張り子の獅子
「間に合いませんでしたわね」
あの後なんとか学園まで戻って来れたけれど、昇降口に入ると同時に休み時間の終わりを告げる鐘の音が響いた。
どうしようかと逡巡したのは一瞬だ。こんな格好で授業になど出られるわけが無い。馬車に駆け寄る際に怪我を負った足に目をやり、すぐさま保健室へと向かう事にした。
「……失礼します」
ノックの後に扉を開けて、薬品臭い室内へと足を踏み入れる。
「ああ、いらっしゃい~どうしたのかなぁ?」
前回来た時には居なかった、養護教諭のアルウィンの返事が聞こえてきた。相変わらず学園にそぐわぬ不衛生で無粋な髪型をしている。
それにしても彼の間延びしたしゃべり方は、どうにもエステを思い起こさせるようで腹立たしい。
「足を怪我してしまいましたの。女性の給仕を呼んでくださる?」
いくら養護教諭とはいえ、淑女が若い男性に足を触らせるのは憚られるので予めそう伝える。
「え?わぁあ!!血が出ているじゃないですかぁ!!すぐにマリア先生を呼んできますよ~」
「いえ、結構ですわ。見た目ほどの怪我ではありませんの」
中等部の方に女性の養護教諭も居るのだが、態々呼び寄せる程の怪我では無いし、軽く応急処置をしてもらえば十分だ。
「それより、衣服が駄目になってしまいましたので早退の許可をくださいますかしら」
何度か膝をついた時に裾が汚れ、解れてしまっている所もある。こんなみすぼらしい恰好をクラスメイト達に晒したくはないし、今は心身共に疲れてしまっている。今日はもう大切な用事も無いので、とにかく早く家に帰りたいのだ。
「え、あ、ああ……はい、そうですね。では、こちらに必要事項だけ書いといてくださいね~」
差し出された用紙にペンを走らす。
学年とサイン、その程度の簡単な記入で良いらしい。
「いやぁ、それにしてもしっかりされた生徒さんだなぁ~大抵のご令嬢は怪我をすると……」
アルウィンが何やらペラペラと喋っているが、記入に集中しているふりをして無視する。
私は、この養護教諭をあまり好きでは無い。
彼はそれなりに名のある家の5男坊で、恐らくその縁故でこの学園の養護教諭をしているのだろう。髪型はいつもボサボサだし、やる気も覇気も感じられず、どうにもおざなりな仕事をしているという印象しか感じられない。
まぁこの現状はどこも似たようなものなのだけれど。……この学園の教師の大半は、ここの卒業生だ。
「書き終わりましたわ。よろしくお願いします」
「ああ、はいはい。……え」
必要事項を書き込んだ用紙を彼に渡す。
けれど紙を受け取ったアルウィンは、紙を凝視したまま固まった。
「……えっと、アメリア・ウェルベルズリー……?」
「ええ」
「あのウェルベルズリー家の御令嬢の?」
「……私の兄が御令嬢でない限り、そうでしょうね」
当たり前の事を聞いて来るアルウィンに、眉を顰める。この養護教諭は何を言いたいのだろうか。
こんな無駄なやり取りをしている間に、さっさと誰か呼んできてくれればいいのに……。
「わああああああ」
「え!?」
しかし、アルウィンは次の瞬間悲鳴を上げて尻もちをついた。
その奇異な行動に、思わず口を開けてぽかんとしてしまう。
「ご、ごめんなさい!!この間は仕事で居なかっただけなんです!!けしてわざとじゃ……」
彼はしばらく支離滅裂な言い訳を一方的に話していたが、よくよく聞けばどうやらこの間の留守を謝っているらしかった。何を今更。
「別に気にしておりませんわ。単にタイミングが悪かったのでしょう、お互いに」
いくら何でも、仕事で保健室に居なかった養護教諭を責める程狭量では無い。
けれど私の言葉を聞いたアルウィンは、信じられないとばかりに目を剥いた。先程から失礼な男だ。
「……そんな過去の事を気にするよりも、貴方は早く今の貴方の仕事をした方が良いのではなくて?」
言外に、さっさと人を呼びに行けと含ませてにっこり微笑んでやる。
その言葉にアルウィンは慌てて立ち上がると、人を呼ぶ為に走り出そうとした。けれど……
「……あの、ウェルベルズリーお嬢様」
