少しずつ変わっていくもの2
「失礼いたします。……先生?」
保健室に着き、ノックをして声をかける。しかし返事は一向に帰って来ず、試しに扉を引いてみるとあっさりと開いた。
「あら、不用心ですわね」
鍵がかかっていなかったという事は、養護教諭は少し席を外しているだけだろうと判断して中に入る。
養護教諭が戻ってくるまで待っていてもいいけれど、できれば早急に腕の怪我の治療をして教室に戻りたい。
先程は気付きたくなかった事実に茫然としてしまったけれど、よくよく考えれば、すでに嫌われているのだから今後嫌われるという懸念を抱かなくて済むということだ。
プラスからマイナスになるのが辛いのであって、初めからマイナスならば今後どれだけマイナスになろうが気にならない。むしろこのループ状況を考えると、一周回って最高の環境なのではないかしらとすら思えてしまう。
だって好意の無い相手には、何をしようと心が痛まなくてすみますし。
「……なんだか私、段々と打たれ強くなっている気がしますわね」
1回目の私なら、きっと今の状況にも耐えられなかっただろう。まぁそれで自滅してしまったのだけれど。
そう思うと、この地獄のループも無駄ではなかったのかもしれない。おかげで立派なタフネスになれそうだ。別になりたくはなかったけれど。
「さて、消毒薬はここかしら?先生には後で断っておけばよろしいわよね」
考えた結果、鍵をかけずに出かけた養護教諭が悪いと結論付けて、勝手に薬品棚を漁らせてもらう。
棚から消毒液と脱脂綿を取り出し机に置くと、先に水で軽く傷口を洗いハンカチで水気を取る。どうやら血は完全に止まったようだ。
少しそのまま乾燥させてから、脱脂綿に消毒液を染み込ませて傷口に当てる。
「くぅぅ…沁みますわ……」
焼けるような痛みに涙がにじむ。この痛みを、エステに10倍にして返してやろうと決意を新たにする。
何度か脱脂綿を代えて消毒を繰り返し、一息ついたところに荒々しいノックの音が響いた。
「おい、アルウィン!」
扉の開く音と共に、ひどく奇麗な男の子が顔を覗かせる。初等部…いや、制服からするに中等部の生徒だろうか。此処は高等部の校舎なのに珍しい。
細く美しく淡い金糸のような前髪から、奇麗な青い瞳が覗いている。昔教会で見た、美しい絵から抜け出てきた天使様のような風貌だ。
それにしてもアルウィンとは、たしか養護教諭の名前だったと記憶している。彼は呼び捨てで呼ぶよほどに、この保健室に入り浸っているのだろうか。肌も驚くほど白いので、もしかしたら病弱な子なのかもしれない。
「あら、いま保険の先生はいらっしゃらないですわよ」
「なんだと…」
私の返答に、天使の様な男の子はこの世の終わりもかくやというような顔をした。
それほどにショックだったのか、青い瞳がじわりと潤んできらきらと揺れる。まるで太陽を反射する湖のようで、いつまでも眺めていたくなるような美しさだ。……いえ、まぁ私の瞳の方が奇麗ですけれど。今は泥水のように濁ってますけど、ループする前は彼よりも美しいブルーでしたし。ええ、本当に。
このままだとまた気付きたくない事に気が付いてしまいそうなので、自分の中で無理矢理話を完結させる。今それに気が付いてしまったら、今度こそ立ち直れそうに無い。女として。
余計な事を考える前に、さっさと教室に戻ってしまおうと決めて席を立つ。扉の前で私の一挙一動にびくびくと震えている彼の前まで行くと、その扉にかかっていた手を取り、問答無用で保健室の中に引きずり込んでやる。
悪役に徹するとは決めたものの、何も具合の悪い中等部の生徒を放って行くほど鬼畜では無い。
「そんなに具合が悪いんでしたら、さっさと入って横になりなさい。特別に私が、先生を呼んできて差し上げてもよろしくてよ」
どうせ教室に戻るのだし、そのついでに職員室へ寄って行けばいいだけだ。それ程面倒でもない。
とりあえず備え付けのベットに座らせ、出しっぱなしにしていた道具を手早く片づけようとすると彼が声をかけてきた。
「え、いや、だ、大丈夫だ。そうじゃなくて、具合が悪いんじゃなく、怪我をしてしまったんだ、その」
「は?怪我をしていましたの?それならそうと早く言ってくださればよろしかったのに!」
結構強引に引っ張って来てしまったが、大丈夫だっただろうか。抱えていた道具をまた机に戻すと、彼の傍に駆け寄る。
パッと見た限り、そんな大きな怪我をしているようには見えない。先ほど手を引っ張った時も普通に歩いていたので、特に問題があるようには感じられなかった。でももしかしたら、見えない所に大怪我でも負っていたのだろうか。
「いや、怪我をしたのは指先だから大丈夫だ」
