『嘆きの谷に、青い鳥は舞う』6
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ウィスキーを飲み干して眠りにつき、朝を迎えた。依頼二日目の朝を。
時刻は八時になるところだ。シャワーを浴び、眠気を払う。ベンジャミンのボディを点検し、異常がない事を確認すると、おれは朝食を作った。ベーコンエッグ、トースト、缶詰のマメを使ったスープ。テレビをつけ、ニュースを見ながら食べた。食後にベンジャミンが淹れたコーヒーを飲み、新しい煙草のケースを開けた。
一本口に銜え、火を着けようとした。うまく着けられない。別に手は震えちゃいない。いつもよりほんの少し手間取っただけだ。
『……何かあった?』
おれの様子がおかしい事には気付いているのだろう。ベンジャミンが静かに訊いてきた。
「名前を知られた」
『名前?』
「おれの名前だ。大勢の前でバラされた。人を追っている最中だっていうのに」
昨夜の出来事で、おれが一番気に入らないのはそこだった。あのクラブでおれの名前と職業が公表されたのが我慢ならなかった。探偵が探偵である事を知るのは依頼人だけでいい。誰かを追う時、おれは誰でもあって誰でもない人間でなければならない。客席からリングまではそれなりに距離があったから、おれの顔をしっかり見た奴はいないだろうが、こんな世の中だ。やろうと思えば、名前だけでこの事務所までたどり着く奴もいるだろう。
『どこかから情報が洩れているって事?』
「ああ、そうだろう。調査を始めて二十四時間経たないうちにこれだ。一体どうなっていやがる?」
深々と煙草を吸い、むせ返りそうなくらい紫煙を吐き出す。
『思い当たる事はある?』
「ないわけじゃない」
おれは頭には少なくとも二つの可能性があった。どうであれ、一度アンドレに確認する必要があるだろう。
『冷静にならなきゃ。もしかしたら、今回の一件にはボクらがまだ知らない事情があるのかも』
「わかっている」
煙草を灰皿に押し付け、立ち上がる。
「出かけてくる。家を頼むぞ、ベン」
『了解。くれぐれも気を付けて、タルボ』
道すがら、セントラルへ寄った。エウリュノメホテルの前を通った。エベネーザ・アルゲンスはまだ寝ているだろうか。それとも、起きて仕事を始めているだろうか。いずれにせよ、今は用がない。
ホテルから二つ先の交差点に公衆電話があった。おれはUターンして、ホテルの前まで戻った。
ホテルの正面にはダイナーがあり、看板に公衆電話のマークがあるのが見えた。
辺りを見回して、ほかに電話をかけられそうな場所がない事を確かめると、おれはウィリディス地区へ向かった。
「というわけで、おれの名前が店側にバレていたんだが――」
昨日と同じように店のカウンターに座り、おれはアンドレに昨夜の顛末を語って聞かせた。
「単刀直入に訊こう。おれをハメたか、アンドレ?」
この男にしては朝が早かったせいか、パジャマ姿のままパイプを吹かしていたアンドレは困ったように眉根を寄せた。
「まさか本気で言っちゃいませんよね、旦那?」
「もちろん本気じゃない、確認だ。あの店のオーナーの居所を知っているか?」
「勘弁してくださいよ。私が旦那をハメる理由がない」
「だろうな。おれもそう思う。それで、オーナーはどこにいる?」
パジャマ帽を外して頭を掻き、アンドレは答えた。
「店の経営は部下に任せっきりらしいですよ。夜、飲みに来るくらいで、普段は岬のアトリエに籠っているそうです」
「アトリエ?」
「どうも芸術家気質らしくてね」
「なるほど。住所はわかるか?」
「あの辺はほかに家がありませんから。行けばわかるはずです」
おれは頷いた。これで懸念の一つは消えた。
開店より前に起こした詫び用に買ってあったドーナツ屋の袋をカウンターに置いた。もし万が一、アンドレが本気で裏切っていたら、これはアンドレの腹に入らなかったが。
「それと、こいつをパンデモースに届けてほしい」
おれはここへくる途中で書いておいた便箋入りの封筒を取り出した。あて先はプリンセス・キドニーだ。
