『嘆きの谷に、青い鳥は舞う』5
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オクトギンター地区フォーマルハウト。どこの港町にも船乗りや外国人ための盛り場があるように、ウリエルシティ港湾地区の煌びやかな歓楽街として発展を遂げた地域だ。シティの夜の顔であり、エズラとはまた違った悪党どもが跳梁跋扈する危険な場所でもある。
〈パンデモース〉は、そんなフォーマルハウトの中でも一際目立つ会員制クラブだった。宮殿のような外観の建造物は、大理石がふんだんに使われており、一見すれば高級クラブというよりは、美術館か何かを思わせる。が、乗りつける高級車の数を見れば、ここがそんなお上品なところでない事がわかる。
入り口にはサイと見間違うくらいの大きさの、巨大な猟犬型の自動機械が二匹、排気管から蒸気を噴出させて客を待ち受けていて、前を行く背の開いたドレスを身に纏った美人が可笑しそうに笑っている。こんな大きな機械を、ただ見世物にするためだけに動かしっぱなしにしているというだけで、この店のオーナーがどれだけ金を持っているかわかる。
「お客様。失礼ですが……」
機械犬と並んで店の前に立っていた黒服の男がそう言いかけた。全てを言わせる前に、おれはアンドレからもらったカードを掲げて見せる。
「ここに来れば特別な品が手に入ると聞いたぜ。案内してくれるんだろ?」
黒服はカードをじっと見つめ、頭を下げた。
「失礼しました。VIPルームへご案内いたします」
「よろしく頼む」
VIPルーム。いい響きだ。黒服のあとに続き、クラブへと入る。
落ち着いた佇まいであった外観とは裏腹に、クラブの中はアップテンポの音楽が生演奏されていた。そこかしこの席で、女たちの嬌声と男たちの下卑た笑い声が聞こえ、享楽的なひと時を過ごしている。通路の赤い壁には『ヴィーナスの誕生』くらいの大きさの絵画が飾ってあった。淫猥な笑みを浮かべた裸の女が、暗い赤の布に包まれている。色使いも派手で一見高級クラブにはふさわしくない下品な装飾が、逆に魔窟めいた雰囲気をもたらしていた。
黒服が先行するのに続くと、ほどなく通路の先にドアが見えた。黒服はドアの前で立ち止まり、道を空けると恭しくおれに一礼する。
「こちらの階段から地下へお進みください。その先がVIPルームとなっております」
おれは鷹揚に頷き、階段を下り始めた。蝋燭によって照らされた石造りの階段は螺旋状で、設計した人間の中世趣味を伺わせる。よくよく耳を澄ますと、波の音がかすかに外から聞こえてくる。
あっという間に最後の段を下りた。次のドアはすぐ目の前にある。どうにも嫌な予感がしている。だが、ここで引き返すわけにもいかない。
左手でドアノブを掴み、回して押した。
部屋の中へ入った途端、眩しい光に視界が覆われ、おれは思わず目を閉じた。
『レディ――――ス&ジェントルメ――――ン! 今宵も力を求めた挑戦者が、このコロッセオにやって来た!! 栄えあるギフトを手にするのは一体誰か!? 客席の皆さま、どうぞ心ゆくまでバトルショーをお楽しみ下さい!!』
軽薄な実況が終わる頃、おれはようやく目が慣れていた。
おれが足を踏み入れていたのは、金網の柵に囲われた四角いリングだった。ただし形は長方形で、ボクシングなんかのそれよりも広い。
リングの反対側には武器を持った三人の男が立っている。それぞれ、棘の付いた棍棒、ハルバード、そして剣だ。防具は兜が三人とも共通で身に着け、胴体のほうはまちまちだった。棍棒男は肩だけにパッドを、剣の野郎は素裸を晒し、ハルバード持ちだけは全身甲冑を着込んでいる。
バトルショーというからには、見栄え重視なのだろう。全く、とんだVIPルームだ。
『さあ試合前に今夜の挑戦者をご紹介しましょう! 義腕の探偵、タルボ・リーロイ・コールです!』
「何っ!?」
実況の声に、おれは驚かざるを得なかった。
何故だ。何故、おれの正体が知られている? まさかアンドレが裏切ったのか? だがそんな事をしても、奴にメリットはないはずだ。だとすれば、ほかの人間が絡んでいるのか?
