2・銀髪の少年
血の匂いを頼りに足を進める。月明かりの頼りない灯でも足取りは軽い。足裏から伝わる地衣類の絨毯のような柔らかい感触やゴツゴツとした木の根から自分が立っている場所の情報が頭へと流れ込んでくる。
どうやらこの辺りは私が住んでいる塔に近いらしい。目を瞑っていても走ることが出来る気がする。
生臭い脂と鉄の匂いが鼻腔を擽り、芳香が濃くなるにつれ帯ただしい血痕が辺りに散らばり始めた。まるで月光を浴びて花が狂い咲いたように艶艶といやらしく紅が反射している。
息の詰まるような静寂を切り裂くようにすぐ近くから咀嚼音が聞こえる。
ぐしゃぐじゅると柔らかい何かを啜るような音だ。音の方向へ眼を向けると山猫ほどの大きさがある黒い獣が辺りに散乱している血肉を貪っていた。
気配を探ると獣は5匹ほどいるようで、散乱している血肉は人の子どものものだと勝手に頭が理解した。
「誰の許しを得て…ここで食事をしているの?」
私の声に反応して獣どもがこちらを向く、爛々と輝く黄金の瞳が大きく見開かれる。間合いに入られたことに驚いているようだ。
《我ラ、隷属ノ魔女様ノ配下デア…》
一匹の獣が牙を向き主人の名前を口にしようとしたが全てを話し合える前には首から上が潰れて胴体が地面へと転がった。
静寂が舞い戻る。獣どもは一歩も動くことなく足りない頭で状況の打破を試みているようだ。
驚愕と恐怖で限界まで瞳が開かれ、耳が伏せられている。背中から伸びている羽根さえ無ければ本当に猫のようだ。
私が軽く手を振ると右手にいた獣の上半身がひしゃげて潰れ飛び散る。支えを失った下半身がぬちゃりと血溜まりに沈む。
どうやら、私は重力操作系の魔法を使う魔女らしい。身体の中には焔の元素が満ちていたので炎操作系の魔女だと思ったのだが、私自身に関する記憶は霧がかかったように何一つ思い出せない。
相手を攻撃する魔法の咒式は頭に浮かぶのに何の魔法かまで分からないとは不思議な感覚だ。分からないことが多過ぎて非常に腹立たしい。
私の一瞬の隙を見て獣どもは一斉に別々の方向へ散開する。散り散りになり生存確率を上げる考えは悪くないが、3匹とも空高く飛び上がった次の瞬間には強く地面に引き寄せられ、声を上げる間もなく潰れ、革袋から黒々とした体液が辺りに溢れた。
耳が痛くなるような静寂が舞い戻る。辺りには獣と人の子らの遺体が転がるだけであった。よく周りを見回すと10m置きくらいに人の子が倒れている。傷を見ると先ほどの獣にやられたものとは別の傷を負ったものがほとんどで苦しみもがいた形跡がいくつも見られた。
一発で仕留めずに、狩りを楽しむように、子どもらの苦しむ様を見ていたのだろうか。自分の縄張りを荒らした輩に少し腹立たしい気持ちはあったが、まずは自分の住処に戻ろうと気を取り直す。
顔に飛び散った獣どもの血を拭い、木々の合間に見え隠れする塔へと向けて足を進める。芳醇な血の香りに自然と笑みが溢れる。獣どものように浅ましく屍肉を漁ることはしないが、この陰惨な空気に心躍ってしまう私はやはり魔女なのだろう。
軽くステップを踏めば、深淵の森の精霊たちの唄声が木霊する。分厚い雲の切れ目から満月が覗き辺りを月夜が照らす、モザイク模様に彩る赤と黒が鮮やかに燦めく。
「銀色……?」
赤と黒だけの世界に月灯りを受けた一陣の銀色が反射する。まるで綺麗に磨かれた銀食器のように美しい。眼を凝らしてみればそれは倒れている人の子の髪の色だった。
木の根に背を預けぴくりとも動かない。興味本位に近くに寄ると銀白色の髪がより一層美しく輝いて見えた。
白磁器のように滑らかな肌は血の気が引いて人形のようだった。両目は固く閉じられているが、整った顔がよりその美しさを主張している。少女のように見えるが骨格から見るに少年なのかもしれない。
御伽噺の眠れる姫のようにも思えたが、他の子らと同様に鼻や口から赤黒い血と泡が溢れ、下腹を横一文字に裂かれていた。銀の髪を一房持って帰りホウキにでも編み込むかと少年の髪に指を通す。
「……にげ…て」
ひゅっと少年の喉が上下し、息絶え絶えに言葉が紡がれた。固く閉じられていた瞳がうっすらと開かれ私の姿を映し出す。覗き込むと淡い空色のビー玉のような可憐な瞳に私の愉悦に歪んだ紅い瞳が映っている。
もはや、私の姿など見えていないのだろうに、パクパクと口を動かし私にここから逃げてと繰り返し伝えようとしている。
魔女に向かって危機を知らせようと最後の気力を振り絞る姿が酷く滑稽で愛らしく魅入ってしまう。
銀髪を一房だけでなく、空色の瞳も抉って持って帰ろうと少年の頬に手を伸ばす。指を目元に滑り込ませようとして、ふと思い出す。
前にもこんなことがなかっただろうか。走馬灯のように愛憎、焦燥、懐古、後悔、贖罪そして激しい怒りが頭の中を駆け巡る。あまりの情報量の多さに吐き気さえ覚える。
気がついた時には左手の爪で自分の右腕を掻きむしり深く深く切り裂いていた。右腕に刻まれた5本線からドバドバとコールタールのようなドス黒い血液が溢れ出す、惜しみなく垂れ流れた命の滴が少年の切り裂かれた下腹に降り注ぐ。
「銀白の羅針盤。巡る星よ、戻れ。汝を我の一部に、眷属の誓約の下に深淵の加護を与えたまへ。」
詠唱が終わる頃には、私の腕の傷も、無残に切り開かれていた少年の下腹部も塞がり傷跡さえ消えかけていた。
癒しの咒式では無い。血を分け与えた相手を自分の眷属にし生命力を分け与える魔法。なぜ、私はこんなひ弱な人の子を眷属にしたいと感じたのだろうか。私の中の失った記憶が少年を救いたいと強く願ったのだろう。
細い肩を抱き寄せ、顔にべっとりとついた血を拭い、銀白の髪を撫でる。
「……私は君を…愛していたんだ」
ふと口から自然に紡がれた言葉に驚く。私は人の子に何を言っているのか。そもそも、これは私の言葉なのか。この人の子に向けられたものなのだろうか。この言葉は誰の言葉なのだ。
感じたことのないような寂しさが胸を掻き毟る。少年の頬に水滴がついているのに気付いて、それが私の目から溢れ出たものだと分かった。
私は泣いているのだ。人の子を抱いて。自嘲の笑みで顔が歪む。
何もかも理解が出来ない状況で頭は混乱しているが、少年を優しく抱き上げ、記憶を頼りに足を進める。
色々と腹立たしいがまずは家に帰り、情報を整理しよう。
腕の中からすぅすぅと幸せそうな寝息が聞こえてくる。心音も安定しているようだ。
少年の身体は思ったよりも軽く温かかった。その温かさに安堵する自分にまたも驚くがそれほど不快ではなかったのだった。