夜空のスピカ 前
腰を、お腹を、肺を、ギリギリと圧迫されて息が詰まる。
少し前まではこの苦しささえも、胸を焦がす恋の痛みだと思えていたのだから、恋とは恐ろしいものだと笑ってしまう。
「お嬢様、どうかいたしましたか?」
よくわからない眼鏡の襲撃から一日、朝早くからお屋敷の一室でコルセットを絞っていた侍女が怪訝そうに私の顔を覗き込んできた。いつの間にか、本当に笑ってしまっていたらしい。
「いいえ、別に……」
なんでもない、と言いかけて口を噤む。
「……そうね、アレックス様の事を考えていましたの」
暫く思案したのち、そう答えた。家の使用人達は、アル以外まだ私とアレックスが仲違いしている事を知らない。
皆は未だに私がアレックスを慕っていると思っているのだし、今はアレックスに会いに行くためのドレスを試着しているのだ。変に誤魔化したりするより、素直に答えた方がそれらしいだろう。
「ああ、アレキサンダー様のパーティまでもう僅かですものね」
けれどアレックスの名前に、心なしかコルセットの締め付けがギリリと強まり足元がふらついた。
「アレキサンダー様も、今頃お嬢様の事を考えていらっしゃるかもしれませんわね」
「そうですわね、アレキサンダー様もお嬢様に恋い焦がれていらっしゃいますでしょうし」
静かな部屋に、抑揚のない声が響く。着付けを手伝っていたメイド達からかけられた言葉も、どこか上滑りしているように感じるのは気のせいだろうか。
「羨ましいですわ~あんな素敵な婚約者様に愛されている、お嬢様が」
普段は嫉妬や羨望が見え隠れしている彼女達の目に、今は嘲りが見えているのは……本当に、気のせいだろうか……。
「……ええそうですわね、愛されすぎて胸が苦しいですわ。こんなに離れていても、アレックス様の愛は私に届いていますのね」
息苦しいのを隠し、恍惚とした表情を装いそう答える。その言葉にコルセットの締め付けが少しだけ緩んだ。
「……本当にお嬢様は愛されていますわねー」
「私も、殿方からそんなに愛されてみたいですー」
メイド達の心無い言葉が室内に転がる。大根役者も吃驚な棒読みだ。……先程の私の演技の方が、まだ数段ましなのではないかしら。
演技素人達の寒々しい会話のおかげで、部屋の温度は数度下がっている事だろう。
(まぁ、言っている事に関しては、なんの問題もありませんけれど)
目つきと感情が籠っていないだけで、私達の仲を祝福してくれている事には変わりないのだ。
昔の私なら今回の事はスルーしてしまっただろうし、仮に気づいても嫉妬として流しただろう。アレックスとの事に嫉妬されるのは、とても気分が良かったから。
(でも一歩間違えれば、職を失うと言うのに……)
元々私と使用人達の関係はかなり悪いものだけれど、流石にここまで露骨な事は今まではなかった。何故なら、それを私が許さないからだ。
我儘なお嬢様の気分一つで、使用人の首は飛ぶ。賢い者は口を噤んで身を隠し、愚かな者は口を開いて絞首台に上るのだ。
……それなら彼女達は、愚か者なのだろうか?
