『嘆きの谷に、青い鳥は舞う』7
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作戦開始は今夜八時だ。それまでに下準備を進めておかなくてはならない。
セントラルでの用事を済ませ、おれは一度事務所に戻った。
問題を解決するには、一度問題を目に見えるものにしなくてはならない。居間で資料を並べ、おれは手帳にペンを走らせる。
1 ルシア・アルゲンスは今、どこにいるのか?
2 キドニーとルシアが街に留まっているとして、何故まだ逃亡せずにいるのか?
3 そもそも、何故伯爵はおれを一人だけを雇ったのか?
4 クライトン・ブレナーは何故殺されたのか? また、誰が殺したのか?
こんなところだろうか。
1の問いについては、クライトンのアトリエにあったキャンバスがヒントになる。ルシアをモデルにした絵がつい今日まで描きかけだったという事は、ルシアは少なくともここ数日中には、クライトンのアトリエを訪れているだろう。ルシアがまだこの街にいる可能性が、少し高まった。
2については保留だ。
4も同様に保留だ。優先ではない。殺人事件なら警察の出番だし、おれの出る幕じゃない。だが、それはそれとして、何故今日殺されたのかは大いに気になる。キドニーをバトルショーのショーガールとして雇い、ルシアをモデルに絵を描いていた男が、何故今死ななければならなかったのか。
3については、本人に聞くのが一番早い。だが、相手は貴族院の副議長だ。いくら依頼人とはいえ、そうそう簡単に会う事は出来ない。
今一番手を付けやすそうなのは、3だった。
おれは、何故おれ一人だけが、五万ギルヴィもの大金で雇われたのかを調べる事にした。
グランパスが用意した資料には、例の『十四ヶ月胎内にいた赤子』と『炭鉱で見つかった二枚の石板』についてのゴシップ誌の切り抜き記事のコピーがあった。手始めに、これらの裏取りから取りかかろう。
図書館に行き、古い新聞記事を漁る事にした。バンビの言っていた事が正確なら、二十年前にメアリ・アルゲンスの妊娠を取り上げた記事があるはずだ。
うまい事、座席が空いていた。ビューアにマイクロフィルムを入れ、クランクを回す。
年代が絞れていたおかげで、ほどなくそれは見つかった。二十年前、階歴一一五年四月十日、タイムズが壮年の伯爵の若き妻に、新たな命が宿った事を祝福している。
次に訃報を探した。流産の記事だ。
階歴一一六年一月までの記事を調べたが、アルゲンス家に関わる訃報の記事は出てこなかった。メアリのお腹の中の子は無事だったようだが、この期間には誕生していない。
目当ての記事はさらに先あった。同年六月一日の新聞。メアリ・アルゲンスが無事出産した事が書かれていた。誕生したのが娘である事、その名前がルシアである事も間違いなかった。
妊娠期間十四ヶ月という部分については、何も書かれていなかった。うまくそこには触れないようにしたという印象だ。
まあ、こういう話はそれこそブレンディのような新聞じゃなきゃ書けないだろうが……。
無駄かもしれなかったが、石板とやらについても一応調べた。
モーセが神より石板を授かったのはシナイ山と呼ばれる山だそうだが、同じ地名が残るシナイ半島は西アジアにある。
伯爵が二十年前に採掘権を得たのは全く違う場所だ。コロラド州ランデルマイア。ラピスラズリの産地で、鉱山の近くには古代遺跡があるという。
そういえば、石板は青い石で出来ていたと、バンビが言っていたのを思い出す。
席を立ち、考古学分野の書架を見た。ランデルマイアの名前を探し、ようやく一冊見つける。十五年前に書かれた本だった。
ランデルマイア遺跡で見つかった装飾品や粘土板に刻まれた文字は、それまで見つかっていたどの古代文字とも似つかない、極めて特異なものであったという。文字の意味さえ解読出来ていないのだから、文法の理解など遠い先の話だ。
意外な事に、その本にはマグニフィン伯爵の名前が載っていた。
『当時、マグニフィン伯爵は炭鉱より出土したとされる謎の言語が書かれた石板を所有していると噂された。だが、かの伯爵は五年経った今でも、当時の噂を頑なに否定している』
伯爵が本当に石板とやらを手に入れたのかは知らない。だが、いくらオカルトマニアの注目を浴びたからって、そんなに必死になって否定しなければならないものだろうか?
