疑わしきは 後(挿絵あり)
※注意:今回物語序盤、中盤に挿絵が含まれております。差分込2枚です。
挿絵を見たくない方はお手数ですが、右上にある"表示調整"から"挿絵表示中"をOFFにして閲覧くださるようお願いします。
挿絵は今後削除される可能性があります。予めご了承ください。
西棟の1階奥にある図書室は、目立つ事無くひっそりとそこに存在していた。
余計な装飾も無く、ただその場所を守るように佇む分厚い扉は、来るものを拒むような重圧感を放っている。
重厚な扉に阻まれた部屋からは、何の音も聞こえない。
その外装だけでは、ここが何処へ繋がる扉かの判断はつかないだろう。
ちらり、扉の横に視線をずらす。
小さくLibraryと書かれた飾り板が、唯一その役割を果たしていた。
「ここへ来るのも久しぶりですわ」
カツンと、澄んだ靴音が誰も居ない廊下に響く。
此処に来るまで、誰一人ともすれ違わなかった。それは放課後で生徒が帰宅してしまったからとか、そう言う理由では無い。
もしかしたらこの学園の生徒で、この図書室に来たことのある人間は半数にも満たないのかもしれない。
「……勿体ない事ですわね」
そう呟いて、飾り気の無い扉を引いて中へと入る。
途端に、独特な匂いがふわりと鼻につく。それを気にせず一歩足を踏み入れると、いきなり視界が柔らかな光で満たされ、幻想的な光景が飛び込んでくる。
吹き抜けの天井は高く、壁伝いには所狭しと本が並べられていた。
室内は、入口からは全貌が見渡せない程に広い。
「いつ見ても見事なものですわ」
思わず感嘆の言葉が口から漏れ出てしまった。
この学園の図書室は、驚くほどの本を収蔵している。
卒業生が惜しみなく寄付や寄贈をしてくれるので、今後もますます充実する一方だろう。
などと偉そうな事を言いつつも、私もこの図書室を利用するようになったのはこの1年を繰り返すようになってからなのだけれど。
正確には2回目の繰り返しの時。人との関りを断ち、有り余った時間を潰す為この図書館を何度か利用した事がある。
とは言え誰とも話したりしたくはなかったので、ただ本を借りに来ていた程度だけれど。
(まぁそれほど気にしなくとも、この図書室を利用する学生なんて殆どいませんでしたけれど……)
それはとても惜しむべき事であり、2回目の私からしたら有難い事でもあった。
この学園の大半の生徒は、勉学に興味が無い。
彼らはここに学問をしに来ているのではなく、交友関係を築きに来ていると言っても過言ではないだろう。
だいたい勉強を必要とする者など、学者や政治に関わる者くらいだし、仮に勉強をするのなら家で優秀な家庭教師を雇っているはずだ。
放課後まで図書室を利用しようなんて物好きは、中々お目にかかれない。
「相変わらず、誰も居ませんわね……」
入口から見渡せる範囲に人影は見えない。
事務室の扉にはclosedの文字。近くのカウンターには、『御用があればベルを鳴らして下さい』の文字と共に小さなベルが申し訳程度に置かれてる。
(ここが開いているのを、見た事がありませんわね)
ベルを鳴らす事はせず、目的の人物を探す為に本の森へと足を踏み出す。
人の気配は感じられないけれど、エステの言葉を信じるならば彼はまだ居るはずだ。
カツカツと反響する足音に、相手はもう気づいているのだろう。
本棚と本棚の間を、端から順に見回っていく。
ーーぺラリ
薄い紙をめくる小さな音に、静かな室内ではページを繰る音すら聞こえるのかと感心しつつ更に気を付け辺りを見回す。
(……あれは)
最後の本棚の後ろに一人、本を開いている青年を見つけた。
読み物に熱中しているのか、小脇に数冊を抱えたままその場に佇みページをめくっている。
響く足音のおかげで既に私の存在には気づいているだろうに、彼はこちらに顔を向ける様子もない。
「……貴方が、テオボルト・スターリング様ですの?」
彼から少し距離を取って声をかける。
するとその呼びかけに反応するかのように、彼がゆっくりと本から顔を上げた。
「おや、貴女は……」
温和そうな笑みを浮かべた彼が、こちらを見て少し驚いた様子を見せる。
