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7

――洛修! 崖から落ちたの? どこ? どこにいるの?


 風を背中に受けて走ると飛ぶようだ。しかし足元は危うい。蓮花は崖道を踏み外しかけた。


「きゃあ!」


 蓮花は何者かにぐっと腕をつかまれた。そして急に無風地帯へ放り込まれる。

 朧月の胸元だ。


「危ない真似をするでない!」


 いつもの余裕綽々な朧月とは違って、焦った顔をしている。


「ご、ごめん!」


 朧月は、さらに蓮花をぎゅっと抱きしめる。蓮花の耳元に、朧月のバクバクと早い心臓の音が聞こえる。


「えっと、あの……。朧月?」

「そなたが崖から落ちるかと思い、驚いたのだぞ! もう少し、もう少し、じっとしておれ……」


 そして臘月は、蓮花の体に回した腕にさらに力を入れた。


「あ……。うん……。ごめん……」


 そう言いながらも、蓮花の心臓も早鐘を打ったようだ。


――顔が近い! 息がかかる! うわ、まつげが長い! 肌がつるつる!


 蓮花の心は、朧月に抱き締められているのが辛いような、くすぐったいような気持ちでいっぱいだ。


「蓮、朧月さん。こんなところにいましたか⁉ おや……?」


 隼の声が聞こえた。


「なんだ。そち、来たのか?」

「はい。その……お二人は……?」


 そう言われて、蓮花は気恥ずかしさから朧月の腕からバッと抜け出した。


「あのね! これは違うの! 私が崖に落ちそうになっているのを、朧月が助けてくれたの」


 隼は、顔を真っ赤にした蓮花の勢いに、目を丸くする。


「そうでございましたか。落ちなくて、本当によかった」


 隼は、にこやかに落ち着いていて、蓮花が思っていたような反応ではない。


「……あれ?」

「はい?」

「それだけ?」

「何か?」

「……ううん」


 蓮花は自分が男装している事を、いまさらながらに思い出したのである。

 ちらりと朧月の顔を見るが、涼しい顔をしている。


――そっか……。朧月は、本当に崖に落ちそうになった私を心配して、抱きしめただけなんだ。


 少しだけ胸がチクリと痛む蓮花だ。その痛みが、何故なのか、蓮花は気が付かない。


 と、蓮花の耳に「助けてくれ」という声が聞こえた。


「聞こえた? 洛修の声だよ!」


 朧月も隼も頷く。


「助けを求めているようです! 生きていますよ!」

「うむ、確かに……。声は、あそこらへんの崖下からしたようだな」


 声が聞こえたあたりに向かって、蓮花は叫んだ。


「お――い! 洛修――!! どこ――?」

「誰か来たのか!! ここだ! 下だ! 助けてくれ!!」


 蓮花は、「やった!」と叫んだ。


「やった! 洛修、元気そうな声だよ。この下だ!」


 崖の下を覗き込む。

 朧月が「あそこだ」と、崖の下にせり出した岩場を指さした。その岩場でどうやら、足を挟まれて身動きがとれないようだ。

 幸い、岩場までは足場になりそうな出っ張りがある。


「お――い! 今、行くね――!」


 蓮花は崖の淵から身を乗り出して、大きく手を振る。

 洛修は、ホッとしたようにその場にへたり込んだ。


「助けるのか?」

「何を言っているの、朧月! 助けるに決まっているでしょ!!」


 まったく、いったい何のためにここまで戻ったと思っているのだろう。


「しかしあいつは、蓮の試験対策帳を破ったのであろう?」

「そんなの関係ないよ!」

「困っている人を助ける! 助けを求めている人を助ける! 人間として当然でしょ!!」

「人間として……当然?」



 困惑する朧月の肩に、隼が手を置いた。


「こんな蓮だから、俺と杏の事も助けてくれたんですよ」


 それは朧月さんも一緒でしょ? と隼が熱い視線を送るが、朧月は軽く首を振った。


「我は、蓮について行っただけだ」

「それでも結果的には、朧月様にも俺と杏は助けられました」

「そ……それは……」


