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切望と決意


『お前の家の秘密を、白日の下に晒してやる』

『うん、しってる~。まぁアメリアのじゃないけど……』


 二人の言葉を思い返しながら、サロンを出て廊下を歩く。

 お茶会の顔合わせは、ウォルトとの一件を除けばつつがなく終わった。まだお茶を楽しんでいるメンバーを残し、私は役目は終えたとばかりにさっさとサロンから退出した。


 幸い文句を言いそうな兄と面倒な婚約者は居ないし、今はそれよりも考えたい事があったからだ。


(秘密……私のでは無い秘密。それってなんですの?)


 考えても、わかるわけが無い。

 よくあるのは、お金関連と人間関係かしら。私のではないのなら父か母の。まぁ精々着服したとか浮気しているとか、その程度しか想像がつかないけれど。

 もしかしたら重大な犯罪に関わっていたり……なんていうのは、考えれば考えるだけ現実味が失せていく。


(そもそも秘密って、どうやって調べればいいのかしら。……というか、私などが調べてもわかるわけないのでは?)


 なんの知識も無い私が適当に調べてわかってしまうくらいなら、それはもはや秘密では無いのではないだろうか。


(何にせよ、漠然とし過ぎていますのよね)


 全部が全部。そんな事を考えながら歩いていると、西棟と東棟を結ぶ吹き曝しの渡り廊下に出る。

 1階の渡り廊下は、そのまま校庭や中庭へと出る事が出来るようにとの配慮で柵などは無い。


「……あら」


 どこからか、足元にころころとボールが転がってきた。少し腰を折ってそのボールをつまみ上げる。まだ真新しいボールだ。


「すまない!!大丈夫かい?」


 校庭の方から、溌溂とした男性の声と共に走り寄ってくる靴音が聞こえた。

 そちらに顔を向けると、三学年の校章をつけた男子生徒がラケット片手に走ってくるところだった。


「いいえ、かまいませんわ」


 あまり覚えの無い顔だけれど、誰だったかしら。

 記憶を探りながらも、朗らかに微笑み返し手に持っているボールを渡してあげる。

 

「ありがとう!」


「どういたしましてですわ。次からはお気をつけくださいませ」


 しかし彼は、私からボールを受け取ってもその場から動こうとしない。

 ボールを貰ったらてっきりコートへ戻るのかと思っていたのだけれど……一体どうしたのだろう。


「あの、何か?」


 不審に思いつつもそれをおくびにも見せず、笑みを浮かべたまま問いかける。

 すると私の態度に気を良くしたのか、男子生徒はさらに一歩間を詰めて話しかけてきた。


「ねえお礼にさ、向こうのコートで一緒に」


 しかし皆まで言い終わらないうちに、一人慌てた様子で男子生徒が駆け寄って来た。

 慌てた彼の後ろからは、困惑したように数人の生徒がついて来ている。中には、見知った顔の子息もいる。


(なるほど、そう言う事ですのね……馬鹿馬鹿しい)


 彼の意図が分かり、気づかれないよう鼻を鳴らす。



「おいケビン!それウェルベルズリー副会長の妹……君だぞ!!」


 最初に駆け寄って来た生徒は、焦った様子で勢いよく彼の腕を引っ張る。ああ、彼の名前はケビンでしたのね。スッキリ。


「え!あのクルクルヘアーの!?面影ないけど!?」


「いやいや!絶対そうだって!!俺、副会長と言い合ってるの教室で見たんだよ」


 後から追いついて来た生徒達は私がわからなかったらしく、それを聞いて驚いている。

 あの現場を見ていたという事は、兄のクラスメイトだろうか。内心舌打ちをする。


(ああ、面倒な事になってきましたわね。ここはさっさと……ッ!!)


 けれど視界の端で捉えたそれに、一気に意識が持って行かれた。

 先ほどまで僅かにあった、穏便に場を収めようかと言う考えは一瞬で霧散する。後に残ったのは馬鹿な彼らに対する怒りと、すぐさまここを離れたいと言う焦りだけだ。


「……もう、よろしいかしら。私、当人の前で噂話をする無神経な貴方達とは違って、暇ではありませんの。貴方達もそんなにお暇なら、そのボールを少しくらい本来の用途で使ってみてはいかが?」