――おれの名を知っている奴が、このクラブにいる?
「よう、どうした。驚いたような顔をして」
声をかけて来たのは、ハルバードを持った甲冑姿の奴だった。
「〈ギフト〉目当てだったんだろ? 残念だったな。ありゃ高いクスリなんだ。金を払えばいいってもんじゃねえ。手に入れたけりゃ、まずはおれたちを倒してもらわないとな」
「こんな余興があるなんて聞いてないぜ。一体誰の差し金だ?」
「おいおい。そんな事を気にしてる暇があるのか? これから始まるのはデスマッチだぜ」
こう言ったのは、肩にパッドをした汚らしい金髪の男だ。手に持った棍棒をパンパンと叩き、
「試合に負けた奴は死ぬ。ここの客はそういうショーを見たがってるのさ。おれたちはチームを組む事で生き残ってきた。雑魚どもを血祭りに上げてな」
一番やばそうな目つきの剣を持った男が、舌なめずりをしながらひん剥いた目でおれを見る。
「何でもいい。早くてめえを切り刻んでやりてえぜ。特にその腕、気持ちわりい。ぶった切ってやるよ。プリンセスまで回さねえさ」
――プリンセス? 気になったが、おれは頭を切り替える。
「なるほどな。考えてる場合じゃないってのはわかったぜ」
自然に構えをとった。とにかくまず、この場を切り抜けなきゃならない。
『さあ試合開始です!』
ゴングが鳴り響いた。その瞬間、三人は同時に動いた。
チームを組んでいるだけあって、連中の動きはなかなかのものだった。まず棍棒と剣が同時に来た。棍棒が唸りを上げて顔面を狙ってくる。だがこいつはフェイクだ。左足狙いの剣が、このコンビネーションの本命だ。
飛び蹴りで、おれは剣の男を迎え撃った。棍棒が額ギリギリを掠めていく。滑りながら着地し、切り返しで振り抜かれた腹部狙いの棍棒をガードする。直後、脳天めがけて剣が振り下ろされた。棍棒野郎を蹴り飛ばし、剣を持つ手の手首を左手で掴む。相手が力の拮抗に気を取られた瞬間を狙い、顔面に義手の拳を叩き込む。
殺気とともに背後がハルバードの突撃が迫ってきた。間一髪で躱したものの、脇腹に穂先が触れて皮の一枚が服ごと裂けた。
武器を構えた三人と向き合う。傷は浅い。が、状況は不利だ。こっちは一撃たりとも食らうわけにはいかない。足を止めれば、そこで終わりだ。こっちにも武器がいる。
おれは右肩のツマミを左に倒した。この義腕のもう一つのモードを見せてやる。
右腕の内部で機構が動き出す。全体を構成する特殊鋼に熱が生まれ、加熱されていく。あっという間に、おれの右腕は漆黒から熱を帯びた赤へと変化した。
モードチェンジ――【HEAT】。
「何だ、てめえ。その腕は?」
棍棒野郎の問いに、おれは笑って答えてやった。
「触れるなよ、火傷じゃすまないぜ」
おれの胸部に埋め込まれた〈トリニティ装置〉の中で、永遠燃石が熱く燃える。おれは三人の男たちへ飛び込んだ。虚を突かれた棍棒野郎の腹に熱の一撃を叩き込み、すかさずその足を払う。倒れる男の手を離れて、くるり回転する棍棒を左手でキャッチし、そのまま棍棒で背後に迫っていた剣撃を食い止めた。
「パターンなんだよ」
棍棒を手放し、剣野郎の股間を右手で軽く握ってやる。喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げて、剣野郎はその場に倒れて悶絶する。
「や、野郎……」
「来いよ、ナイト。一騎打ちだ」
甲冑姿の男がわずかにたじろいだが、すぐに気を取り直して
ハルバードで突撃してくる。一突き、二突き、三突きを、身を反らし、腰を捻り、コートを翻して躱し切る。ハルバードの横薙ぎの攻撃。斧部分を熱された右腕で弾き、おれは甲冑の胴体目がけて左右の拳打を連続で打ち込んだ。義手も生身も関係ない。戦闘の興奮が痛みを忘れさせ、拳打を加速させる。まるでハンマーで叩きのめされたかのように凹凸だらけになる甲冑――終わりだ!
