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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Schuld/Buße

作者: O.Camus

以前書いたものの改稿版です。

秋の嵐が窓を乱打する。

暖炉の薪はパチパチと音を立て、爆ぜながら食卓の二人を照らしている。

男と青年が座っている。

男は透き通る白髪。すっかり秋霜だ。

顔には深い皺が幾筋も刻み込まれている。

青年の方は肌、髪共に艶があり暖炉の光を優しく反射している。

目尻は柔らかで落ち着いていた。

男と青年は目の前の食事を黙々と食していた。

男は青年が食べ終わるのを見て、匙を食卓に置いた。

向かいに座す青年に声を掛けた。

「誕生日おめでとう。我が愛する息子よ。」

「これで二十回目になるな。感慨深いものだな。」

其れは唐突だった。

「私の罪を聞いてくれないか。」

青年は黙ったまま目の前に座る男を見た。

男の唇は震え、顔は土気色。目を見開いて顔全体は強張っている。

だが瞳孔はしっかりと青年を捉えていた。

青年は只ならぬ事だと悟り、微かに頷いた。

男は語り出した。



私が大学生になって間も無い時だった。

私は、友人のエリスとウンテル・デン・リンデン通りへ買い物に行き、その帰りだった。

下宿の前に大きな影が見えた。

私達は不審に思って、歩みを緩めて様子を伺った。

其処に居たのは大きな旅行鞄を持つアジアートだった。

彼は片手に持つ紙切れを何度も見返している。

私達が近づいても全く気付く気配は無い。

後ろから声を掛けてみると、両肩が跳ね、勢い良くこちらを向く。

声の正体が私だと判ると、

「すみません。下宿を探しているのですが。」

と私達に話しかけてきた。たどたどしいドイツ語で。

彼の紙切れには私達の下宿の住所であった。

「目の前アパートですよ。大家さんを呼んできますね。」

と彼女は言って下宿に入っていった。

暫くして彼女は大家を連れて来た。

彼は大家に極東の日本から留学生として独逸までやって来たことを告げた。

下宿先は決まっていなかったので、駅前で人に聞いて回ると此処の住所をくれたらしい。

大家は快諾して、彼を歓迎した。

彼の部屋は私の右隣307号室となった。

この日は談話室で歓迎会をしたのを覚えている。


あゝ、これが何たる悪因となったか。

今となっては悔やむに悔やみきれない。


彼と私達が仲良くなるのに造次も無かった。

同じ大学である事もだが、彼自身の快活とした性格に拠るところが大きいだろう。

行動する時はいつも一緒だった。食事、買い物、観光、娯楽など全て三人で行った。

これは彼のドイツ語の習熟の為でもある。

また、彼は大学でも直ぐに馴染んだ。

性格良いだけでなく、英明だったのだ。

ドイツ語はすぐ流暢になったし、特に彼は書を愛する者だったので様々な知識を有していた訳だ。

彼の周りには人が絶えなかった。

まさに英邁闊達。

彼のことを軽んじる学生は一人もいなかった。

教授がそのような人材を放って置くはずがない。

覚えもめでたかったよ。


三年後、冬


私とメアリーは卒業していた。

彼は教授の助手となり、大学に残ることになっていた。

私はある印刷会社に勤めだした。

この時の大きな転換はメアリーは卒業を待って彼と結婚した事だろう。

卒業の三週間前に彼等がはにかみつつ婚約を報告してきた。

結婚を機に家を借りて住むらしい。

私は何処かわかっていたので、素直に祝福した。

幾らか時がすぎる。

快晴のある日、メアリーが出産したと手紙が届いた。

あの頃のように三人で食事をしようとも書いてあり、三週間後の十二月二十三日にと追記してあった。






三週間後

