意思(ビジョン)
『意思』
今日は風が強い。男の俺の髪の毛が、風になびいて少し持って行かれそうになる。そういえば最後に髪を切ったのはいつだったか。見てくれにさほどの興味も無いので、いつも仕事をするときは後ろで髪を束ねているが、端から見れば少し不潔とも思われかねない。普段からそれなのに加えて、今日はさらに不潔さに拍車がかかっていることだろう。
仕事終わりの深夜。俺は着替えもせずに目的地まで足早に動いていた。
「・・・ちょい魚くせえか?」
いや、今から会うのは幼い頃からの気心知れた仲間だ。俺の仕事のことは理解してくれているし、何より仕事終わりに直行で来いと行ってきたのはあいつらだ。少しくらい魚臭くても文句は言わせない。っていうか、あいつらは少しくらい魚のにおいにまみれればいい。漁村の若者としての義務だろ。
目指す場所、村はずれの森の入り口まではそう遠くはない。オヤジの計らいのおかげで、予定より10分は早く着けそうだ。
漁港の脇口をでて海岸沿いに数分、街灯はあまりなく、足を踏み外せば海に真っ逆さまだが、それほど高さはないし、俺は泳げる。村の男の中では一番下手だが、少なくとも最低限度の泳ぎくらいは漁師の息子として当然のスキルだ。魔石に魔力を込めるよりよっぽど楽に習得した。
まあ、そんな心配をせずともこの道はもう何年も歩き続けている道。ぶっちゃけ目をつむってもなんとなく自分がどの辺にいるのかは把握できる。娯楽に飢えたこの村の若者にとってこの道は、話にしか聞いたことがないが、街で言うところの繁華街に通じる道だ。
「繁華街か・・・一生縁がねえんだろうな。」
俺はこの村を出るつもりはない。俺に当てられた、数分前の言葉が引っかかる。
おめえの夢、込め屋で合ってんだな。
実の父親にすらも見透かされている。いやむしろ、父親だからこそ、これまであまり深く介入してこなかったのだろうか。いずれにしても、その出来事が、そのオヤジの言葉が、今の俺には激しく効いた。自分でも分かってる。自分のことだから。
「シュティム?ずいぶんと早い到着だな。」
はっとして顔を上げる。いつの間にかついていた森の入り口には、見知った顔が並んでいた。
「さては今日はボウズか?」
「・・・いいや。ボウズはお前んとこだ、リック。」
「だろうな。うちのおっさん、今日も言ってたよ。今日こそローウルのガキに頼らずに大漁旗を揚げるんだってな。」
「つれるはずのないポイントで漁をするのやめた方が良いって。」
「無理。俺は海のことは知らねえし、おっさんが釣り場を簡単に変えるはずがねえ。お前の忠告とあればさらにやけになって、てこでも動かねえだろうな。」
ケラケラと笑っているリック、彼とは乳飲み子の時からの仲だ。一緒に育って、一緒に馬鹿やっては一緒に叱られて、また無茶をして。時には兄、時には弟のような、親友だ。
「明日の分の魔石はオヤジに預けてきた。リックのオヤジさんも一緒に行けば良いんだけどな。」
「明日はうちは出ねえよ。仕掛けの点検日だ。明日出るのはお前んとこと・・・あれ、ジーナのとこは出るんだっけ?」
「アタシのところは出るよー!あとミミとライと・・・って明日はリック以外ここにいる一家は全員出るね!」
近くに岩に座っていた女と、その周りにいた男女が輪に入ってくる。
彼女たちとも古い付き合いだ。全家庭漁師の息子娘なので全員の親とも面識がある。魔石もいつも買ってくれているし、良い付き合いだと思う。
「で?今日は何をしようっての。」
「まあ落ち着きたまえよミミ君、今日は他でもない新たなライ・コレクションを皆に披露しようと思ってね!」
「今度は何?魚の内臓を亜音速で射出する銃ならもう見飽きたよ。今度は脱臼じゃすまないと思う。」
「毎回毎回ライの持ってくる武器って危険度だけギリギリなのに絶妙にしょぼいんだよ。その図体で武器集めが趣味ってのは納得できるけど。」
村でも美人で評判のジーナ、体格の割に繊細で武器オタクのライ、皆よりおとなしいが自分の意見はしっかりと持っているミミ。
皆個性的だが、俺にとっては大切な友人達だ。彼らとつるんでいる間は、将来のことや自分の夢のことなども忘れることが出来た。
「今日のレベルは段違いだぜ?見ろよ!」
ライは誇らしげに鼻息を荒くし、鞄から重々しい黒い塊を取り出した。
「対魔獣用スタンガン!ガンセキゾウも半日ひっくり返る威力だぜ。」
「ちょっと!?それ完全に重火器じゃない!どこで手に入れたのよ、そんな危ないモノ!」
「俺、昨日まで街に行ってたじゃん?そのときに買ったんだよ。」