 先ほどまで浮かべていた、愛想の良い微笑みを取り払い、代わりに冷笑を貼り付けてそう言った途端、彼らは凍ったように口を閉ざした。

 どうせ女子生徒に話しかける為に、ボールを転がしているような奴らだ。ここでの事を言いふらしたりはできないだろう。


 彼らをそのまま置き去りにして、はやる気持ちを抑え歩き出す。

 目的は当初目指していた西棟……の裏手だ。


 先程渡り廊下でちらりと視界の隅で捉えた、見覚えのある毛並み。

 見間違えではないと、そう思う。

 あれは、あれは間違いなく……  


「……っ!!猫ちゃん!?」


 角を曲がると同時に思わず出てしまった声を気にする余裕も無く、急いで先程の毛並みの主を探す。

 幸いこの角を曲がってしまえば渡り廊下からは見えないし、追ってくる声や靴音も聞こえない。

 そもそも棟の裏手なんかに用事がある人間は、この学園にはまずいないだろうから、人目を気にする必要はないだろう。


 目を皿のようにして辺りを見回す。すると学園を囲むように植えられた垣根の中に、するりと潜っていく優雅でふかふかとしたお尻を見つけた。


「ちょっと!待ってくださいまし!!」


 私の呼び声が聞こえなかったのか、それとも人間の呼び声などに興味は無いのか。彼の猫は、その悠々とした歩みを止める事も無く植え込みの中へと消えていく。


「まって、まってくださいな!」


 ここで見失ったら、もしかしたらもう二度と会えないのではないか。そんな気持ちに突き動かされるように、猫ちゃんが消えていった垣根に駆け寄る。

 昨日猫ちゃんに会えなかったのが、軽くトラウマになっているのかもしれない。


 身体を少し折り曲げて、猫が消えた垣根の根本を覗き見る。

 奇麗に揃えられ均一に並んでいる木の根の向こうに、歩いて行く猫ちゃんの後ろ姿が見えた。


「……私は、諦めませんわよ!」


 素早く辺りを見回し、垣根の切れ目を探す。

 少し離れたところにだけれど、人が通れるくらいの隙間を見つけてそこへと向かう。勿論、周りに人気がないのは確認済みだ。 


「あの猫ちゃんは、植え込みといい垣根といい面倒なところが好きなようですわね」


 猫とは、そう言うものなのだろうか……。

 木の葉や枝が極力服に擦れないよう、気を使って垣根の間を抜ける。


(垣根の向こう側なんて、初めて行きますわね……)


 こちら側は学園の裏手で、すぐ後ろには自然豊かな森が広がっている。

 どうせ垣根を抜けたところで、何もない事は知っているのだから興味を持ったことすらない。


「っと!!猫ちゃん、お待ちくださいませ!!」


 なんとか木々の間から抜け出し慌てて猫を探すと、今度はその先の鉄柵の間を抜け出ようとしている所だった。

 天高く頑丈そうな鉄柵は、学園の生徒を守る為……延いては学園の生徒が時間外に外へ出ないようにする為の檻だ。


「……嘘、でしょう」


 せっかく会えたと思ったのに……。この柵の向こうに行かれてしまっては、もう追いかける事も出来ない。

 慌てて猫の通り抜けた格子の近くまで駆け寄るけれど、柵に隔たれた向こう側を猫ちゃんは足取り軽く歩いて行く。


「……猫ちゃん」


 情けない声が零れ出る。期待していただけに、失望感も半端ではない。

 思わず膝から力が抜け、目の前の鉄柵を掴み項垂れる。これが崩れ落ちるという感覚ね……なんてしんみりした気持ちは、そんなに長く続かなかった。



「……きゃぁ!?」


 ギィィ。

 錆びついた開閉音と、少しの衝撃と共に目の前の格子が動く。

 てっきりそこは、押しても引いても揺るがない頑丈な鉄柵だと思っていたから驚いた。


「これは……扉、ですわね?」


 猫にばかり気が行っていたけれど、よくよく見ればこの部分の鉄柵だけ作りが少し変えてある。


「……何故、こんなところに」


 くりぬかれた、人一人分だけ通り抜けられるようなスペース。こじんまりとしたそれは、大の大人なら屈まないと通り抜けられないだろうほどの高さしかない。

 不思議に思いながらも、鉄柵でできた扉を慎重に引く。


 目の前に現れたのは格子で区切られた向こう側ではなく、開け放たれた森へと続く道。


 遠い先を歩く猫ちゃんが、此方を振り返りにゃあと鳴いた。




 



