その瞳に映るのは
朝霧が立ち込める丘を、ただひたすらに歩いている。
微かにひんやりとして湿った空気と、緑と土の匂い。木々は青々と茂り、けれど肌寒いと言う程ではない。
(ここは、どこかしら……)
ぼんやりと進む先を眺めながら、そんな事を思う。
生い茂った草木をかき分けて進むたび、まき散らされた朝露が足にまとわりついて来る。
見慣れない場所、覚えのないの無い状況。ここに来るまでの記憶はとても曖昧だ。
(ええと、確か今日は色々あって、疲れて帰ってきて……)
そうだ、それで猫ちゃんを待っていたのだ。私のオアシス……マイプレシャス。
……けれど結局待ち猫は来ず、失意のまま夕食もとらずにベッドで寝てたのではなかっただろうか。
(ああ、ではこれはきっと夢ね)
確信は無いけれど、現状から察するにそれが一番濃厚だ。
万が一、夢遊病という可能性もあるけれど……こんな知らない場所まで歩いてきてしまうなんて信じたくない。
(……明晰夢、と言うのだったかしら。初めて体験しますわ)
夢の中でこれは夢だと自覚できるものを明晰夢と言うらしい。とは、2回目の時に本で得た知識だ。
明晰夢は自分で夢の展開を操作できるとその本には書いてあったので、いつか体験してみたいと密かに思っていた。
(とりあえず、一度この状況を確認して……え?)
立ち止まって辺りを見回そうとするけれど、意識に反して体は一向に言う事を聞かない。
前へ前へと進む足は、止まる様子を見せず歩き続けている。
(ち、ちょっとまってくださいまし!!なんですの一体!?)
内心慌てる私を余所に、足は乱れる事なく一定のリズムを刻んで進んでいく。まるで心と体が別人のようだ。
自分の身体の筈なのに、どこへ行くのか、何を目指しているのか、私にはさっぱりわからない。
しばらく歩いていると、ふいに道が開けて小高い丘の頂上が見えて来た。
いつの間にか辺りを覆っていた霧も晴れて、遠くの空からオレンジ色の朝日が柔らかい青空を連れてきている。
丘の上には、小さな男の子がぽつんと背を向け立っていた。
身形は貧相であちらこちらが煤け汚れているけれど、それでも真っすぐに伸びた背筋はどこか普通の子供とは違って見える。
(私は、あそこに向かっているのかしら)
汚れていても朝焼けの光をキラキラと弾く金糸の髪が、風を受けてふわりと膨らむ。
長めの前髪の間からちらりと見える横顔に、何故だか懐かしさを覚える。
「おにいちゃん……」
舌っ足らずな幼い声が、自分の口から零れ出た。
耳慣れない言葉に驚いて口に手を当てようとするけれど、腕は全く動いてくれず、それどころかひとりでに言葉が口から漏れ出していく。
「おにいちゃん、いっちゃうの?」
悲し気な声に、幼い男の子がゆっくりとこちらを振り向いた。
「……ごめんね」
長い前髪に邪魔をされて今一つ顔の判別ができないけれど、前髪の隙間からは美しい翠色の瞳が覗いている。
身形を見るに、おそらく平民か貧民なのだろう。しかし自分にはそんな身分の子供の知り合いは居ないし、そもそも自分は今も昔も誰かを"おにいちゃん"などと呼んだ事は無い。
別に夢は見た事や経験した事だけが出てくる訳ではないし、この男の子も実在する人物では無いのかもしれないけれど……
(でもこの子、誰かに似ている気がしますのよね)
つい最近、会ったことがあるような……ないような。そんな何とも言えない既視感。