「ファンレターだ。必ず本人に届くようにしてくれ」
「やっておきましょう。ほかには何か?」
「あと、もう一つ頼みがある」
おれは用件を告げた。
アンドレは少々困ったような顔をした。
「知り合いの業者もいますし、やってやれなくはないですが……高いですよ? 目当てのものが見つかる保証もない」
「まだおれには前金が残っているからな。それにおれの勘じゃおそらく当たりだ。頼めるか?」
ややあって、アンドレは頷いた。
それから少しばかりアンドレと話して、店を出た。
岬まで一時間半かかった。
道すがら、おれは今夜の作戦を練っていた。
目的のアトリエは、海沿いの一本道の先にあった。豪奢な造りのパンデモースとは違った趣で、さながら正方形と長方形の板を近代的アート風に組み合わせたような、白い壁のロフトハウスだった。
アンドレの話通り、辺りに家はなく、公衆電話もなければ電線さえない。ただ草原が広がっていた。ウリエルシティは街の電力をセントラル、オクトギンター、ラハットの三地区にある火力発電所で賄っているが、この様子だと、あの家は今でも夜はランプに明かりを灯しているのかもしれない。
クライトン・ブレナー。それが、おれが次に会うべき男の名前だった。パンデモースの若きオーナーで、年齢は三十四歳。過去に美大を卒業して、しばらくは芸術家として活動していたようだが、芽が出ずに二十七の時に引退。そこからどういうわけかクラブ経営に手を出し、三十三歳の時にパンデモースを開店している。
性格は自信家で自己中心的というのが周囲の評判だ。特に、パンデモースが軌道に乗ってからはアトリエに籠る事が多くなったそうだ。夜はほとんど飲みに来るが、たまに自分が描いた絵画を店に飾る時は、特に酔っ払って悦に浸り、朝まで遊び惚けるのがお決まりらしい。
また、この手の男にはよくある話だが、女性関係も派手で、モデルにした娘はだいたい毒牙にかかるという。
だが、おれがこの男から聞きたいのは、クラブ経営の手法でもモデルの子の強引な口説き方でもない。昨夜たまたま行っただけのおれの名前と職業を、何故店側が知り得たのか。そいつを確かめなくちゃならない。
ロフトハウスの前には、高級ブランド車であるファンタムVが停車してある。ちょっと古いが車の趣味はいい。だが、持ち主の中身はどうか知れたもんじゃない。車の脇に、ねじれたネズミの死体があって、嫌な気分になった。
訪問するにも二通りパターンを考えてあった。礼儀正しく行くか、そうでないかだ。玄関に呼び鈴があったので、おれはまず礼儀正しく行く事にした。
一度目のチャイムでは誰も出てなかった。二度目、三度目も同様だった。
「たく、寝てやがるのか」
ドアノブに手をやる。鍵は開いているようだった。
パンデモースの階段を下っていった時とはまた違う、嫌な予感がした。
「クライトン、クライトン・ブレナー!」
おれは名前を呼ばわったが、返事はなかった。
代わりに、アトリエの奥から漂ってくる強い匂いが、彼の身に何が起きたかを告げていた。血の匂いだ。
「クライトン!」
広間へと駆けこむと、おれは足を止めざるを得なかった。
百三十号キャンバスが置かれた彼の美術室で、おれはクライトンと対面した。初対面だったが、挨拶は出来なかった。クライトン・ブレナーは目を見開き、顔も身体も無残に切り刻まれた状態で、真っ赤な血で床を汚していた。
脈を取ったが、駄目だった。彼はすでに事切れていた。ただ、まだ少し死体に体温が残っているあたり、殺されてからそう時間は経っていない。
どうやら凶器であるらしいパレットナイフの刀身は特に赤く染まって、クライトンのすぐそばに落ちている。額や頬、そして掌から足首まで容赦なく切り裂かれている。なおかつ、死体の真下からも出血しているのを見るあたり、おそらく背中も相当傷を負っている。血だまりの中には散乱した絵の具や絵筆もあった。
おれはかつて日本で聞いた民話、『カマイタチ』を思い出した。