確かに、街に行けば大概のモノは手に入る。大きくはない街だが、行商人の物流ルートの途中にある街なので、モノのそろえは旬の食材からライの買ったような護身用の重火器まで、あらゆるモノがそろっている。
しかし、そうだとしても、だ。
「こいつの試運転も兼ねた探索をしようぜ!場所はそうだな、いつもは折り返すところをさらに奥に、とかどうよ?」
「ダメだって!あそこは魔獣を追い払うためのゴーレムが守れるギリギリの範囲なんだから!」
「そんなに奥までは行かねえって。いざとなれば走って戻れる場所くらいにしとくから。」
「だとしても、よ。もし万が一、魔獣に遭遇したときに対抗できるモノはあなたのそのスタンガンとシュティムの魔石しかない。」
違う。正確には俺の魔石では魔獣の目を一瞬くらます程度だ。俺の魔石には攻撃力は無い。勉強の過程でそんな魔法もあることは知っているが、詳しいことは分からないし、そんなモノがあったとしても俺には扱えない。俺に出来るのは、魔石に魔術を込めることと、人並み程度の漁だけだ。
「ちょっとだけだって!ちっこいスライム辺りに試し打ちしたら今日はもう満足だからさ!」
「あなたがそれで満足するはず無いでしょ。この前だって・・・」
「ああ!もういい!ミミにはもう聞かねえ!なあリック、頼むよ!」
「え!?いや、でもなあ・・・」
詰め寄られるリックは、俺の方に視線を向けた。そしてライも、他の皆も、視線を一瞬俺に向けて、すぐにそらした。
彼らの言いたいことは何となく分かる。もし万が一走って逃げることになったときに、この五人の中で一番足が遅いのは俺だ。俺が間違いなく危険に一番近い。情けない話だ。女子より足が遅いことにではない。もちろんそれも情けないことだが、この村において女子はほぼ男子と同じ教育だ。運動において男女の差は無いと言ってもいい。俺が本当に情けないのは、心を許した友達にさえ満場一致で心配されること。
「・・・いいよ、魔獣は火を怖がるから、いざとなったら魔石で火をつければ良い。」
強がるしかない。少しでも彼らと同等の存在でいるためには。
「おお!さっすがシュティム!心配するな、万が一なんて起こらねえ。俺たちにはこのスタンガンがあるんだからな!」
「大丈夫か、シュティム。」
大丈夫なわけ無いだろ。怖いに決まっている。でもそれを表には出せない。もし反対すれば、この居心地の良い関係にひびが入る可能性だってある。臆病な俺はそのわずかな可能性だって怖い。会う可能性の少ない魔獣なんかよりも、身近にある恐怖。信頼しているなんて自分で言っておきながら、こんなことを考えるほどなのだ。俺の人間性なんてたかが知れているな。
「大丈夫だって。ほら、さっさと行こうぜ。」
「あ、おいシュティム待てって!」
これ以上話していると、こちらの考えを見透かされそうで。逃げるように森の入り口に向かう。夢を見ることも、オヤジと話すことからも、友人からも逃げて。逃げて逃げて、タダ楽な方へと生き続けるだけ。
こんな人生何が楽しいんだ。
恋でもすれば変わるのか?そんなに単純なことだとも思えない。そもそも恋なんておろか、片思いすらもしたことないし。
自分のことすら大切に出来ない人間が他人を大切に出来るわけがない。
「それはそうと、リックはいつ出発するんだ?王都の学術院に受かったんだろ?」
これ以上俺の話に皆の注意を向けたくない。だから、出来るだけ話したくなかった話題を提供する。
「あ、ああ。そうだな、次の潮変わりの季節にはこの村を出るよ。」
「あれ?次の潮変わりなの?私てっきり今回の変わりとばかり思ってたんだけど。」
「俺も出来れば早いほうがよかったんだけど、実は俺、学術院の規定の年齢にまだ達してないんだ。」
そんなことは初耳だった。つまりは飛び級、天才じゃないか。いや、昔から彼は優秀だった。村のまつりごとでは男を代表して率先して動いていたし、頭も切れる。ほどよい筋肉と整った顔で村中の女性を魅了していた。それなのにそれを全く鼻にもかけず、俺たちに接してくれる。絵に描いたような完璧超人だ。
「そっか。まあ、私は嬉しいんだけどね。リックと一緒にいられるのは!」
「そうだね、俺もジーナとできるだけ一緒にいたいよ。」
「はいはい、二人ともいちゃつくなら帰ってからやってくれ。」
「ほんとに。マジ勘弁。」