仕事が終わり、下宿で着替え、彼等の家に向かった。

雪が降り始めていた。

牡丹雪であった。

彼等の家に着いた。

窓から暖かな灯りが漏れている。

ドアの呼び鈴を鳴らすと彼が出てきた。

「良く来てくれた。さあ、入って。」

廊下を通って部屋に入ると、暖炉の暖かさが私達を包み込んだ。

暖炉の前の食卓に座って、仕事の調子はどうだとか、最近ナチスの目が厳しいとか世間話をした。

そうやって話し込んでいると、メアリーがやって来た。

手には生まれた赤子を抱いている。

私が来ているを見て、嬉しそうな顔で来てくれてありがとうと言った。

彼が夕食を食べようと言ったので食事になった。


ーシチューは美味であったよ。


楽しい食事はあっという間に終わってしまった。

食後のコーヒーを飲みながら彼と話していると、メアリーがやって来た。

「抱いてみない?」

と言われた。


ー私は抱きたくなかったが、抱く他無かった。


抱いてみると赤子は温かく、柔らかい。

直ぐ壊れそうなほど儚いものだったが、この子の黒曜石のように黒光りする瞳はじっと私を見ていた。

私の心中はかなり大荒れだった。

手が震え、唇は黝くなる。

彼は私の顔色が悪いのを見て、声を掛けて来た。

私は体調が優れないと言って、足早にその家を離れた。

そのまま私は帰路に着いた。

雪の積もった道をひたすら歩いた。

その間、私は頭の中でぐるぐるしている事があった。



メアリーは隣近所の家で生まれた。

私達は同じ歳であったこともあり、直ぐに仲良くなった。

彼女は明るく、引っ込み思案の私を引っ張って一緒に遊んだ。

メアリーの隣は私のものであったはずだった。

そう、彼が来るまでは。

おかしくなったのは彼が来て半年経ったぐらいだったと思う。

彼と彼女は二人で行動するのが増えて来ていた。

最初は彼のドイツ語が覚束ず彼一人で出掛けるのが難しいからだった。

だが彼女は面倒見が良いし何より優しかった。

長い間を過ごしていくうちに関係は変質した。

メアリーの彼に向ける視線は何時からか熱いものへと変化していった。

其れには私にも何となく予感がしていた。

遂に目撃してしまったのは彼に出会って一年が過ぎた頃だった。

その日私は大学で書物の索引をつける手伝いをしていた。

帰宅するのがかなり遅くなり帰路を急いで下宿についた。

談話室に人の気配を感じて足を止めた。

珍しく遅くまで人がいると思い、中を覗くと


二人は絡み合って接吻をしていた。

何度も。深く。

酷く官能的であった。


脳髄に鈍い痛みが走る。

私は立ってられず座り込んでしまった。

其れを境に私はゆっくりと彼等から離れていった。


私は彼に嫉妬した。

彼のように光り輝くものは何一つ持っていない。

彼のように人を慮ることなど出来ない。

彼は私に無いもの、欲しいものを全て持っていた。

初恋の相手も持っていかれた。

だが、何も出来なかった。

私は彼より劣っていたのだから。


だが、嫉妬や羨望と言う安易な欲求ではない。

荊のように複雑に絡み合い、身動きは取れない。


臆病だった。

失敗が怖く結局行動が出来ない鈍間な"山椒魚"だ。



彼とメアリーの子を見て、燭台の蝋燭の火は消え、その煙は渦を巻き雨を撒き散らして嵐へと変貌した。

幸せの象徴を見せつけられ私は惨じめになると同時に、耐えがたい怒りに襲われた。

唐突に、耳元で囁く声が聞こえた。

「ならば、奪って仕舞えばいい」

私は頸を振るが、尚も声は囁き続ける。

「欲しいのだろう、あの幸せが。あの頃に戻りたいのだろう。」

私は既に立ち止まっていた。

「ならば、邪魔者を排除すればいい。そうだろう?」「しかも方法は簡単だ。電話一本で事足りる。」「決断の時だ。今やらなければ彼奴は国外へメアリーと共に逃げるかもしれない。」


