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『嘆きの谷に、青い鳥は舞う』4


      4


 メイソン・レインは無事入院出来た。今しばらく安静にしてなければならないが、命に別状はないらしい。医者からそう聞かされて、おれはようやく安堵の息をついた。全く、世話をかけさせやがる。

 目を覚ましたら連絡するように頼み、おれは病室を出た。時計を見るともう三時半だ。昼飯も食っちゃいないが、とりあえず一度ブレンディに連絡しなければならない。

 公衆電話を探し、おれはグランパスのデスクへかけた。奴は忙しそうだった。

「ちょうど今からバーンズが休憩に入る。資料を持たせてやるから、適当に落ち合え。今どこにいる?」

「ガニメデ総合病院」

「よし。そのすぐ近くの通りに〈ロッサ〉ってカフェがある。そこで待て」

「了解した」

 ロッサなら寄った事がある。そこそこの値段で、メシがうまい。クルーザーで移動して、テラス席を取った。コーヒー、アラビアータ、マルゲリータピザを注文し、おれは煙草に火を着けた。

 どっと疲れが押し寄せる。手掛かりを掴んだと思ったらこれだ。時間はないが、とりあえず休息は取らなければならない。

 次は何に手をつればいいだろう。キドニーの行方を追う? しかしどうやってだ? 手掛かりといえば、さっき拾った小瓶くらいだ。これについては当てがあるから、あとで調査を依頼するつもりだ。

紫煙を大きく吸い込み、おれは思考に没頭する。

ルシアについては何とも言えないが、キドニーはまだウリエルに留まっているだろう。もし仮にキドニーが定期的に父親の面倒を見ていたとして、この街を離れるつもりなら、持って来た食糧が三日分では備蓄として少なすぎる。

人に分け与えられるくらいに食糧を買う余裕があるという事は、今現在キドニーはそこまで金に困ってはいないはずだ。定収入がある。マスターの言っていた新しい仕事だろう。

そして、おそらくそれは表立って人前に出るような仕事ではない。何故なら、キドニーはルシアと行動をともにしているからだ。相方が追われる身なら、目立つような真似は避けるだろう。

彼女は、ルシアの父親が追手を差し向ける事を知っていた。そして、追手を始末しなければならないと考えていた。

どのような手段を用いても、だ。

 ブロンドの背の高いウェイトレスがコーヒーと料理を運んで来た。美人だった。ウェイトレスは微笑んで、「ごゆっくり」と言った。正直、好みのタイプだ。しばらくこの店に通ってもいいかもしれない。彼女の揺れる丸い尻を見つめながら、わりと本気でおれはそう考えた。