彼の様子から察するに、どうやら本当にこちらに気が付いていなかったようだ。どれだけ本に集中していたのだろう。
「ええ、そうです。僕がテオボルトですよ、アメリア・ウェルベルズリー先輩」
そう言って小首を傾げた拍子に、曇り空によく似た色の髪がさらりと揺れる。
右目の泣き黒子が細めた目元と相まって、まるで泣き笑いをしているかのように見える。
「……貴方、私の事をご存知ですの?」
テオの口からいきなり私の名を呼ばれて驚き、警戒心を強める。
ハンカチを届けられた時点で、私の存在を知っているだろう事はわかっていた。私だって彼の名前は知っている。
けれど名前を知っている事と、顔を知っている事は違う。
(それに……私髪を切ってから、まだそんなに日は経っておりませんのよ)
周りの反応を見るに、断髪する前の私と断髪した後の私は一目ではそれと結びつかないらしい。
彼が今の私を知っているというのなら、この髪型の私を既にどこかで見かけているという事になる。
(ならば何故、その時にハンカチを返さなかったのかしら……)
思わず睨むような視線でテオを見てしまうけれど、彼は特に気にする素振りも見せずにこにこと穏やかな笑みを顔に張り付けたままだ。
「ふふ、そんなに驚かないでくださいよ」
優し気な声音と柔らかな笑顔に、少しだけ警戒心が削がれて肩の力が抜ける。
ふっと息を吐いたその瞬間、見計らったかのようなタイミングでテオはさらに言葉を継いだ。
「先輩は有名人ですからね。ヴォルフガング会長の婚約者でウェルベルズリー副会長の妹君……全女子生徒の憧れの的と聞き及んでおりますよ」
「……言う程良いものでもありませんわ」
前の私はその特別な立ち位置を喜んでいたけれど、今はただの足枷である。
このポジションにつくと、もれなく惨めな最後を迎えることができる。しかもそれを繰り返し味わえるオプション付きだ。
けれどそれを知らない人間からしたら、随分と高飛車な返答だと思われたかもしれない。
ふと気になりテオに目を向けるけれど、彼はその答えに対して更に笑みを深めただけだった。
「それで、そのアメリア・ウェルベルズリー先輩が僕に何か?」
「……ええ。このハンカチを貴方が拾ってくれたと聞いたので、そのお礼に参りましたの」
そう言って鞄からハンカチを取り出し、テオに見せる。
テオはそのハンカチに対して、特に驚く様子もなく頷くだけだ。まるであらかじめそれを予想していたかのように、すぐ様口を開く。
「わざわざありがとうございます。まさか先輩自らお礼を言いに来てもらえるなんて」
嬉しいです。そう言ってことりと首を傾げて、前髪を揺らす。
「でも、それだけじゃないですよね?」
スッと、細められていた瞳が少しだけ開く。
先ほどまで笑顔だったせいか、たったそれだけの表情の変化にもガラリと雰囲気が変わった様に感じてしまう。
「ええ、聞きたい事もありましたの。これをどこで拾ったのか、お聞きしてもよろしいでしょうか」
これ見よがしに、手に持ったハンカチを持ち上げる。
それに視線を移したテオは、またにこりと穏やかな笑みを作ると軽く頷いて了承をくれる。
「勿論です。でも、その前に……」
パタン。彼が手に持っていた本を閉じる。
そのまま閉じた本を棚へと戻すと、静かな足取りでこちらへと向かって歩いて来た。
「場所を移しましょうか。いくら僕達しか利用者が居ないとはいえ、此処は図書室ですからね」
唐突な提案に戸惑う間もなく、有無を言わさぬその笑顔に思わずこくりと頷いてしまう。
「それに李下に冠を正さずと言いますしね。こんな所で僕と二人きりの所を誰かに見られたら、要らぬ誤解を生むかもしれません」
「……確かにその通りですわね。私としたことが軽率でしたわ」
彼に言われて反省する。
勢いでここまで来てしまったけれど、確かにこんな奥まった場所で密会するかのように話している所を見られたら、何と噂されるかわからない。
素直に彼の後へ続いて図書室の出入り口へと向かう。
「少し待っていてください」
彼はカウンターに抱えていた本を置くと、そのまま私を連れて図書室を出る。