正直、彼に対して俺は劣等感の塊でしかなかった。何をやってもリックは当然のように俺の上に行く。しかしそれに甘んずることなく、学業でも仕事でも常に向上心を持ち続けていた。全てにおいて彼は完璧だった。そんな彼に劣等感を抱くなという方が無理な話だ。あいつには勝てない、挑むだけ無駄だ、対等になんてあり得ない。もしかしたら、リックは俺のことを疎ましくも思っているかも知れない。何をやっても人並み以下、見た目も決して良いとはいえない。おまけに根暗。こんな人間関わるだけ無駄だと思っているかも知れない。
そう思われるのが嫌で、何度も何度も俺の方から彼から離れようとした。それでも彼はそのたびに太陽のような笑顔で俺の手を引いてくる。
俺にはまぶしすぎた。
「俺は学術院で死ぬほど勉強して、絶対に医者になる!そのためならどんな困難も乗り越えてみせるさ!」
彼の見る景色など、俺には知るよしもない。知る資格もない。
「じゃあ、私は天才お医者様のよき妻になれるよう頑張ります!」
彼の回りに居られることさえ俺には奇跡だ。
「俺は武具店をやりたいなぁ。この村には需要無いかも知れないけど、ほら、行商人とかよく村で休んでいくからさ。」
俺の居心地の良い場所。
「私は、本と静寂があればそれで十分。そのために努力は惜しまないけど。」
同時に俺にはまぶしすぎる場所。
「シュティムは?」
「・・・え?」
そして光のすぐそばに、影が出来るのも当然の理。
「だから、シュティムはなんかないの?将来やりたいこととか、なりたいモノとか。」
「えっと、俺は、その・・・」
「だってシュティムすげーじゃねえか!魔石使えるなんてさ、この村にはお前しかいねえんだぜ?絶対それを生かした方が良いって!」
輝く声色は俺の耳を突き刺す。リックのこの言葉には悪意は全く入ってない。全く入っていないからこそ、あるはずもない裏は俺という人間によって作り出される。
お前にはそれしかないから、と。
「そ、そうだよな。だから俺は込め屋になるよ。」
「込め屋?何それ。」
「魔力を込めた魔石を売る仕事でしょ?確かにあんたなら出来そうだけど、それって今とほとんど変わらないってことじゃない?」
「シュティム、ホントにそれがお前のやりたいことなのか?」
本当にどいつもこいつも。俺がやるって言ってるんだよ。俺の意思で、俺がそうしたいからやるんだよ。俺にはそれしか出来ない。選択肢なんて最初から限られてる。だったら、限られた選択肢の中から選ぶしかないじゃないか。お前らみたいに、俺は、
輝ける人間じゃないんだよ。
「・・・うるせえな。そうだよ、俺は込め屋になりてえんだ。」
そうやって自分を言い聞かせる。馬鹿な俺が夢なんか持たないように。俺みたいな人間が夢なんか持っても、それは身を滅ぼすだけだ。だったら最初から身分相応の低い目標設定にしておけば良い。そうやって生きていれば傷つくことはない。出てない杭は打たれないのだから。
俺はそれでいい
「そうか・・・俺はシュティムなら、もっと上を狙えると思うんだけどな。」
「リック、昔からお前は俺を買いかぶりすぎなんだよ。魔石の使い方なんて勉強すれば誰でも分かる。それこそお前なら、半年、いや三ヶ月もあれば十分だろうな。」
「そんなことはない。俺は算術や物理術は得意でも、大気中の魔力なんて気にしたこともない。現に今も全くもって魔力なんて感じない。」
「そりゃそうだ。大気の魔力なんて存在しねえからな。」
「え?!そうだったのかよ!なあなあシュティム、その話もっと聞かせてくれねえか?」
ライが食い気味に肩を叩く。重くなりつつあった空気を変えてくれようとしているのだ。彼はそんな雰囲気を誰よりも嫌う。図体の割に繊細な男だ。
「・・・厳密に言えば、大気中に微量には存在してる。だがそれは魔力と呼べる代物じゃない。」
鞄から、効力の切れた魔石を1つ取り出し、ライの前に出す。気づくと皆が足を止めて、俺の手の魔石を中心にして集まっていた。
「難しい話は省く、つーか俺も完璧に理解してるわけじゃない。ようは、その大気中の、雑魚魔力とでも言っとくか、そいつらをまず集める、そんな感じのイメージをする。」
徐々に、魔石の光が強さを増していく。その強さと比例して、皆の表情が暗がりにぼんやりと見えてきた。
「次に、集まった奴らの中から、使いたいやつを選んでいく。いらないやつは・・・捨てる。」
普段は何気なくやっている作業だが、言葉にすると妙に刺さってしまう。自分自身が、今自分に捨てられている魔力のように思えて。
「・・・これだけ。魔力が十分に貯まるまでコレをやり続ければ良い。誰にでも出来る、簡単な作業だろ。」
集め終えた魔石を即座に使用する。
