかね?」
懐かしい声がした。
いや、懐かしいなんて思いたくもない。耳障りな声だ。
おれの視線の先に、三人の影があった。ガスマスクのようなものを被り、ライフル銃を持った男が二人。そして、もう一人。ガスマスクを従えるように立ち、軍靴の音を響かせるように歩いて来る。記憶の通りだ。いつもそうだった。
「久しぶりだな、軍曹」
その男は、まるで会うのは数週間ぶりだとでも言わんばかりのニュアンスで、おれに声をかけた。
「昔よりも精悍な顔つきになったな。お前も大人になったという事か」
「あんたにガキ扱いされる覚えはない。マシーアス」
二人のガスマスクがすかさず銃口を向けてきたが、マシーアスはやんわりとそれを制した。
「叔父に向かってその口の利き方は何だ、と言いたいところだが、お前は昔からそうだったな。兄貴の息子らしいよ。生意気で、傲慢で、自分の思い通りにならなければ気が済まない。そんなお前が私の部隊でよく三年も持ったものだ」
「当たり前だ。部隊では仲間が優先だった。あんたに反旗を翻せば、仲間が全員罰を受けた。おれ一人の感情で動くことは許されなかった。その仲間をあんたは見捨てて逃げたがな。大佐」
マシーアスは口の端を歪めた。
「懐かしい呼称だよ。が……思い出話はこれくらいにしておくのがいいだろう。その様子なら多少雑に扱っても壊れる事はあるまい。――立たせろ」
ガスマスクの二人がおれの傍らに立った。二つの鎖の先端には輪がついていて、ガスマスクどもはそれらを反対側に噛み合わせて、おれの両腕を背で拘束した。
「反抗はしないようだな。そのほうが私ともしても話に集中出来る」
「そうとも。まずは話を聞かなきゃならない。ここは一体どこなのか。何故今になってあんたが出て来たのか」
「歩きながら話そう。行くぞ」
おれはガスマスク二人に連れ立たれて歩き始めた。まだ抵抗はしない。言った通り、今の状況を把握しなければならないからだ。
「すでにわかっているとは思うが、ここはバルバロイの施設だ。元は製薬会社の工場に偽装した軍の基地だったのだがね。老朽化がひどく近く取り壊す予定だったのだ」
軍靴の踵を響かせながら、マシーアスは言う。バンビの話が頭を掠めたが、今は置いておく。
「バルバロイ? 現実主義者だったあんたが今やオカルトかぶれか。人間、変われば変わるもんだな」
「バルバロイ究極の目的は、人類の叡知が及ぶはるか先のレベルにある。魂が目覚めていない者に、理解する事は難しいだろうな」
廊下の向こうから、何か物音が聞こえる。何かが激しくぶるかる音。獣の咆哮。人の荒い息遣い。まだ少しクスリが聞いているのか、気を抜くと朦朧としてくる。
廊下の先には大きな扉があった。同じようにガスマスクをした男が門番をしていた。
――物音は、この向こうから聞こえてくる。
「開けろ」
マシーアスの言葉に、ガスマスクが重々しく扉を開ける。
「――――はぁっ!」
扉の向こうのだだっ広い空間で繰り広げられていたのは、まさに死闘だった。
プリンセスの衣装に着替えたキドニーが、青い光を放ち高速で走り抜ける。手には細身の剣だ。戦っていた。だがその相手は、人間じゃない。
巨体だった。ゆうに二メートルはあるだろう。そいつは背に三本の巨大な試験管が刺さっていた。その中には、それぞれ赤、黄、緑の液体が入っている。ヘドロのような緑の肌は明らかに薬物投与によって発達した筋肉で、涎を撒き散らし、ちぢれた白髪を振り乱すその姿は、怪物そのものだった。
おれは後ろから膝を突かれ、体勢を崩した。首元で交差したライフル銃が、何かあればおれを殺すと告げていた。
「何だ……あれは……」
「バルバロイ・ザ・ビースト。まだ試作段階だがね。〈ギフト〉の濃縮液を三連投与した。今はキドニーの入団の儀式を手伝ってもらっている」
「入団の儀式だ?」
「そうだ。彼女たちはウリエルシティや自らが抱えるしがらみから逃れ、バルバロイへの参加を希望した。だが、我らの組織に力なき者は不要だ。そこで我々は彼女たちの入団に条件をつけた。『より強い意志を持ち、バルバロイへの参加を希望する者のみを受け入れる』とな。キドニー・レインは、ギフトとの相性によって驚異的な戦闘センスを発揮した。もしその力がビーストを制し得るならば、入団には何の不足もない」
キドニーの剣が、ビーストに迫る。容赦ない乱れ突き。だが、ビーストの筋肉の壁には、まるで小針で立ち向かっているかの如き光景だった。
「しっかりしたまえ! 君が負ければルシア・アルゲンスは死ぬのだぞ!」
「何!?」
おれはマシーアスが指差した先を見た。
そこにはクレーンに鎖で吊るされたルシア・アルゲンスの姿があった。
「マシーアス、貴様!」
隙あらばこの男に体当たりをかますつもりだったが、ライフル銃二挺がおれの行く手を阻んだ。
「おっと。勘違いしないでもらおうか。もともと彼女はキドニーの力を引き出すための飾りに過ぎない。愛のため、という奴だよ。私には正直同性同士で愛し合う神経がわからないのだがね。彼女の力が引き出されるのであれば何でもいい」
もはや神経が鈍麻する感覚は吹き飛んでいた。殺す。この男を殺さなければならない。義腕はノーマルのままだし、左腕にいたっては生身が、おれの両腕はおれを縛る鎖を引き千切ろうとしていた。
「はァっ、はァっ――」
キドニーが高速化して跳ぶ。恐るべき速度でビーストの皮膚を切り裂き、間を置かず切り付けていく。
不意におれはクライトン・ブレナーの死体を思い出した。今のこの光景は、まさしくブレナーが殺された手口と一緒だ。
まさか、キドニーが……?