心の中で首を傾げながらも目の前の男の子を眺めていると、ふいに視界がぼんやりと潤みだした。
「いかないでよ……やだよぉおにいちゃん」
どうやら男の子と離れるのが悲しいらしい私の瞳からは、次から次へと涙が溢れてくる。
夢の中の私は何とかその涙を拭おうとするけれど、小さな手では到底拭いきれずにぽろぽろと雫は流れ落ちていく。
「おれが、ずっとそばで守ってあげるって言ったのに……やくそく、やぶってごめんな」
"おにいちゃん"とやらが、手を伸ばして私の頬に当てた。
小さな、けれど夢の中の私よりも大きい掌が、優しく頬を拭っていく感覚にうっとりと目を細める。
「でも、はなれていても、きっと守ることはできるから……」
悲し気な、しかし強い意志を秘めた翠色の瞳がきらりと光る。
きっとこの"おにいちゃん"も泣きたいのだろうなと、独り蚊帳の外で見ている私にはわかってしまう。
「おまえが辛くないように、おまえが幸せでいられるように」
にこりと優し気に瞳を細めて、"おにいちゃん"が笑う。
その瞳に安心したのか、夢の中の私の涙が止まる。
「おれたちみたいなこどもが、少しでも減るように」
びゅうと丘の上に強い風が吹いた。
二人の間を駆け抜ける強い風に煽られ、頭の後ろでしゅるりと何かがほどける感覚。
視界いっぱいに、ふわりと桃色の髪の毛が広がった。
次の瞬間、目の前が歪む。
視界が固まりザラザラと景色が回りはじめ、目に映る色が次々にブロックのように変化する。
どんどんとカラフルなブロックが視界を埋め尽くしていくのに、恐怖と焦りを覚えてぎゅっと目を瞑る。
不思議な事に、それまで体が言う事を聞かなかったのが嘘のようにすんなりと瞼が落ちた。
暗転。
「おにいさま!!」
(ーーーっ!?)
自分から漏れ出たかん高い声に、はっとして目を開ける。視界に入る風景がガラリと変わっていた。
どうやら夢はまだ続いているようで、今度は外では無く家の中にいる様だ。
先ほどのおかしな眩暈やブロックは消えていて、きょろりきょろりと周りを見回しているのだろう風景だけが映り込む。
(……ここはなんだか見覚えがありますわね)
今の屋敷に来る前に住んでいた家だっただろうか。
現在の住居に比べると、小さく狭い家だった事くらいしか覚えていないけれど。
「おにいさま!!どこにいますの!?」
今度は舌っ足らずでは無いけれど、キンキンと響く声に思わず顔を顰めてしまう。実際顔はピクリとも動いてくれないのだけれど。
どうやら探し人も私と同じ気持ちだったらしく、ため息とともにうしろから声をかけられた。
「なんだ?そんな大きな声で呼ばなくてもきこえてるよ」
どうやら探し人は、先程の男の子だったようだ。
けれど先ほどとは違い、男の子は小奇麗な恰好をしていて髪の毛も短く整えられていた。
その姿は、遠い昔に見た覚えがある。
(あら……この子って、本当にお兄様じゃないかしら?)
兄なのか、兄によく似た別人なのかはわからないけれど、容姿や場所、呼び方から察するにほぼ間違いなく子供の頃のレオンハルトなのではないだろうか。
けれど確信を持ってそうだと言い切れないのは、先程見た姿のせいだ。
(……夢って深層心理の現れと言いますわよね)
そう思うと何とも言えない気持ちになる。表情で言うのなら、苦虫を噛み潰したようなかしら。
あんなみすぼらしい姿の兄を思い浮かべてしまうくらい、私は兄の事を貶したかったのだろうか。平民に肩入れする兄には、あのような恰好がお似合いだと?