今立っているここが、俺たちがいつもは引き返す地点だ。ここから先は魔獣が出る。だが、魔獣とは本来臆病なモノだ。こちらからいることを知らせておけば、急に襲ってくることはほとんど無い。だから、光を放つ魔石を作り、周囲を照らした。こうしていれば、こちらも魔物を発見しやすいし、向こうからも簡単には近づいては来ないだろう。
「おお!サンキューシュティム!コレで足下が明るくなったぜ。」
「アンタホントバカね。シュティムは魔物から私たちを遠ざけるために光の魔石を作ったんでしょ。」
「あんまり明るいと、逆に目がくらんじゃうね。」
「けどジーナは鳥目が解消されて良いじゃない。こんなところまでリックといちゃつかれたんじゃ貯まったもんじゃないから。」
「い、いいじゃない別に!」
恥ずかしがるジーナとそれをからかうライとミミ。見慣れた光景が俺の魔石に照らされていた。
「・・・シュティム。」
少し離れたところで俺とその光景を見ていたリック。魔石の範囲は思ったよりも広いみたいだ。純度の高い魔力が込められた証拠だった。
「俺は、お前とガキの頃から一緒だ。そうだな?」
「ん、だな。生まれた日も十二時間違いってだけのほとんど兄弟みたいなやつだ。」
「そうだ。いろんなコトを二人で見て、いろんなコトでお前と競争してきた。」
「で、ほとんどでお前が勝ってる。俺が勝ったのは水切りぐらい。」
「た、確かにシュティムの水切りは天才的だよな。水平線まで水切ってく石ころとか、俺後にも先にも見ないと思うよ。」
全然嬉しくない。
「けどそれだけじゃないぞ。シュティム、お前は俺なんかよりずっとすごいやつだ。」
「はあ?んなわけ・・・」
「ねえことないぞ。今はまだ気づいてないだけなんだよ。」
「はいはい。村どころか国にとっての将来有望株のお前に、そこまで言われただけでも嬉しいよ。」
俺は半ば強引に、リックの話を遮るように口を開いた。
これ以上は聞きたくない。聞けば聞くほど、自分が惨めに思えてしまうのが分かっていた。彼の厚意すらも、今の俺には素直に受け取ることが出来ない。
「違う、おいシュティム・・・」
まだ俺に何かを伝えようとする彼の言葉は、
「うわああああああ!!!」
先に進んだ、ライの悲鳴によってかき消された。
「おい、今の・・・!」
「急ぐぞ!」
三人との距離はまだそれほど離れていないはずだ。声の聞こえた方向から察するに、三人がいるのはこの先をまっすぐ行った場所。
ぼんやりと残る魔石の光が、三人の痕跡を残してくれている。こんな時に限って俺の唯一と言って良い特技が役に立つとは。皮肉なモノだ。
息を切らして走り続ける。徐々に強くなっていく魔石の光。草木をかき分け、たどり着いた場所には、
腰を抜かして、地面にへたり込むライと、しゃがんで脇からそれを支えるミミとジーナの姿があった。
「ライ!ミミ!」
「ジーナ!大丈夫か!?」
震えながら、ライが振り返り、俺たちと目を合わせて前方を指さした。
その指の先にあるモノを、俺の魔石が照らしていた。しかし、正確にその全てを照らせてはいない。その正体は。
「ゴー、レム・・・?」
森に生えている大木と言われても信じてしまいそうなほどの体躯は、全体的に黄土色で所々に群青色、コレが本来の色なのだろう。建物の外壁を思い起こさせるような体とは反対に、水晶のように光り輝いている物体は、ゴーレムにはあるはずのない目を思わせる。
だがしかし、コレは・・・
「・・・止まっている?稼働音も聞こえない。」
村にも外れにゴーレムが2体存在している。そのゴーレムのおかげで、村には魔獣が侵入してこない。しかしそのゴーレムは月に数回、街から技術者がやって来て点検を定期的に行っている。つまりは常に動いているし、村のモノとは大きく異なる点が1つ。
「デカいな・・・」
村のモノは大きい方でも大人の男性ほど。もう一体は子供ほどの大きさなのだ。技術者曰く、ゴーレムの機能を維持するためには、このサイズが限界なのだという。それは村の若者なら誰でも知っている事実だ。日常的なゴーレムの簡単な点検は、村の若者でやる決まりになっているからだ。多少の知識はある。
「これだけ大きいと、起動も出来ないんだろうな。」
「だろうな。表面を見る限り、長いこと起動はしていないんだろ。あるいは誰かがいたずらで作ったか。」
「いたずらでこんなデカ過ぎるゴーレム?たちが悪いなんてもんじゃないよ。」