 本来ならば、絶対にこんな危険は冒さないのだけれど。


 見えなくなってしまった猫ちゃんを探して、ただ黙々と歩いて行く。

 道は舗装などされてはいないが、その実手が入っている様子だから、あの扉からこの道を使う利用者が少なからずいるのだろう。


(何に使うのかなんて、知りたくありませんけれど)


 大方生徒が学園から抜け出す為の抜け道とか、そう言ったものなのだろう。

 かく言う私も、これでは抜け出した事になってしまうのかしら……救いは、まだ昼休みの最中だという事か。


(猫を追って見知らぬ森の中……なんだか似たようなお話がなかったかしら)


 とても不思議で怖い話……確かあの物語の教訓は、好奇心は猫をも殺すだ。


(……猫ちゃんを追っているのに、洒落になりませんわ)


 この場合猫とは私を指すのだろうけれど、もし万が一本物の猫ちゃんに何かあれば、悔やむどころの騒ぎではないだろう。

 そんな想像をしてしまった自分に反省しつつ歩みを進めていると、ふいに横道の草むらから葉の擦れる音が聞こえて来た。


「猫ちゃん、ですの?」


 歩いて来た道を外れ、音のした獣道を覗き込む。

 道の先で、茶色い尻尾をがちらりと揺れた気がして急いで追いかける。ここまでくると、最早意地のようなものだ。


(絶対に見つけてみせますわ!!)


 感情に任せたまま、獣道をずんずんと奥へ進んでいく。

 少し帰りの心配はあるけれど、そこまで入り組んでは無いしなんとかなるだろう。


「……あら」


 けれどしばらく獣道を進んだ先は、少しだけ開けた場所へとつながっていた。

 見える範囲に猫ちゃんは居ない。けれど、ひっそりと森に溶け込むように馬車が止まっているのが見えた。

 馬は木に繋がれているが、御者の姿は見当たらない。まるで隠れるように停められたそれに違和感が募る。


(……なんですの、こんな所に馬車なんて)


 学園に用事があるのなら、学園に併設されているスペースを使えばいいはずだ。


(紋章もありませんし、外装もとてもシンプル……学園の関係者のでは無さそうですわね)


 もしかしたら不審者や、学園の生徒を狙った拐かしかもしれない。


(これは、学園に報告した方がいいかもしれませんわね……)


 すぐさまこの場を離れようと、足を一歩後退させたところで大きな声が聞こえて来た。来た。



「…………じゃない!!」



(え……お兄様?)


 馬車の中から聞こえて来たのは、確かに兄の声だった。


(まさか……お兄様が、捕まっておりますの!?)


 この馬車は、家の馬車では無い。いよいよ持って、この馬車が人攫いの物だと言う確証が強くなる。


(何という事かしら……このまま見なかったふりをして、置いて行ってしまってもいいのでは?)


 居なくなれば、居なくなったでいいのではないだろうか。兄が消えれば、家の中が今まで以上に過ごしやすくなるかもしれない。


(いえ、でもそれだと跡継ぎの問題が……)


 真剣に兄の処遇について考え始めたとき、馬車から先程よりも大きな声が聞こえてくる。 



「俺は、大丈夫だ!!」



 喉が張り裂けるような、血を吐くような必死な声音に一気に血の気が引く。

 兄のあんな声は、今まで一度も聞いたことが無い。それくらい、酷く追い詰められたような悲痛な叫びだった。


(大丈夫って……どういうことですの……)


 もしかしたら、外に私が居る事に気が付いているのだろうか。

 私に向けて、心配するなと、気にするなと言ってくれたのだろうか……。


(まさか……でも、それ以外でそんな事……)


 動揺と混乱が同時に押し寄せ、逡巡の波に溺れそうになる。

 兄の気持ちがわからない、その言葉の真意がわからない。

 もしかして聞き間違えたのだろうか、それとも私にとって都合の良い空耳だったのだろうか……。


 でも、もしかしたら本当に……?