そう言うと彼は先程から胸の前で握っていた拳を開いて、人差し指を私に見せる。一見する限り、健康そうな人差し指だ。それにしても先端についた桜貝のような爪は奇麗に磨かれ、きちんと形も整えられている。かなりいい所の貴族の子なのだろう。
「え…どこを怪我いたしましたの?突き指でもいたしました?」
「なんだ、見えないのか?此処に血がにじんでいるだろう」
まだ声変わりをしていないであろう可愛らしい声でそう言いながら、もう片方の人差し指で示したそこは、よくよく見れば確かに血が滲んでいるような……気がしなくもない。俗にいうささくれだ。
「まさか貴方……これしきの事で、あんな絶望したような顔をしておりましたの?」
自然と冷たい声になってしまう。おそらく、彼を横目で見やった視線もさぞ冷たかっただろう。
「こ、これしきだと!?血が出るほどの怪我をしたんだぞ!すごく痛いし、ずきずきする!」
確かに指先は神経が集まっているから、ささくれ程度でも痛いだろう。けれどあまりに大げさだ。まぁ貴族と言うものは、こんなものなのかもしれない。……私も、以前はこんなだったかもしれない。
遠い日を思い出ししんみりしながら、机に置いたままにしていた消毒液を手に取ると、彼の怪我をしたという手をがしりと掴む。
「な、なにをするつもりだ、おい……!!」
「こんなもの、消毒して放っておけばよろしくてよ」
「や、やめろ!!こう言うのはちゃんと知識と免許を持った医師でないと!!……っ!!」
ぎゃあぎゃあと言い募る彼を無視して、ささくれに消毒液をぶっかけてやる。よほど痛かったのだろう。ひっと息をつめ、ぶわりと涙が溢れていく様子を見届けてから、今度こそ消毒液と脱脂綿を棚に戻しに行く。やはり涙を零す姿も美しいですわね、悔しいわ。
「お前っ、僕にこんな事をしてただですむと思っているのか!」
かん高い怒鳴り声に振り返ると、ぼたぼたと奇麗な涙を流しながら、天使のような顔を怒りに染めた彼が私を睨んでいた。
「あら、なんですの。私は貴方に治療をして差し上げただけですし、お礼でもしていただけるのかしら?」
「なっ!!」
「けれど、貴女のような男らしい方がそれしきの怪我で涙を流されたなど恥ずかしい事、皆様に言いふらすのも悪いですわね。お礼は謹んで辞退させて頂きますわ」
「……お、お前!!!」
喚き散らし、怒りと羞恥に顔を真っ赤にさせて震えている彼は、まるで1回目の自分の姿と重なり何とも言えない気持ちになる。
見目は良いのに、残念な子ですわね…。窓の外で大きなブーメランが飛んでいるのが見えた。
「では私は行きますわ。貴方も早く、自身の教室に戻られた方がよろしくってよ。その大怪我では保健の先生もそれ以上手の施しようがありませんもの…ふふ」
少しばかりの皮肉と失笑をくれて、保健室の扉を開ける。それにしても、養護教諭は全然帰ってきませんでしたわね。
「ま、まて!!お前、名を名乗っていけ!!」
「あら、名乗るほどの者ではありませんわ。ではごきげんよう。おーっほっほっほ」
わざとらしい高笑いと共に、保健室を後にする。
そんな言われ方をして、名乗る訳がないじゃありませんの。身なりと態度を見るに、相手はどう見ても爵位の高い貴族の子だ。怪我を治療してあげたのに、どうして好き好んでそんな相手の恨みを買わなくてはいけないのか。すこし意地悪してしまったのは確かだけれど、どうせ相手は中等部、もう会う事も無いだろう。
まぁ、どうせ1年後には爵位も剥奪されてしまうのだし、名前がバレてしまっても大した問題でもないんですけれどね。そんな事を思いながら、足取り軽く教室への道を歩いて行くのだった。
「はぁーまいりましたね~。こんなに時間がかかるのなら、鍵をかけて行けばよかったですね~」
アルウィンは、その煤けた灰色のぼさぼさ髪をかき上げてため息を吐いた。
ちょっと職員室に忘れ物を取りに行っただけだったのに、2学年の先生に捕まってしまったのだ。
曰くそちらにウェルベルズリーの令嬢が伺うだろうから、細心の注意を払って治療にあたってほしいだとか、傷跡が残りそうな様子なら知らせてほしいだとか、真っ青な顔で言っていた。
言われなくとも生徒の治療には全力であたる。そんな事で呼び止めるくらいなら、さっさと自分を保健室に返した方が被害が少ないのではと思ったが大人しく頷いておいた。
にしても、ウェルベルズリーの御令嬢とはまた面倒臭い。
「あー待ちぼうけに腹を立てて、帰ってくれないですかねぇ~」
先程全力でなどと思った事も忘れて、そんな言葉が口から出てしまう。
しかし、本当にウェルベルズリーのお嬢様は面倒くさいのだ。喚き散らすし、都合が悪くなるとすぐに家柄を持ち出す。僕も例にもれず被害にあったことがある。彼女は覚えてすらいないだろうけれど。兄のレオンの爪の垢でも、煎じて飲ましてやりたい。