女の事を考えていたらキドニーの蹴りを思い出し、顔の痛みを思い出す。しかしまあ、食事が出来ないほどじゃない。

煙草を消して、ナプキンをつける。ひとまず、メシにしよう。車輪型のピザカッターでマルゲリータを切り分けた。

「イタダキマス」

 両手を合わせ、昔覚えたニホンの食前の挨拶をし、おれはピザを手に取った。

「あ――――――っ!?」

 やかましい声が聞こえて来たのはその時だった。

「もうゴハン食べてる――!? ひどい! わたし休憩時間にパシリにされてんのに、何で先に食べ始めるの!?」

 口に運びかけたピザを、おれはとりあえず食った。もぐもぐと食べ、水を飲み、口の中を空にしてから言った。

「別にお前と飯を食おうとは言ってねえよ、バンビ」

 小洒落たハンチングを頭に乗せ、首からはいつも使っている古いカメラをさげた金髪の小娘におれは言ってやった。小娘と言っても、もう二十歳だが。

「何言ってんの!? お昼はタルボに奢ってもらえって編集長言ってたよ!」

 途端にバンビが強い口調で反論する。おっさんめ、何勝手に約束してやがる。

 トン、と向かいの席に腰を下ろし、バンビはおれのマルゲリータを断りもなく一切れ取った。

「おい」

「うっさいの。だいたい自分で頼んだ物なんだから自分で取りにくればいいじゃん。何でわたしにわざわざ届けさせるわけ?」

「別に届けてくれと言ったわけじゃねえ」

「そこは自分で行くって言ってよね! 全くもう」

 そう言って、バンビの奴はマルゲリータを食べ始めた。

 ララ・バーンズ。通称バンビ。

〈ブレンディ・エクスプレス〉の若き記者だ。グランパスと同様、おれとは街に来た頃からの付き合いだ。とはいえ、初めて会った頃、こいつはまだ十代だったし、記者ではなくバイトだった。バンビというあだ名は、その頃ついたものだ。

「しょうがねえな。奢ってやるから、自分のから食えよ」

「やったー。ありがとね、タルボ。何にしようかな。ステーキとかないかなー」

「何を頼むつもりだ。レストランじゃねえんだぞ。ピザにしろよ、ピザに」

「うーん、そうだね。じゃあ二枚にしよ! おねーさーん!」

 この細身のどこに入っていくんだか知らないが、バンビはわりと大食いだった。

「注文はいいから、先に頼んでおいたものをよこせ」

「もー今はゴハン食べてるんだからいいでしょ。行儀わるーい」

「あいにくとおれは昔から行儀を褒められた事がねえんだ。いいから、ほら」

「むー」

 顔を膨らませながらも、バンビはリュックの中から厚めの封筒を取り出した。

「結構あるな」

「まあだいたいは編集長が個人的に集めていた資料のコピーだから。取ったのわたしだけど」

「おお、働いてるな」

「あのねタルボ、わたしこれでも忙しいんだよ? 今だって廃工場の調査中なんだから」

「廃工場?」

「うん。表向きは製薬会社の工場で、問題があって閉鎖されたって話なんだけど、実は裏で軍が工場を買い取っていて、生物兵器を開発してるらしいの。なかなか管理者の許可が下りなくて、取材に行けないんだよねえ」

 見た目は二十歳の小娘だが、バンビもまたブレンディの立派な記者だった。遅めのランチに生物兵器の話をするような女だ。社内じゃさぞモテるだろう。

「……まあ、何だ。お前がわりと暇そうなのはわかった」

「はあ? タルボ、わたしの話聞いてた?」

「取材に行けてないんだろ。ほら、おねーさんが来たぞ」

「何よ。子ども扱いしないでよね。あ、おねーさん、マルゲリータとナポレターナとカフェオレをくださーい」

 注文を聞き取るとブロンドの美人ウェイトレスは笑顔で頷いた。おれはピザを口に運ぶ。

「食後にデザートも頼んでいい?」

 やれやれ。おれはアラビアータをくるくるとフォークに巻きつけながら答えた。

「そういうところがだな――」


 かぼちゃのプリンを食べ終え、二杯目のコーヒーを飲むと、おれは食後の満足感に浸った。うまかった。実にうまかった。ここ数日の簡素な食事を思えばフルコース料理を味わった気分だった。それもこれも前金一万ギルヴィのおかげだ。この一瞬だけはエベネーザ・アルゲンスに感謝してもいいかもしれない。