赤く熱を放つ右拳で、甲冑ごと相手の顔面を殴り飛ばす。吹っ飛んだ甲冑野郎は大の字になって固いリングに倒れ、そのまま動かなくなった。
おれはポケットから煙草を取り出し、最後の一本を銜え、その先を右手に当てて火を着け、空のケースを握り潰して放り捨てる。右肩のツマミを元に戻すと、義腕の内部機構が変化し、モードノーマルへと戻っていく。
「……ゴングはまだか?」
『…………あ。あ、あっ』
実況が何か言う声がかすかに聞こえ、その直後に試合終了のゴングが鳴った。途端に、この最低の見世物を楽しんでいた観客どもが、爆発したように声を上げた。罵倒なのか歓声なのか。混在していてよくわからない。
「プリンセ――――スっ!!」
観客の一人がそう言ったのが聞こえた。一人、二人と同じ言葉を繰り返す奴が増えていく。
「プリンセ――――スっ!!」
「プリンセ――――スっ!!」
その声に呼応するかのように、
「ッ!?」
突然空中から白い影が降って来た。その手に細身の長剣が握られているのに、すんでのところで気が付き、おれはバックステップで距離を取る。
観客の声が再び爆発する。歓声が嵐のように吹き荒れる。
現れたのは純白のドレスを着た仮面の女だった。鈍く光る長剣を持つその姿は、プリンセスの名にふさわしい出で立ちだ。そしてその髪の色、背丈、何よりも高速で現れた身のこなし。全てに覚えがあった。
「キドニー・レイン……!」
「こんなところまで追いかけてくるとはね。大した男だよ、あんた!」
言うと同時にキドニーは長剣で切り込んでくる。昼間の時と言い、町娘とはとうてい思えない動きだ。彼女が素早く動くたび、その首に下げた銀のペンダントがライトを受けて光った。
「やめろ、君と戦いたいんじゃない!」
「馬鹿言ってんじゃないよ! 性懲りもなくつけてきたくせに!」
乱れ襲う刃を掻い潜り、おれは長剣を右腕で捌く。昼間のような目で捉えられないほどの速度ではないが、その分剣捌きが素早い。
「誰にも邪魔はさせない! あたしはルシアと幸せになるんだ! この街を出て、自分の人生を取り返すんだ!」
切っ先がおれの心臓を狙う。乱れ突きの一つ一つが死に繋がっていた。咄嗟に、おれは叫んでいた。
「メイソン・レインが倒れたぞ!」
「……っ!?」
キドニーの剣先が一瞬、淀んだ。その隙を逃さず刀身を義手で掴み取り、おれは彼女に言う。
「今はガニメデ総合病院にいる。会いに行ってやれ」
「ふざけんな! あの酔っ払いのために、あたしがどれだけ苦労したと思っていやがる!」
「たった一人の父親だろう。食糧を買い与え、面倒を見て来た父親だ。本当にいいのか」
「……っ、うるせえ! あんたには関係ない!」
さっきと比べたら滅茶苦茶な剣捌きに、ペンダントが激しく揺れる。剣撃を躱し、右腕で弾き、逸らす。まるでダンスのように、お互いが同時に回転して彼女の剣がおれの右腕を切り付ける。さすがに両断はされないが、腕には傷跡が残っている。
「くっ!」
何とか剣を掴み取ろうと腕を伸ばす。まずい位置だった。瞬間身をかがめかけた彼女の顔面が義手の軌道上にある。
「ちっ!」
何とかぎりぎりで腕を逸らせたが、鋼の腕は彼女の首筋を掠め、ペンダントの留め具を破壊した。ゆらりと、ペンダントが落ちていく。
「あっ!?」
同時に――
「うおおおおっ!!」
いつの間にか起き上がっていた棍棒男が殴りかかってきた。キドニーとおれは、咄嗟に後ろへ飛びずさる。だがその時、男の足がペンダントの上へ下ろされようとしていた。
「やめろ!」
おれのほうがキドニーより若干距離が近い。ぎりぎりでペンダントを掴み取り、左手が男の足に踏みにじられた。とはいえ、男も想定外のおれの動きに驚いたようだ。
「ぐうっ!」
左腕をかち上げ、右手でとどめの一撃を顔面にお見舞いしてやる。男が倒れ切るのを確かめないまま、おれはさっき入って来たドアへと走った。正体がバレている以上、ここに留まるわけにはいかない。
「逃がすか!」
キドニーが刃を振るったが、おれはリングを転げてそれを躱す。立ち上がり急ぐ。
――ブン!