私の横を通り過ぎる時、ふと立ち止まりこちらに顔を向ける。
「もしかして以前にこちらへ来た時に、ウィルっていう中等部の生徒に会いました?」
明らかに今までのトーンとは違う、落ち着いた声でそう問われる。
「? ええ、お会いしましたわ」
「……そうですか」
一瞬、ほんの一瞬だけその灰色の髪に隠れた彼の目が鋭く光ったような気がした。
「あ、じゃあ僕行ってきますね!すぐに戻ってきますので~!」
慌ただしく靴音を鳴らしながら走っていくアルウィンの背を見送りながら、気のせいだろうかと首を捻った。
□
結局アルウィンが呼んできた女性の養護教諭にしっかりと治療を施され、そのまま教室へ戻る事無く屋敷へと帰される事になった。
私の恰好に驚いたアルには、予め用意しておいた『学園に入り込んだ大きな猫に驚いて、逃げようとしたら転んでしまった』という言い訳を話した。完全に嘘では無いし、大雑把にまとめるとそのようなものだろう。
そういえば結局猫ちゃんにも会えなかったし、やはり好奇心は災いの元なのだなと実感する。
(それにしても、ウェルベルズリー家を潰さなければならないほどの悪……なんて、想像もできませんわ)
屋敷へ向かう馬車に揺られながら考える。
身内にそこまで言われなければならない悪い事とは何なのか……。
(そう言えば前に一度、こんな話をお兄様としましたわね)
兄に、無知は罪だと言われた時の話だ。
幼い頃から、兄は少し変わっていた。他の貴族の子供達とは遊ばず、いつも勉強ばかりしていた。
家でも常に真面目で質素を好み、我儘を言わない。そんな子供だった。
(今も昔も、あまり変わりませんわね)
兄とは仲が良いとはお世辞にも言えないけれど、それでも子供の頃は今よりもずっと距離が近かった。それは私が幼く素直で、そんな私に兄が多少なりとも興味を向けていてくれたからだろう。
獣道を歩いたことや精神的ショックのせいだろうか、揺れる馬車の振動に合わせて段々と瞼が落ちてくる。
「お兄様……」
最後に一言そう呟いて、私の意識は暗転した。
「……例え話をしようか」
金髪の男の子が本を閉じ此方を振り向いた。
なんだかとても身に覚えのある感覚と、嫌な予感に心がげんなりとする。
(それにしても、やはり……既視感が……)
どうやら男の子はこの間見た夢の時より、だいぶ成長したらしい。
うっすらとレオンハルトの面影は見えるけれど、それとは違う、兄では無い誰かに似ていると感じるのだ。
(お父様?お母様?……いえ、二人にはあまり似ていませんわよね。そもそも、そう言うのではなくて……もっと、こう……)
私自身もそこまで両親に似ているとは思わないけれど、私の場合髪色が母から引き継がれている。反対に兄は、父とも母とも私とも違うとても綺麗な金髪だ。隔世遺伝と言うものだろうか。
子供の頃は、兄のその太陽みたいな髪色に憧れて、ずるいだの不公平だのと理不尽な文句を言っていたのを思い出す。
(そう、お兄様は小さい頃は本当に天使様みたいで……羨ましかったのを覚えていますわ)
綺麗で頭が良く、天使のような見目の兄。改めて夢で見る小さい頃の兄は、今のように骨ばった男らしさが無いせいか中性的で儚げな印象もある。
さらりとゆれる前髪は今の兄のものよりも細く柔らかくキラキラとしていて、やはりひどい既視感を覚えた。
喉の奥に小骨が刺さったようなもやもやを抱えながら、小さな兄の顔を見つめる。
「たとえ話?」
「ああ。アメリアは悪い事がわからないんだろ?」
「ええ。だってお兄様が言う悪い事は、皆は悪い事じゃないって言うもの!」
興奮して甲高く喚く幼い自分の声に、耳がキーンと痛くなる。
このやり取りは薄らだけれど覚えている。どうやら先程兄との思い出を振り返りながら寝てしまったせいで、あの時の夢を見てしまっているようだ。
「食べ物を残すとか捨てるとか、ものを壊すとか、自分より劣っている者を馬鹿にするとか、そんなのやっぱり普通の事ですって!!」
「……そうか」