「結局食べてんじゃん」

「人生には酸いも甘いも必要だ」

おれは煙草に火を着けた。ベンジャミンには悪いが、最近本数が増えている。気が付くと金の事ばかり考えている生活のせいかもしれない。

グランパスが用意してくれた資料の中身を簡単に確かめる。じっくり読み込むのは夜になるだろう。帰りが遅くならなきゃいいんだが。

「何か会社の資料ばっかりコピーしたんだけど、何? 企業スパイになったの?」

「お子ちゃまにはそう見えるだろうな。仕事なんだ、話せるわけないだろ」

「ふーん。じゃあマグニフィン伯爵の事、調べてるんだ」

 さらっと小娘はそんな事を言った。こいつめ。

「おい、バンビ」

 おれはちょっときつめに言った。ところが、当のバンビは聞いてるんだかいないんだが、自分の手帳を眺めている。

「ねえ知ってる? 伯爵の噂」

「知らねえな。それよか、人の仕事に首突っ込むな。こっちにも守秘義務ってもんが――」

「〝二十年前の階歴(かいれき)一一五年の四月、採掘現場に立ち会っていた伯爵は、地中からある物を見つけたという〟」

 おれの言葉などお構いなしに、バンビは手帳に書いてあるらしいメモを読み上げる。

「〝当時作業に参加していた人間によれば、それは赤子が入るほどの大きさの箱で、中には二枚の青い宝石で出来た石板が入っていた。石板には何か文字らしいものが刻みつけられていたが、伯爵はおろか、誰一人その文字を読めなかった〟」

「石板?」

「モーセの十戒は知ってる?」

「海を割ったとかいうオッサンのあれか。でも確か、あれは自分で壊してなかったか」

「出エジプト記によれば石板は二組あるの。偶像崇拝に怒ったモーセが叩き割ったものと、新たに神により記された石板がね。伯爵が見つけたとされる石板は、おそらくこの二組目だって言われている。まあ、何でそんなものが聖書とは縁のない土地から出土したのかは謎なんだけど……」

「待て待て。おれも資料は読んだが、伯爵がそんな歴史的な発見をしたなんて話は一度も出てこなかった。今の話は、ようするにオカルトマニアの噂話だろ? 何でさも実在するかのような口振りなんだ」

「これは実際に見た人がいるもの。まあ、その人はこの話を新聞社に話した翌日に失踪したらしいけど」

 はん。何ともオカルト話らしいオチだ。

「それに、石板を発見したとされる翌日から、伯爵の身の回りでは奇跡に近い事が何度か起こってるの」

「例えば?」

「一番大きいのは、発見した翌日に奥さんの妊娠が発覚した事ね」

「……いやまあ、確かにめでたいが石板とやらの奇跡って言うには」

 言いかけて、おれはさっき見た資料を思い返す。ルシアはつい二週間前に十九歳になったばかりだ。

「……ルシアの前に子どもがいたって事か?」

 バンビは首を横に振った。

「いいえ、違うわ。メアリ・アルゲンスはそれから一年と二ヶ月後に、ニュー・ゴールデンバレーの病院で無事女の子を出産してる。ルシア・アルゲンスを」

 十四ヶ月の妊娠期間を経て生まれたって?

「いくら何でもあり得ない」

 おれは即座にそう言った。

しかしバンビの顔からは、さっきまで見せていた子どもっぽさが消えて、どこか確信に満ちていた。

「当初の出産時期と目されていた一月から、実際にルシアを産んだ六月まで、彼女は人前に姿を見せる事はなかった。周りの人は皆、お腹の子に不幸があったんだと思ったそうだよ。でも実のところは、伯爵夫人の異常な状況を見かねてマグニフィン伯爵が世間から隠したって言われてる」

 バンビの小さな手が手帳を閉じた。

「当然、十四ヶ月も妊娠していたなんて記録はどこにもないけどね。でも、当時マグニフィン伯爵の近くにいた人間は皆覚えている。ルシア・アルゲンスが生まれた時の奇妙な状況をね。新聞記事にもなってたから、それはコピーしてある」

 袋の中を探ると、確かに古い記事のコピーがあった。

 ただの噂だ。参考にするような話じゃない。だいいち、おれは今現在のルシアの足取りを追わなきゃならないのだ。仮に彼女が十四ヶ月間ママの腹の中にいたからといって、それが何だという話だ。