『遺跡の文字は、解読不明な事から当時一部の間で、〈バルバロイ文字〉と呼ばれていた。バルバロイとは〝わからない言葉を話す者たち〟という意味である(アマチュア考古学者の中には、今もって解明されない文字を一緒くたにバルバロイ文字と呼ぶ風潮がある。このようなあだ名付けは多分に名称の混乱を招くだけで、考古学の世界においては無論歓迎されない)』
おれは本を閉じた。
――バルバロイ文字。
嫌な符号だ。まるで仕組まれていたかのような。
おれは大きな蜘蛛の巣に絡め取られる自分を想像した。巣の中では、正体不明の気味の悪い化け物が待ち受けていて、おれを頭から喰らおうとしている。巣に触れたのはいつだったのか。〈ギフト〉の小瓶を拾った時か、それともこの依頼を受けた時からか。
らしくもない想像を巡らせている自分を、おれは叱咤した。馬鹿な事を考えている。少しばかり活字を追い過ぎたせいだろう。書架に本を戻し、おれは出口へ向かう。
目新しい事実はなかったが、無駄足ではない。
アンドレと連絡が取れたのは、六時半を回った頃だった。
「まず初めに、ファンレターは確かに本人へ届けました。読むかどうかは彼女次第ですが……」
「読むさ」
「それは結構。次に頼まれていた調べものですが、こちらも判明しましたよ」
「本当か?」
「腕のいい業者を頼りましたからね。旦那の読み通り、確かにあの時間、パンデモースへ電話をかけた人間がいます」
「場所も間違いないか? かけたほうの場所だ」
「ええ。間違いありません」
おれは礼を言って、電話を切った。
これで手札は整った。
七時になった。おれは指定された番号にかけた。
「――はい」
「リチャードか?」
おれは昨日と同じように始めた。
「ええ」
「タルボだ。早速で悪いが本題に入ろう。キドニーとルシアの隠れ家が判明した」
昨日はノーリアクションを貫いたリチャードも、今回ばかりは驚きを隠さなかった。
「何ですって?」
「およそ九割がた当たり。ほぼ確実に見つけた。これから行って様子を見てくる」
「待ってください。本当にお嬢様を見つけたのですか? だとしたら、私どもに居場所を伝えるのが先でしょう?」
「駄目だ。実際この目で確かめるまでは伝えられない。悪いがもう切るぜ。こうしている間にも、二人は逃げちまうかもしれないからな」
「待ちなさい! コール――」
「交信終了」
おれは電話を切った。そして待った。待機時間の過ごし方は身についている。それに、そう長くはかからないという予感があった。
ベルの音とともに、ドアが開いたのは十分後だ。背の高い眼鏡をかけた若者が、公衆電話コーナーに駆け込んで来た。
「よう、リチャード」
おれは手を上げ、彼に言った。
「電話をかけに来たのか? どこにかけるのか、当てようか?」
息を切らせたまま、リチャードはおれの顔を凝視していた。
「今は行方知れずのルシアお嬢様のところだ。もっともお前は知っていたようだがね。探偵顔負けだ」
「何故……」
リチャードはか細い声で言った。
「場所を変えようぜ。腹を割って話せるところに、な」
携帯灰皿に煙草を押し付け、おれは出入り口であるドアへと向かう。
夕食を求めて入って来た客たちのおかげで、夜のダイナーに活気が満ち始めていた。
意外にもリチャードは大人しくついて来た。セントラルからタクシーでオクトギンターまで移動し、海浜公園まで歩いた。
「……何故、こんなところまで?」
「約束があるんだ。せっかくだから、お前も一緒にと思ってな」
煙草を一本取り出すと、おれはケースをリチャードに向けた。
「吸うか?」
「結構です」
おれは頷き、火を着けた。夜の海が穏やかな波の音を立てる。
「初めにおれの推理を言おう。まあ、そんな大したもんじゃないがな。お前がおれに探偵ごっこをさせた理由だ」
「……私が?」
「そう、お前がだ。伯爵じゃない。あの爺さんも大概腹の内は読めないが、少なくとも本気でおれにルシアを探し当てさせるつもりだった」
リチャードの顔はあくまで無表情だ。だが、目はおれをじっと捉えている。
「お前は違う。お前は伯爵に従う振りをしながら、うまくおれを調査から離脱させようとしていた。最たるものは、昨日のパンデモースでの一件だ。おれがあそこに行く事をあらかじめ知っていた人間は、おれの身内を除けばお前しかいない。バトルショーの事も知っていたのか? 殺されないまでも、おれが調査を続けられないほどの怪我を負えばいいと思っていたか?」
「話が唐突過ぎてついていけませんね。一体何故、私があなたの調査を邪魔しなければならないんです?」
コルトを構えた時のような緊張は微塵も見せずに、リチャードは言った。
