第1章
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目が覚めたとき、クレアは全身に嫌な汗をかいていた。息苦しい程に蒸し暑くて、おまけにベッドはカビ臭い。汗で濡れて貼りつく自分の前髪を剥がす様に避けると、ゆっくりと辺りに目を走らせた。古くて今にも消えそうな間接照明が、傷だらけのナイトテーブルを頼りなく照らす。経年劣化とは思えない引っ掻き傷や、煙草の焦げ跡や、気持ちばかりのガムテープでの補強跡を見ると、破格の宿泊費にも納得できた。どうりで誰も寄り付かない訳だ。
クレアはため息混じりにエアコンのリモコンを手に取り、ボタンを押した。接触が悪いようで、根気強く何度か押し続ける必要があった。リモコンを叩いてみたり、電池カバーを外してみたり、やっとの思いで作動させると、オンボロのエアコンはたっぷりのホコリと、ぬるい風を苦しそうに吐き出した。そして剥がれかけた壁紙を揺らす力も無く、とうとうそれきり、うんともすんとも言わなくなってしまった。
古いスプリングを軋ませながら、クレアはベッドから這い出た。喉が渇いたので、簡易キッチンにある備え付けの小さな冷蔵庫から、ペットボトルの水を出して飲んだ。割高だけど、仕方がない。軋んだスプリングに驚いたゴキブリが、シンクの隙間へ逃げ込んだのを見たので、水道水を飲む気にはとてもなれなかったのだ。
一息で半分以上飲んでから、クレアはふとこの水の賞味期限が切れていないか心配になってきた。真実を知ると、途端に具合が悪くなりそうだったので、何も気がつかなかったフリをしてクレアはそのままベッドへと戻った。
相変わらず蒸し暑い部屋と、自分の間抜けっぷりにクレアは段々と腹が立っていた。
旅に出るということは、必ずしも楽しいことばかりではないと、十分肝に銘じていたはずなのに。よりによって、旅に出た初日に財布を盗まれるなんて。それも、同じバックパッカーに。
クレアは悔しくて、下唇を噛み締めた。
本当ならば、こんなボロボロのモーテルに泊まることも無かったし、少なくともこんなにも寝苦しい思いはしなくて済んだはずなのに。
クレアはやり場の無い怒りを拳に込めて、力一杯ナイトテーブルを殴りつけた。反動でバランスを崩したゴキブリが、間接照明のシェードから落ちて来て、クレアの手の上に着地した。声にもならない悲鳴を上げて、ゴキブリを振り落とし、クレアは泣きじゃくった。全部投げ出して、家に帰りたいとすら思っていた。
でも帰るわけには行かない。クレアは涙を拭い、自分のバックパックから除菌スプレーを取り出し、ゴキブリに吹きかけた。死にはしないが、幾分動きが鈍ったので、クレアはそのまま逃げるようにカビ臭いベッドへ潜り込んだ。
明日、朝一でリサイクルショップに行こう。クレアはそう決意した。バックパックの中身を売れば、いくらかお金になるだろうし、この先の旅が、ずっとずっと身軽になるはず。
クレアは深く深呼吸をして、この旅の目的を思い返し、気を引き締めた。
そう、クレアは、彼を見つけるまで、帰るわけには行かないのだ。