「好きなものを食べて、嫌いなものを残すことの何が悪いんですの?いらないものは壊して捨てるでしょう?劣ってる者は、劣っていることが悪いのではありませんの!!」
「それは、アメリアやその子達が知らないからだ」
兄が深いため息をつく。淡々と返す兄の声は、以前夢で聞いた時よりも随分と感情が抜け落ちていた。
(相変わらず、小さな頃の私とお兄様の意見は食い違っていますわね)
そしてそれは未だに変わらないのだけれど。
兄と私は恐らく見ている景色が違うのだ。世界の端と端で空を見上げて感想を言い合った時、きっと話は通じないだろう。もしかしたら天気だって違うかもしれない。
そしてその距離は、心の距離でもあるに違いない。多分兄はより平民に近い視点で、私は貴族の視点で話をしている。……そんな二人の価値観や意見が合うわけが無いのだ。
「お兄様の言っている事は、"悪い事"じゃなくて"綺麗事"なんだってみんな笑っていましたわ」
「……綺麗事、か。そうだな」
腹を立てている私を横目に、兄は何処かその言葉に納得していたようだった。
「じゃあ綺麗事の無い話をしよう。……例えば、子供が店に置いてある林檎を盗んで食べてしまった」
兄が静かな声で話始めた。先ほど言っていた、たとえ話の事だろう。
「それは悪い事だと思うか?」
「ええ、泥棒は悪い事ですもの!」
自信満々に夢の私はそう返す。流石に泥棒は、貴族からしても悪い事である。
「じゃあもし、その子供はお金が無く、お腹が減って死にそうだったとしたら?」
「え?」
「本当は盗みたくはないけれど、働く術も無く他にどうしようもなかった。生きる為に、盗みを働くしか選択肢が無かったとしたら?」
「……ええっと……それだけお腹が減っていたのなら、仕方ないかもしれませんわ……」
どうやら私は答えに困っているようで、視線がウロウロと揺れている。
正直、それだけお腹が減っている状態なんて、想像もつかないからだ。
盗んでしまうのは悪い事だ……でも盗まなければ死んでしまう……なら盗んでしまうのは仕方ないのかもしれない。死ぬか生きるか、そんな選択だ。
「そう、ほとんどの人はそう思うかもしれないな、情状酌量の余地があると。……けれどそれも、盗まれた当事者からすれば綺麗事だ」
じょうじょうしゃくりょう?……と不思議そうに小さな私は口にする。
難しい言葉の意味はまだわからないのだろうに、兄は気にせず話を続ける。
「実際、林檎を盗まれた店主はそれを知って尚、その子供を散々殴った」
その言葉に夢の中の私は目を見開いて驚く。
林檎たった一つで子供が殴られるなんて、信じられないのだろう。
「店主を、悪い奴だと思うか?」
「……当たり前じゃないですの……林檎一つでそこまでするなんて……」
しかも相手は子供だ。普通の神経ではあり得ない。
夢の私は腹を立てているのだろう、お腹や胸の中がぐるぐると嫌な気持ちで一杯になっていく。
「そうだな。子供を殴った店主を、人でなしと罵って断罪する事はたやすい」
兄は一つ頷いた。
「だが店主にも借金があり、今日の食い扶持を稼ぐのが精一杯だったのなら?」
淡々と続く冷たい言葉。
「その林檎一つ盗まれたせいで、自分の子供の食い扶持が減ってしまうのなら?」
矢継ぎ早に言う兄の言葉を、小さな私は理解できない。
けれど、今の私なら兄の言っている事が理解できる。
何であれ、暴力はいけない事だ。
けれど大切なものを守る為に、人は戦わなくてはならない時がある。店主は家族を守る為に、自分の子供を生かすために暴力を振るったのだろう。
相手が己より弱い人間であったなら、尚更力を示すために。もう二度と、自分のものを盗もうなんて気を起こさせないように。
それは、私にも覚えがある。
「結局その店主は子供を殴った罪で投獄され、親を失った彼の子供は泥棒になる」
繰り返される負のループ。それを酷い事だと思うのは、綺麗事なのだろうか。
そしてこんな酷い事が、当たり前に繰り返されると兄は言う。
「なぁアメリア、悪いのは誰だと思う?」
リンゴを盗んだ子供?
子供を殴った店主?
店主を捕まえた衛兵?