しかし、今目の前にあるゴーレムは、大きさがその比ではない。直立不動の状態だが、二本の腕は左右にバランスの差がある。右側の腕でさえ人一人分ほどはある。特徴的なのは左腕。巨大な斧のようで、人間の手のような形ではない。まるで腕そのものが武器のようだった。胴体は小さな家屋ほどは優にあり、頭部に当たる部分も巨大な樽のようだった。
「でもよかった。ゴーレムなら、敵意を向けなければ襲っては来ない。」
「そ。さっきの叫び声は、こいつがこのでっかいゴーレムにびびって腰抜かしただけ。」
「だ、だってよぉ!こんなのがいるなんて聞いてなかったんだよ!お前らは知ってたのかよ!?」
「知らなかったわよ。確かにこんなのがいきなり出てきてびっくりしたけど、あんたの異常なまでの怖がり様を見たら、何か一気に冷静になったわ。」
恐らくここにいる俺たちだけじゃない。村にいる誰も、この巨大なゴーレムの存在は知らなかっただろう。仮に知っていた人がいたとすれば、なぜこんなモノを隠していたのか、ということになる。
見れば見るほど不気味なゴーレムだ。こんなモノが動くのか?そんな光景、恐ろしくて想像したくない。
それこそ、このゴーレム自体が
「・・・まるで、魔獣だな。」
「だな。」
「あんた、何のためのスタンガンなの?あんだけ意気揚々と森に入ってきたのに、びっくりして地面に落っことしてるじゃない。」
「で、でもよぉ・・・」
ミミが、ゴーレムの前に落ちたライのスタンガンを拾い上げたときだった。
全員の視線が、ある1カ所に向く。
魔獣のような巨大なゴーレム、
ではなく、その先にいる
本物の魔獣に。
「っ!?」
その瞬間、その場の全員の思考が停止した。
横のゴーレムと変わらない巨大な胴体、その胴体の倍はある長さの一対の腕、爛々と光る空洞のような碧い目、むき出しの牙と爪、そして全身を覆う黒い体毛。
巨大な「猿のような何か」が、そこに居た。
「ひっ・・・!」
「動くな・・・!やつから目を反らすんじゃない・・・」
ソレが呼吸をするたびに辺りに漂う獣臭。空洞が、俺たちから少し離れたミミを片時も離さずににらみ続けている。その事実だけで、そこにいる存在のことはよく分からない。だが、いくら何でもこんなことくらいは、誰だって分かる。
俺たちは今、俺たちより遙かに生物的高位の存在に命を弄ばれている。
その空洞、おそらくはソレの頭部が、ミミにゆっくりと近づく。
息が出来ない。やつとの距離は、俺たち四人が目測で七メートルほど、ミミとやつの距離は
およそ30センチ。
絶対的強者を前に、動かせるのは目がやっと。心臓さえも、動いているかどうかは怪しい。そう錯覚するほど、至近距離にある死。
そう、目の前のソレは、俺たちにとって死を形に表したモノだった。
1ミリでも視線をそらせない。視界に写るのは、じわりとミミに頭部を寄せて行くソレと、かがんだまま身動きのとれないミミ、そして、
スローモーションのようにゆっくり動く彼女の右腕と、右手に握られた対魔獣用スタンガンだ。
ソレの口が開いた。尋常ではない刺激臭、生きた心地のしない生風。
地獄の底から響くような不況音が死の宣告を告げ、
「うわあああああああああああぁぁぁぁぁ!!!!」
その全てをかき消さんとする、ミミの悲鳴にも似た咆哮と、落雷のごとく轟音が俺たちの体の自由を解き放つ。
スタンガンは、魔獣の頭部を半壊させ、辺りにドロドロとした体液が飛散。強烈な吐き気を一瞬催したが、恐怖ですぐに沈静化され我に返る。
「走れッ!!!村まで逃げればゴーレムが!!!」
裏返り、かすれ、今までに聞いたことのないようなリックの声が、今の状況を物語っている。死の寸前の硬直を何とか振り払い、感覚の薄れた脚を無理矢理動かし、今来た道を全力で走る。俺の前には戦闘にリック、そのすぐ後ろをライとジーナ、三人が全力で逃げていた。
・・・三人が!?この五人の中で、俺より足の遅い人間はいない。
「・・・!?ミミ!何してる、早く村に・・・」
自分の心配よりも人の心配をしてしまった。
俺は振り返ってしまったのだ。
そこで見たのは、「ミミだったもの」
半壊した魔獣の頭部は気色の悪い音と共に、もうすでにほとんど治っていた。
その不気味な口腔の中に、彼女の頭部と足が乱雑に放り込まれてく。
「あ、アアアアアアアアアッ!!!」
鼻水を垂らし、悲鳴を上げて化け物から遠ざかる。
天そのものが崩落してきたかのようなけたたましい魔獣の叫び声が聞こえる。
無理だ。ここで逃げ切っても、必ずやつは追いついてくる。
地響きがこちらに響く。もう振り返れない。すぐそこに再び迫りつつある死に、俺の体は全力で抗おうとしていた。
走れ!走れ!!走れ!!!