「お兄様は私を……逃がしてくれようと、していますの?」


 小さく呟いた言葉は、現実味を増して耳へと届く。

 不意に湧いたその可能性に、じわりと視界が滲んだ。

 どうしてとか、なんでとか、疑問はいっぱいあるのに……たった一つの感情で、胸がいっぱいになってしまう。


(ああ、期待なんてしたくはありませんのに……)


 ずっと兄の世界には、私は必要ないのだと思っていた。

 だって私には、一度として手を差し伸べることをしてくれなかったのだから。


「あの時だって……お兄様は、私を見捨てたじゃありませんの……」


 絞り出す様に呟いた言葉は、悲しみに濡れていた。

 私はあの冷たい瞳を覚えている。見限るように背を向けた彼を、一生忘れたりはしないだろう。


「だから、だから私は……」


 攫われる兄を前に、別に見捨ててもいいと思った。

 それで兄がどうなろうが、知った事ではない。死のうが生きようが、どうせ私はまた1年をやり直す。そして次の1年で、また生きている兄と顔を合わす事はできるのだから。


 だから私は、先程兄を見捨てようとしたのだ。


(けれど……お兄様は、今……) 


 ふらりと、学園の方に向きを変えていた足を一歩戻す。


 嫌われているのだと思っていた。だから私も彼が嫌いだった。

 兄が私に興味を持つことなんて、殆ど無かった。だから私も兄への興味を無くしていった。


(今更……今更、すぎますわ。けれどッッ!!) 


 震える足を叱咤して、転げるように馬車へと向かう。

 動揺のせいか、何度も足が縺れて膝をついてしまったけれど、気になんてしていられない。


 彼が冷たかったから、私も兄に冷たくした。

 兄が愛情をくれなかったから、私も兄に愛情を返さなくなった。


 けれどそれは、勘違いだったのだろうか……。

 私は、兄に嫌われていたわけでは無かったのだろうか。

 

 本当は……好きになってほしかった。

 興味をもってほしかった。

 優しくしてほしかった。

 愛情を与えて欲しかった。



 本当は、あの時助けてほしかった!!!!



 兄が笑ってくれれば、私はいつだって笑い返す事ができたのに……。


 ああ見ないふりをして、蓋をしていた気持ちが……溢れてしまう。




(ええ、ええ。認めてさしあげますわ!意地を張っていただけだって!!)


 貰う事ばかり求めて、頑なに与える事はしなかった。関係が拗れれば拗れる程、私では無く兄のせいだと、彼を憎んで心を慰めていた。3回目の時だって、上っ面だけで本気で向き合おうとはしなかった。……どうにも私は、自尊心ばかりが成長してしまっている。

 自分の弱く脆い部分と向き合うのはとても恥ずかしく、心が焼かれるように痛いけれど。幸い諦めと開き直りは、このループの中で身に着けた私の十八番だ。

 それによくよく考えれば、精神年齢的には私の方が年上になってしまっているのだから、今回はこちらが大人になってあげなくもない。


(言うなれば!弟ですもの!!)


 目下の者を守るのは、目上の者の役目。だから、今回だけは兄であり弟であるレオンハルトを助けてあげてもいいだろう。泣いて感謝する彼の顔を見て笑ってやる為に。


 とは言え、腕っぷしに自信の無い私にできる事は限られている。下手すれば一緒に捕まって、状況を悪化させるだけだ。それだけは、避けたい。

 私まで捕まってしまっては、兄の泣いて感謝する顔を見られない。それどころか泣いて後悔する兄の顔を拝む事になりそうだ。

 それだけは絶対に嫌だった。

 私のプライドの為にも、声をかけてくれた兄の為にも。


 だから……だから!!


「今回は、私のこの命、お兄様にさしあげますわ!!」


 だからこそ、この体を盾にして兄を逃がしてやるくらいはできるかもしれない。


 息を切らしながらの呟きは、とても小さく馬の耳にも届かないだろう。けれど、それでいい。私が覚悟を決める為の、誓いのようなものだから。

 私は死んでもまたやり直せる。痛いし怖いけれど、もう2回度も体験したのだから3度目も4度目もそう変わらない。……痛いけど。

 それにもし巻き戻りでないのなら、私が死ぬことによってここのウェルベルズリー家には没落を免れる未来がある。一石二鳥だ。


(その代わり、次回お会いした時は……その時は、ちゃんと……)


 ちゃんと兄と話し合おう。

 兄がどんなに嫌がって拒絶しても、もう遠慮はしない。表面だけで好かれようとするのでは無く、話を聞いてもらえなくても、避けられても諦めないで……ちゃんと兄と向き合おう。

 それくらいは、許してもらわないと。


 だって……だって、本当は……


 本当はずっと……



(お兄様!!)


 なんとか馬車の裏手にたどり着き、取っ手に手をかけるその間際、兄の声が聞こえた。



「俺は、アメリアの兄じゃない」



(……え?)