 だが、いかにオカルト話とはいえ、何故そのような噂が立つのかは気になった。

「なあバンビ、お前、今、暇なんだよな」

「いやだから、わたしは生物兵器の工場を」

「陰謀論はあとにしろ。ちょっと頼まれてくれ。ルシア・アルゲンスについて引き続き調べてほしい」

「ええ……伯爵の事調べてるんじゃないの?」

「パパの事はだいたいグランパスが調べただろ。お前は娘のほうを頼む。もちろん仕事の合間でいい」

「えー……どうしよっかなー。わたしも記事とあんまり関係ない事してると怒られるんだけどな……」

「なら、グランパスにはおれから言っておくさ。報酬は弾むから、頼む。な?」

 バンビはだいぶ迷っていた。眉根を寄せて悩む事一分、ようやく口を開く。

「じゃあさ。廃工場のアポ取るの、協力してもらっていい?」

「ああ、もちろん。今の仕事が片付いたら、すぐにそっちに取りかかる」

「オッケー。契約成立だよ」

 バンビの差し出した手に、おれは威勢よくタッチした。



 宣言通りまずグランパスに連絡した。仕事は本業の合間のみ、別途バンビにも報酬を支払う事が条件で許可が下りた。

それから夕刻までの時間を聞き込み調査に費やしたが、キドニーの行方はわからなかった。時計を見るともう五時を回っている。アパートの煙突からは煙が立ち上り、仕事終わりらしい人の姿もちらほら見え始めた。遠くには、セントラルに建てられた巨大な天使像が見える。夕日に照らされるシティの守護天使、ウリエルが。

 物事に行き詰まりかけたら、確実な事柄から当たっていく事だ。そうすれば、指すべき次の一手がおのずと見えてくる。

 今おれがいるウィリディス地区にはサダルスウド通りという通りがあり、ここは別名芸術家通りと呼ばれている。その名の通り、駆け出しの画家から寡作の天才音楽家まで、およそ芸術に命を燃やしている連中が寄り合って暮らしている。芸術家だけではなく、占い師や怪しげな雑貨屋も存在し、何か異世界にでも迷い込んでしまったかのような、独特の雰囲気があった。

 サダルスウド通りの中腹、建物と建物の間にその雑貨屋はあった。一見ただの平屋だが、いつもこんな黄昏時に開店し、店からは甘い不思議な匂いが漂う。

木製の看板には、店名の代わりにラテン語でこう書いてある。

『世界は騙されることを欲している、それゆえ世界は騙される』

店の前にクルーザーを止め、おれは中に入る。

「アンドレ、いるか?」

 答えが返る前に、おれは目的の人物がいる事に気が付いた。カウンターのほうから漂うパイプ煙草の匂いが強くなったからだ。

「いやあ、これはこれはタルボの旦那。直接店に来るとは珍しいですねえ」

 座り心地の良さそうなカウンターの椅子に座って、悠然とパイプを吹かしていたシルクハットの男が、甘ったるい紫煙の中で答えた。

 アンドレをひと言で説明するのは難しい。珍品なのかガラクタなのか見当もつかない雑貨屋兼古物商の店主であり、時には仲介役として、様々な人間を繋ぐ事もある。裏の世界にも詳しい事情通で、時折持ちかけてくる仕事は怪しげなものばかり。景気が良さそうな身なりのくせに、たまに金がないと言って泣きついて来る。ひと言で言うならば……そう、読めない男とでも言うべきだろう。