前を走る三人とはまだ距離がある。このまま行けば、彼らより先に俺が捕まるのも時間の問題。俺の脚では、村のゴーレムの守護圏内まで間に合わないだろう。そう考えた瞬間だった。
「うっ・・・!!!」
ライが木の根に足を取られ、地面に倒れた。
全力疾走の俺はライと一瞬目が合ったが、
俺が戻って彼を助けられるわけがない。ここで逃げなきゃ無駄死にだ。
「ライッ!!!」
「ダメッ!リック!!!」
それにいち早く気づいたリックは足を止め引き返そうとしたが、ジーナに押さえつけられてその場に留まる。
リックが止まったことですぐにその場に追いつき振り返ったが、その視線の先にライの姿はもう無かった。
そこにあったのは、鮮血と共にやつの口から垂れる、ライの鞄だけだった。
「あ・・・」
もうその時点で俺の脳は機能していなかった。時間にしてほんの三十秒ほど。
そのわずかな時間で、今まで十数年と時を積み重ねた友人を二人も奪われた。
得体の知れない存在が、こうも無残に、無慈悲に。
その生物に、敵対意思は全く見られない。俺たちのような存在など、やつにしてみれば家に入り込んだ羽虫同然。敵対意思など持ち合わせるまでもない、取るに足らない雑魚。
人間でも、いきなり虫が顔に当たれば、その虫の生死など問わずに払いのけようとするだろう。今やつが行っている行為はまさしくそれだ。
ソレは骨をかみ砕く音を響かせながら、じりじりとこちらに近づいてくる。まるでどう殺すかを選択しているようにも見えた。
「・・・シュティム、一生のお願い聞いてくれるか?」
ソレから目を一切離さずに、リックが俺に投げかける。その声は、緊張感だけでは片付けられない何かが含まれているように思える。
「ジーナを連れて、逃げろ・・・」
「・・・!?リック!」
なぜだろうか。俺はその言葉が来ることを、なぜか分かっていたような気がするのだ。こんな状況下、自分に命の危険が迫っていたとしても、彼は心の底からそんなことを考えられる人間なのだ。生まれてこの方、ほとんどの時間を彼とともに育ってきた俺には、分かる。
当然ジーナは、必死の見幕で反対する。もちろん俺も。たとえ状況が状況でも、唯一無二の友人のそんな願いを、はいそうですかと受け入れられるはずがなかった。
「これしかない・・・!このまま逃げ続けても、誰も村にはたどり着けない。だったら、一人でも生存する道を選ぶのは当然だ。」
こうしている間にも、やつは迫ってきている。生臭い、獣臭と血の匂いが混ざったような不快な匂い。だんだんと濃くなってきている。
やがて、リックは少しだけ、それに悟られないようにほんの少しだけ、俺の方を向いた。
いつもと変わらない。リックの眩しすぎるほどにまっすぐな瞳だった。
「頼む、シュティム。」
「でも・・・!」
「・・・10年前、お前が村の大型漁船ぶっ壊したの、俺が被ってやったよな。」
「そんなの・・・今引き出してくんじゃねえよ!」
「あのときシュティム、今にも死にそうなくらい泣いてたよな。」
「やめろって・・・」
「あのとき、俺こっぴどく怒られて・・・それこそ、死ぬほど怖かった。」
「やめてくれ・・・!」
「だから今お前に死ぬほど大事なお願いだ。ジーナを連れて、村まで逃げてくれ。」
彼は真剣だった。死ぬ覚悟の出来た人間の目をしていた。
ジーナを振り払い、化け物の脇をかすめるようにして走る。一体どんな才能なのだろうか。リックはやつの腕を間一髪でかわしている。大声を出し、ソレの注意を引き、俺たちが逃げる時間を稼ごうとしている。
いったい、村に居る何人が、今の彼と同じような行動が出来るだろうか。度胸、行動力、そして彼の人柄。どれをとっても、神から選ばれた存在。
「・・・行くぞジーナ!あいつの思いを無駄にするな!」
「いやあああ!!!リック!!!!」
泣きわめき、彼の跡を追おうとするジーナの手を必死に引いて、村の方へ全力で走る。あとどのくらいある。村まで、一体どのくらい。いつも歩いている道のはずはのに、俺が今どこに居るのか全く分からない。
それでも、ジーナの手を引く。彼の言葉を、彼との約束を果たすために。
途端に、ジーナの抵抗が軽くなった。彼女もリックの覚悟を受け入れたのか。
「・・・さあジーナ!自分で走れ!お前一人の方が俺なんかよりよっぽど___」
足が速い。
そう言いかけて振り返ると、ジーナの手があった。
手だけを、彼女の腕から先だけを俺は握っていた。
「・・・っ!?」
脳の処理が追いつかない。
ジーナが喰われた?それじゃあ、リックは?おとりになって奴を引きつけているリックは?まさか・・・
・・・声が聞こえる。まだ近くに居る。生きている。
脳が完全にフリーズした俺は、足を止めてしまった。
まだあいつの巨体は俺のすぐ近くに居る。同時に、リックの声もなぜか近づいてきている。
そして、木々をかき分け、やつを中心に円上に動いていたリックと衝突する。
「・・・っ!?シュティム!?何やってる・・・おいっ!?ジーナは!?」
バランスを崩し、その場に尻餅をつきながらも、俺はソレを指さした。
ソレの腕の中には、骨を剥き出し、本来人間には不可能な曲がり方をしているジーナの体。
