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他の者はみな就寝の準備を始める頃。蓮花は運動場にいた。黙々と走っている。
可丈には、蓮花は体力がないため、毎日槍の訓練時間に、運動場を十周走るように言われている。ところが、今日は足のマメが潰れたため、中断してしまったのだ。だから、十周を走り直している最中なのである。
幸いなことに、蓮花は子供の頃から怪我の治りが異常に早い。昼まで来た足のマメが潰れたのも、もう塞がっていた。
しかし、一人で暗い中は知っていると、嫌な事も思い出してしまう。例えば、浩の走りの宝貝を使わないかという誘いだ。
――浩さんの誘いに心が揺れたのは事実。私もこんな走り込みばかりじゃなくて、槍の訓練がしたい。
浩に言われるまでもなく、蓮花も焦っていた。
最初は数人いた走り込み仲間は、もう槍の訓練に参加している。訓練時間中、ずっと走り込みをしているのは、もう蓮花だけだ。思い返すと、浩だけでなく、みんなある日急に足が速くなって、持久力も増したのだ。
――もしかして、私以外の人はみんな、走りの宝貝を使って?
蓮花は、ブルブルっと首を振った。
――可丈先生は『走れ』って言ったんだもん。宝貝なんか使わないで、私は走り切る。他の人なんて、知らない!
そう思いながらも、蓮花の心の揺れは治まらない。
蓮花は、気持ちを切り替えるために、無茶苦茶に体を動かした。足が絡まり、ズサッーっと音を立てて蓮花は地面に倒れ込んだ。
「いった──」
顔にも肘にも膝にも擦り傷ができたらしい。いたるところがヒリリと痛む。
昼間は、春の終わりを感じさせるような陽気だが、夜はぐっと冷え込む。地べたに顔をつけて、じっと倒れていると体の芯まで冷えてきた。
心も落ち込んで、嫌な考えばかりが浮かんでくる。
――私がしていることは、無駄なことなのかな?
浩が言ったことも、一理ある。守龍を得られれば加護が得られる。魂を分割してまで宝珠を作っても、その分割したぶんの魂を凌駕してあまりあるほどの加護だ。その加護は、身体能力も知覚も向上させるらしい。だから、龍騎士になる前の訓練など無駄と言われれば、確かに無駄なのだ。
いや、無駄は他にもある。
そもそも男しかなれない龍騎士に、女の蓮花がなろうとしているのが無駄なのだ。
実際、誰も蓮花が龍騎士になる事なんて期待していない。協力してくれているはずの玉葉もだ。結婚前の最後の息抜き、もしくは誰とも分からぬ龍騎士と結婚するのならば龍騎士養成所で誰か龍騎士を見初めればいいと思っているのだ。
ぎゅっと蓮花は目を閉じた。
――もう、やめちゃおうかな……。
蓮花は、自分が走るのを止めたいのか、それとも龍騎士候補生を辞めたいのか分からなくなっている。
「諦めるのか?」
ぽんと蓮花の頭の上に温かい物がのせられる。
「え? 朧月? なんで?」
「諦めるのか?」
朧月の瞳に、蓮花の姿が映る。
――なんて、情けない姿なんだろう。こんなの……嫌だ!
「諦めないよ!」
「なら、走れるな?」
「走るなら、速度は遅くてもいいから一定にした方がいいですよ。それに走るには、ただ足を動かせばいいってもんじゃないんです。それに、蓮はまず体をつくらなくては。筋肉がなさすぎますよ」
「隼!」
朧月だけではない。隼も来ていた。
二人は、蓮花の両脇に膝をついた。
蓮花は、自分が潰れた蛙のような姿で地べたに寝そべっている事に気がついた蓮花は、ガバッと上半身を起す。
「朧月! 隼! どうしてここに?」
――走る事は言っていないはずなのに……。
「いくら私がダメだと言っても、蓮なら走ると朧月さんが言うもので……」
朧月はニヤリと笑う。
「蓮の考えていることは、全てわかるのだ」
「と、いう訳なんです。蓮、足は痛みますか?」
「ううん。大丈夫。怪我は治るのが早い方なんだ」
「そうですか。無理しなくてもいいんですよ」
「無理じゃないよ」
「走れますか?」
「うん!」
さっきまで、やめてしまおうかとまで沈んでいた心が、温かくなるのを感じた。
蓮花は、手の甲で、グイっと頬の汚れをぬぐう。
「二人とも付き合ってくれる?」
「よかろう」
「もちろんです」
二人は蓮花に手をさし伸ばす。
二人の手を取る蓮花。朧月の手は、ひんやりと気持ちがよく。隼の手は、ゴツゴツしているが頼りがいがある。ただ疲れは吹き飛び、まだやれるといういう気持ちになった。
三人は並んで走り始めた。先に出ようとする蓮花を「速すぎる」と朧月が引き戻す。
「こなにゆっくりでいいの? もっと速く走った方が……」
「まずは体を慣らす事が大切だ」
「そうですよ。走るのは体力をつける事が目的のはずです。速く走るよりも、完走できる力をつけた方がいいです。力をつけるには。走るだけじゃなくて、よく食べて、よく寝る事も大切なんですよ。俺が見るに、蓮はもっと食べた方がいいです。まったく、どっかのご令嬢じゃないんですから」
ギクッとする蓮花。そんなところでも男性と違うのだろうか?
「分かった。ありがとう。もっといっぱい食べるよ!」
「そうせよ。杏の料理は肉饅頭だけでなく、いろいろと美味であるぞ」
隼と蓮花は目を合わせる。声には出さなかったが、朧月は食べ過ぎだと二人とも思っていた。まったくスラリとした体のどこにあれだけの量が入るのか……。
クスッと目を見合わせて笑った蓮花と隼に、朧月は胡乱げな表情になる。
いつの間にか、蓮花は今日の分の走りを終えていた。いつもよりもずっと疲れが少ない。走る速さや、体力を無駄にしない手の振り方、足の運び方を隼に教わったからかもしれない。何よりも一人で走るのとは違って、三人一緒なのが心を浮き立たせ、励みになったのだ。