「っ!?」
空を裂く音がした。回転しながら、ブーメランのように棍棒が弧を描いて飛来した。あと一瞬気付くのが遅ければ顔面に直撃していただろう。あり得ない角度だった。
右腕を前にし、クロスガードして棍棒を防ぐ。
棍棒が弾かれる。一瞬だけ後ろを確認したが、追手はキドニーのみだ。
それ以上の余裕はない。おれはドアを開け階段を駆け上る。
「逃がすな!」
「追え、追え!」
下方からも、そして上方からも追手の声が聞こえた。だが、プランはある。ペンダントをポケットに入れ、おれは右肩のツマミを右へ倒した。モード【MUSCLE】。
「おおォッ!!」
人工筋肉が膨れ上がった右腕で、おれは石の壁を殴り続ける。そんなに厚い壁じゃない。だから、モードマッスルの力で殴り続ければ――
徐々に大きな亀裂が入っていき、特に強烈な一撃を与えて、ついに石壁の一部が崩れた。
眼下には夜の海が広がり、波が打ち寄せている。
迷っている暇はない。おれは暗い海めがけて軽く跳んだ。
「海に落ちたぞ!」
「探せ!」
おれが開けた壁の穴から、黒服どもが海を見て次々に叫ぶ。おれは穴からちょっとだけ離れた位置で、外壁に義手の指をめり込ませて支えつつ奴らが遠ざかるのを待った。普通の腕なら出来ない芸当だが、モードマッスルの持久力なら容易い事だ。
黒服の声や足音が遠ざかっていくのを確認し、おれは少しずつ外壁を横へスライドしていくように移動していく。
慎重に。だが急がねば。ぐずぐずしていると黒服どもが追いついてくる。
時間をかけて陸地に戻り、おれはクルーザーで事務所まで走った。道中、とても穏やかではいられなかった。
『おかえり、タルボ。遅くなったけど、無事で何より――』
「ベン、デフコン3。全ての窓を閉めてセンサー起動。もし誰かが侵入してきたら、全力でおれを呼べ」
息も絶え絶えにおれは言った。全てを飲み込んでくれたのか、ベンジャミンは内部で思考球をぶつけ合いながら、『了解』と言った。
机の上に置いてあったウィスキーの百八十MLの瓶を手に取り、蓋を開けて中身を一気に呷る。酒に喉が焼けそうになりながら、作業室の雨戸を閉めて、窓を戸締りする。ほかの部屋も同様にチェックし、それらが全て終わると、おれはさらに酒を呷った。飲んだらまずい状況か? しかし、飲まずにはいられなかった。
作業台の上にウィスキーを置き、おれはポケットの中を探って、中にあるものを取り出した。銀色のロケットペンダント。
開けるかどうか一瞬躊躇った。そのくらいの良心はまだ残っていた。だがこの理不尽な状況に対する、言いようのない怒りによく似た感情が頭の中を駆け巡って、ひどく落ち着かない。
結局、おれはペンダントを開けた。
写っていたのは二人の女性だった。その背後にどこかの公園の時計らしきものが見切れている。
写真の彼女たちは幸せそうだった。
年相応の可愛らしい微笑みを見せるキドニー・レイン。
そして、キドニーよりは控えめだが、とても穏やかな笑みを見せているルシア・アルゲンス。
「いい写真だよ、全く」
そして休む事にした。
疲れ切っていたせいか、昔の夢を見た。おれがまだ生身の右腕を持っていた頃の夢。若かりし、軍人時代。
『生き残るというのは、いち生命がその生の中で成し得る最大限の成果だ。ありとあらゆる手段を駆使し、いついかなる状況であっても、己の命を次の瞬間に繋ぐ。極限の中では、それは絶対正義なのだ』
うんざりするような夢だった。おれはその言葉の主を仕留めてやろうと銃を探し、そして銃把を握る。
だが、その引き金を引いた途端、膨れ上がる爆炎がおれの右腕を吹き飛ばす――
何度も見た夢だ。何度も、何度も、何度も――……