壊れたおもちゃを乱暴に扱うようなその魔獣は、明らかに、彼女の亡骸を俺たちに見せつけていた。
そんな感情は魔獣には存在しないのかも知れない。だがそのときの俺にはそいつが俺たちをあざ笑っているように見えた。
「あ・・・ああ・・・!」
ほぼ同じタイミングで、リックの体の力も抜け落ちてしまった。俺はこの一瞬で、友人を三人亡くした。そして彼は、友人を二人と愛する人を。
もしあのとき、俺が俺の存在を認めるための魔石を使わなければ。
もしあのとき、俺が虚勢を張らずに引き返していれば。
もし俺が、もっと効力の強い魔石を作れていれば。
人間、死に直面すると景色がスローモーションに見えると言うが、どうやらそれは本当らしい。
死の間際に人が見るという走馬灯。その中の俺は、いつだって中途半端に物事に取り組んで。何かに全力で打ち込んだこともなければ、誰かを一途に愛したこともない。
なぜ俺はこんなにも無駄に半生を過ごしたのだろうか。
隣のリックは、こんなところで死ぬような人間じゃない。もっともっと、俺なんかよりもたくさんやり残したことがあるだろう。志半ばで死んでいくことは、一体どれほど悔しいのだろうか。
「(引き換え、俺は・・・)」
彼なんかとは比べてはいけない。最後の最後まで、俺は親友にさえ後ろめたい感情を持っているなんて。
後悔の記憶だけがフラッシュバックするそのさまは、俺らしいと言えば俺らしいが他人から見れば、それはもう、なんともまあ・・・
「無様だな。」
空気が変わった。
文字通り、その言葉が最も適切だ。
正体不明の魔獣によって支配されていた空間は、
その後方からこちらに近づく、たった一人の存在に取って代わられた
「俺のゴーレムの常駐魔力が尽きる年に一回のタイミング。そのタイミングが今日だったことはただ運が悪かっただけだ。お前達に非はない。」
ゆっくりと、その人は歩いてやって来ている。
魔獣の横を、ゆっくりと。
先ほどまでの状態からすれば危険極まりない。
だが、先ほどもでとは明らかに違うこの状況。
「そしてゴーレムが起動しない今日という日に、この森にシャドウエープが迷い込んだこと。コレもある種不運だが、不幸中の幸いとしておこう。村を守る、ゴーレムともいえない代物だが、世間的にはあれもゴーレムか。あんなおもちゃでは、シャドウエープには歯が立たない。だがコレも、あんな不良品しか作れない技術者の問題だ。お前達に非はない。」
警戒、いや、恐怖による場の支配に近い。
それまでの支配者は、新たな支配者に完全に恐れおののいている。
俺にも分かる。この人は、人でありながら、
人を遙かに凌駕するモノのさらに上に居る。
「だが・・・」
そしてその人は、腰を抜かし動けない俺たちの前に立つ。状況的に、その人がソレ、シャドウエープと呼ばれたモノに背を向けていることになる。だが、本能が言っている。この状況は、今日で一番危険の少ない状態だと。
「君達の行動、それに関しては違う。完全に、例外なく、一切のつけいる隙も無く、君達に非がある。」
声色は変わっていない。何の色もないような、無色透明といって良い声。だが、恐ろしいまでに重く、言葉というよりは鈍器に近い感覚を覚えた。
「自らの危険を顧みず、好奇心や自尊心だけで行動することを、若さ故の過ち、そういう風に言う人がいるな。」
あまりの暗がり、とっくに魔石の効力は切れていて、声色で男ということしか分からない。
だがその男が俺たちの頭上に手をかざすと、柔らかな光が俺たちを包み始めた。その光は、俺が魔石を作り出すときに出る光とよく似ているが、決定的に違うところが1つ。男の手には、目視で確認できる限るでは何も握られていなかった。
「俺はそうは思わない。そんな行為は年齢性別関係ない。ただの愚行だ。」
体中の緊張の糸が弛緩していく。
男の放つ光に包まれているだけで状況は変わらない。だが、なぜか、体が心地良い感覚に包まれている。
「・・・あ、あんたは?コレは一体・・・」
「そこで見ていろ。そして出来ればお前の友人を押さえつけていろ。」
男は俺たちに背を向け、魔獣、シャドウエープと呼んだものへと向き直る。
「その男の精神はすでに崩壊している。」
男がそう言って、リックを指した。
そこには、全ての糸が途切れ、顔から生気の抜けきったリックがいた。とても普段の彼からは想像できない姿だ。
当然だった。
友人を亡くし、愛する人を亡くし、己の無力を痛感し、きっと絶望してしまったのだろう。
俺でさえそうなのだ。だから、彼ほどの人間が出来たものが、そうでないはずがなかった。
リックを抱えたが、体が動かない。
男の放った光で、疲労感は薄れたが、依然として絶体絶命なことに変わりはないと、からだが認識しているのだ。
そして、男と対峙するシャドウエープがけたたましい雄叫びを上げた。
すると、辺りの森がざわつく。
そして、
「なっ……!?」
言葉が出てこなかった。
木々の陰から現れたのは、目の前にいる化け物と同じ姿の化け物。いや、正確には各個体ごとに微妙な差があるようにも見て取れる。
それすなわち、群れ。
巨大な体躯の化け物が十数体はこちらをにらんでいた。
こんなにも大量の化け物に囲まれていたのか?