「急に押しかけて悪かったな」

 正直に言えば、居てくれてほっとしている。この店は不定休で、アンドレも電話をかければ捕まるとは限らないからだ。

「いえいえ。ま、かけてください。義腕の調子はいかがです?」

「上々だ。お前に紹介してもらった業者は当たりだった」

 勧められた通り近くにあった椅子に座ると、アンドレがカウンターに灰皿を置いた。遠慮なく吸わせてもらう事にして、おれはプエブロを銜える。

「さっそくで悪いんだが、ひとつ見て欲しいものがある」

「おやおや、何ですかね。今日はゆっくり過ごすつもりでしたから、あんまり難しいのは勘弁ですよ」

「難しいかどうかはわからんが……」

 言いながら、おれは鞄から例の小瓶を包んだハンカチを取り出して、カウンターの上で広げた。

「こいつの出所を知りたい。中に微かに残っている青い液体は、どうも薬物らしい。打った奴が化け物みたいに速くなった」

 紫煙を吐き出したアンドレは、初めは手も付けずに小瓶を眺めていたが、やがて豪奢な装飾を施したパイプを脇に置き、宝石でも扱うかのような慎重な手つきで小瓶を手に取った。

「……旦那、これを一体どこで?」

「調査中に関係者らしい人間が落としていったものだ。詳しくは言えん」

 アンドレはサングラス越しに小瓶に書かれた文字らしきものを見ていたが、やがてハンカチの上に戻すと、またパイプを手に取って吹かし始めた。

「旦那、悪い事は言いません。この一件からは手を引いたほうがいい」

「急に何だ?」

「誓って言っておきますが、私はふざけちゃいない。旦那は今、関わるべきじゃないものに関わろうとしている。タルボの旦那はウチの上客ですからね。出来るならこいつとは無縁でいていただきたいんですよ。無論、私も関わりたくない」

「わかるように言ってくれ。アンドレ」

「こいつは〈バルバロイ〉の品ですよ、旦那」

 存外綺麗な歯並びのアンドレの歯のうち、ひとつだけ金を被せた歯がきらりと光ったが、アンドレの口調は真剣だった。

「バルバロイ?」

「旦那は魔法を信じますか? およそ常識では考えられないような力を」

「お前までオカルト話か。全くどいつもこいつも……」

「真面目な話なんですよ」

 アンドレは少しだけ体を前に乗り出した。

「業界の噂じゃ、奴らは魔術結社だと言われている。それもそんじょそこらの新興宗教やカルト集団なんかじゃない。メンバーは全員が本物の魔術師だそうです。実際、連中に探りを入れにいった奴は皆、失踪するか正気を失っている。近付くどころか、バルバロイの名を口にしただけでも標的にされかねない。誰もが名前を知っていながら、決して話題には上らない。触れてはいけない連中なんですよ」

「下手な冗談はよせ。そんな触れちゃいけない連中の品を、何でお前は見ただけでわかるんだ?」

「私も連中の品を扱った事があるからですよ、旦那」

 そう言って、アンドレは無造作に棚へと手を伸ばし、まるで金庫のダイヤルを回すように長い指を動かした。垂れ下がった装飾品のせいで手元はよく見えなかったが、カチリと音だけが聞こえ、やがてアンドレは何かを取り出して、カウンターの上へと置いた。

「……おい、これは」

 そこにあったのは、おれが持って来たのと同じ小瓶だった。違いといえば注射針が付いていない事、中身が青ではなく赤い液体で満たされている事だ。

「預かったのはこれ一つですがね。こんなもの売れないし、かといって手放すわけにもいかない。こうして寝かせているのが現状です」

「どこでこれを?」

「二か月前に業界の会合に出席した時に、メンバーを名乗る奴から押し付けられたんです。その時はひどい冗談くらいにしか思っていなかったんですが……私と同じように声をかけられた男が、二日後に妙な死に方をしましてね」

「妙な死に方?」

「部屋の中で、血だらけ死んでいたんですよ。損傷がひどくて初めは誰だかわからなかった。警察の話じゃ、全身の筋肉が引き千切れていたらしいです。腕も足も顔面も何もかもね。床には空になったこの小瓶が落ちていました」