 珍しく朧月が言葉を詰まらせていると、蓮花はさっさと崖を下り始めた。


「ま、待て! 我も行く!」

「俺も、すぐに行きます!」


◇◇◇


「一、二の三!」


 蓮花の掛け声と共に皆で力を合わせると、洛修の足を挟んでいた岩がわずかに動く。


「もう少し!」


 蓮花も思い切り力を込めた。

 洛修の足を動かせるくらいの隙間ができた。


「今のうち! 洛修、足を引き抜いて! 長くはもたないから!」

「あ、ああ!」


 洛修の足が自由になったとたん、すぐさまドオオンと音を立てて岩が落とされた。朧月が手を離したのである。

 今まで自分の足があったところが、押しつぶされているのを見て、洛修は顔色を変える。


「もう! 手を離すのが早いよ、朧月!」

「目的を果たしたのだからよかろう?」


 フンッとそっぽを向く朧月を、隼が「まあまあ」とたしなめる。

 隼は、洛修に手を差し伸べた。


「洛修様、ご無事でなによりでした。お動きになれますか?」

「……ああ」


 洛修は挟まれていた方の足を、おそるおそる動かす。


「特に問題はなさそうだ」

「よかった!」


 そう安堵の表情を浮かべる蓮花に、洛修は気まずげな視線を投げかける。


「何?」

「その……、ここに来たのはお前らだけか?」

「そうだよ」

「先生たちは?」

「先に、行っちゃった」


 ギョッとした表情の洛修は、目を吊り上げた。


「先生に、何も言っていないのか? 先生たちの助けもなく、ここからどうやって上に行くつもりだ!」

「え? 崖をよじ登って……?」

「あの崖をよじ登れるのか⁉」

「………………あ」


 蓮花たちが下りてきた崖は、途中までは足場になるようなものがあった。でも最後は、崩れたようになっており、洛修のいる岩場まではそう高さもなかったため、ぴょいと飛び降りたのだ。降りる分には飛びおりればいいが、登る分には飛び上がっても高さが足りない。自力で戻る事はできない。

 その事に気が付いた蓮花は、顔を青ざめさせる。

 洛修は、顔を手で多いながら、大きなため息をもらした。


「だからお前はダメなのだ! 前にも言ったであろう、『他人の事をそこまでする余裕があるのか⁉』と! だいたい、お前は能力が高いのに、熟考が足りぬ! 他人の事をするなら、自分ができる範囲でよいのだ! 自分を犠牲にしてまで、他人を助けようとするな! 何かを成すならば、無駄に直進するのでなく、他の者の力も使うことを考えよ! それが上流階級に生まれたものの考え方であろう!!」

「ご、ごめんなさい!」


 蓮花は、反射的に謝った。なにせ洛修は、氾皇后の甥である。容姿といい、振る舞いといい、清藍国一の美女と称される氾皇后にそっくりなのだ。普段は無口なのに、怒るとなると烈火のごとくなのもそっくりである。

 でも、蓮花は頭を下げながら、ふと気が付いた。


――ん? 洛修って、私の事を嫌いなのよね? なのに、なんでこんな助言めいた事を言うのかしら?


 蓮花の考えがまとまる前に、朧月がぐいっと、蓮花の顔を腕で抱え込んだ。


「蓮が謝る必要はない。落ちたこやつが悪いのだ。助けてもらった事の礼さえいえぬような輩の言葉など聞く必要もない」


 朧月の冷ややかな視線に、洛修は顔をムスッとさせた。

 隼が、穏やかな顔で、二人の間に割って入る。


「まあまあ、落ち着いてください。私が、遅れて合流したのをお忘れですか? ちゃんと先に行った可丈先生に申し伝えてございます。先生は、他の候補生が安全なところについたら、お戻りになって下さるそうです」

「ちょっと、隼! そうならそうと、早く言ってよ! 無駄に洛修に怒られちゃったじゃない!」


 蓮花がそう言うと、隼はニコリと人の好い笑みを浮かべた。


「何も考えずに直進する蓮には、よい薬になりましたでしょう?」

「う……!」


 何も言い返せない蓮花であった。


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