「ガアアアアアアアッ!!」
ビーストの大咆哮が、おれの思考を遮った。巨腕がキドニーの細い体を弾き飛ばす。床を転げるキドニーを尻目に、ビーストの体に刻まれた傷がみるみる塞がっていく。
再生能力。そんなものまでついているのか。これでは……。
「逃げろ、キドニー! そいつには勝てない!」
おれの叫びは、しかしキドニーには届いていないようだった。
「ビースト! ルシアを狙え!」
マシーアスの声に、ビーストは巨猿の如き機敏さで、飛び上がった。クレーンまでは少し距離がある。にも拘わらず、ビーストは猛然とルシアが吊るされているクレーンを目指していく。「はァ、はァ、はァ、はァ……」
キドニーの息が上がっている。だがその手に、おれは小瓶の青が光のが見えた。
「よせ、キドニー!!」
自らの首へ注射針を打ち込み、青い液体を注入する。次の瞬間、キドニーは青い閃光となってクレーンへと向かった。
――心頭滅却によって、我、能うを悟る――かつての日本での教えにより、生身も人工物も己の体と捉え、内なる筋力を引き摺り出す!
「どけ、てめえらッ!!」
鎖を引き千切るや、目の前にいたガスマスクの頭を打ち合わせ、おれはクレーンへ走った。マシーアスはあとだ。悟能の技によって身体能力を引き出したおれもまた、尋常ならざるスピードでクレーンへと急いだ。クレーン上ではすでにビーストが、ルシアを吊るした鎖を揺さぶっている。
「キドニー、鎖を切れ!」
おれの叫びが届いたのか、青い光が剣を煌かせ、ルシアを吊るす鎖を両断する。
「いやああああ――――っ!」
落下するルシアの体が地面に激突するより早く、おれは彼女を抱き留めていた。
「あ、ありが――」
「探偵!」
二人の女の声が重なった。黒い影が頭上から降ってくる。ルシアを地面に下ろしざま、おれは義腕のツマミを右に倒した。
――モード【МUSCLE】!
地響きを立てて、降り立ったビースト相手におれは猛然と立ち向かう。その剥き出しの腹に鋼の拳を叩き込み、勢いそのまま連打連打連打。効いているのかいないのかはわからないが、体が命ずるままに、攻撃を繰り出す。ローキックを叩き込むものの、相手の足はまるで太い木の幹だ。到底通じているとは思えない。
「探偵! 後ろの――!」
青い光を放ちながら、キドニーが奴の背骨に生えた試験管を狙う。攻撃するよりもさらに素早い速度で、奴は剣撃を躱してみせた。
決まりだ。奴は試験管を狙われるのを嫌がっている!
そうとわかった瞬間、おれは奴の顔面目がけて拳を繰り出した。躱されてもなお、執拗にそこを狙う。今のおれは一人でない。奴の巨大な拳を躱したその時、背の試験管はさらけ出された。
「やれ、キドニー!」
青白い閃光が、赤の試験管を叩き割った。舞い散る、ギフトの濃縮液。ガラス片。ビーストがケダモノそのもの呻き声を上げる。
キドニーがビーストの顔面を切り裂いた。
「う、ぐううっ……」
ビーストの影でキドニーが崩れ落ちるのが見えた。
「おおおッ!!」
おれは奴の背に回り、緑の試験管を力任せに引っこ抜いた。悶え苦しむビーストは、もはや自分で自分を制御出来ていないようだった。闇雲に振り回された大木のような腕が、苦しむキドニーへと迫っていた。
「キドニーッ!!」
その時、一発の銃声が轟いた。ビーストの頭部が、黄緑の血を吹いた。
立て続けにもう一発。最後に残った黄の試験管が砕け散る。コルトの残弾が、怪物の胸に撃ち込まれる。容赦のない銃撃の連続。
「……」
硝煙の立ち昇る拳銃を構えていたのは、ルシアだった。
怪物が音を立てて倒れた。その体から黄緑の血が流れ続けている。
湯気を立てて収縮する怪物の体。そのサイズが見る間に、おれよりも小さくなっていく。
「……人間?」
元に戻ったというべきなのだろうか。眼窩の窪んだ、おそらくは男性らしい男の死体が、黄緑の血に濡れていく。
「ルシ、ア……」
キドニーが、掠れた声で言った。
――その体に変化が起こっていた。
元々細かった指は、今や枯木のように細くなり、全身の肉という肉が溶解し始めていた。
「いや、だ……こんな、の……いやだ、よう……」
膝から崩れ落ちそうになるキドニーを、おれは思わず抱き留めていた。この手の中で、キドニーの体が消えていこうとしている。
「キドニー……」
何を言ってやればいい? 彼女のために、何を。
「ルシ……ア……」
震える指先が、ルシアへと伸ばされ――
しかしその頬に触れようとする直前、泥のように崩れ落ちた。
キドニー・レイン。メイソンの娘が、その短い生涯に幕を閉じた。
ルシア・アルゲンスは、その最期を静かに看取っていた。