ひどい死に様だった。誰だって、自分がこんな死に方をするとは思っていないだろう。驚愕のまま歪んだような顔を見て、おれはそんな事を考える。死体には慣れていたが、見ていて楽しいと思った事は一度もない。これからもそうだろう。
辺りを見回すと、背の高い樫のテーブルの上に、酒の入ったグラスが二つ置かれていた。片方は中身が減っていたが、もう片方はほとんど残っていた。先客がいたのは間違いないだろう。
そして、その客人が殺しに関わっている可能性がある。
キャンバスに目をやり、おれはしばらくの間、思考が停止するのを自覚した。描きかけの絵画には返り血が飛んでいて、もう決して完成する事のない作品を台無しにしている。
描かれていたのは人物画だ。長い黒髪の乙女が、裸体に紫の布を巻きつけただけの立ち姿。最初に伯爵から見せられた写真よりも固い表情でこちらを見ている。
ルシア・アルゲンスだった。
おれが探している少女が、よりにもよってこんなところにいた。
とはいえ、驚くには当たらないかもしれない。キドニーはパンデモースのショーに出ていた。ならばルシアもまた、何らかの形で関わっていたとしても不思議ではない。クライトンのモデルなどありそうな線だ。
外のほうから、蒸気機関の駆動音がしたのはその時だ。おれのネメシスじゃない。四輪だ。そう考えた時には、おれは弾かれたように動いていた。外に出ると、すでにファンタムは遠ざかりつつあった。
誰が運転しているか? 決まっている。クライトンを殺した奴だ。
ここから国道に戻るまでは一本道だ。クルーザーに飛び乗り、すぐさま追いかける。逃がすわけにはいかない。
加減弁を全開にして加速する。吹きつける風は強く、体が一瞬で冷えていく。追いつける。いかに高級車とはいえ、相手は旧型だ。勝てない勝負ではない。
逃走車の背中を捉える。車間はおよそメートル。もう少し。もう少し加速すれば……!
見ないクッションにでも阻まれたかのように、急にクルーザーの進行が急に鈍くなった。いや、気のせいじゃない。全身を強烈な力で抑え込まれているかのように、奇妙な制動がかかる。空転するタイヤ。機関部が悲鳴を上げる。浮遊感があった。前輪が、浮き上がっている――!
「うおっ――!?」
力づくで押さえつけようとするが、車体は見えない力によって持ち上げられていた。まるで無数の手がそこに存在するかのような不気味さだった。抗い切れず、車体は勢いそのまま道路の上で転倒した。
「~~っ!」
受け身を取る暇もない。まるで素人のようにおれは地面に倒れていた。体は痛んだが立ち上がれないほどじゃない。派手な倒れ方をしたわりに、クルーザーも無事だった。
だが、黒塗りのファンタムVはすでに道の向こうまで走り去っている。
「くそったれ」
ナンバーは覚えた。おれはクルーザーを起こして、来た道を引き返し始めた。警察を呼ばなきゃならない。クライトンがアトリエに電話を引いているといいのだが……。
――通報。現場検証。事情聴取。
警察に言われるがまま起きた事を繰り返し話して、ようやく解放された時には、時刻は午後二時を回っていた。経験上、早く済んだほうではある。知り合いの刑事がいて助かった。
「また話を聞く。その時は大人しく出頭しろ」
刑事のカスパールが言った。以前、おれはこの目つきの鋭い刑事に追いかけ回された事がある。
「気が向いたらな。おれも忙しいんだよ」
そう返すと、カスパールは妙な顔をしておれを見返した。
「何だよ。別に変な事は言ってねえだろ」
「探偵、お前は最近昔の知り合いと会ったか?」
昔の知り合い――それが何を意味するかはわかる。
「おれのいた部隊の連中は皆死んだよ。知ってるだろ」
「生きているのが一人いるという話だっただろう」
大昔の記憶を不意にほじくられて、おれの中に黒い気持ちがもたげてくる。
「あいつとはおれが右腕を失くした時にさっぱり縁が切れた。数々の軍規違反を犯したクソ野郎だ。今さら人前になんか出られねえだろ」
「そのクソ野郎の目撃情報があった」
瞬間、おれは頭に血が上るのを抑えられなかった。
「どこでだ?」
「クラブ・パンデモース」
「何だと」
