少女の笑顔の開花時期
三月になり、陽射しもだんだんと春特有の柔らかな暖かさに移り変わってくる頃。僕はふらりと立ち入った公園で杏の花のつぼみを見つけた。
僕は花を見ながらぼんやりと前句付けのことを考えていた。すると背後から、『かさり』と言う足音とともに人の気配がする。僕がゆっくりと振り返ると、そこにはまだ幼さの残るあどけない顔をした少女が佇んでいた。
彼女は僕が居たことに驚いたようだが、すぐにこちらに向かって歩み寄ってくるので、先ほどまで考えていた前句付けの話でもしてみよう。
「ねぇ、君は『白きものこそ 黒くなりたれ』って言葉を知っているかい?」
彼女は言われた言葉の意味が分からなかったようで、きょとんとした顔をしている。そこで僕は説明をしていなかったことを思い出し、彼女に今の言葉について説明をする。
「前句付けって言ってね。川柳のもとになったものなんだ。さっき言った、『白きものこそ 黒くなりたれ』もその前句付けの一種」
これで彼女にも分かっただろう。と思った僕は、杏の花を見る。すると今度は、彼女の方から声をかけてきた。
「その前句付けのどこが川柳のもとなの?川柳は俳句と同じ五・七・五でしょ。全然違うと思うんだけど」
どうやら先ほどの説明では分からなかったらしい。僕は彼女にも分かるように説明する。
「短歌の下の句として使うんだ。そして上の句を自分たちで考える、季語は特に使う決まりはないから川柳のもとだよ」
僕が言い終えると彼女は理解したのか曖昧に頷いてみせた。
「じゃあ、ちょっと君で作ってみようか……」
説明するよりも実際に作ってみた方が分かりやすい、そう思った僕は自分の目の前にいる彼女を見て少しの間考える。
「『幼さの 残る彼女の 横顔は 白きものこそ 黒くなりたれ』……なんてどうかな?」
どんな反応が返ってくるのか不安に思いながら彼女に伝えてみると、彼女は困惑したようだった。
「どうって……。急に言われても、私にはよくわからない」
僕は彼女にも分かるように言葉の説明をする。
「君はまだ、この広い世界のほんの一部しか知らない。だからこそ今の君は、純粋で真っ白なんだよ」
だから今の僕には君は眩しすぎる。そんな言葉を飲み込んで、僕はただ彼女を見つめた。
「でも将来、世間に出ると様々な物事に触れて、様々な色へと染まっていく。そして次第に黒く染まってしまうのかもしれない」
今の輝いている君が失われていくのが惜しいような気持ちになりながら、僕は情緒じみた呟きを漏らした。
「もし何かの色に染まるなら、黒じゃなくて鮮やかに染まりたいわ」
彼女がその外見に似合わない口調で返したから、僕は思わず笑ってしまう。
「そうだね。だったら、『白きものこそ 鮮やかになりたれ』だ」
僕が笑っていると彼女も笑いにつられたのか、ふわりと年相応のあどけない笑みを浮かべた。
それはまるで、つぼみが花開く時のような美しい笑顔だった。
僕は彼女と別れた後、一人で杏の木の近くに佇んでいたが、木の根もとに看板が立ててあることに気づく。木の説明・開花時期などに目線をさまよわせていると、花言葉について書かれている項目に目が留まった。そこには『少女のはにかみ』と書かれている。
僕は先ほど出会った名前も知らない少女の笑顔を思い出した。
――きっとこの先、杏を見るたびに彼女のことを思い出してしまうのだろう。
などと少し感慨深い気持ちになりつつも、また会えることを楽しみにしているのを感じた。
杏:少女のはにかみ