その結果夢にまでみるだなんて……そこまで兄に拘っていたつもりは無いのだけれど。
(自分がそんなみみっちい人間だったなんて、知りたくありませんでしたわ……)
夢の中でまで兄にそんな嫌がらせをしているなんて、ちょっと悲しすぎるのではないかしら。
これではその内、ぼろをまとったスキンヘッドのアレックスが登場するのも時間の問題かもしれない。
そんな考えを余所に、夢の中の私は兄に駆け寄るとその手を遠慮なく掴み引っ張った。
「おとうさまが、オウトデハヤリノおかしを買ってきてくださいましたの!おにいさまも食べましょう!」
王都で流行りの、と聞きかじったばかりの言葉を言ってみたかっただけなのだろう……意味を理解しているとは思えぬ片言具合だ。
けれど、ついつい覚えたての言葉を使ってみたいという気持ちもわからなくはない。女の子はいつだって背伸びしたいものなのだ。
「さっきおやつを食べたばかりだろ……どうせ少し食べてのこしてしまうのなら、明日食べればいいじゃないか」
兄が少し困った顔をして、嗜めるようにそう言った。相変わらず融通が利かず堅物な感じだけれど、今の兄と比べると随分と優しいのは私の心がそう求めているからなのだろうか。
けれどそんな兄の言葉に、夢の中の私は癇癪を起す。
「いやですわ!!わたくしは、今、食べたいんですもの!!」
(……さもありなん、ですわね)
兄を見上げる視線からしても、先程涙をぬぐっていた手にしても、この夢の中の私は随分と幼い年齢なのだろう。
そんな小さな子供に正論を言ったところで、納得はしないはずだ。
「……いいかい、世の中には、毎日ごはんを食べれない子たちもいっぱいいるんだ」
けれど兄は挫ける事無く、なんとか論そうと繋いだ手をそのままにしゃがみ込むと、目線を私に合わせて言葉を続ける。
毎度思うけれど、兄と私の性格は本当に真逆なのだなぁと感心してしまう。夢の中でさえ、こんなに徹底していなくてもいいのに……。
「おれたちはめぐまれているんだから、その分、神様にかんしゃしてごはんやおやつを食べないとな」
「わたくし毎日おいのりはしていますわ!!」
「そうだな。でも食べ物を残したり、もったいない食べ方をするだろう?」
「だからなんですの!?さっきから!!そのこたちの事は、別にわたくしにはかんけいないじゃないですの!!」
何故、見も知らない子供の事で自分が責められているのかわからないのだろう。頬をめいっぱいふくらまして、拗ねたように兄を睨んでそう言う。
夢の中の私の言葉に、兄は酷く悲し気な目をしてそっと繋いだ手を離す。
「……かんけいなくないんだよ。おれたちは、もっとそういう子たちのことを考えてあげなくちゃ。おれたちがぜいたくをがまんして、その分を」
それでも言葉を続ける兄に、私は一言呟いた。
「おにいさまって、かわっていますのね。びんぼうくさくて、まるでへいみんの子みたい」
兄の目が零れ落ちんばかりに大きく見開かれ、光の消えた瞳が揺れる。
けれどその表情を隠すよう、すぐさま兄は顔を伏せた。
(……あっ)
目の前でお気に入りのコップが割れたような、大事な宝物を踏み壊されたような、そんな彼の表情に胸がツキリと痛む。
けれど夢の中の私は、そんな兄の様子に不思議そうに首を傾げた。
こてりと頭が揺れた拍子に、銀色の髪がさらりと視界の端で流れる。
「ーーーーっ!!!」
ガバリと上掛けを跳ね除けて起き上がる。
その衝撃で、つぅと冷たい汗が頬を滴り落ちていく感覚が気持ち悪い。
どくどくと耳の奥で血の流れる音を聞きながら、肩で息をする。鼓動の速さは、まるで全力疾走でもしてきたかのようだ。
「……なんて後味の悪い」
寝起き特有のぼんやりとする頭を手で押さえ、唇を噛みしめて目を瞑る。
いくら夢の中とはいえ、最後の心無い一言が兄を傷つけたのだろう事はわかる。
現実の兄を傷つけるのは一向にかまわないのだけれど、あんな幼い子供を傷つけてしまったという事が何とも言えない気分にさせる。
「いいえ。しょせんは夢ですし、そんなに気にする事はありませんわね」
とは言いつつも、夢の出来事は意外と引きずってしまう事が多い。
「……支度をしましょう」
扉の向こうからは、使用人達の声が聞こえてきている。メイドが起こしに来るのも、時間の問題だろう。
ため息を吐いてベッドから降りると、彼女達が来る前に朝の支度を始めた。
「おはようございます。お父様、お母様」
何時ものように朝の挨拶をする途中、兄の前で不意に言葉を途切れさせてしまう。
普段ならちらりとしか視線を寄こさない兄が、途切れた言葉に怪訝そうな視線を向けてくる。
ふと、あの傷ついた幼い顔が今の兄に重なる。
「……おはようございます、お兄様」
どうしてもそのちらつく面影に普段の冷たい態度をとれず、つい子供に向けるような下手くそな笑顔で挨拶してしまう。
べちゃり。
兄が口に運ぼうと持ち上げていた綺麗にカットされた目玉焼きが、無残な姿でテーブルの上に墜落した。