 冷たく響くその声に、体も思考もフリーズする。



「だから彼女がどうなろうと、俺の心は決まっている!!」



 ずっと……

 


「"俺は、大丈夫だ"。予定通り、アメリアを……ウェルベルズリー家を潰そう」

 


(お兄、様……?)


 

 ふつうのきょうだいみたいに、おにいさまとわらいあいたかっただけなのに……




「彼らは、悪だ」




 ただ、それだけだったのに。


 その願いすら叶わないとは、本当に運命というのは残酷だ。








(……おにい、さま)



 頭が痛い。いえ、頭じゃなく胸が……違う、身体中が痛い。痛くて、痛くて、息ができない。


(一人で勘違いして、盛り上がって、恥ずかしいったらありませんわね……)


 笑い話にもなりはしない。アレックスの時も、兄の時も……いったい自分は、何度同じ轍を踏めば懲りるのだろうか。

 情など信じる方が馬鹿なのだと、そう思ったばかりなのに。

 希望など無いと、身に染みてわかっているはずなのに。


(こんな馬鹿な妹じゃ……お兄様に見捨てられるのもしょうがありませんわね)


 いや、兄は私を見捨てたのではない……真実は、それよりも残酷だった。

 兄が、レオンハルトが……私を、家を貶めた一因となっていただなんて。


(……私の破滅を望んでいたのは、お兄様も同様だったなんて……)


 未だに、先程の兄の言葉が信じられない。

 私とは違い、兄は私の事を妹だとも、家族とすら思ってくれてはいなかったのだろうか。そこまで、嫌われる事をした覚えは無いけれど……


「……っ」


 浅い呼吸を繰り返しながら、伸ばした手を力なく下ろす。

 そのまま静かに、気づかれないように、一歩一歩慎重に馬車から遠ざかる。


(いいえ……私、もう決めましたもの!)


 どんなに裏切られても、嫌われていても、それでも私にとって彼は家族なのだ。大切な、兄……とはまだ素面では言えないけれど。

 しかし気づいてしまった自分の気持ちを見ないふりは、もうしない。

 頬を伝う不快な感触を乱暴に腕で拭う。令嬢のする事では無いけれど、急に雨が降って来たのだから仕方ない。


「ちゃんと向き合ってさし上げますわ、お兄様」


 十分に馬車から距離をとって振り返る。


 見捨てられて恨んでも。

 本気で死んでもいいと思っても。

 むしろ殺してやろうかと思っていても。


 でも、やっぱりすごく大切だという矛盾した気持ちが生まれるくらいには……彼は、レオンハルトは私の兄であり家族なのだ。


「命を、かけてでも」


 先ほどの誓いは、まだ有効だ。

 兄の真意はわからない。家の秘密もわからない。

 でも何があろうと、私は私の運命を受け入れることを決めた。その先に、絶望しか待っていなくても。


「お兄様もきっと……私と同じなのですわね」


 血を吐くような、声だった。……もうここからじゃ、中の声は聞こえないけれど。

 あのいつだって正しくあろうとする兄が、家族を裏切りあそこまで追い詰められて選んだ選択肢。きっと兄は、その後の地獄も覚悟しているのだろう。


 私は、私が幽閉された後を知らない。父と母がどうなったのか知らない。兄が、どうなったのか……知らない。

 気にする事さえしなかったけれど、薄情だとは思わない。だって兄は自業自得であり、私にそうされるだけの事を確かにしたのだから。


(ふふ、お互い様ということかしら)


 もしかしたら私たちは、とてもよく似た兄妹なのかもしれない。



「秘密を、知らなくてはいけませんわね」

 

 兄と向き合う為には、恐らくそれが必要だ。

 "知らなくてはいけない"……先程までの軽い気持ちでは無く、真剣にそう思った。


「それに原因がある、というのは……吉報ですわ」


 3回目の時に勘ぐっていた、陰謀説……まさかここでそれを知る事になろうとは。流石に身内が噛んでいたとは、気が付くことができなかった。


(とはいえ、証拠や巻き戻りを考えるとそれだけではないのでしょうけれど……)


 どうあがいてもやはり運命は変わらないのだろうと思えるほどに、私を破滅へ向かわせる強制力……いえ、補正力は強い。

 今更足掻くつもりは無いけれど……それでも、何も知らぬ馬鹿でいたくはない。


『力ある者の無知は罪だ』


 もしかしたら兄は、私に警告していたのかもしれない。

 こうなる未来を……ずっと。

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