しかも担任の話によると、平民の女子に傷をつけられて怒り心頭だとか。尚且つ保健室でこれだけ待たされているのだから、その怒りの矛先は間違いなく己に降り注ぐだろう。
「いやだな~、帰りたい……」
到着した保健室の扉の前で、頭を抱える。いつまでもこうしていても仕方ない。
意を決して、扉を開ける。
「……あれ?」
室内には覚悟していたゴージャスヘアーのお嬢様は居らず、見慣れた少年がベットに腰かけているだけだった。
「やあウィル!一人で来るなんて珍しいですね~、怪我でもしましたか?」
何やら険しい顔で、一人悩んでいるらしいウィルに声をかける。本当は僕なんかが呼び捨てにしていいような身分の方ではないのだが、彼の兄と交流があった僕は、彼がもっと小さかった頃から面識があったため、呼び捨てにする事を許されている。
本来中等部の生徒が高等部の保健室に来ることは稀だが、ウィルは僕が居るせいか、高等部の保健室によく来てくれる。
「いや、怪我はもう大丈夫なんだ…」
ウィルが言いにくそうに、口ごもりながらそう言う。そんな彼の様子に、珍しい事もあるもんだと僕は驚いた。彼は箱入りのお坊ちゃまだから、少しでも怪我をしようものなら周りも含めて大騒ぎになるのだ。
そんな環境に居たせいか、本人も怪我をする事に免疫が無く、薄皮が剥けたくらいでも取り巻きを引き連れて保健室にやってくる。
その彼が怪我はもういいだなんて、今日は雪が降るかもしれない。
「なぁアルウィン。ここは、治療を受けた生徒の名簿を残しているんだよな?」
そんな失礼な事を思いつつ外を眺めていた僕に、ウィルが問いかけてくる。
確かに保健室の利用する際は、サインを書いてもらう事になっている。僕はその問いに頷きながら、机の引き出しから名簿を出して彼に見せる。
「そうですよ、あとでウィルも書いてくださいね~」
治療は受けなくても、保健室を利用しているならサインが必要だ。
ウィルは僕の言葉には反応を示さず、じっと名簿を見つめている。どうしたのだろうか?
最後に書かれた名前は、ジョン・スミス。昨日の放課後に訪れた高等部の3年生だ。
「名簿がどうかしましたか?そんな食い入るように見ちゃうなんて」
「いや、ちょっと気になっただけだ」
しばらく名簿を眺めると、興味を失ったようにウィルが視線を外す。そしてそのまま、じっと自分の人差し指を見つめる。
「本当にどうしたんです~?あ、ささくれできているじゃないですかぁ、消毒しましょうね~」
「え?あ、いやいい。もう消毒はしたから…」
僕もひょいっとウィルの指を覗き込み、その奇麗な指にささくれができているのを見つけた。ははぁんこれで保健室に来たわけが分かった。
しかし消毒をしてあげようとすると、すでに消毒はしたからいいと言う。僕が居なかったから、中等部の保健室で治療を済ませちゃったんですかね?
にしてもウィルの顔が少し赤い。もしかしたら熱があるのかもしれない。だからわざわざ僕のところにきたのか!
はっとして体温計を薬箱から取り出し、ウィルに差し出す。ウィルは不思議そうな顔をしながらも、それを受け取り脇に挟んだ。
「あ、そうでしたウィル。僕を待っている間に怖い女の人が来ませんでした?」
「なっ!?」
ウィルの顔が、ぐりんと音を立ててこちらを向く。本当に今日のウィルはおかしいなぁ。
「こう、クルクルーってしたゴージャスな感じの髪型でですね~、かん高い声で喚き散らしていて…」
自分の中のウェルベルズリー嬢の覚えてる限りの情報と、先程聞いたイメージを合わせてウィルに伝える。最初は興味深げに聞いていたウィルだが、段々と興味を失ったようにまた顔を背けた。
「そんな奴は来なかったな。一人だけ令嬢が居たが、自分で治療を済ませると帰ってしまった」
「ええ!?そうなんですか!それは悪い事しちゃったなぁ~」
その子には大変悪い事をしてしまった。本当ウェルベルズリー嬢が絡むといいことないなぁと、ため息を吐きたくなる。やはり彼女は、僕が帰ってくるまで待ちきれずに家にでも帰ってしまったのだろうか。まずい、治療もせず帰したとなると大問題だ。まず間違いなく彼女は、この事を両親に話すだろう…。僕の首も遂に飛んでしまうかもしれない…。ああ家に帰りたい…。
「お、おい大丈夫かアルウィン、顔が真っ青だぞ…」
「ええ、大丈夫ですよウィル。それにしても自分で治療して、ですか~逞しい方が居たものですね」
このお貴族様御用達の学校に、そんなしっかりしたお嬢様がいたなんて驚きだ。あ、もしかして新しく来た編入生の女の子の事かもしれない。
僕はウィルが熱を測り終えるまで、新しく高等部に加わった編入生の話をしてあげたのだった。ちなみにウィルの熱は平熱だった。