これじゃあ、仮に逃げ切ったとしてもまた別のやつに……
「案ずるな。猿が群れるのは当然。この程度の数など……」
彼の足下が光る。
俺たちを包んだ光に酷似しているが、それとは様子が違う。
明らかに、光の発光量が桁違いだ
「想定内だ。」
足下の光は、無数の紋章へと移り変わり、瞬く間に広がっていく。
本でしか読んだことがないが、魔石のコトを勉強する過程で知った。
これは、魔方陣と呼ばれるものだ。
「<エレメント・グレイターフレア>」
感じる。
彼のごく短い詠唱が、大気中の魔力を集め一点に集中させていくのを。
俺は、魔石を扱う際に微弱に魔力の流れを感じながら作業をする。
流れを感じるにはかなりの集中を要する。そうしなければ、俺は魔力を感じることが出来ないからだ。
しかし、今目の前で集められている魔力は、そこに意識を向けなくても分かる。
俺を認識しろとでも言うかのような強い主張の魔力。
俺自身が魔石に込めるものとは比べものにならない、高純度で、殺気のこもった魔力。
魔石に込める?いや、こんな量の魔力、集めることさえ不可能だ。
彼に集められた魔力は、媒介を通さずに彼の掌へと収束し、そして、
「<ダスト・エクスプロージョン>」
彼が指を鳴らすと、それは瞬く間に霧散し、シャドウエープ達に纏わり付く。
そして一つが爆発すると連鎖的に周囲の魔力を巻き込んで爆発し、周囲を爆煙が包み込んだ。
これほどの爆風が至近距離で起こっていながら、俺たちのところには熱風一つとして届かない。
周りのこのオーラのようなものが、俺たちを守っているのか?
だとしたら、それに包まれていない彼には相当量の熱風が当たっているはずだ。
爆風の直撃を食らったシャドウエープは一撃で絶命しその場に倒れ、巻き込まれたものも致命傷となり得る傷を受け、たちまちに散っていく。
「これだけ痛めつければ、運良く生き残ったものももうここには戻らないだろう。」
煙が立ちこめるなか、男の声が低く響く。
そして、
ゆっくりと視界が晴れる中、
「……お前がボスか。」
その中で、直撃を喰らい、顔が半壊してもなお男をにらみ続ける、ひときわ巨大なシャドウエープがいた。
その毛並みは顔から背中にかけて逆立ち、おびただしい数の傷が刻まれていた。
男は再び魔力を集め、掌に集中させていくが、今度は先ほどの魔力とは違う種類だ。
俺が船で釣り上げた魚を冷やす際に使う魔力の上級と言ったところだろうか。
もちろんコレも、俺が扱う魔力とは比べるのもおこがましいほどに純度の高いものだが。
生命の危機に直面してもなお、眼前の敵に打ち勝とうとするのはボスとしてのプライドか。
シャドウエープのボスは両腕をあげて男に襲いかかる。
「<天淵氷炭>」
彼の喉元にその爪がかかる直前、
紋章から発生した氷の槍がシャドウエープを貫く。
しかし、腹部に一撃を食らっても、まだボスは動き続けた。
「貴様らに罪はない。だが、俺の役割は、人とその域を守ること。」
ならばと、男は数え切れない量の紋章をシャドウエープの周りに展開させる。
そこには、先ほどから彼に集められていた氷の魔力がふんだんに込められている。
「せめて、安らかなる眠りを与えてやろう。」
一斉に魔力を解放させ、シャドウエープは氷塊の中へと閉じ込められた。
しばらくは獣の吠える声が聞こえていたが、
数秒のうちにそれは静寂へと置換されていった。
しばらくして彼が氷塊に衝撃を与えると、氷が瓦解し、中にいたシャドウエープも一緒に砕けた。
細胞レベルの壊死、それほどまでに極地の低温。
恐らく絶対零度にほど近い数値を、魔力のコントロールのみで出しているのだ。
「……その少年を担げるか?」
「え……?」
「戻る。君の村まで。心配するな、俺も同行する。村長に用があるからな。」
彼はそう言うと村までの道のりを歩き出した。
俺はリックを担ぎ、おぼつかない足取りで彼の跡を追う。
彼の背中は、先ほどまでの殺気を放っていた支配者の面影は全く持っていない。
本当に何も感じられない、無という言葉が不思議なほど似合う背中だった。
「……本来なら。」
彼が半身で何かを言おうとしたが、少し考えて彼は言うのをやめてしまった。
「なん、ですか?」
「いや、いい。忘れてくれ。」
「あ、あの……」
俺は少し歩くペースを上げ、彼と距離を近づける。
そして、今の俺の心からの勇気を伝える。
「助けてくれて、ありがとう。えっと……」
「……ヨシュアだ。」
「あ、ありがとう、ヨシュア、さん。」
「いい、仕事だ。キミが気にすることはない。」
その日は、彼とそれ以上の会話はなかった。
俺は親友の命を肩に感じながら、
その背中を目に焼き付け、
咲の魔力の衝撃を思い返して、鳥肌を立たせることしか出来なかった。