「じゃあ正義は?」
この中だと、衛兵だろうか……彼は正しく仕事を全うしただけだ。
だけど、店主の家族からしたら衛兵は……
「……わかりませんわ」
夢の中の私は憮然とした態度でそう答える。きっと兄の言いたい事が少しもわからないのだろう。兄の話は、難しすぎる。
……今の私もそこまで理解できているわけではないけれど。私にこの答を出す事は、未だできない。
「アメリア……俺達の知っている悪だの正義だのというものは、実はとても曖昧なんだ」
「……曖昧?」
「人は感じ方一つで、悪を正義に正義を悪にする事がある」
「正義が……悪になってしまいますの?」
「逆に、悪が正義になる事もあるさ」
「じゃあ、本当は正義なんて存在しないという事ですの?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
兄の答にしては、酷く曖昧で適当だ。
けれど、兄はそれをさも当たり前のように言った。
「たとえば戦争では、勝った国は正義で負けた国は悪だろう」
「……そう、なのですか?」
幼い私は今一わかっていないようだけれど、確かにそう言うものかもしれない。
勝てば官軍負ければ賊軍。視点や立場が変われば、道理も変わってしまう。戦勝国のヒーローは、敗戦国の民から見れば大量虐殺の殺人鬼だ。けれど、そこには確かに正義がある。
それは私を追いやると言った兄にもいえる事なのかもしれない。彼には彼の正義が……私には私の正義があった。私にとって恐怖の対象だったアレックスは、エステからすれば心強いヒーローなのだろう。
「綺麗事は、誰もが綺麗で胡散臭いと思うからこそ綺麗事なんだ。それはある意味一番本当の正義に近いのかもしれない」
「じゃあお兄様の言っていた悪い事は、本当に悪い事……だったのですか?」
一番初めの話題へと戻った。おそらく彼にされた悪い事の注意についてだろう。
兄の話を聞いて、皆が綺麗事と言った兄の言葉は正しい事だったのだろうかと心が揺れているのだ。この頃の私は大変素直で可愛らしい。
「……どうだろうな。でも俺は、知っているから綺麗事を言えるんだ」
「知っている、ですの?」
綺麗事は理想であり、中身の伴わない張りぼてのようなもの。
でもその張りぼても、中身を知らなくては語れない。その張りぼての下を、見た事が無い人間には……けして言えない事なのかもしれない。
「何を……知っているんですの」
夢の中の私と、今の私の心がシンクロする。
純粋に、不思議に思った。どうしてこの小さな兄は、その何かを知っていたのだろう。
「……綺麗なだけじゃない世界をだ」
自嘲するように口端を歪めて答えた兄の声は、酷く平坦だった。
「それを知った上で……自分が見極め判断したものを、俺は正義だと信じている」
けれどその言葉には、きっと色々な思いが込められていたのだと、今ではわかる。馬車で、兄の決意を聞いたから。
曖昧な正義や悪の中で、本当の正義なんて存在しないのかもしれない。けれどそれを貫く事ができるなら、それは正義となる。それは歴史が証明している。
だからこそ、兄は自分が納得した正義を、綺麗事を貫くのだろう。たとえ先の見えない正義だろうと、彼は既に歩き出してしまっている。
(けれどそれは、ひどく危ういのではありませんの……お兄様)
彼の中の正義がどういったものなのかは、私にはわからない。
けれどいくら頭が良くても、彼は子供である。視野だって考えだって、そんなに広くはないだろう。
彼の信じる正義は……本当に正しいのだろうか。幼い頃に信じてしまった正義を、今も兄は歩き続けているのだ。
「……ではお兄様は、さっきのお話しの中で誰が悪いか知っていらっしゃいますの?」
嫌な焦りを感じる私とは逆に、兄の言葉を額面通りに受け取った夢の中の私は純粋にそう聞いた
先ほどの話、主観を抜いて見ればリンゴを盗んだ少年と、それを殴った店主、それだけだ。
それだけで判断すれば、どちらも悪人で終わる。
でも、兄の言いたい事はそうではないのだろう……きっと。
「……一番の悪はその現状を知らない上の人間……偉い人だ」
先程までの坦々とした様子とは打って変わり、彼の声が揺れる。
そして、今まで私に言葉の配慮をする素振りの無かった兄が、あえてわかりやすく優しい言葉を選んだ。
「いや、知らないんじゃないな。知ろうとしないんだ」
吐き捨てるようにそう言った彼の目は、冷たく凍てついている。
「彼らがそれを知って、綺麗事を実行してくれれば……子供も店主も家族も、全てを助けられたかもしれない」
こんな頃から兄は、全てを救う事に拘っているのか。
たしかに綺麗事は実行すれば、それは最早綺麗事では無くなる。けれど全ては結果論だ。
実際いくら綺麗事を並べたところで、実行しなければ何も変わらない。
(ああ、でも……そうですのね。だからお兄様は、綺麗事を言うのですわね)