「借りなくてよろしいんですの?」
「ええ、後でまた戻ってきますから」
そう言うと、制服のポケットから鍵の束を取り出し扉を施錠する。
驚いてその様子を見ていると、此方に気づいたテオが手持ったカギをこちらに見せながら困った様に笑った。
「今日は先生が居ないので、僕が鍵を預かっているんですよ」
「ああ、なるほど……そう言う事もありますのね」
彼は生徒会のメンバーだし、信頼されているのだろう。
「さぁ行きましょうか」
施錠を終えたテオが歩き出したので、慌てて後を追う。
どこへ行くのか聞こうとする前に、テオが話しかけて来た。
「……2階のレストルームの前に落ちていましたよ」
「え?」
「ハンカチですよ。さっき聞いたでしょう?」
「え、ええ。そうですわ。ありがとうございます」
場所を移してから話すのだろうと思っていただけに、いきなり本題を切り出され少しうろたえてしまった。
それにしても2階のレストルーム……。
そう言えば今日の休み時間に、レストルームの前で眼鏡に待ち伏せされていた事を思い出す。
あの時急いでその場から離れようとしていたから、その拍子に落としてしまった……という可能性は確かにある。
「けれど、よく私のハンカチだとわかりましたわね。イニシャルが同じ方なんて、沢山おりましてよ?」
「ええ、高等部でA.Wのイニシャルを持つ生徒は先輩を含めて7人。2学年には2人、その内女性は貴女だけです」
「……貴方、なんでそんな事を知ってらっしゃるの?」
「生徒の名前をアルファベット順に並べればわかりますよ」
なんてことない様に、にこりと微笑みそう返すテオに唖然とする。
確かにこの学園は生徒数が多くはない。とはいえ、彼が言った事は全ての学年の生徒の名前を知らないとできない芸当だ。
彼はまだ高等部に上がったばかりだというのに……。
「この学園の生徒は持ち上がりばかりですから。それでなくとも、パーティー等でよく顔を合わせますし」
呆気にとられて疑問を口にする事も出来ない私をよそに、彼はポンポンとその答えを提示していく。
先程から思っていたけれど、痒いところに手が届くと言うか、先回りがうまいと言うか、穏やかな風貌に似合わず中々に鋭い男だ。
「と、まぁカッコイイ事を言っておいて何ですが、種明かしをするとそこで先輩とオールストンさんが話しているのを見かけた、と言うのが決め手ですけどね」
先程の奇麗な笑顔とは打って変わって、眉根を寄せて少し照れくさそうに笑う。
途端に年相応というか、あどけない印象になる。
「まさか、貴方あれをご覧になってらしたの!?」
今度は先程とは別の意味で唖然としてしまう。
周りには気を配っていたつもりだったけれど、まさか見られていただなんて……
「ええ、階段を下りていく時に。もっとも僕が見かけたのはすごい速さで歩いて行く先輩と、それを追いかけているアーサーさんの背中でしたけどね」
なるほど、それならば気が付かなかったのも頷ける。
それに確かにその現場を見ていたのなら、近くに落ちているハンカチが私のものだと思うのは自然な流れだ。
「すぐに後を追おうかとも思いましたけれど、お取込み中だったみたいなので一時的に僕が預かりました」
「むしろ声をかけて頂きたかったですわ……」
そしたら上手い事、眼鏡をどうにかできたかもしれないのに。
しかし、話を聞いて納得する事ができた。
エステの言っていた通り、ハンカチを拾った事は揺るぎの無い事実なのだろう。彼女には謝らないけれど。
(……でも、それならやはりおかしいですわ)
今日受け取った2枚のハンカチ。それのどちらも、今日落としたハンカチだという事になる。
あの休み時間に落としていたのなら、あの不審者の前でハンカチは落とせない。
(けれど……。いえ、やはり二枚持ってきていたのかしら)
喉に小骨が刺さったような何とも言えない気持ちの悪さがあるけれど、無理矢理自分を納得させる。
「先輩、忘れ物ないですよね?」
「え?ええ」
かけられた声に意識を戻す。
話にすっかり夢中になってしまっていたけれど、いつの間にか昇降口へと着いていた。
(……何故、昇降口?)