「お前が求めていたのは、『探偵が努力し調査したが、不本意な結果に終わった』という筋書きだ。お前はルシアを見つけてほしいと思っていない。お前が用意した資料は全て表面的なものばかりだ。大家に話をつけて、おれが彼女の部屋を調べる便宜さえ図っていない」
リチャードは何かを言いかけたが、遮っておれは言った。
「お前は、彼女を逃がそうとしている」
若い執事の顔が険しくなる。
「プライバシーの問題ですよ。当然でしょう? 私が考えるべきは彼女の身柄の安全だけじゃない。彼女の心も傷つかないように考慮しなければならない」
「その職業倫理には感心するがね。人が一人行方を眩ませたっていうのに、出される情報はお前の一存で選別されている。妙な話だよ、実際な」
「さっぱり話が見えませんね。だいいち、私がそのパンデモースとやらにあなたの情報を流したと、何故言い切れるんです?」
煙草の先から灰を叩き落とし、おれは答える。
「あの店の公衆電話の通話記録を調べた。さっきまでおれたちがいた、あのダイナーだよ。違法な手段だが、おかげでわかった事がある。おれがお前に電話してから十分後――そう、今日と同じく十分後だ。七時十分きっかりに、あの電話からパンデモースへ発信されているのがわかった」
アンドレを通して裏の業者に調べてもらった事だ。煙草を吸い、おれは続ける。
「さらに言えば、その時間帯にお前があの店にいた事も証言が取れている。ウェイトレスが一人に、常連客が二人だ。見慣れない、執事らしい格好の男が来ていたってな」
「それらはただの状況証拠ですよ。私がパンデモースにかけたとは限らない」
「では、ダイナーで一体何を? 電話ならホテルにもあるだろうに、何故わざわざ通りを渡ってダイナーに来た? 見られるわけにはいかなかったんだろ。伯爵に」
「あなたの妄想ですよ。私は何もしていない」
「そうかい。なら別の切り口でいこうか」
そろそろ、約束の時間だった。
「いるんだろ。キドニー・レイン」
おれの声に応じるように、街灯の影から女が姿を現した。
キドニー・レイン。その手には、剣も銃も握られていない。
「タルボって言ったっけ。わざわざ男同士の諍いを見せつけるために呼び出したの?」
「そんなわけないだろ。約束は守るさ」
おれはポケットから銀色のロケットペンダントを取り出した。
「こいつは君に返そう。だが、その代わり――」
「ルシアに会わせろって? はん、馬鹿な事を考えたもんだね。あたしのスピードについて来られると思ってんの? それを奪い返して終いだよ」
そう言いながらキドニーが取り出したのは、例の〈ギフト〉だ。青い液体は街灯を受けて宝石のように輝いていたが、おれにはそれが毒々しい魔性の輝きに見えてならない。
「よせ。そんなものを使い続ければ、どうなるか知れたもんじゃない」
「あたしと〈ハイスピード・ギフト〉の相性は最高だ!」
突然、興奮したようにキドニーは叫んだ。
「あたしはこいつを武器に出来る。いくら使っても拒絶反応の起きない最高のギフトだ。あたしからルシアを奪おうとする奴は許さない。誰であろうとね!」
明らかに尋常な様子ではない。リチャードもまた、豹変したキドニーに当惑しているようだ。おれは身構えた。やり合いたくはないが、どうしても戦わざるを得ないのなら、可能な限り傷つけず沈黙させるほかない。
「――もうやめて。キドニー」
儚げだが、しかし凛とした響きを持つ声が、この場の緊張を破った。
一番顕著なのはキドニーだった。さっきまでの鬼気は消え去り、一瞬で年相応の少女の顔へ戻っている。
「お嬢様……」
「直接顔を合わせるのは久しぶりね、リチャード。元気にしていた?」
この場にはそぐわない、暢気とさえ取れるような挨拶。実の親から逃げ、そして追われている当の本人とは思えない緊張感のなさ。
「ルシア・アルゲンス……」
マグニフィン伯爵の一人娘はふわりとした足取りで、おれの元へ近付いてきた。格好はそこらの大学生みたいだが、雰囲気には気品があった。エベネーザ・アルゲンスが骨にこびりついた肉の一片さえ分けるのを惜しむハゲワシなら、ルシアはさながら庭園に降り立った青い鳥だった。
「初めまして、探偵タルボ。あなたの事は彼から聞いています」
花のような香りがする。アンドレの店のわざとらしい甘ったるさとは違う、自然な芳香。
……彼とは一体、誰の事だ?
「彼があなたと話したがってる。昨日偶然見かけて驚いたって言っていたわ。……だから、ごめんなさいね」
カシュ、というガスの音。いや違う。これは射出音だ!
そうだと気付いた時には、おれの体は崩れ落ちていた。首筋に鋭い痛み。泥の海に沈むような虚脱感。ペンダントをポケットに入れる……いや駄目だ。落としてしまう。おれは必死に右手を握りしめる。
「おやすみなさい、探偵さん。またあとでね」
ルシアの声が、まるで夢の中のように遠のいていく――……