「見て来たような言い方だな」

「もちろん。最初に見つけたのが私ですから」

 何一つ変わらない口調でアンドレは言った。

おれは小瓶を手に取った。どろりとした赤い液体。ガラスには、やはり見た事もない文字が刻印されている。

「これは一体何なんだ、アンドレ」

「連中はこれを〈ギフト〉と呼んでいました。力を授ける贈りものだと」

 力。確かに、これを注射したキドニーは尋常ではない速度を手に入れていた。

「バルバロイの連中は、こんなものをバラまいているのか?」

「力を求める者に与えよ。奴はそう言っていました。迷える子羊に狼を(しい)する力を、とね」

 おれは煙草の灰を叩き落とした。線が見えて来た。

「この街で、こいつを買える店はあるか?」

「旦那……」

 アンドレが半ば呆れたように言う。

「お前には悪いが、こっちも仕事なんでな。今追えるのはこいつくらいなんだよ」

「勘弁してください。私ゃこれでも客にはいい紹介をするのが信条なんだ。危険とわかっていて、みすみす教えられませんよ」

「てことは、あるんだな。こいつを取り扱う場所が」

「あるにはありますが……」

 アンドレは言い淀み、パイプを外して神経質そうに口髭をいじった。

「止めても行きますよね?」

「ああ」

「……やれやれ」

 アンドレは懐から名刺ケースを取り出し、パチンと音を立てて蓋を開けた。手慣れた手つき名刺の束をめくり、中から一枚を取り出す。

 名刺ではなかった。白地のカードだった。中央にオーナメント柄によく似た大き目の模様が一つ、四隅には小さい模様が一つずつ配置されている。よくよく見れば、模様の中に崩れたベータの文字が隠されていた。

「オクトギンター地区のフォーマルハウトに、〈パンデモース〉って高級クラブがあります。さっき言ったメンバーを名乗る奴ってのがそこのオーナーでね。ギフトを売った客に渡せてって」

「OK。いくらだ?」

 甘ったるい紫煙の香り。アンドレは言った。

「百五十いただきましょう。それと条件が一つ」

「何だ?」

「次の修理もウチを通してください」

「はっ」

 にっと笑って、おれはカードを摘まみ取った。

「そうそう壊すと思うなよ、アンドレ」

「せいぜい気を付けるんですな、旦那。天使ウリエルがあんたに微笑みますように」



 七時になった。おれは指定された番号にかけた。

「――はい」

「リチャードか?」

「ええ」

「タルボ・リーロイ・コールだ。今日の報告をお伝えする」

 おれは今日これまでに調べた事を簡潔に告げた。

 自分の主にも等しい娘が、妙なクスリを使う女と一緒にいるかもしれないと聞かされても、リチャードの声音は変わらなかった。

「ご報告は承りました。閣下へは私はからお伝えします」

「……驚かないのか?」

「私の感想や反応は不要でしょう。今重要なのは、ルシアお嬢様を無事見つけ出す事です」

 そうかもしれない。しかし、だからといって無反応を貫く必要はない。

「このあと、件のクラブに行ってくる。続報はまた明日」

「わかりました。後日報告書にまとめてください」

「あー……おれは昔からレポートの類が苦手なんだよ」

「調査内容を正確に、詳細に記していただければ問題ありません。よろしいですか?」

 イエスと言った。

「それでは吉報をお待ちしております。ルシアお嬢様をどうかよろしくお願いいたします」

 おれに銃を突きつけた姿からは想像も出来ないような声で、リチャードは言った。

「全力を尽くすさ。では、交信終了」

 電話を切った。

一度事務所へ帰る事にし、途中、コールスタンドに寄って、クルーザーの永遠燃石を取り換え、石炭と水を補充した。

ウォルーメン・ハーレムの自宅へ戻ると、手早く夕食を済ませ、食後に今日手元に集まった資料を読み込んだ。

 九時頃、眠気に襲われ二時間ほど眠った。夢は見なかった。

 十一時十五分。歯を磨き、顔を洗った。悪くない面構えだ。深夜の冒険へ出かける男の顔だ。

ライターを弄び指先の動きを確かめ、煙草を一服した。

それからベンに留守番を頼み、家を出た。



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