「さあ、電話をしろ」


この時私にちょっぴりでも理性があれば踏み止まることが出来たのだろう。


私は灰色に燻んだ雪を踏みつけた。


事の大きさは総じて事後に把握するものだ。

次の日、彼の家と彼の職場に特殊警察が現れ、彼は連行された。

スパイ容疑だった。

以前からナチスは大学に移民が教壇に立つことを好ましく思って居なかった。

彼は二週間後帰って来た。

遺体として。


状態はかなり酷いものだった。

髪の毛は半分以上白くなり、前歯は3本抜かれ、一本は折れている。

全身には打撲痕、痣だらけ。手と足の指は爪が無く朱い肉が露出している。

彼の整った顔立ちは醜く腫れ上がり、最早かれの面影は見当たらない。

遺品の中には手紙があった。

私宛てのもの。

手紙には簡単に此れ迄の感謝が書かれあった。

最期に厚かましいがメアリーと息子を頼むと記していた。

メアリーは還ってきた彼を抱いて大声で泣き喚いた。

彼女の中にあった、最も深く、最も大きいモノが折れる音を聞いた。

音は小さく軽かった。部屋に響き渡リ私の鼓膜に突き刺さる。

彼女が発狂する迄そこまでかからなかった。

彼女は何も食べること無く後を追うようにこの世を去ってしまった。


一月中旬、数年に一度の大雪の日だった。


結局私の手元に残ったのは彼等の遺産と赤ん坊だけであった。

あゝ、どうか罵ってくれ、罵倒してくれ。

この時私は初めて罪の大きさに気がついた。

始めから元通りになどならないことは気づいていた。

彼等の家や財産を相続することになり、生活に余裕が出来た。

だが、私の心境は変わらない。

何度も自殺を試みたが、駄目だった。

私は何処までも臆病だったのだよ。

私はいつの間にか教会へと足を運んでいた。

ふらふらとした足取りで膝をつき指を組む。

神に祈った。

この罪を償いたい。

でもどうすればいいと言うのだ。


あゝ、この矮躯な者に、この迂生に一筋の光明を。


神は沈黙を守っていた。

諦めなかった。

来る日も来る日も神の前に祈りを捧げ問い続けた。

子を神父に預け、寝ず、食わず、休まず、唯ひたすら神に祈った、

神父や修道士は事茲あるという様相の私を見て、

気味が悪いとばかりに私を視界に入れないようにしているようだった。


3週間が過ぎた。

神は沈黙を守っている。

黙ったままだった。

何を問いかけてもだめ。

これだけ祈っても何も言わない。

もう良い。

救いというものは此の世に存在せず。

つまり私は無為な事に励んでいた訳だ。

だが私はどうすれば良いのだ。

神が何も言わないのなら、どうすればいい。

誰に教えを、救いを、贖罪を乞えばいいと言うのだ。

既に陽は傾き橙色の光が私の背に掛かった。

帰るしかない。

教会を出る為に立ち上がって、振り向いた。


幻覚を見た。

これは幻覚だ。

私の脳が作り出したものだ。


あゝ、目の前の2人は








私は気づけば膝をつき、全てを告げていた。

彼への嫉妬。私の中に潜む悪魔。二人を裏切り、殺した事。


涙はとうに枯れ果てた。

喉が裂かれたように痛んだ。

それでも言い切らなくては、謝らなければならない。

何も言わず私を穏やかな表情で見つめている。

表情は変えることはなかった。

私が言い終わって床に崩れ落ちた時、

彼女は、彼は、言った。











許そう。











貴方の嫉妬を赦そう。









貴方の裏切りを赦そう。










貴方が私達を殺した事、赦そう。















唯一つだけお願いです。








私達の息子を頼みます。











そして、










あの子の名前をつけてあげて下さい。
























そうだ。

私はお前の実の父親では無いんだよ。

醜悪で臆病な山椒魚であるのだよ。

さあ、これで話は終わりだ。

もう私は長くない。

蠟燭は今にも消えそうなのだから。

お前が二十を今日迎えたのをみて、思い残す事は無い。

立派に育ってくれた。

ありがとう、そして今迄すまなかった。


男はそう締めくくり、頭を下げた。

青年は何も言わず聞いていた。

そしてゆっくりと口を開いた。

「私は貴方の子供でないことには気づいていました。

毎月二十三日に花を手に墓地へ行っている事ぐらい知っています。

花を手向けた墓石は日本人の名前、もう一つの方にはメアリーという女性の名前が入っていました。

両親であったと判るのにそう掛かりませんでした。

私の両親は死にました。














でも此処にはもう一人の父親がいるんですよ。

貴方は私を育ててくれた。悪い事は悪い。正しい事は正しい。愛情を持って育ててくれた。私を立派にしてくれたのは、貴方なのです。

其れに私の誕生日は、自分の部屋に戻った後、貴方は一人写真を見ながら泣いていたじゃないですか。

ですから、私のもう一人の父親でいて下さい。」












青年は笑顔だった。

ゴブレットの中の波打つ鏡面にあったのは、

涙を流す男を抱き寄せた青年の姿だった。











嵐はいつの間にか止んでいた。

雲のない空に上弦の月が浮かんでいた。




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