二十年目の手紙
仕事を終えて帰宅すると、いつもは出迎えてくれる妻が家にいない。
訝しみつつキッチンに入って灯りを点けると、妻からの手紙が冷蔵庫にマグネットで止めてあった。
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おかえりなさい。
あなたが帰宅する頃、私は家にいません。実家に帰っています。
きっと驚くでしょうから、こうして手紙を残しておくことにしました。
こんな大切なことを話合いもせずに決めてしまって、あなたは怒るかもしれないわね。
でも、本当にもうダメだったのよ。後は時間の問題だったわ。
今だから言うけど、私、「これはもう無理だな」って思ってからも、ずっとがまんしてきたの。
そりゃあ、経済的理由っていうのがありますからね。仕方ないなって。
だけど、そうやっていつまでもごまかせる訳じゃないし。どうせそのうちダメになるなら、今、思い切ったっていいじゃない、と思って。
そりゃあ、お金のことは大変よ。だけど、どうにかなりそうだから。実はね、この日のために、あなたには内緒で少しづつ貯めていたの。生活費の中からうまくやりくりして。ちっとも気づかなかったでしょう?
今まで長い付き合いだったけど、もう充分頑張ったと思うの。潮時、っていうのかしら。
ほら、私達って、お見合いしてからトントン拍子に話がまとまって、すぐに結婚することになったじゃない? それで慌てて色々と用意したりなんかして。懐かしいわ。あれからもう二十年以上よ。むしろよくもった方だと思うわ。
それにしても、月日の経つのは早いわね。子育てに追われていたらあっという間だったわ。
子供たちがみんな独立して家を出た今が、ちょうどいいタイミングだと思ったの。
実はね、近頃ずっと感じてたのよ。もう役目が終わったんだな、って。ドアを開けるたびにがらんとした空間が目に入ると、私、なんだか寂しくなっちゃって。子供たちがみんなしっかり育ってくれて、それはもちろん嬉しいんだけど。
いやね。こういうの、空の巣症候群って言うのよね。
だけど、これを機会に私も心機一転して、前向きに第二の人生を歩もうかな、なんて。
とにかくこれで、ストレスのたまる生活から解放されると思うと、せいせいするわ。
さあ、あなたも、新しいドアを開けてみてちょうだい。
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手紙にある通り、ぴかぴか光る真新しい冷蔵庫のドアを開けようとすると、なんとそれは音もなく勝手に開いた。驚きのあまり、思わず後ろに飛び退ってしまった。
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すごいでしょ。自動ドアなのよ。びっくりした?
最近の家電って進んでるのね。私も驚いちゃった。
ビール冷やしておいたけど、どうかしら?
ちゃんと冷えてるでしょ。
前の古い冷蔵庫なんて、冷えないかと思うと凍っちゃったり、だいぶイライラさせられたわ。野菜なんてすぐカピカピになっちゃうし、霜取りはしょっちゅうしないといけないし。
やっぱり新しいのっていいわよねえ。いろんな機能がついてるのよ。脱臭とか、冷凍やけ防止とか。ラップもしなくていいんですって。不思議よね。店員さんが丁寧に説明してくれたわ。炭酸ガスがどうとか。難しくてよく分からなかったけど、とにかくすごいらしいの。
野菜もいっぱい入るのよ。それで、なんか冷蔵庫が勝手にいろいろ調節して、新鮮なままで保存してくれるんですって。
よく使う引き出しは上の方についてるから、かがまなくていいのよ。助かるわ。ほら、最近腰が痛くて。嫌よねえ。まあ、私も歳だから仕方ないわね。
前のより少し小さくなったけど、うちはもう私とあなただけだから、これくらいの大きさがちょうどいいの。
がらんとした大きい冷蔵庫を開けると、なんだかしんみりしちゃってたけど、これで気分一新よ。
それに、必要もないのに大きい冷蔵庫を使ってても電気代の無駄だし。新しいやつの方がエコで節約できるわ。
今日ね、お母さんが新しいテレビを買いに行くって言うんで、一緒に電気屋さんに行ったのよ。そうしたらセールをやってて。最初はなんとなく見てただけなんだけど、思い切って買っちゃおうかなって。だって、セール今日までだったのよ。
少し高かったけど、いい買い物でしょ?
ところで、お母さんだけじゃテレビのつなぎ方が分からないから、これからちょっと行って手伝ってきます。
夕飯はテーブルの上に用意してありますから、チンして食べてね。
あまり遅くならないように帰りますから。
追伸
そういえば、あなたに手紙を書くなんて、初めてのような気がするわ。
お見合いしてすぐ結婚して、子供が産まれてしまったから、そういう普通の恋人同士みたいなことをする機会がなかったわね。
考えてみるとおかしいわよね。もう二十年以上も一緒にいるっていうのに。
せっかく珍しい機会なんだし、ついでに一言言っておこうかしら。
あなた
いつもありがとうごさいます
妻より