"偉い人"が綺麗事を言う事すらしないのなら……それが叶う事はもっと絶望的だ。
だから兄は言うのだろう。叶いもしない理想でも、偉そうで偏った思想でも……言わなければ、誰の耳にも心にも届かない。
「……知らなかっただけで、悪だなんてひどいですわ」
兄の言葉を遮るように、夢の中の私は唇を噛みしめて呟いた。
夢の中の私は"偉い人"とは、自分も含まれているのだと言う事に、流石に気づいたようだ。
そしてそれは先程の私の言葉に対する当てつけであると……その為に兄は言葉を選んだのだと。
けれど、知らない事は仕方ない事ではないだろうか。どんな人間だって、知らない事の方が多い。ましてやこの私は幼い子供だ。
それを自分と同じように知らなければならないだなんて、それは最早エゴであり、押しつけだ。
「アメリア、人は生まれながらに役割と責任を持っている。そしてそれを放棄したものには、生きる価値すら存在しない」
私の心が見透かされたのかと思った。けれど見上げた兄の目は私を見ては居なかった。固く目を閉じた兄は、誰に向かってその言葉を呟いたのだろう。
けれど、夢の中の私は気づかない。私は私を悪だと……それも生きる価値すらないのだと言われたショックで、兄の事にまで気が回らない。
「力のある者の無知は罪だ……覚えておけ、アメリア」
諭すことなくそう決めつけた兄は、最早以前の兄とは違うのだろう。
彼はもう絶望をその瞳には映さない。薄い瞼に隠されたそこには、唯々凍てついた綺麗な翠があるだけだ。
馬車が止まる振動で、不意に意識が引き上げられた。
「お嬢様、着きましたよ」
扉の外からアルに声をかけられて、反射的に返事を返す。
(……相変わらず後味の悪い夢でしたわ)
夢なのだから、先程見たあの時の事がどこまで信憑性があるかはわからない。
もしかしたら、私の頭の中で脚色されてしまっているかもしれない。
(でも、なんとなく……ああだったのでは、という気がしますわ)
何時も正しく、綺麗な事しか言わない兄。
兄はよく清廉潔白を絵に描いたような人物だと評されていたけれど、本当は真逆の人間なのかもしれない。だからこそ、余計にそうであろうとしていたのだろう。彼が目指す張りぼての正義を本物にする為に。
「……こんなに拗れるまで、それに気が付かなかったなんて」
もっと兄をちゃんと見ていたら、その違和感に気づくことが出来たのだろうか。
張り子の下の、本当の兄に気づくことが出来たのだろうか。
「お嬢様?どうかなさいましたか?」
「いいえ、何でもありません。今降りますわ」
多少遅れてしまった事は、怪我を理由にすれば怪しまれる事は無いだろう。アルからの再度の声掛けに、痛む足を動かし席を立った。
「今日の予定にドレスの試着が入っておりましたが……日を改めましょうか」
屋敷へ向かう道すがら、アルにそう声をかけられて首を傾げる。ドレスの試着……ドレス?
そんな私にアルも不思議そうに首を傾げて口を開く。
「ヴォルフガング様の誕生祝の宴の為にと御用意されていたドレスが、今日届きました」
その言葉に一気に血の気が引く。
(そう言えば……もうすぐじゃありませんの……)
アレックスのお誕生日パーティー……響きは可愛いが、実際そんな可愛らしいものでは無い。特に、私にとっては。
(すっかり忘れていましたわ……最悪ですわね)
ドレスの注文は、繰り返しが始まる以前にしたものだ。
パーティも最後に参加したのは3回目の時だし、その後は色々ありすぎてすっかり意識の外へと追いやられていた。
「お嬢様?……もしかして参加なされないおつもりでしたのでしょうか」
顔色を悪くして黙り込む私に、アルは何か思い至ったのだろう。彼は私とアレックスの喧嘩を聞いている。
「いえ、少し気分が優れなかっただけですわ。フィッテイングは明日に回してくださいます?」
「ええ、勿論です」
正直、アルの言う通り欠席してしまいたかったけれどそうもいかない。このパーティにはエステも参加するのだから。
(それに、丁度良かったのだと考えましょう……アレックス様には、聞きたい事がありますもの)
これは誰にも聞かれたくない話だ。どうやって彼と二人になろうかと考えていたけれど、婚約者の私ならパーティで怪しまれずに二人きりになるチャンスが必ずある。
(問題は、彼が私の問いに答えてくださるか……)
答えは否だ。もしかしたらまともに話すら聞いてもらえないかもしれない。
彼をどうやってこちらのペースに引き込むか……それが一番の問題だ。
(ひょっとしたらお兄様だけでなく、アレックス様との関係も変わるのかもしれませんわ……)
今より酷くなる事は無いと思っていたけれど、下には下があるものらしい。
いったい、いつになったら底とやらに到達するのだろう。
(あぁ、私のオアシスはいずこへ……)
考えなければいけない事は、まだまだ沢山ある。
重い気分を背負ったまま、屋敷のドアを潜り抜けた。