(……あり得ませんわね)
少なくとも侍女の彼女とは、数年来の付き合いだ。まぁ3度目の繰り返しの時までは、名前も知らなかったけれど。
(……という事は、聞かれていたのかしら)
彼女達の態度に思い当たるのは、数日前に庭で話したアレックスとの会話の内容。
アルがそれを吹聴するとは思えないので、使用人の誰かがあの会話を聞いていたのかもしれない。
(確かあの時エステの名前も出したはずですから、すぐに調べられるでしょうし)
彼女達のコミュニティは馬鹿にできない。彼女達は平民にも貴族にも通じる事が出来るし、何より下世話な噂話と憶測が大好きだ。
大嫌いなお嬢様が、婚約者に捨てられるかもしれない。しかもその相手は自分達と近い身分の者。
それだけで彼女達の私に対する恐れが小さくなり、それどころか私を下に見るようになったのだろう。敬意の失墜とは、こうも容易いものなのか。
要は今までの私は怖くて我儘だけれど、綺麗で美人で高貴なお方に見初められるほどのすごいお嬢様だったのだ。しかし今や、平民にも劣る綺麗で美人だけど我儘なだけのお嬢様、として彼女達の中では書き換えられてしまったのだろう。
あら、おかしいですわね。使用人達にそう思われるのは、もっとずっと後だったはずなのに……。
(また、今までと違いますわ……)
ひとつの変化から、連鎖するようにズレが生じる。今までの繰り返しでは、こんな事無かったのに。
無意識に、何かを探す様に周りに視線を走らせる。するとメイドの一人と不意に目が合った。裾を直すようなその仕草をしていた彼女が、なぜか驚いた様に目を瞠り、けれどすぐに頬を紅潮させ、にこりと笑みをつくる。
「きっとドレスを着たお嬢様にお会いしたら、アレキサンダー様はますますお嬢様に恋い焦がれてしまいますね!」
彼女の口から、凍った空気を壊す様な明るい声が飛び出た。何が嬉しいのか、にこにこと笑う彼女には見覚えがあった。私が髪を切った時に、感情を露にするなと叱り飛ばしたメイドだ。
彼女には恨まれる覚えはあれど、好かれるようなやりとりはなかったと記憶している。
「やっぱり、アレキサンダー様は見る目がありますよね!」
しかし周りの使用人達のきつい視線などまるで気が付いていないかの様に振舞う彼女の目には、嘲りや嫉妬の色は見られない。
あの時は感情を露骨に表情に出すなと叱ったけれど、今は周りの使用人達にこそ言ってやりたい言葉だ。
「……ええ、そうですわね」
相変わらず感情を隠せない表情とキラキラした眼差しは、どこかスコットを思い起こさせる。おそらく似たような人種なのだろうと思えば、ストンと納得した。犬という生き物は、無条件で人間に懐いてしまうものらしい。
「お嬢様とアレックス様の出会いは、きっと素敵だったのでしょうね~!」
彼女は楽しそうに話しながらも、てきぱきと仕事を片付けていく。
「私、その時のお話を聞いたことがないんです。もしよろしければ、是非聞かせてくださいませんか?」
その言葉に、周りの空気がピシリと凍った。昔馴染みの侍女なんかは、伏し目がちに唇を噛みしめている。
それもそうだろう。アレックスとの出会いは、唯々私の幸せなシンデレラストーリーで、盛大な惚気なのだ。仲の良い相手の惚気でも辟易すると言うのに、嫌いな相手の惚気なんてものは拷問に近い。
(まぁ惚気る私にも、同じくらいダメージがありますけれど……ね)
そこはまぁ、痛み分けだと割り切ろう。
それにしても、1年を繰り返す前の私はこの話をそれはもう大得意になって吹聴したものだから、この館の使用人達も耳にタコができる程聞いているはずなのだけれど……
にこにこと笑う彼女に、こちらもにこりと微笑み返す。
前言撤回、彼女は決してスコットと同じ人種ではないようだ。
「いいですわ。今回ばかりは、存分に驚き存分に浸る事を許してさしあげましょう」
ただし、仕事の手は止めないでくださいませね。
唇を噛みしめて固まっている侍女に向かってそう言ってやる。侍女はすぐさま笑顔を浮かべて心無い世辞を並べるけれど、聞いたところで部屋の温度が下がるだけだ。
「そうですわね。あれは、私が九つの時……」
着々と着つけられていくドレスに、あの頃の記憶が重なる。
そう言えば、あの時も着ていたのはこんな色のドレスだった。深い海の様な、春の夜空のような青いドレス。暗い色は私の髪をより引き立たせてくれると彼が言ったから、それ以来私は明るい色のドレスを着なくなった。このドレスだって彼の為に仕立てたものだ。
……けれど、あの人が本当は明るい色のドレスが好きなのだと、今の私は知っている。
胸を締め付ける感情に、それ以上ドレスを直視できなくなってそっと目を閉じた。
けれど皮肉な事に、目を瞑っても私はいつだって思い出せてしまうのだ。
あの、煌びやかな瞬間を。