「確かな情報だ。マシーアス・ヴォル・エグモント元陸軍大佐は、この街に来て、パンデモースでひと時過ごした。オーナーのクライトンも一緒だったそうだ。逆にそのクラブ以外での目撃情報はない。今もまだ潜伏中かもわからない」
言い知れぬ怒りがおれの中で膨れ上がりつつある。忘れもしない過去。あの男がおれに……いや、おれたちにした仕打ちを、おれは決して忘れない。
「奴が何を考えているかはわからん。だが、お前は奴の事になると、妙に冷静さを失う。せいぜい気をつけろ。タルボ」
「ありがとよ。カスパール」
礼を言って、おれは警察署を出た。
沸き立った仇敵への怒りをおれは努めて鎮めた。奴がこの街に来ているのは確かに気になるが、今は頭を切り替えなきゃならない。
通りのスタンドでコーヒーを買い、気分を切り替える。クルーザーを停めた駐車場までは少し遠い。
追跡の際におれを襲った怪現象の事については伏せておいた。見えない力に襲われて横転したなんて、他人が信じるはずはない。だが、おれはさっきの現象に近いものを昨日も身をもって体験している。
そう、パンデモースを去る際、ブーメランのように飛んで来た棍棒だ。あの時は気にする間もなかったが、あれは一体誰が投げたものだったんだ? キドニー以外の三人はぶっ倒れていた。ではキドニーか? いや、体勢からみてそれは考え辛い。
ならば、あの棍棒はひとりでに浮き上がったのではないか?おれのクルーザーが勝手に浮き上がったように――……
おれはいったんこの思考を止めた。元々おれはこういう話に詳しくない。あとで専門家を頼るとしよう。
途中の公衆電話で事務所に電話をかけると、三コールでベンジャミンが出た。
「ベン、おれだ。何か変わった事は?」
『家のほうは問題ないよ。でも電話があった。ガニメデ総合病院から、メイソン・レインが目を覚ましたって』
「本当か。いつだ?」
『一時間前』
「了解した」
おれは駐車場へと急いだ。
メイソン・レインは点滴を打たれたまま、ぼうっとした顔で天井を見つめていた。病室には彼以外だれもいなかった。
「先ほど暴れたそうだ。すぐに取り押さえられたらしいがね」
サウザンドヘッズのマスターが、病室にやっていた目をおれに向けた。
「入院費はあんたが持ったそうだな。知り合いでもないのに気前のいい事だ」
「そういうあんたも、別に家族じゃないのによく来てくれたよ。電話も貸してくれたしな」
メイソンを運んだ時、病院へ連絡するために電話を貸してくれたのはマスターだった。おれが捕まらない時の連絡先として、店の番号を登録してくれもした。
「レインがこの街に来た頃、エズラはまだまともだった。あいつは女房と五歳になる娘と一緒だった」
病室のメイソンを見ながら、マスターは言った。
「だが大恐慌の煽りを受けて、レインは会社から切り捨てられた。十年以上勤めた会社からだ。それでも奴はまだ挫けなかった。養うべき家族がいたからな」
淡々と、マスターは続けた。
「ようやく仕事が見つかったその日、奴の女房は強盗に刺されて死んだ。ナイフを持った男から娘を庇ったんだそうだ」
マスターは表情一つ変えなかった。
「それからレインは会社で事故を起こし、仕事を辞めた。酒を飲んで何もかも忘れようとする父親に代わり、キドニーが働き始めた。私はずっと、あの家族を見てきた」
マスターは息を吐いた。その目に感情はなかった。虚ろなようにも見えた。
「私はこの街が嫌いだ。天使は突っ立っているだけで何もしない。不幸な人間が焼かれ続けるのを黙って眺めている。だからきっと、最後の日にこの街は炎に呑まれるだろう。幾人もの人々が焼かれ続けた炎によって灰と帰す。それが、この呪われた街に相応しい」
いつの間にか、メイソンは再び眠っていた。
おれはキドニーとルシアの事を考えた。それから、自分がこのあとどうするべきかを考えた。
まだ解決していない疑問がいくつもある。それらを解き明かし、一つ一つを組み合わせていく事だ。
街へ戻り、調査を続けよう。最後の審判が下って街が燃えてなくなるには、まだ時間がある。