不思議に思っている間もなく、テオは迷いない足取りでそのままスタスタと歩き出す。
置いて行かれないよう慌てて後に続くけれど、いったい彼は何処へ向かっているのかしら。
外に出てきょろきょろと辺りを見回すけれど、どこにもエステやスコットの姿は見当たらない。
流石に、もう帰ってしまったのだろう。
「先輩どうしたんですか?浮かない顔をしていますよ」
テオの問いに歩みを止めないまま、もう一つ気になった事を聞いてみた。
「ハンカチの件、わざわざエステに頼まなくても、使用人にでも言づけて下さればよろしいのに」
「そうしたら、先輩のもとに届くのが遅れるかもしれませんから。本当は僕が届けようかと思ったのですが、道中お会いしたモンロー先輩が届けたいと申し出てくださいまして」
なるほど、私が懸念していた事を彼も考えていたらしい。
「貴方、とても親切な方ですのね……」
話していて思ったけれど、スコットやエステから聞きかじっていたイメージとは随分と違うので驚いた。
彼はやる気のない不真面目な生徒というよりは、どちらかと言えば愛想の良い好青年じゃないだろうか。
今や彼に抱いていた警戒心や疑念は、ほどんど霧散してしまっている。
「誰にでもこうってわけでは無いですよ。僕、先輩の事は割と買っているんです。耳に入る噂は、どれも面白いですし……」
彼は一度言葉を切って、こちらに顔を向ける。
「それに」
そう言って、にこりと意味深な笑みを浮かべた。
「先輩、猫好きでしょう」
「え?」
「さぁ、着きましたよ」
テオの言葉に、咄嗟に彼に向けていた首を正面へと戻す。気がつけば、いつの間にか学園の正門まで歩いて来ていた。
少し離れたところで、こちらを見て待機しているアルと目が合う。
「では僕はこれで。次はお茶会でお会いできれば嬉しいです」
笑顔のテオは軽く手を振って、そのままするりと今来た道を戻って行いった。
「……ええ、ありがとうございます」
茫然としながらもその背中を見送る。
果たして送られたのか……厄介払いされたのか。
こちらの質問にはちゃんと答えてもらったし、なんの問題もないのだけれど……。
「なんだか、釈然としませんわね」
先程好青年と感じた印象を、更に書き換えなくてはならないかもしれない。
(というより、あれは猫ではなくて狐なのではないかしら……)
もしくは狸。
彼が学園へ戻るのと同じタイミングで、アルがこちらへと向かってくる。
「おかえりなさいませお嬢様。今日は随分と遅かったですね」
「ええ、少し野暮用がありましたの」
アルに鞄を渡し、そのまま馬車まで歩いて行く。
「もう少し遅ければお迎えに伺うところでしたよ」
少し後ろからそう声をかけてくるアルに、校門の傍でこちらを見ていた事を思い出し納得する。
どうやら彼なりに心配してくれていたらしい。
「心配をかけましたわね」
「いいえ。私はお嬢様の執事ですから、当たり前の事でございます」
「……そうね」
アルの言葉に、じゃあ私の執事じゃなかったら心配しないんですの?と意地悪を言おうとして止めた。
彼も私も、どちらも得をしない質問だったからだ。
(そういえば、アルもこの1年を繰り返している可能性がありますのよね……)
だとしたら、たとえ記憶が無くとも彼にとっては中々の地獄だろう。
ただでさえ我儘に振り回されて、挙句仕えていた貴族は没落と言う不名誉な経歴。
せめて3年前だったなら……もう少し何とかできたのに。
(3年前なら、アルだって何も変わらないとは言えなかったでしょうに)
1年では何も変わらないと、以前彼は言った。けれど子供の頃に戻れるのなら、もっと優秀になりたいと。
(あの時は唯々真面目なばかりと思っていたけれど……あれは彼なりに心からの願いだったのかもしれませんわね)
きっとアルが今以上に優秀だったなら……間違いなく私の傍に彼は居なかっただろうから。
「……ごめんなさいね、アル」
私の突然の謝罪にアルは少し驚いて、けれど心配をかけた事へのお詫びだと受け取ったのだろう。少し困ったような笑みを浮かべて首を振る。
「いきなりどうなさったんですか?使用人などに、簡単に謝罪をしてはいけませんよお嬢様」
「ええ、柄にもない事を言いましたわ。さぁ早く帰りましょう」
アルもそれ以上は特に何を言うでもなく、帰りはお互い無言のままだった。
屋敷に着くと、すぐさま馬車を下りて歩き出す。
私の鬼気迫る様子を見たアルフレッドが、慌てて後から追いかけてくる。
「お嬢様?どうかなさいましたか?」
「アル、私しばらく一人で考え事をしたいのです。庭におりますので、何かあれば呼びに来るように」
そう言づけてから、アルに再び鞄を渡して庭へと向かう。
本当は制服を着替えたかったけれど、今はただ猫ちゃんに会いたかった。
けれど足早に向かったそこに、猫ちゃんの姿は見えない。
「……まだ、来ていないのかしら」
息を整えながら辺りを見回す。
緑に囲まれた静かなその空間は、私以外には誰も居ない。
「まぁ少しくらいなら、待ってあげてもよろしいですわね」
そう呟いて、柔らかそうな芝生の上にハンカチを敷いて腰を落とす。
見上げた空は、段々と日が傾きじわりじわりと朱色に染まり始めていた。
「……早く来てくださいましね」
結局そのまま日が暮れるまでぼうっと待っていたけれど、その日猫ちゃんが庭にやってくることはなかった。




